『鼠は最後に帰ってくる』   作:隼人2

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「聞いたこと、見たこと」

翌朝。

甚兵衛は目を覚ますと、いつものように鼻へ手をやった。

無事。

「よし」

最近はもう、考えるより先に確認している。

そのまま身体を起こすと、枕代わりにしていた藁の横へ手を伸ばした。

木札。

昨日書いた文字が残っている。

未詳。

甚兵衛はしばらくそれを眺めた。

分からない。

ではなく。

まだ、詳しく分からない。

その言い方が、妙に気に入っていた。

隣では最初の鼠が毛繕いをしている。

甚兵衛。

「なあ」

『なに』

「昨日の匂い、もう分かる?」

鼠は顔を上げた。

『わからない』

「一晩寝ても?」

『わからない』

甚兵衛。

「寝たら思い出したりしない?」

『しない』

「だよなあ」

二匹目も起きてきた。

『いやなにおい』

「それは覚えてる?」

『おぼえてる』

「何の匂い?」

『わからない』

甚兵衛。

「……ちゃんとしてるな」

分からないものを。

無理に何かへ当てはめない。

少なくとも。

鼠たちはそうしている。

三匹目が藁から顔を出す。

『ごはん』

甚兵衛。

「お前は朝から分かりやすいな」

『わかる』

「そういう意味じゃない」

◇

藤吉の店。

甚兵衛は掃除を終えると、昨日の木札を帳場の端へ置いた。

藤吉が一度だけ見る。

「まだ持ってたのか」

「消していいって言われてないから」

「消せとも言ってない」

甚兵衛。

「じゃあ残す」

「好きにしろ」

作兵衛は奥で米俵の縄を確かめている。

弥助は荷を一つずつ店先へ運んでいた。

昨日までと変わらない朝だった。

客が来るまでは。

「ごめんよ」

年配の女が店へ入ってきた。

藤吉が顔を上げる。

「ああ、お紺さん。今日はどうした」

「油が欲しくてね」

甚兵衛は棚へ目を向ける。

藤吉が合図する。

「甚兵衛」

「はい」

油。

量。

値段。

ここまでは分かる。

甚兵衛が品を出している間、お紺は藤吉と世間話をしていた。

「昨日もそっちの辺り通ったんだけどねえ」

その一言に。

甚兵衛の手が止まった。

そっち。

どっち。

藤吉。

「畑の方か?」

「そうそう。徳松さんとこの先」

甚兵衛の耳が動く。

昨日の細い道。

その辺りだ。

思わず振り返った。

「そこ!」

店の中が一瞬静かになる。

お紺。

「……何だい?」

甚兵衛。

「あ」

藤吉が目だけでこちらを見る。

甚兵衛は慌てて油を置いた。

「いや」

少し迷ってから。

「その辺、鼠いません?」

お紺。

「鼠?」

「うん」

「いるんじゃないかい?」

甚兵衛。

「いる?」

「そりゃ村なんだから、鼠くらいいるだろうさ」

甚兵衛の目が少し開く。

「でも昨日――」

藤吉。

「甚兵衛」

短い声だった。

怒鳴られてはいない。

だが。

続けるなという意味は分かる。

「……はい」

お紺は不思議そうな顔をしたものの。

それ以上は気にしなかった。

油を買う。

代金を払う。

帰る。

戸が閉まる。

甚兵衛はすぐ藤吉を見る。

「いるって」

藤吉。

「そう言ったな」

「じゃあ鼠いるんじゃん」

弥助。

「お前の三匹は少ないって言ってたんだろ」

「うん」

作兵衛。

「なら、どっちかが間違ってるか」

甚兵衛。

「……」

作兵衛。

「両方合ってるかだな」

甚兵衛。

「どういうこと?」

藤吉は帳面を閉じた。

「お紺さんは、鼠を数えたのか?」

甚兵衛。

「知らない」

「最近あの道で鼠を見たのか?」

「聞いてない」

「昨日通った時に見たのか?」

「……聞いてない」

藤吉。

「じゃあ何が分かった」

甚兵衛は少し考える。

「お紺さんは」

言葉を選ぶ。

「“村なんだから鼠くらいいるだろう”って思ってる」

「そうだ」

「鼠がいた、とは言ってない?」

「言ってない」

甚兵衛。

「……」

さっきまで。

「いる」と聞いた気がしていた。

だが。

実際に言われたことを思い返す。

いるんじゃないかい。

村なんだから、鼠くらいいるだろうさ。

見たとは言っていない。

藤吉。

「聞いたことと、自分で足したことを混ぜるな」

甚兵衛。

「俺、足した?」

「今した」

「……」

少し悔しい。

でも。

否定できない。

甚兵衛は木札を取った。

何か書こうとして。

止まる。

「何て書けばいい?」

藤吉。

「何を残したい」

「お紺さんが鼠いるって――」

止める。

「……いると思ってること」

「ならそう書け」

甚兵衛。

「長い」

弥助。

「頑張れ」

「字そんなに知らない!」

作兵衛が笑った。

◇

しばらくして。

客足が途切れる。

藤吉は甚兵衛の木札を指した。

「記録を取るなら、少し分けろ」

「何を?」

「自分で見たこと」

指を一本立てる。

「人から聞いたこと」

二本目。

「自分で考えたこと」

三本目。

甚兵衛。

「全部違う?」

藤吉。

「違う」

「でも、最後は同じ木札に書くよ?」

「同じ場所に書くことと、同じものにすることは別だ」

甚兵衛。

「……」

また。

似ているけれど違う。

最近そればかりだ。

藤吉は紙切れを一枚出した。

簡単に三つ書く。

見。

聞。

考。

甚兵衛。

「これで分ける?」

「お前が分かるならな」

甚兵衛は自分の木札へ写す。

まだ形は怪しい。

それでも。

読める。

まず。

見。

昨日。

自分が見たもの。

家。

畑。

人。

騒ぎなし。

倒れている者なし。

次。

聞。

鼠が少ない。

嫌な匂い。

お紺は「鼠くらいいるだろう」と言った。

甚兵衛はそこで止まる。

「鼠から聞いたのも“聞”?」

藤吉がこちらを見る。

「……鼠から?」

甚兵衛。

「いや」

一拍。

「鼠の様子!」

弥助が吹き出す。

「今、絶対違うこと言いかけただろ」

「言ってない!」

「言った」

「言ってない!」

作兵衛。

「喧嘩はあとにしろ」

甚兵衛は誤魔化すように続きを書く。

最後。

考。

危ないかもしれない。

猫が多いかもしれない。

鼠避けがあるかもしれない。

何か匂いの元があるかもしれない。

そこまで考えて。

手が止まる。

「全部書く?」

藤吉。

「必要なら」

「こんなに考えたら、どれが本当か分からなくならない?」

藤吉。

「だから“考”にするんだ」

甚兵衛。

「……あ」

考えた。

だから。

本当。

ではない。

甚兵衛は少し大きく。

考。

と書き直した。

「これなら間違えてもいい?」

藤吉。

「間違えることはある」

「じゃあ駄目じゃん」

「間違えたら直せ」

甚兵衛。

「やっぱりそれなんだ」

藤吉。

「最初から一度も間違えない奴がいるなら連れてこい。俺が雇う」

甚兵衛。

「いないと思う」

「俺もそう思う」

◇

昼過ぎ。

今度は男が一人やってきた。

背負い籠を下ろし。

紙紐を買う。

弥助が相手をしている。

甚兵衛は品を渡しながら。

男の草履を見る。

泥。

昨日の雨の名残。

男。

「徳松のところ、道が悪くてかなわねえな」

甚兵衛の耳がまた動いた。

徳松。

さっきも聞いた名前だ。

甚兵衛。

「徳松さんって、どこ?」

男。

「ん?」

弥助が甚兵衛を見る。

だが。

今度は止めなかった。

男は店の外を指す。

「あっちだよ。畑抜けた先」

例の道の近くだ。

甚兵衛。

「最近、あの辺変わったことある?」

藤吉が帳場から、ちらりとこちらを見る。

さっきとは。

聞き方が違う。

男は少し考えた。

「変わったこと?」

「道とか」

「道は昨日の雨でぬかるんだな」

「他は?」

「他?」

甚兵衛は。

鼠。

と言いそうになって。

やめた。

最初に鼠と言えば。

相手も鼠について考えて答える。

それが悪いとは限らない。

でも。

今は。

自分が知らない変化を聞きたい。

「何か、いつもと違うこと」

男は顎を掻く。

「ああ」

甚兵衛の身体が少し前へ出る。

「何?」

「徳松ん家の納屋、板張り替えてたぞ」

「納屋?」

「下が腐ってたからな」

甚兵衛。

「他は?」

男。

「知らねえ」

「鼠は?」

結局聞いた。

男。

「鼠?」

「少ないとか」

「さあな」

甚兵衛。

「変な匂いは?」

「匂い?」

男は少し考えてから。

「昨日は湿った土の臭いしかしなかったな」

甚兵衛。

「……」

違う。

鼠たちが嫌がった匂いと。

少なくとも男が感じた匂いは一致しない。

男。

「何だ。鼠でも探してんのか?」

甚兵衛。

「探してるわけじゃない」

「変な奴だな」

甚兵衛。

「最近それよく言われる」

弥助。

「最近じゃないぞ」

「弥助さん!」

男は笑いながら帰っていった。

◇

甚兵衛はすぐ木札を出した。

聞。

徳松。

納屋。

板を替えた。

昨日。

男は変な匂い分からず。

書いてから。

藤吉を見る。

「これでいい?」

「誰から聞いた」

甚兵衛。

「今の人」

「名前は」

「……聞いてない」

藤吉。

「なら」

甚兵衛。

「あ」

情報はある。

でも。

誰が言ったかが残っていない。

甚兵衛は戸口を見る。

もう男はいない。

「追いかける?」

藤吉。

「今後必要になったらな」

「今は?」

「そこまで必要か」

甚兵衛は考える。

男が嘘をついているようには見えなかった。

でも。

今すぐ何か決める話でもない。

「……今はいい」

藤吉。

「なら次から覚えろ」

甚兵衛。

「人の名前も?」

「誰から聞いたか分からん話は、後で確かめにくい」

甚兵衛。

「面倒」

「記録はそういうもんだ」

甚兵衛は木札を見る。

品。

数。

相手。

道。

天気。

見たこと。

聞いたこと。

考えたこと。

誰から。

いつ。

「……木札足りなくない?」

弥助。

「ようやく気づいたか」

甚兵衛。

「みんな最初から分かってた?」

作兵衛。

「まあな」

「言ってよ!」

藤吉。

「必要になってから覚えた方が忘れん」

「大人の教え方、本当に嫌!」

◇

午後。

作兵衛に頼まれ。

甚兵衛は奥で縄をまとめていた。

九本。

十本。

十本。

数える。

分ける。

印をつける。

手を動かしながら。

頭の中では。

あの道のことを考えていた。

鼠が少ない。

嫌な匂い。

納屋の板を直した家。

それらは。

つながっているのか。

いないのか。

納屋の板を張り替えたから。

鼠が減った?

「……」

違う。

板一枚張り替えたくらいで。

道全体から鼠が減るだろうか。

いや。

そもそも。

道全体から減ったのかも分からない。

三匹が感じた範囲。

自分は知らない。

「……うーん」

作兵衛。

「七」

甚兵衛。

「え?」

「今、七って数えたぞ」

甚兵衛は目の前を見る。

縄。

「あ」

数が分からなくなった。

作兵衛。

「他のこと考えながら数えるな」

甚兵衛。

「すみません」

「最初から」

「はい」

縄を戻す。

一。

二。

三。

甚兵衛は少し顔をしかめた。

知りたいことを考えるせいで。

今の仕事を間違えたら。

意味がない。

一。

二。

三。

今度は。

縄だけを見る。

◇

仕事の終わり。

藤吉が帳面を閉じる。

甚兵衛は木札を広げた。

昨日より。

また文字が増えた。

藤吉。

「何が分かった」

甚兵衛は答える。

「鼠は」

止まる。

「……少ないらしい」

「誰の話」

「三匹の――」

止まる。

藤吉の眉が少し上がる。

甚兵衛。

「……俺の感じ!」

弥助が奥で笑っている。

甚兵衛は無視する。

「お紺さんは、鼠くらいいるだろうって言った」

「うん」

「でも見たとは言ってない」

「うん」

「徳松さんの納屋は最近板を替えた」

「うん」

「今日来た人は、変な匂いは分からなかった」

藤吉。

「それで?」

甚兵衛は考の欄を見る。

猫。

鼠避け。

何かの匂い。

納屋。

全部。

考えただけ。

「……原因は分からない」

藤吉。

「じゃあ」

甚兵衛。

「未詳」

「そうだ」

甚兵衛は少しだけ。

嬉しそうだった。

答えは増えていない。

なのに。

昨日より何も分かっていないわけではない。

「分からないことが増えた気もする」

藤吉。

「知れば大体増える」

甚兵衛。

「嫌なこと言うなあ」

「知らない時は、一個の謎に見えるからな」

藤吉は帳面を叩く。

「調べれば中に十個くらい分からんことが入ってる」

甚兵衛。

「じゃあ、全部分かる日来る?」

藤吉。

「知らん」

甚兵衛。

「そこは“未詳”?」

藤吉は少し笑った。

「そういうことにしとけ」

◇

慧円のところへ行く。

今日覚えた。

見。

聞。

考。

三つの字を見せる。

慧円。

「ほう」

甚兵衛。

「同じこと書いてても、分けるんだって」

「なぜ?」

「見たことと」

木札を指す。

「人が言ったことと」

もう一つ。

「俺が考えたことは、違うから」

慧円。

「そうじゃな」

甚兵衛。

「人が言ったことは嘘?」

「嘘とは限らん」

「じゃあ本当?」

「本当とも限らん」

甚兵衛。

「……また場合による」

慧円が笑う。

「本人が本当だと思っていて、間違っていることもある」

甚兵衛。

「あ」

「昔見たことを、今も同じと思っておることもある」

「うん」

「人から聞いたことを、自分が見たように話す者もおる」

甚兵衛。

「……それ、嫌だな」

慧円。

「だから」

木札の聞を指す。

「誰が」

「いつ」

「どこで」

「何を見たのか」

「そこまで分かれば、少し確かめやすくなる」

甚兵衛。

「多い」

「そうじゃな」

「字いっぱい覚えないと駄目じゃん」

「そうじゃな」

甚兵衛。

「絶対楽しんでるでしょ」

慧円は答えず笑った。

◇

その夜。

物置へ帰る。

「ただいま」

三匹。

『かえった』

甚兵衛は木札を出す。

最初の鼠。

『いっぱい』

「今日増えた」

『なに』

甚兵衛は指差す。

「見たこと」

『みる』

次。

「聞いたこと」

『きく』

次。

「考えたこと」

鼠は少し黙る。

『かんがえる』

「そう」

最初の鼠が鼻を動かす。

『においは?』

甚兵衛。

「聞いたこと」

『ぼくら、かいだ』

甚兵衛。

「……」

少し考える。

「お前らには“見たこと”に近いのか」

鼠。

『におい』

甚兵衛。

「そうだよな」

人間は目で見る。

鼠は鼻で見るようなものかもしれない。

少なくとも。

甚兵衛よりは。

ずっと匂いを頼りに生きている。

「じゃあ」

木札へ。

自分にしか分からない小さな鼻の印を足した。

最初の鼠。

『なに』

「お前らが嗅いだ」

三匹が覗き込む。

二匹目。

『へた』

甚兵衛。

「鼻だよ!」

三匹目。

『いも?』

「どこが芋だ!」

最初の鼠。

『たぶん、はな』

甚兵衛。

「お前だけは分かってくれた」

『たぶん』

「やっぱり駄目だ!」

物置に。

小さな笑い声が響く。

しばらくして。

甚兵衛は木札を横へ置いた。

今日。

原因は分からなかった。

危険かどうかも。

分からない。

けれど。

昨日より。

少しだけ違う。

昨日は。

変だ。

それだけだった。

今日は。

自分で見たもの。

鼠が感じたもの。

人から聞いたもの。

自分が考えたもの。

それぞれを。

少しだけ分けられる。

答えではない。

でも。

答えと間違えないためのものにはなる。

最初の鼠。

『あした、わかる?』

甚兵衛。

「分かるかもしれない」

『わからない?』

「かもしれない」

『どっち』

甚兵衛は藁へ横になる。

「未詳」

三匹。

『みしょう』

甚兵衛。

「そう」

鼠。

『ごはん?』

甚兵衛。

「それは明日になったら食う」

『わかる』

甚兵衛は笑った。

「そこだけは詳しいな」

目を閉じる。

聞けば。

分かることもある。

聞いても。

分からないこともある。

誰かが言ったからといって。

そのまま答えになるわけでもない。

それでも。

聞かなければ。

増えないものがある。

甚兵衛は今日覚えた三つの字を。

眠る前に。

もう一度だけ頭の中でなぞった。

見。

聞。

考。

混ぜない。

忘れない。

そして。

分からないところは。

まだ。

未詳。

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