朝の店には、雨上がりの匂いが残っていた。
土間は乾き切っておらず、入口から差し込む光が湿った土を鈍く照らしている。軒先から、ときどき遅れて雫が落ちた。
甚兵衛は戸を開けると、まず店の奥を見た。
藤吉はもう帳場にいる。
作兵衛は棚の前にしゃがみ、届いた油壺を一つずつ持ち上げている。弥助は表と奥を往復しながら荷を運んでいた。
「おはようございます」
「おう」
「遅くねえな」
「遅くないだろ」
いつもの返事。
いつもの顔。
甚兵衛は箒を取り、土間を掃き始めた。
前なら、土埃を一気に外へ出せば掃除だと思っていた。
今は違う。
棚の商品へ埃を飛ばさない。
客が来る場所へゴミを寄せない。
荷物の下も見る。
箒の先を短く使い、少しずつ集める。
覚えたことが、身体の動きに混ざり始めていた。
その途中。
壁に掛けた小さな板が目に入った。
包み紙 場所変。奥棚。
昨日、自分で書いたものだ。
昨日は作兵衛がそれを読み、何も聞かずに包み紙を取り出した。
あの時。
妙に嬉しかった。
自分がいなくても。
自分の声がなくても。
字が代わりに働いた。
「甚兵衛」
帳場から藤吉が呼ぶ。
「包み紙、一束持ってきてくれ」
「はい」
甚兵衛はすぐ奥棚へ向かった。
板にはそう書いてある。
だから迷わない。
――はずだった。
「あれ」
ない。
一段目。
ない。
二段目。
ない。
手を奥へ入れる。
埃しかつかない。
「弥助さん」
荷を抱えた弥助が振り向く。
「何だ」
「包み紙使った?」
「使ってねえぞ」
「作兵衛さん」
「ああ?」
「包み紙どこ?」
作兵衛は壺の口を確かめながら、振り向きもせず反対側を指した。
「そっちの下」
見る。
右側の低い棚。
包み紙が、きちんと束にして置いてある。
甚兵衛はしばらく動かなかった。
板を見る。
奥棚。
包み紙を見る。
右棚。
また板を見る。
「……違う」
作兵衛。
「何がだ」
「書いてあるのと」
「ああ、それか」
ようやく作兵衛が顔を上げる。
「今朝動かした」
「何で?」
「油が来たからだ」
顎で示され、甚兵衛は店先を見る。
弥助が運んできた新しい油壺が並んでいる。
「奥棚に入れる?」
「そうだ」
「それで包み紙をこっちに?」
「そうだ」
甚兵衛はもう一度、自分の字を見る。
字は昨日から変わっていない。
誰も書き換えていない。
なのに。
昨日は正しくて。
今日は間違っている。
「……書いたのに」
藤吉が帳面から顔を上げた。
「書いたら何だ」
「正しいと思った」
「昨日は正しかっただろ」
甚兵衛。
「うん」
「今日は違う」
「うん」
「なら、店が変わったんだ」
藤吉はそれだけ言って、また帳面へ目を落とした。
甚兵衛は少しだけ店の中を見回した。
昨日と同じ店に見える。
柱も。
棚も。
帳場も。
でも油が増えた。
包み紙が動いた。
品が売れれば数が減る。
壺が割れれば一つ消える。
人が休めば、仕事の流れも変わる。
同じに見えるだけだ。
中身は動いている。
「……じゃあ」
甚兵衛は板を外した。
「消す」
「待て」
作兵衛が言う。
甚兵衛の手が止まる。
「何」
「何で消す」
「もう違うから」
「昨日そこにあったことまで違うのか」
甚兵衛は板を見る。
「……違わない」
「なら、消していいか考えろ」
「残す?」
「それも考えろ」
「どっち」
「何でも俺に聞くな」
「分かんないから聞いてる」
「だから少し考えてから聞け」
甚兵衛は口を尖らせた。
でも。
考える。
昨日。
奥棚。
今日。
右棚。
問題は。
どちらが正しいかではない。
いつ正しかったか。
「……いつ書いたか分かればいい?」
藤吉の筆が止まった。
「例えば」
甚兵衛。
「昨日――」
言いかけて。
自分で黙る。
弥助。
「何だよ」
「昨日って」
「うん」
「明日になったら、昨日じゃなくなる」
一拍。
弥助が吹き出した。
「そりゃそうだ!」
「笑うなよ!」
「いや、お前、真面目な顔して言うから」
作兵衛まで鼻で笑った。
甚兵衛はむっとして藤吉を見る。
藤吉は紙を一枚引き寄せた。
「だから日を付ける」
さらさらと書く。
一日
甚兵衛は覗き込んだ。
「これなら明日になっても一日」
「そうだ」
「明後日でも?」
「一日は一日だ」
「……便利だな」
「今さら日付の便利さに気づいたのか」
甚兵衛は少し考え。
「字を覚えると面倒が増える」
作兵衛。
「覚えねえ方がもっと面倒だ」
それには返せなかった。
新しい板を取り。
慎重に書く。
一日 包み紙 右棚下
作兵衛が横から見る。
「右が曲がってる」
「読める?」
「読める」
「じゃあ今日はこれでいい」
「お前、前より図太くなったな」
「作兵衛さんが細かいから」
「俺のせいにすんな」
弥助が荷を置きながら笑う。
その間にも。
客が一人入ってきた。
藤吉がすぐ顔を変える。
「いらっしゃい」
店は止まらない。
甚兵衛も包み紙を持ち、次の仕事へ戻った。
昼前。
油を買いに来た客のため、甚兵衛は奥から壺を出そうとした。
そこで。
古い札が目に入る。
蓋緩し。運ぶ時注意。
「あ」
昨日。
蓋が少し緩かった壺。
ところが中は空だ。
油は別の壺に移されている。
札だけが残っている。
甚兵衛は紐を解こうとした。
「待て」
作兵衛。
「また?」
「壺見てから外せ」
「もう空だよ」
「空だから見られるんだろ」
甚兵衛は壺を持ち上げる。
軽い。
昨日は油をこぼさないことばかり気にしていた。
今日は好きに傾けられる。
蓋を閉める。
回す。
軽く押す。
少し浮く。
「やっぱ蓋が悪い」
「よく見ろ」
作兵衛が壺の口を指す。
甚兵衛は顔を近づけた。
薄い傷。
その先に。
小さな欠け。
「あ」
「そこだ」
「これで締まらない?」
「それもある」
「それも?」
作兵衛は蓋を取って裏返す。
「こっちも少し歪んでる」
甚兵衛。
「両方悪い」
「物が駄目になる時、原因が一つとは限らねえ」
昨日の札を見る。
蓋緩し。運ぶ時注意。
昨日。
分かっていたのは。
蓋が緩いこと。
それだけだった。
だから。
それだけ書いた。
間違ってはいない。
でも。
今は、もう少し分かる。
甚兵衛は新しい札を取った。
書く。
油壺 口欠け 蓋緩し 油を入れて運ぶな
途中で。
手が止まる。
作兵衛。
「どうした」
「長い」
「長いな」
「全部いる?」
「お前なら読むか」
「読む」
「弥助は?」
二人で店先を見る。
ちょうど弥助が荷を抱えて通る。
「何だよ」
甚兵衛。
「長い札、読む?」
「急いでたら読まん」
そのまま行った。
甚兵衛。
「……あいつ」
作兵衛。
「だろ」
「じゃあ」
文字を見直す。
一番大事なのは。
何が壊れているか全部知ることではない。
次に誰かが油を入れないこと。
甚兵衛は書き直した。
油壺 使うな。口欠け。
作兵衛が読む。
「それでいい」
「蓋が緩いは?」
「使わねえなら後でいい」
「全部書けば親切ってわけじゃないんだ」
「読む奴が途中で嫌になったら、何も書いてねえのと同じだ」
甚兵衛は札を壺へ結ぶ。
昨日より短い。
なのに。
昨日より役に立ちそうだ。
「……変なの」
「何が」
「減らしたのに、良くなった」
作兵衛は別の壺を持ち上げた。
「仕事じゃよくある」
「また覚えること増えた」
「嫌なら帰れ」
甚兵衛。
「帰らない」
作兵衛の口元が。
ほんの少しだけ動いた。
昼が近づいた頃。
今度は弥助が困った声を出した。
「藤吉さん」
「何だ」
「紙が一枚足りねえ」
藤吉が顔を上げる。
「十あっただろ」
「九しかない」
甚兵衛も振り向く。
弥助の手元。
包み紙。
九枚。
一枚足りない。
甚兵衛の頭に。
前のことが浮かんだ。
豆。
数が足りなかった。
鼠が食べた。
でも。
食べた豆と。
袋を齧った鼠は別だった。
一つ足りないから。
誰かが盗んだ。
誰かが食べた。
そう決めつけたら間違える。
「数え直す」
甚兵衛は紙を受け取った。
数えたものは右。
まだのものは左。
一枚。
二枚。
三枚。
九。
もう一度。
九。
「九」
弥助。
「やっぱりな」
作兵衛。
「俺は使ってねえ」
藤吉。
「こっちも使ってない」
甚兵衛は棚を見る。
今朝。
包み紙を動かした。
右棚。
九枚。
でも昨日は。
奥棚。
視線が。
古い板へ向く。
包み紙 場所変。奥棚。
「……待って」
奥棚へ行く。
昨日置いていた場所。
空。
手を奥へ入れる。
何もない。
棚板の隙間。
壁との間。
指先に。
紙の端が触れた。
「あった」
引き出す。
薄い一枚。
少し曲がっている。
弥助。
「移した時に落ちたか」
甚兵衛は十枚を重ねる。
数が合った。
そして。
古い板を見る。
今朝。
もう違うからと。
消していたら。
ここを探さなかったかもしれない。
「……古いのも役に立つ」
藤吉。
「ああ」
「でも、残しすぎたら邪魔」
「ああ」
「じゃあどうする」
藤吉は。
すぐに答えなかった。
帳面を閉じる。
「毎回考える」
甚兵衛。
「藤吉さんでも?」
「何だ、その顔」
「全部知ってると思ってた」
弥助が笑う。
「お前、大人を何だと思ってんだよ」
甚兵衛は本気で言った。
「俺より知ってる人」
作兵衛。
「それはそうだ」
「だから答え知ってるのかと」
藤吉は甚兵衛を見た。
「知らん」
あっさり。
「忘れる」
「間違える」
「後から分かることもある」
「だから書く」
「書いたら?」
「見直す」
「変わったら?」
「直す」
「それでも分からなかったら?」
甚兵衛は少し考える。
「聞く」
「そうだ」
甚兵衛は黙った。
少しだけ。
妙な感じがした。
大人でも。
分からない。
でも。
分からないから何もしないわけではない。
残す。
見る。
聞く。
直す。
それを繰り返している。
「じゃあ」
甚兵衛は店の壁を見る。
「今使うのと、前のを分ける」
藤吉。
「どうやって」
「今必要なのは板」
指を差す。
「古いのは」
帳面を見る。
「後で必要そうなものだけ帳面」
作兵衛。
「全部残すな」
「分かってる」
「何を残す」
甚兵衛は指を折る。
「壊れた物」
「数が合わなかった時」
「品の場所が変わった時」
「誰かが使った時」
少し考える。
「配達の道が使えなかった時」
藤吉。
「何で道」
「昨日使えた道が、今日使えるとは限らない」
朝。
自分で覚えたばかりのことだ。
藤吉が小さく頷く。
「やってみろ」
「いいの?」
「小さく始めろ」
作兵衛。
「最初から全部書くなよ」
弥助。
「こいつ、字が増えたら壁全部使いそうだしな」
「使わない」
「本当か?」
甚兵衛。
「……たぶん」
三人の目が集まる。
「何だよ」
午後。
弥助と配達へ出た。
荷は軽い。
紙。
少しの油。
三匹の鼠は。
人から少し離れてついてくる。
塀際。
草の影。
道の端。
犬がいれば止まる。
猫の匂いがあれば遠回りする。
人間の道と。
鼠の道。
同じようで違う。
途中。
最初の鼠が止まった。
『みず』
甚兵衛も足を止める。
「どこ?」
『あっち』
鼻先の向こう。
細い近道。
昨日は通れた。
今日は。
雨水が低いところへ溜まっている。
泥。
水。
踏めば。
草鞋くらいは濡れそうだ。
弥助。
「どうした」
「この道」
「近道だぞ」
「水ある」
弥助が覗く。
「これくらいなら行ける」
甚兵衛もそう思う。
一人なら。
行く。
濡れても。
転ばなければいい。
でも。
肩の荷を見る。
紙。
油。
「遠い方行く」
弥助。
「何で」
「俺だけなら行ける」
弥助の目が荷へ落ちた。
一拍。
「ああ」
「紙が濡れる」
「油落とすかもしれねえ」
「昨日通れたからって、今日も同じじゃない」
弥助は何も言わず。
踵を返した。
「じゃあ長い方」
それだけだった。
二人で遠回りする。
少し時間はかかった。
でも。
荷は濡れなかった。
届け先では。
いつも通り。
受け取った相手が中身を確かめる。
「はい、ご苦労さん」
それで終わる。
何も起きなかった。
甚兵衛は。
前より。
この「何も起きない」が。
少し好きになっていた。
帰り道。
弥助が聞く。
「明日はさっきの道どうする」
「見る」
「今日駄目だから、もう使わねえ?」
「水引くかもしれない」
「じゃあ今日の記録」
甚兵衛は腰の板を出した。
歩きながらでは書かない。
道端へ寄り。
荷を下ろして。
書く。
一日 細道 雨後 荷×
そこまで。
弥助。
「人だけなら?」
甚兵衛。
「行けるかもしれない」
「なら○?」
「書かない」
「何で」
甚兵衛は細道を見る。
「俺、歩いてないから」
弥助が。
少しだけ笑った。
「へえ」
「何だよ」
「別に」
甚兵衛は板の端へ。
小さく。
見
と書いた。
自分で見たこと。
そこまで。
先は。
まだ。
店へ戻ると。
壁の一角へ。
新しい板を掛けた。
大きくない。
増やしすぎないためだ。
「上、何書く?」
藤吉。
「何を書く板だ」
「今日、見るやつ」
「なら」
藤吉が紙へ。
今日
と書く。
甚兵衛も真似した。
その下へ。
包み紙 一日 右棚下
油壺 使うな。口欠け。
細道 一日 雨後 荷×
さらに。
縄 古 重荷×
作兵衛。
「それは今日じゃねえ」
甚兵衛。
「……あ」
縄は前から古い。
今日変わったことではない。
外す。
弥助。
「始めた日にもう間違えた」
「分かったから直した」
「いい言葉覚えたな」
「間違えたままよりいいだろ」
藤吉。
「それはそうだ」
甚兵衛は少し得意になる。
作兵衛。
「調子乗んな」
すぐ戻った。
藤吉が板を見る。
「誰が見る」
甚兵衛。
「店の人」
「いつ」
「朝」
「朝のいつ」
「……」
甚兵衛は黙る。
書いた。
置いた。
それだけでは。
また足りない。
誰も見なければ。
板はただの木だ。
「掃除のあと」
「何で」
「その頃なら大体みんないる」
作兵衛。
「荷が来てたら俺はいねえぞ」
弥助。
「俺も外いるかも」
甚兵衛。
「面倒だなお前ら!」
弥助。
「お前が始めたんだろ!」
少し揉めた。
結局。
朝。
最初の仕事が一段落したところで。
店にいる者が。
一度見る。
変わっていたら直す。
終わったものは外す。
必要なら帳面へ残す。
分からなければ。
勝手に決めない。
まずは。
それだけ。
藤吉。
「やってみろ」
作兵衛。
「駄目なら変える」
弥助。
「長くするな」
甚兵衛。
「分かった」
完璧な決まりではない。
でも。
明日。
試せる。
それで十分だった。
仕事のあと。
甚兵衛は慧円のところへ寄った。
子供たちはもう帰り始めていた。
畳の上には。
墨の匂いが残っている。
慧円は片づけながら、甚兵衛の話を聞いた。
包み紙。
油壺。
足りなかった紙。
濡れた道。
甚兵衛が一通り話し終えると。
慧円は筆を置いた。
「では、甚兵衛」
「うん」
「書けば、忘れぬか」
甚兵衛。
「忘れにくい」
「書けば、間違わぬか」
「間違う」
「書けば、変わらぬか」
「変わる」
「ならば」
慧円は穏やかに尋ねた。
「何のために書く」
甚兵衛は。
すぐには答えなかった。
最初なら。
覚えるため。
そう言ったと思う。
今も。
それは正しい。
でも。
それだけじゃない。
昨日の板。
今日の棚。
古い札。
欠けた壺。
水の溜まった道。
全部が。
頭の中で並ぶ。
「……あとで」
ゆっくり言う。
「今と比べるため」
慧円が目を細めた。
甚兵衛は続ける。
「書いた時と」
「今が同じか」
「違うか」
「確かめる」
「うむ」
「書いてあることが、答えじゃない?」
「答えになることもある」
「ならないことも」
「ある」
甚兵衛は顔をしかめた。
「また、場合による」
慧円が笑う。
「世の中には多いな」
「みんなそれ言う」
「便利だからだろう」
「ずるい言葉だよ」
「使い方を間違えなければな」
甚兵衛は自分の小さな板を出した。
片隅へ。
書
少し空けて。
確
二つの字の間へ。
一本の線を引く。
慧円。
「それは何だ」
「俺の」
「読める字にしなくてよいのか」
「これは俺しか見ないから」
「そうか」
甚兵衛は少し考えて。
「人に見せる字と」
「自分だけの字」
「違っていい?」
慧円。
「目的が違うならな」
甚兵衛。
「……また場合による」
「そうだな」
今日は。
慧円の方が少し楽しそうだった。
夜。
小屋へ戻る。
戸を開ける。
「ただいま」
藁の陰から。
三匹。
『かえった』
『かえった』
『ごはん?』
「最後の一匹だけ違うな」
草鞋を脱ぐ。
腰を下ろす。
足より。
頭が重い。
最初の鼠が寄ってくる。
『みち』
「何」
『みず、まだある』
甚兵衛が顔を上げた。
「見てきた?」
『みた』
二匹目。
『ちがうみち、いけた』
「危なくなかった?」
三匹が。
一瞬。
止まる。
最初の鼠。
『たぶん』
甚兵衛。
「お前ら、その言葉好きになったな」
三匹目。
『あした、かわく?』
小屋の外。
湿った夜気。
土の匂い。
甚兵衛は鼻を鳴らす。
「分からん」
二匹目。
『じゃあ、あしたみる』
甚兵衛は少し笑った。
「そうだな」
昨日は通れた。
今日は水があった。
明日は。
乾くかもしれない。
もっと増えるかもしれない。
昨日を覚えておくことは。
役に立つ。
でも。
昨日だけを信じて歩けば。
今日の水には気づけない。
「なあ」
最初の鼠。
『なに』
「俺が昨日」
「ここは安全だって言った道でも」
『うん』
「今日、変だったら?」
三匹が顔を見合わせる。
最初の鼠。
『みる』
二匹目。
『いやなら、にげる』
三匹目。
『わからない、かえる』
甚兵衛は頷いた。
「それでいい」
自分が言ったから。
正しい。
自分が書いたから。
正しい。
そんなのは。
少し違う。
見て。
違ったら。
変える。
危なければ。
逃げる。
分からなければ。
戻る。
最初の鼠が膝へ前足をかける。
『あしたも、みせ?』
「行く」
『また、かく?』
「たぶん」
『たぶん』
「真似すんな」
三匹が小さく鳴いた。
甚兵衛は藁へ横になる。
天井を見る。
今日。
書いたものは。
役に立った。
邪魔にもなった。
古くもなった。
古いからこそ。
役に立ったものもあった。
「……帳面も札も」
ぽつり。
「置いとけばいいってもんじゃないんだな」
最初の鼠。
『ていれ?』
甚兵衛が少し目を開く。
「そうかもな」
『じんべえも?』
「何が」
『ていれ』
「……」
甚兵衛は自分の腕を見る。
埃。
袖のほつれ。
疲れ。
今日は。
朝からずっと頭を使った。
「俺もいるな」
『ごはん』
「食った」
『ねる』
「今から」
『あした、みる』
甚兵衛は目を閉じた。
「うん」
店も。
道も。
人も。
明日になれば。
また少し違う。
だったら。
明日。
また見ればいい。
今度は。
昨日の字だけじゃなく。
自分の目でも。