翌朝。
甚兵衛が目を覚ますと。
三匹の鼠は、もう起きていた。
一匹は藁の中。
一匹は入口の隙間。
最初の鼠は、昨日の木札の横に座っている。
甚兵衛。
「……食ってないよな?」
鼠。
『たべてない』
「ほんとに?」
『かたい』
「理由そこ?」
木札を取り上げる。
昨日増えた印。
見。
聞。
考。
そして。
甚兵衛が描いた、鼻らしきもの。
自分では鼻のつもりだ。
鼠たちには芋に見えるらしい。
甚兵衛は指で示した。
「これ、鼻だからな」
二匹目。
『いも』
「鼻!」
三匹目。
『ごはん』
「食うな!」
朝から疲れる。
それでも。
木札を眺めると。
少しだけ楽しい。
最初の頃。
木札には。
数。
名前。
忘れたくないもの。
それくらいしか書けなかった。
今は。
自分が見た。
誰かから聞いた。
自分で考えた。
それまで分けて残せる。
字は。
まだ下手だ。
読めない字も多い。
それでも。
昨日よりは。
残せるものが増えている。
最初の鼠。
『きょうも、みしょう?』
甚兵衛。
「朝から難しい言葉覚えたな」
『みしょう』
「何でも未詳って言えばいいわけじゃないぞ」
鼠は少し考えた。
『ごはん、みしょう?』
甚兵衛。
「それは今から食う」
『みしょう、ちがう』
「そういうこと」
◇
店へ着く。
「おはようございます」
「おう」
いつもの声。
甚兵衛は箒を取る。
店先。
軒下。
棚。
掃除を終える。
今日は。
藤吉から特に何も言われない。
それなら。
次にやること。
甚兵衛は奥を見る。
作兵衛が荷を並べている。
「作兵衛さん」
「何だ」
「何かやる?」
「じゃあ、こっち」
呼ばれる。
奥の棚。
乾物。
油。
紙。
縄。
少しずつ位置が分かってきた。
作兵衛が指差す。
「この紙束、数えろ」
甚兵衛。
「はい」
数える。
一。
二。
三。
十。
十枚ごと。
分ける。
前なら。
一から最後まで。
ただ数えた。
途中で話しかけられると。
どこまで数えたか分からなくなる。
今は。
十で分ける。
分けた束と。
まだの束を離す。
十九。
二十。
次。
作兵衛。
「四十二あるはずだ」
甚兵衛。
「四十二?」
数える。
四十。
四十一。
「……四十一」
作兵衛。
「もう一度」
甚兵衛はやり直す。
十。
二十。
三十。
四十。
四十一。
「四十一」
作兵衛の眉が少し動いた。
「一枚足りねえな」
甚兵衛。
「売った?」
「その記録はねえ」
「誰か使った?」
「それも聞いてねえ」
甚兵衛。
「落ちた?」
「かもしれん」
作兵衛は棚の下を見る。
ない。
隣。
ない。
甚兵衛も床を見る。
紙。
白い。
落ちていれば目立つ。
「鼠?」
最初にそれが頭へ浮かんだ。
作兵衛。
「何でも鼠にするな」
甚兵衛。
「……はい」
最近。
自分でも少しそう思う。
鼠がいる。
だから。
何かなくなれば鼠。
それでは。
昨日覚えたことと同じだ。
考えたことを。
見たことにしてはいけない。
甚兵衛は木札を出した。
見。紙 四十一。
そこまで書く。
少し考える。
考。
使った?
落ちた?
数え間違い?
書いて。
止める。
作兵衛。
「何してる」
「分けてる」
「何を」
「分かってることと、分かってないこと」
作兵衛は木札を見る。
「……便利になってきたな、それ」
甚兵衛。
「ほんと?」
「ああ」
甚兵衛の顔が少し明るくなる。
作兵衛。
「ただし字は汚え」
「やっぱり付くんだ!」
◇
しばらく探す。
見つからない。
藤吉も記録を見る。
弥助にも聞く。
「昨日、紙使った?」
弥助。
「一枚、包みに使った」
甚兵衛。
「それだ!」
作兵衛。
「勝手に使ったのか」
弥助。
「藤吉さんに言ったぞ」
藤吉。
「聞いた」
甚兵衛。
「じゃあ何で記録ないの?」
藤吉。
「書く前に客が来た」
「そのまま忘れた?」
藤吉。
「そうなるな」
甚兵衛。
「……藤吉さんも忘れるんだ」
藤吉。
「忘れる」
あっさり。
甚兵衛は少し驚いた。
藤吉。
「だから帳面がある」
甚兵衛。
「でも帳面に書くの忘れたら」
「意味がない」
「……」
完璧じゃない。
帳面があっても。
書かなければ残らない。
字を知っていても。
使わなければ残らない。
藤吉は一本。
帳面へ書き足した。
「昨日。紙一枚。包みに使用」
甚兵衛は見ている。
「後から書いていいんだ」
「分かった時にな」
甚兵衛。
「でも、昨日書いたみたいになる?」
「ならんように書く」
藤吉は日付の横へ。
追記。
と記した。
甚兵衛。
「ついき?」
「後から足した」
「後からって分かるように?」
「そうだ」
甚兵衛。
「……」
また。
新しいものが出た。
間違い。
消して終わりではない。
忘れた。
隠して終わりでもない。
後から分かったなら。
後から分かったと残す。
甚兵衛。
「便利」
藤吉。
「便利だから使ってる」
「それ教えて」
「慧円さんに聞け」
「やっぱり字!」
◇
昼前。
藤吉が甚兵衛を呼んだ。
「一つやれ」
「何?」
帳場の横。
小さな荷。
縄。
紙包み。
「弥助が午後に持っていく」
甚兵衛。
「じゃあ俺じゃない?」
「ああ」
「何するの」
藤吉は小さな紙片を出した。
「お前が荷札を書け」
甚兵衛。
「……俺が?」
「嫌か」
「嫌じゃないけど」
荷札。
荷に付ける紙。
誰に。
何を。
どれだけ。
甚兵衛は荷を見る。
「俺の木札みたいなのでいい?」
藤吉。
「駄目だ」
即答。
甚兵衛。
「早い!」
「お前が持つんじゃない」
藤吉は弥助を見る。
「こいつが持つ」
弥助。
「俺が読む」
甚兵衛。
「……」
昨日。
慧円に言われた。
自分だけが読むなら。
自分に分かればいい。
他人へ残すなら。
相手に分からなければ困る。
今まで。
頭では分かっていた。
今日は。
本当に自分以外が使う。
甚兵衛は少し姿勢を正した。
「何書けばいい?」
藤吉。
「考えろ」
甚兵衛。
「教えてくれないの?」
「まず考えろ」
「大人ほんとこれ好きだなあ」
荷を見る。
誰。
何。
数。
代金。
届けるか。
受け取るか。
甚兵衛。
「相手の名前」
藤吉。
「うん」
「品」
「うん」
「数」
「うん」
「金いるか」
「必要なら」
甚兵衛。
「道?」
弥助。
「俺は知ってる」
「じゃあいらない」
藤吉。
「そうだな」
甚兵衛。
「……」
全部書けばいいわけでもない。
読む人が。
何を知っていて。
何を知らないか。
それで変わる。
紙へ筆を置く。
名前。
一字。
二字。
少し歪む。
止まる。
「……これ、読める?」
弥助。
「今のところ」
「今のところって何」
「最後まで書け」
品。
数。
甚兵衛が覚えている字。
分からない字。
藤吉へ聞く。
「この品、どう書く?」
教わる。
真似る。
一度失敗。
紙の端で練習。
もう一度。
荷札へ。
最後。
金 なし。
甚兵衛。
「できた」
藤吉は読まない。
弥助へ渡す。
「読め」
甚兵衛。
「藤吉さん見ないの?」
「俺が読めても意味ない」
甚兵衛。
「……あ」
弥助が紙を見る。
「庄八さん」
甚兵衛。
「うん」
「紙、五帖」
「うん」
「代金は今日取らない」
甚兵衛の顔が明るくなる。
「読めた!」
弥助。
「読めた」
「全部?」
「全部」
甚兵衛。
「よし!」
思った以上に嬉しい。
自分が分かる。
ではない。
他人に分かった。
その違いが。
今は。
はっきり分かる。
藤吉。
「じゃあ次」
甚兵衛。
「まだあるの?」
「その荷札を外せ」
甚兵衛。
「え」
「外せ」
言われた通り外す。
藤吉は別の荷を持ってくる。
似た大きさ。
似た包み。
同じ紙。
「二つ並べろ」
並べる。
甚兵衛。
「……似てる」
藤吉。
「荷札なくしたら?」
甚兵衛。
「どっちがどっちか分からない」
「だから」
藤吉。
「札を付けたら終わりじゃない」
甚兵衛。
「じゃあどうするの」
「札が外れにくくする」
弥助が縄の結び方を見せる。
穴。
紐。
荷の縄へ結ぶ。
甚兵衛も真似る。
一度。
緩い。
二度。
向きが変。
三度。
ようやく。
弥助。
「まあ、外れねえ」
甚兵衛。
「見た目は?」
「内輪の荷なら」
作兵衛が奥から口を挟む。
「今はな」
甚兵衛。
「その“今は”怖いんだけど」
◇
弥助が配達へ出た。
甚兵衛は。
少し落ち着かない。
自分が書いた荷札。
ちゃんと使えるか。
読めた。
でも。
相手の家へ行って。
間違えないか。
数。
合っているか。
「……」
店先を見る。
藤吉。
「気になるか」
甚兵衛。
「ちょっと」
「追いかける?」
甚兵衛。
「……行かない」
「何で」
「弥助さん知ってるから」
「なら仕事しろ」
「はい」
掃除した棚をもう一度見る。
荷。
数。
客。
目の前の仕事。
甚兵衛は少し苦笑した。
自分が書いたものが。
自分の手を離れて使われる。
変な感じだ。
自分がいなくても。
紙だけが。
弥助と一緒に働いている。
◇
昼を過ぎ。
弥助が戻ってきた。
「ただいま」
甚兵衛が真っ先に見る。
「どうだった?」
弥助。
「何が」
「荷札!」
「使えた」
「ほんと?」
「庄八さんにも見せた」
甚兵衛。
「読めた?」
「名前はな」
「品は?」
弥助が少し笑う。
「一文字、怪しかった」
甚兵衛の顔が固まる。
「どれ」
返された荷札。
指差す。
品の字。
藤吉に教わって書いた。
だが。
線が一本。
少し短すぎる。
甚兵衛。
「読めない?」
弥助。
「俺は分かった」
「庄八さんは?」
「別の字に見えたらしい」
甚兵衛。
「……」
さっきまで。
全部読めた。
だから。
できたと思った。
でも。
弥助は内容を知っていた。
先に。
何を持っていくか知っていた。
だから。
少し崩れていても読めた。
庄八は。
初めて見る。
甚兵衛。
「知ってる人が読めるだけじゃ駄目?」
藤吉。
「誰に読ませる札だ」
「……相手にも」
「なら」
甚兵衛。
「相手にも読めるようにする」
「そうだ」
少し。
悔しい。
でも。
荷は間違わなかった。
数も合った。
失敗ではある。
全部の失敗ではない。
甚兵衛は荷札を木札の横へ置いた。
「これ、残していい?」
藤吉。
「何で」
「次、同じ字書く時見る」
「なら持っとけ」
甚兵衛。
「失敗した札なのに?」
藤吉。
「失敗したからだろ」
甚兵衛。
「……」
それもそうだ。
◇
午後。
今度は作兵衛が甚兵衛を呼んだ。
「こっち来い」
倉の奥。
瓶。
包み。
箱。
甚兵衛。
「何?」
「この棚」
指差す。
「明日、俺が来るの遅くなる」
甚兵衛の顔が少し変わる。
以前。
作兵衛が休んだ時。
奥の仕事が止まりかけた。
何がどこにある。
どれを先に出す。
どれは触らない。
作兵衛の頭の中にあることが多すぎた。
作兵衛。
「だから」
一段。
「ここの油」
二段。
「この紙」
奥。
「予備の縄」
順に説明する。
甚兵衛は木札を出す。
作兵衛。
「全部写すな」
甚兵衛。
「じゃあ何を書く?」
「お前が明日困りそうなところ」
甚兵衛。
「……」
また。
必要なもの。
全部ではない。
甚兵衛は考える。
油の場所。
分かる。
紙。
分かる。
縄。
分かる。
「じゃあ書かなくてもいい?」
作兵衛。
「本当に覚えてるならな」
甚兵衛は棚を見る。
油。
紙。
縄。
その横。
小さな木箱。
「これは?」
作兵衛。
「返品になった品」
「何で返品?」
「傷」
「売らない?」
「そのままじゃな」
甚兵衛は木箱へ。
大きく印をつける。
触るな。
いや。
触るなだけでは。
弥助が見た時。
意味が分からない。
甚兵衛。
「返品って字どう書く?」
作兵衛。
「今覚えるのか」
「明日俺だけ分かっても困るから」
作兵衛の顔が少し変わった。
ほんの少しだけ。
「……そこまで書かなくていい」
「何で」
「弥助も知ってる」
甚兵衛。
「ほんと?」
「呼べ」
弥助を呼ぶ。
「これ何?」
弥助。
「傷物。勝手に出すな」
甚兵衛。
「知ってる」
作兵衛。
「だから書かんでいい」
甚兵衛は少し考える。
「じゃあ」
作兵衛だけが知っていて。
他の誰も知らない。
そこを探す。
「他にある?」
作兵衛。
「……」
今度は。
作兵衛の方が考える。
しばらくして。
棚の一番下を指す。
「この壺」
「何」
「蓋が緩い」
甚兵衛。
「油?」
「ああ」
「どれくらい」
「運ぶなら押さえろ」
弥助。
「それ俺知らねえ」
甚兵衛。
「じゃあ書く」
木札へ。
油。
下。
蓋。
緩。
最後の字は。
慧円に習った記憶が怪しい。
「これ合ってる?」
作兵衛。
「知らん」
甚兵衛。
「作兵衛さんも!?」
「俺は字の先生じゃねえ」
弥助。
「藤吉さんに聞け」
藤吉のところへ行く。
字を教わる。
戻る。
書き直す。
今度は。
弥助に見せる。
「分かる?」
弥助。
「一番下の油壺。蓋緩い」
甚兵衛。
「よし」
作兵衛が黙って見ている。
甚兵衛。
「これなら作兵衛さん遅くても分かる」
作兵衛。
「そうだな」
「他は?」
「……明日の分は、それでいい」
甚兵衛。
「全部教えなくていい?」
作兵衛。
「一日で全部覚えるな」
甚兵衛は笑った。
「それ、前にも言われた」
「なら覚えとけ」
◇
仕事の後。
慧円のところへ。
今日覚えたい字は。
追記。
それから。
荷札で間違えた字。
甚兵衛は失敗した荷札を見せる。
慧円。
「ふむ」
「庄八さん、違う字に見えたって」
「お前さんには読める?」
「読める」
「弥助殿には?」
「読めた」
「なぜじゃろうな」
甚兵衛。
「俺と弥助さんは、中身知ってたから」
慧円。
「そうかもしれんの」
甚兵衛は紙を見る。
「字って」
「うん」
「知ってる人だけが読めればいいわけじゃないんだな」
慧円。
「誰へ書くかによる」
甚兵衛。
「また場合による」
「そうじゃ」
甚兵衛。
「自分用なら」
木札を出す。
鼻に見えない鼻の印。
「これでもいい」
慧円。
「お前さんが分かればの」
「弥助さんに渡すなら」
少し丁寧な字。
「弥助さんが読めればいい」
慧円。
「場合によってはな」
「客にも渡すなら」
失敗した荷札。
「もっとちゃんと書く」
「そうじゃな」
甚兵衛はしばらく黙った。
「じゃあ」
「一番難しいのって」
慧円。
「何じゃ」
「誰が読むか分からないもの?」
慧円の目が。
少しだけ細くなる。
甚兵衛。
「だって」
「俺なら俺の印でいい」
「弥助さんなら、弥助さんが分かればいい」
「でも」
紙を指す。
「知らない人が読むなら」
「俺がいなくても」
「説明できなくても」
「分かるようにしないと駄目なんでしょ」
慧円は頷いた。
「そういう字は、強いの」
甚兵衛。
「強い?」
「遠くへ届く」
甚兵衛。
「手紙?」
「それも」
「明日へ残る」
甚兵衛。
「帳面」
「それも」
「書いた者がいなくても」
慧円は。
ゆっくり言った。
「読める者がおれば、伝わる」
甚兵衛の手が止まる。
自分が。
いなくても。
紙だけが残る。
作兵衛がいなくても。
油壺の蓋が緩いと分かる。
弥助が荷を持って行っても。
相手が荷札を読める。
今日いない人へ。
明日の自分へ。
知らない人へ。
甚兵衛。
「……すごいな」
慧円。
「今ごろ気づいたか」
「だって字、ずっと面倒だったし」
「今も?」
甚兵衛は少し考える。
「面倒」
慧円が笑う。
甚兵衛。
「でも」
失敗した荷札を見る。
「ちょっと面白い」
◇
夜。
物置へ帰る。
「ただいま」
三匹。
『かえった』
甚兵衛は藁へ座る。
今日の木札。
失敗した荷札。
作兵衛から聞いた。
油。下。蓋緩。
並べる。
最初の鼠が紙を嗅ぐ。
『これ、なに』
甚兵衛。
「俺が書いた」
『へた』
「分かってる!」
『なにかいた』
「品の名前」
『よめない』
甚兵衛。
「お前、字読めないだろ」
鼠。
『においならわかる』
甚兵衛。
「それはそうだな」
少し考える。
「お前らなら」
匂い。
場所。
道。
音。
人間とは。
残し方が違う。
でも。
目的は。
似ているのかもしれない。
自分が分かる。
仲間が分かる。
後から来た仲間にも分かる。
甚兵衛。
「なあ」
最初の鼠。
『なに』
「お前がいなくても」
鼠。
『?』
「他の二匹が、帰り道分かる印とかある?」
三匹が顔を上げる。
最初の鼠。
『におい』
二匹目。
『いし』
三匹目。
『おおきいき』
甚兵衛。
「やっぱあるんだ」
最初の鼠。
『ちがうみちも』
「前に言ってたな」
『でも、かえれる』
甚兵衛は木札を見る。
人間は。
字。
印。
帳面。
荷札。
鼠は。
匂い。
石。
木。
道。
全部同じではない。
でも。
一匹しか知らないものにしない。
そこは。
少し似ている。
甚兵衛は。
今日書いた木札を。
明日の着物の上へ置いた。
最初の鼠。
『あしたも?』
甚兵衛。
「うん」
『かく?』
「書く」
『へた?』
甚兵衛。
「今はな」
鼠。
『あした、じょうず?』
甚兵衛は笑った。
「明日いきなり上手くはならん」
『じゃあ?』
甚兵衛は少し考える。
「今日より、一個読めるようにする」
鼠。
『じゃあ、いい』
「うん」
今日は。
初めて。
自分のためではない字を書いた。
上手くはなかった。
一度では。
ちゃんと伝わらなかった。
それでも。
書き直せる。
残せる。
誰かへ渡せる。
自分がその場にいなくても。
少しだけ。
仕事を続けてもらえる。
甚兵衛は目を閉じた。
人が休んでも。
鼠が一匹いなくても。
自分がそこにいなくても。
何もかも。
止まらないようにする。
そのために。
覚えるものもある。
残すものもある。
まだ。
全部はできない。
だから。
明日も。
一つずつだった。