翌朝。
甚兵衛は、目を開けてすぐには起きなかった。
薄暗い天井を見ながら。
昨日のことを思い返す。
荷札。
一度では、相手にうまく読んでもらえなかった字。
作兵衛から聞いた。
一番下の油壺。
蓋が緩い。
それを書いた木札。
そして。
今日。
作兵衛は店へ来るのが遅い。
「……」
甚兵衛は身体を起こした。
鼻。
無事。
木札。
ある。
母の布。
ある。
順番に確認する。
藁の中から最初の鼠が顔を出した。
『きょうも、かく?』
「書くと思う」
『へた?』
甚兵衛。
「朝からそこ確認しなくていいんだよ」
二匹目。
『きのう、へた』
「知ってる!」
三匹目。
『ごはん』
甚兵衛。
「お前だけ話が前に進まないな」
『ごはん、すすむ』
「確かに腹には入るけど」
◇
店へ着く。
いつもの場所。
いつもの戸。
だが。
一つだけ違う。
作兵衛がいない。
藤吉が帳場。
弥助が奥。
甚兵衛は店の中を見回した。
「作兵衛さん、まだ?」
藤吉。
「ああ」
「本当に遅いんだ」
弥助。
「昨日聞いただろ」
「聞いたけど」
甚兵衛は奥を見る。
以前なら。
作兵衛がいない。
それだけで少し不安になった。
何がどこにあるのか。
どれを先に使うのか。
自分では分からないことが多かったからだ。
今日は。
全部分かるわけではない。
でも。
昨日。
一つだけ残した。
甚兵衛は腰の木札に触れた。
藤吉。
「まず掃除」
「はい」
仕事は。
作兵衛がいる日と同じところから始まった。
◇
店先を掃く。
棚を拭く。
品を整える。
途中。
弥助が奥から声を出した。
「甚兵衛」
「はい」
「油、一つ出してくれ」
甚兵衛の手が止まった。
「どれ?」
「小さい方。奥の棚」
甚兵衛は倉へ向かう。
棚。
上。
中。
下。
昨日。
作兵衛と見た場所。
油壺。
何本か並んでいる。
弥助の声。
「一番下のやつでいい」
甚兵衛の手が伸びる。
そこで。
止まった。
木札。
昨日書いた字。
油。下。蓋緩。
「……あ」
甚兵衛は、壺へ触れる前に蓋を見る。
見ただけでは。
普通に見える。
手を添える。
ほんの少し。
動く。
「弥助さん!」
「何だ!」
「これ蓋緩い!」
弥助が来る。
「あ」
甚兵衛。
「昨日書いたやつ」
「そういやそうだったな」
弥助も蓋を押さえる。
「危ねえな」
甚兵衛。
「持つ?」
「別のにする」
「これどうする?」
「後で締め直す」
甚兵衛は壺を見る。
もし。
木札がなかったら。
自分は。
覚えていただろうか。
昨日聞いた。
たった一つのこと。
多分。
覚えていた。
……気はする。
でも。
絶対とは言えない。
弥助。
「何ぼーっとしてる」
甚兵衛。
「いや」
木札を見せる。
「これ、役に立った」
弥助。
「そうだな」
「作兵衛さん、いないのに」
「だから書いたんだろ」
甚兵衛。
「……」
昨日。
慧円が言っていた。
書いた者がいなくても。
読める者がおれば。
伝わる。
今。
作兵衛はいない。
でも。
作兵衛が知っていたことは。
ここに残っていた。
ほんの一つだけ。
それでも。
油壺を傾けずに済んだ。
甚兵衛。
「字って」
弥助。
「何だ」
「本当に残るんだな」
弥助。
「今さらか?」
甚兵衛。
「今まで、何となく分かってただけ」
「今は?」
甚兵衛は木札を見る。
「ちょっと分かった」
◇
油を出す。
蓋の緩い壺には。
すぐ分かる印を付けた。
甚兵衛は紙片へ書こうとして。
止まる。
昨日。
自分用の木札なら。
自分に分かればよかった。
でも。
これは。
店の中に置く。
作兵衛も。
弥助も。
藤吉も。
誰かが見る。
「藤吉さん」
「何だ」
「“蓋が緩い”って、ちゃんと書きたい」
藤吉が顔を上げる。
「木札に書いたろ」
「あれ俺用」
甚兵衛は見せる。
油。下。蓋緩。
藤吉。
「読めるが」
「俺が分かるように省いた」
「うん」
「店に置くなら、もうちょっとちゃんと書いた方がいい?」
藤吉は少しだけ考える。
「誰が見る」
甚兵衛。
「店の人」
「なら、店の人間に分かればいい」
「客には?」
「見せるものじゃない」
甚兵衛。
「……」
また。
誰が読むか。
それで変わる。
藤吉は紙切れを一枚出した。
「長く書かなくていい」
筆を持つ。
蓋緩し。運ぶ時注意。
甚兵衛。
「短い」
「短くて分かれば十分だ」
「俺、もっと全部書くのかと思った」
藤吉。
「読む方も仕事中だ」
甚兵衛。
「……あ」
長ければ。
丁寧。
ではない。
必要なことが。
すぐ分かる。
それも大事。
甚兵衛は別の紙に真似て書く。
一度。
「運」が崩れる。
二度目。
少しまし。
藤吉。
「これなら読める」
甚兵衛。
「ほんと?」
「多分」
「藤吉さんまで!」
◇
午前。
客が来る。
いつもの品。
いつもの値段。
いつものやり取り。
だが。
作兵衛がいない分。
奥の仕事は少し遅い。
弥助が出る。
戻る。
甚兵衛が棚を見る。
品を出す。
分からない場所は聞く。
一度。
甚兵衛が紙を探した。
「弥助さん、包み紙どこ?」
「昨日の場所」
「ない」
「上」
「上?」
棚の上を見る。
ない。
弥助が来る。
「あれ」
二人で探す。
少しして。
別の棚から見つかる。
甚兵衛。
「何でこっち?」
藤吉。
「昨日、置き場を変えた」
甚兵衛。
「聞いてない」
弥助。
「俺も聞いてない」
藤吉。
「……」
少し間。
藤吉。
「言い忘れた」
甚兵衛は藤吉を見る。
「また?」
「まただ」
堂々としている。
甚兵衛。
「藤吉さん、結構忘れるね」
藤吉。
「お前もな」
「俺はいっぱい忘れる」
「なら仲間だ」
「嬉しくない」
弥助が笑う。
甚兵衛は新しい棚を見る。
「これ、作兵衛さん知ってる?」
藤吉。
「知らん」
「今日来たら探す?」
「多分な」
甚兵衛。
「じゃあ」
紙を取る。
「書いとく?」
藤吉は少しだけ甚兵衛を見る。
「書け」
甚兵衛。
「俺が?」
「ああ」
少しだけ。
胸が熱くなる。
自分から提案した。
それが。
そのまま仕事になった。
甚兵衛は考える。
何を書く。
古い場所。
新しい場所。
誰にでも分かるように。
包み紙 場所変。奥棚。
書く。
「“変”これで合ってる?」
藤吉。
「そこは違う」
「うわ」
書き直す。
弥助。
「俺、読めるぞ」
甚兵衛。
「藤吉さんは?」
藤吉。
「読める」
「作兵衛さんは?」
藤吉。
「来たら読ませろ」
甚兵衛。
「……」
読めるか。
本人で確かめる。
昨日と同じだ。
◇
昼近く。
作兵衛が来た。
「遅くなった」
甚兵衛が真っ先に振り向く。
「作兵衛さん!」
作兵衛。
「何だ、騒々しい」
「これ読んで」
「挨拶より先か」
「おはようございます!」
「もう昼だ」
「じゃあこんにちは!」
作兵衛が呆れる。
甚兵衛は紙片を見せた。
包み紙 場所変。奥棚。
作兵衛は目を細める。
「……包み紙」
甚兵衛。
「うん」
「場所変わった」
「うん」
「奥の棚」
甚兵衛の顔が明るくなる。
「読めた!」
作兵衛。
「何なんだ、お前」
弥助。
「朝からこれですよ」
甚兵衛。
「でも読めた!」
作兵衛。
「字は汚えがな」
甚兵衛。
「そこまでセットなの!?」
藤吉が帳場で小さく笑っている。
甚兵衛は続けて。
蓋の緩い油壺の札も見せた。
作兵衛。
「それも付けたのか」
「うん」
「壺、使った?」
「別の使った」
「正解」
甚兵衛。
「昨日書いてあったから分かった」
作兵衛が少し黙る。
甚兵衛。
「作兵衛さんいなかったけど」
木札を見る。
「昨日の作兵衛さんが残ってた」
作兵衛。
「……気持ち悪い言い方すんな」
弥助が笑う。
甚兵衛。
「違う! 知ってること!」
「それなら最初からそう言え」
「今の方が分かりやすいと思ったのに!」
作兵衛。
「分かりにくい」
◇
昼。
簡単に食べる。
甚兵衛は店の裏手。
三匹の鼠も集まってくる。
最初の鼠。
『さくべえ、きた』
「来た」
『いなくても、できた?』
甚兵衛は少し考える。
「全部じゃない」
『できない?』
「できないこともあった」
包み紙。
置き場を探した。
他にも。
分からないことはあった。
でも。
油壺。
あれは分かった。
甚兵衛。
「一個はできた」
鼠。
『じゃあ、いい』
「お前本当に便利な答え持ってるな」
二匹目が食べ物を齧る。
『いちこ、つぎ、にこ』
甚兵衛。
「……そうだな」
一個。
次は二個。
いきなり全部じゃない。
◇
午後。
作兵衛が倉へ入る。
甚兵衛も後ろについていく。
「何だ」
「今日分からなかったとこ教えて」
「全部か?」
甚兵衛は止まる。
昨日。
一日で全部覚えるな。
そう言われた。
「……今日困ったとこだけ」
作兵衛。
「それでいい」
一つ目。
包み紙。
もう移動場所は分かった。
二つ目。
古い縄と新しい縄。
甚兵衛は見た目で迷った。
作兵衛。
「こっちは古い」
「何で分かる?」
「毛羽立ち」
甚兵衛は触る。
新しい。
古い。
確かに違う。
「古いの、使わない?」
「用途による」
甚兵衛。
「また場合による」
「重い荷には使わん」
「軽いなら?」
「状態見て使うこともある」
「捨てない?」
「使えるうちはな」
甚兵衛。
「売れないものと使えないものは違う、みたいな?」
作兵衛が一瞬。
甚兵衛を見る。
「そうだな」
豆の時。
床へ落ちたもの。
売り物にはできない。
でも。
全部が同じ意味で無価値ではなかった。
物の状態。
使う場所。
目的。
それで変わる。
甚兵衛は木札へ書く。
縄。古。重荷×。
作兵衛。
「それ、明日のお前に分かるか」
甚兵衛。
「分かる」
「弥助は?」
甚兵衛は呼ぶ。
「弥助さん!」
奥から。
「何だ!」
「これ読める?」
「今行く!」
作兵衛。
「毎回呼ぶのか」
甚兵衛。
「読めるか確かめるから」
「……真面目なんだか面倒なんだか」
甚兵衛。
「両方?」
「多分な」
「鼠みたいな答えやめて!」
◇
弥助が来る。
木札を見る。
「古い縄。重い荷には使うな」
甚兵衛。
「読めた」
弥助。
「でも」
「でも?」
「“重”の字、もう少し大きく書け」
甚兵衛。
「何で」
「“古”と詰まりすぎてる」
甚兵衛は見る。
確かに。
自分には読める。
だが。
少し離れると。
くっついて見える。
「……直す」
作兵衛。
「書くだけでも仕事になるんだな」
甚兵衛。
「今さら?」
作兵衛。
「俺は頭で覚えてたからな」
その言葉に。
甚兵衛は少し止まった。
「それで前、困ったんじゃん」
作兵衛。
「……」
「作兵衛さん休んだ時」
倉の奥。
何がどこにある。
どう扱う。
作兵衛しか分からないものが多かった。
店が止まりかけた。
作兵衛は少しだけ顔をしかめる。
怒ったわけではない。
自分でも分かっている顔だった。
「だから教えてんだろ」
甚兵衛。
「うん」
「一日で全部は無理だ」
「うん」
「俺も全部書けん」
甚兵衛。
「何で」
作兵衛は棚を指す。
「毎日手でやってることの中には」
少し考える。
「説明しろって言われても、すぐ言葉にならんのもある」
甚兵衛。
「……」
甚兵衛は縄を見る。
作兵衛は。
触っただけで。
古い。
新しい。
分かる。
甚兵衛は。
教えられて。
比べて。
ようやく少し分かった。
「知ってるのに、説明できないことある?」
「ある」
「字にできない?」
「すぐにはな」
甚兵衛。
「じゃあどうするの」
作兵衛。
「見ろ」
縄を渡す。
「触れ」
甚兵衛が触る。
「比べろ」
新しい縄。
古い縄。
両方。
「やって覚えろ」
甚兵衛。
「……字だけじゃ駄目?」
「字で残せるもんは残せ」
作兵衛。
「手で覚えるもんは手で覚えろ」
甚兵衛は。
少し考えてから。
木札へ。
見。触。比。
と書いた。
作兵衛。
「何だそれ」
甚兵衛。
「今の話」
「短すぎねえか」
「俺用だからいいの」
作兵衛。
「そういう時だけ便利だな」
甚兵衛。
「場合によるんです」
作兵衛。
「誰に習った」
「みんな」
◇
夕方。
一日の仕事が終わりに近づく。
藤吉が帳面を見ながら言った。
「甚兵衛」
「はい」
「今日、作兵衛がいなくて困ったこと」
甚兵衛は少し考える。
「包み紙の場所」
「他」
「縄」
「他」
「細かいのはまだある」
「何が一番困った」
甚兵衛。
「……」
朝。
作兵衛がいない。
少し不安だった。
でも。
仕事は止まらなかった。
なぜ。
藤吉がいる。
弥助がいる。
自分も。
少しだけできる。
昨日の記録もある。
甚兵衛。
「分からない時」
「うん」
「誰に聞けばいいか分からないと困る」
藤吉が目を上げる。
甚兵衛。
「物の場所が分からないなら、探せる」
「字なら聞ける」
「でも」
少し考える。
「作兵衛さんしか知らないことなのか」
「弥助さんも知ってることなのか」
「藤吉さんに聞けばいいことなのか」
「それが分からないと」
甚兵衛。
「誰に聞けばいいかも分からない」
藤吉は少し黙る。
作兵衛。
「確かにな」
弥助。
「俺、分かることでも作兵衛さん待つ時あるしな」
甚兵衛。
「じゃあ」
木札を持つ。
「誰が知ってるかも残したら?」
藤吉。
「全部?」
甚兵衛。
「……全部は多い」
藤吉。
「なら?」
甚兵衛はしばらく考える。
「その人しか知らないやつ」
藤吉。
「それは残した方がいいな」
甚兵衛。
「一人だけのやつ?」
作兵衛。
「減らせるなら減らした方がいい」
甚兵衛。
「誰かもう一人に教える?」
藤吉。
「ああ」
甚兵衛の顔が少し明るくなる。
「三匹の鼠と同じだ」
店内。
静かになる。
甚兵衛。
「……」
弥助。
「鼠?」
甚兵衛。
「いや!」
遅い。
「道! 道の話!」
藤吉。
「何の話だ」
甚兵衛。
「一匹いなくても、他の二匹が帰れるって」
作兵衛。
「……お前、本当に鼠に詳しいな」
甚兵衛。
「村育ちだから!」
弥助。
「そういうことにしとくか」
甚兵衛。
「そうしてください!」
危ない。
最近。
口が滑る回数が増えている。
◇
仕事の後。
慧円のところへ行く。
甚兵衛は今日の紙を並べた。
蓋が緩い。
包み紙の場所。
古い縄。
そして。
見。触。比。
慧円が最後の三文字を見る。
「これは?」
甚兵衛。
「字だけじゃ分からないこと」
「ほう」
「作兵衛さん、縄触ったら古いか分かる」
「お前さんは?」
「まだ」
「字に書けば分かる?」
甚兵衛。
「“毛羽立ってたら古い”とか書けるけど」
手で縄を触る仕草。
「どのくらい毛羽立ったら駄目かとか」
「どれならまだ使えるとか」
「それ、書くだけじゃ分かりにくい」
慧円。
「そうじゃな」
甚兵衛。
「じゃあ、字って何でも残せるわけじゃない?」
「残しにくいものもある」
甚兵衛。
「音は?」
「工夫すれば」
「匂いは?」
慧円は少し考える。
「難しいの」
甚兵衛。
「触った感じは?」
「それも」
甚兵衛。
「……」
書けば。
全部残る。
少し。
そう思いかけていた。
でも。
作兵衛の手。
鼠の鼻。
人の耳。
そのままでは。
木札へ押し込めないものがある。
甚兵衛。
「じゃあどうするの」
慧円。
「教える」
「見せる」
「やらせる」
「残せるところは書く」
一つずつ。
「一つの方法だけで、全部伝えようとせぬことじゃ」
甚兵衛。
「……道と同じだ」
「道?」
「一個だけ頼りにしない」
慧円は笑った。
「そうかもしれんの」
甚兵衛は木札を見る。
字。
絵。
印。
口。
手。
匂い。
場所。
「伝える方法も、一個じゃないんだ」
「そうじゃな」
甚兵衛。
「面倒」
慧円。
「面白くはないかね」
甚兵衛は少し考えた。
「……ちょっと」
◇
夜。
物置。
「ただいま」
三匹。
『かえった』
甚兵衛は藁へ座り。
今日使った紙を並べた。
最初の鼠が寄ってくる。
『いっぱい』
「また増えた」
『なに』
甚兵衛は。
蓋が緩い油壺の紙を指す。
「これ」
『よめない』
「お前はな」
次。
包み紙の場所。
「これ見たら、作兵衛さんがいなくても場所分かった」
鼠。
『いなくても』
「うん」
次。
古い縄。
「これは」
少し考える。
「書いただけじゃ足りなかった」
鼠。
『なぜ』
甚兵衛は新しい縄の切れ端と。
古い縄の切れ端を持ってきた。
作兵衛にもらったものだ。
二つ並べる。
「触ってみろ」
鼠たちが鼻を寄せる。
前脚で触る。
齧ろうとする。
「齧るな!」
最初の鼠。
『ちがう』
甚兵衛。
「分かる?」
『におい、ちがう』
甚兵衛。
「匂い!?」
自分には。
ほとんど分からない。
鼠たちは。
別のところで違いを見ている。
甚兵衛は笑った。
「やっぱり、お前らは字いらないな」
最初の鼠。
『じ、いらない』
「でも俺にはいる」
『なぜ』
甚兵衛は。
今日の紙を見る。
「俺がいなくても」
少し考える。
「俺が知ってること、誰かに残したい時あるから」
鼠。
『におい、のこす』
「お前らはな」
『き、のこす』
「それもあるな」
『いし』
「うん」
甚兵衛は藁へ横になる。
人間は。
字を残す。
印を残す。
物の置き場所を決める。
手で教える。
口で伝える。
鼠は。
匂い。
音。
道。
木。
石。
どれか一つだけではない。
甚兵衛。
「全部、同じじゃなくていいんだな」
最初の鼠。
『なにが』
「伝え方」
鼠は少し考える。
『かえれれば、いい』
甚兵衛。
「そこに戻るの?」
『うん』
甚兵衛は笑った。
「まあ、そうか」
分かればいい。
帰れればいい。
仕事が続けばいい。
そのために。
必要な方法を使えばいい。
ただ。
一人だけの頭の中にしておくより。
誰かへ渡せる形にしておいた方が。
少し強い。
今日。
作兵衛はいなかった。
それでも。
一つ。
油壺を守れた。
明日は。
二つかもしれない。
甚兵衛は目を閉じる。
全部。
一日で残せなくてもいい。
残せるものから。
一つずつ。
それで十分だった。