朝。
雨は上がっていた。
軒から落ちる雫だけが、まだ時々、石を叩いている。
甚兵衛は店に入ると、まず奥へ行った。
荷を触る前。
掃除を始める前。
壁の小さな板を見る。
昨日から始めた。
今、必要なことだけを書く板。
「包み紙 一日 右棚下」
「油壺 使うな。口欠け。」
「細道 一日 雨後 荷×」
字はまだ上手くない。
それでも、昨日の自分なら読める。
弥助も読める。
藤吉も。
作兵衛も。
甚兵衛は一つずつ見てから、右棚の下を見る。
包み紙。
ある。
次。
使わない油壺。
脇へ避けてある。
次。
細道。
これは店の中では確かめられない。
だから、そのまま。
「……よし」
箒を取ろうとして。
止まった。
板の端。
昨日はなかった字がある。
小さい。
「縄 奥」
甚兵衛。
「……?」
縄。
古い縄ではない。
普段使う方。
昨日までは、入口近くの柱に掛けてあった。
見る。
ない。
奥を見る。
棚の横。
束ねられた縄が置いてある。
「本当に奥だ」
書いてあることは合っている。
でも。
甚兵衛は板に近づいた。
「誰が書いたんだ?」
返事はない。
まだ早い。
店には甚兵衛しかいない。
甚兵衛は字を見る。
自分の字ではない。
弥助とも少し違う気がする。
藤吉か。
作兵衛か。
分からない。
「……」
合っている。
だから。
今すぐ困ることではない。
でも。
昨日。
書いてあるからといって、今日も正しいとは限らないと知った。
今日は。
正しいことが書いてあるのに。
誰が確かめたのか分からない。
甚兵衛。
「同じじゃねえな」
最初の鼠が、棚の陰から鼻を出す。
『なに』
「これ」
甚兵衛は板を指す。
『じ』
「そう」
『ある』
「ある」
『いい?』
甚兵衛。
「……今は合ってる」
鼠。
『じゃあ、いい』
「うーん」
『ちがう?』
甚兵衛は少し考える。
「誰が見て書いたか分かんねえ」
鼠。
『だれでも、いい?』
「前ならそう思った」
板を見る。
「でも」
「もし間違ってた時」
「誰に聞けばいいか分かんねえ」
最初の鼠。
『かいたやつ』
甚兵衛。
「それが分かんねえんだよ」
鼠。
『……』
甚兵衛。
「だろ?」
鼠。
『わからない、こまる』
「そう」
そこへ。
戸が開く。
「早いな」
弥助。
甚兵衛。
「おはよう」
「おう」
弥助は荷を置き。
甚兵衛が板の前に立っているのを見る。
「どうした」
甚兵衛。
「これ書いた?」
弥助が覗く。
「縄?」
「うん」
「俺じゃねえ」
「じゃあ藤吉さん?」
「さあ」
弥助も縄を見る。
「でも合ってるぞ」
甚兵衛。
「うん」
「ならいいんじゃねえか」
甚兵衛。
「今は」
弥助。
「?」
甚兵衛。
「違ってたら」
「誰に聞く?」
弥助。
「……」
板。
縄。
奥。
短い三文字。
弥助は腕を組んだ。
「書いた奴?」
「誰?」
「……分からん」
甚兵衛。
「そこ」
弥助。
「なるほど」
少しして。
藤吉。
その後。
作兵衛。
全員揃う。
甚兵衛は板を指した。
「これ誰が書きました?」
藤吉。
「俺じゃない」
作兵衛。
「俺だ」
甚兵衛。
「あ」
弥助。
「作兵衛さんか」
作兵衛は縄を見る。
「昨夜、入口の方が湿ってた」
「朝まで置くと湿気吸うと思って奥へ移した」
甚兵衛。
「だから書いた?」
「ああ」
「じゃあ合ってる」
「合ってるな」
甚兵衛。
「でも」
作兵衛を見る。
「作兵衛さん来るまで、誰が書いたか分からなかった」
作兵衛。
「……」
藤吉も板を見る。
甚兵衛。
「もし」
「縄が奥になかったら」
「誰に聞けばいいか分からない」
「誰が見て」
「誰が動かして」
「誰が書いたのか」
「分からない」
藤吉。
「名前も書くか?」
甚兵衛。
「全部?」
「そうすると長くなるな」
作兵衛。
「長いと読まん」
甚兵衛。
「昨日と同じだ」
情報を増やせば。
分かることは増える。
でも。
増やしすぎれば。
読まれない。
甚兵衛は板を見る。
「……印?」
藤吉。
「印?」
「人ごとに」
指で空中に小さく丸を描く。
「字じゃなくて」
「自分だって分かる印」
弥助。
「商いの印みたいなもんか」
甚兵衛。
「もっと簡単なやつ」
作兵衛。
「毎回名前書くよりは早い」
藤吉。
「ただ、外の客に見せる帳面じゃない」
「店の中で分かればいいか」
甚兵衛。
「はい」
藤吉。
「じゃあ試す」
甚兵衛。
「失敗したら?」
藤吉。
「変える」
甚兵衛。
少し笑う。
「はい」
すぐには決めなかった。
まず。
一人ずつ。
書ける印を考える。
藤吉は丸の中に一本。
弥助は斜め二本。
作兵衛は四角。
甚兵衛は。
少し迷った。
鼠の顔。
描こうとして。
作兵衛。
「毎回それ描くのか」
甚兵衛。
「……面倒」
弥助。
「もうちょい簡単にしろ」
甚兵衛。
小さな三本線。
髭みたいに。
藤吉。
「それなら早い」
甚兵衛。
「これ」
最初の鼠。
板の下から見る。
『ひげ』
甚兵衛。
「そう」
『じんべえ』
「そう」
鼠。
『わかる』
「ならいい」
作兵衛が昨日の「縄 奥」の横へ。
小さく四角を書く。
甚兵衛。
「あ」
作兵衛。
「これで俺」
「うん」
藤吉。
「ただし」
甚兵衛が顔を上げる。
藤吉。
「印があるから正しい、にはするな」
甚兵衛。
「……」
藤吉。
「作兵衛が書いても間違う」
作兵衛。
「俺も間違う」
弥助。
「藤吉さんも?」
藤吉。
「当たり前だ」
甚兵衛。
「じゃあ」
板の印を見る。
「誰が正しいかの印じゃなくて」
少し考える。
「誰に聞けるかの印?」
藤吉。
「それでいい」
甚兵衛は自分の三本線を見る。
「……責任?」
藤吉。
「それも近い」
作兵衛。
「だが」
縄を持ち上げる。
「責任を押しつけるためだけに使うと、誰も書かなくなる」
甚兵衛。
「……あ」
弥助。
「間違えたら怒られるから?」
「そうだ」
作兵衛は縄を戻す。
「間違いを見つけた時に」
「誰に聞けば」
「何を見てそうしたか分かる」
「そのためだ」
甚兵衛。
「怒るためじゃない」
「必要なら怒る時もある」
作兵衛。
「だが最初からそれだけじゃない」
甚兵衛。
「はい」
朝の見直し。
包み紙。
まだ右棚下。
油壺。
欠けたまま。
使わない。
細道。
雨上がり。
甚兵衛。
「これは?」
藤吉。
「今日も残すか」
甚兵衛。
「でも」
外を見る。
陽が出ている。
「昨日の雨後」
「今日も同じ?」
誰もすぐには答えない。
作兵衛。
「見てない」
弥助。
「俺も」
藤吉。
「なら」
甚兵衛。
「消さない?」
藤吉。
「いや」
「今の板からは外す」
甚兵衛。
「何で」
「昨日の状態だからだ」
甚兵衛。
「でも今日まだ分からない」
藤吉。
「だから」
板から消す。
代わりに。
昨日の記録を残す帳面へ。
「一日 細道 雨後 荷×」
と移す。
甚兵衛。
「あ」
今の板。
過去の帳面。
役目が違う。
昨日使えたものでも。
今日の板に残し続ければ。
今日の情報に見える。
甚兵衛。
「……古いのが間違いじゃなくても」
「今じゃない」
藤吉。
「そういうこともある」
甚兵衛。
「じゃあ」
「今日また通るなら」
藤吉。
「見る」
「使えるなら新しく書く」
甚兵衛。
「同じ道でも?」
「同じでも」
甚兵衛。
「面倒」
藤吉。
「面倒だな」
甚兵衛。
「でも」
「昨日の道を今日の道だと思うよりは」
藤吉。
「ましだ」
午前。
荷の受け入れ。
油。
紙。
干した豆。
縄。
甚兵衛は数える。
弥助と別々に。
数え終わってから比べる。
甚兵衛。
「二十七」
弥助。
「二十七」
「合った」
「じゃあ入れる」
以前なら。
合っただけで安心した。
今は。
甚兵衛は荷札を見る。
二十七。
帳面。
二十七。
荷の中。
二十七。
三つ。
「……」
弥助。
「どうした」
「いや」
「同じ二十七でも」
「三つ合ってる方が安心だなって」
弥助。
「まあな」
甚兵衛。
「でも三つとも同じ間違いだったら?」
弥助。
「お前」
「うん」
「最近面倒くさくなってきたな」
甚兵衛。
「俺も思う」
二人で笑う。
昼前。
客が来る。
紙。
油。
それから。
少し離れた家へ届け物。
藤吉。
「弥助」
「はい」
「甚兵衛も行け」
「はい」
荷は軽い。
紙。
小さな包み。
油はない。
藤吉が行き先を言う。
甚兵衛。
地図はない。
頭の中で道を辿る。
いつもの大通り。
曲がる。
細道。
さらに奥。
そして。
止まった。
弥助。
「どうした」
甚兵衛。
「あの辺」
以前。
鼠の匂いが少なかった道。
嫌な匂いがした。
見ていない。
分からない。
だから。
未詳。
として残した場所に近い。
甚兵衛。
「いつもの道で行ける?」
弥助。
「行ける」
「じゃあそっち」
弥助。
「別に近道あるぞ」
甚兵衛。
「どこ」
弥助が指す。
甚兵衛は顔を上げる。
そこ。
知らない道へ繋がる方。
「……」
弥助。
「何」
甚兵衛。
「そっちは」
「まだ」
少し言葉を選ぶ。
「分からない」
弥助。
「危ない?」
甚兵衛。
「それも分からない」
「鼠の匂いが少なかった」
「変な匂いもした」
「でも」
「俺は入ってない」
弥助。
「じゃあ今日は?」
甚兵衛は荷を見る。
軽い。
急ぎではない。
いつもの道で十分間に合う。
「いつもの」
弥助。
「分かった」
理由がないなら。
試さない。
怖いからでも。
勇気がないからでもない。
今日は。
通る必要がない。
届け終わる。
帰り。
弥助が言う。
「でも」
甚兵衛。
「何」
「あの道」
「いつか使えたら便利だな」
甚兵衛。
「うん」
「雨の日とか」
「大通り塞がった時とか」
甚兵衛。
「うん」
弥助。
「ずっと“不明”のままにする?」
甚兵衛。
「……」
歩きながら考える。
分からないなら帰る。
それは大事。
でも。
ずっと分からないままにする。
それとは。
少し違う。
甚兵衛。
「必要になったら」
弥助。
「うん」
「ちゃんと見に行く」
「一人で?」
甚兵衛。
「嫌だ」
即答。
弥助。
笑う。
「そこは早いな」
甚兵衛。
「一人で行く理由ないもん」
店へ戻る。
藤吉へ報告。
届け物。
問題なし。
近道は使わなかった。
理由。
鼠の気配が薄かったこと。
前に変な匂いがあったこと。
自分は入っていないこと。
藤吉。
「分かった」
甚兵衛。
「あと」
「うん」
「いつか」
「仕事で使うかもしれないなら」
「先に見ておいた方がいい?」
藤吉。
少し考える。
「そうだな」
甚兵衛。
「明日?」
「急ぐな」
甚兵衛。
「……」
「何を見る?」
甚兵衛。
「道」
「それだけか」
「幅」
「荷が通れるか」
「足元」
「雨の後」
「人」
「店」
「逃げられる場所」
藤吉。
「最後は何で」
甚兵衛。
「何かあったら帰るため」
藤吉。
「それは大事だな」
作兵衛。
横から。
「昼に行け」
甚兵衛。
「はい」
「一人で行くな」
「はい」
「荷は持つな」
甚兵衛。
「見るだけ?」
「最初はな」
甚兵衛。
「……」
頷く。
その方がいい。
荷を持っていると。
帰りにくい。
守るものが増える。
見るためなら。
見るだけ。
甚兵衛は板の端へ書く。
「道 未詳」
その横。
自分の三本線。
少し考えて。
さらに。
「見に行く」
と書こうとして。
止まる。
藤吉。
「どうした」
甚兵衛。
「まだ日にち決めてない」
「じゃあ書くな」
「はい」
消す。
残るのは。
「道 未詳」
三本線。
甚兵衛。
「これ」
「俺が分からないって書いた」
藤吉。
「うん」
「だから」
「聞かれたら」
「何が分からないか俺が言える」
藤吉。
「それでいい」
夜。
物置。
三匹の鼠が戻ってくる。
『かえった』
「おかえり」
最初の鼠。
『みち』
甚兵衛。
「うん」
『きょう、いった?』
「行ってない」
『なんで』
「行く必要なかった」
鼠。
『こわい?』
甚兵衛。
少し考える。
「ちょっと」
鼠。
『じゃあ、いかない』
「今日はな」
『あした?』
「分からない」
『たぶん?』
甚兵衛。
「たぶん」
三匹。
『たぶん』
甚兵衛。
「お前らそれ好きだな」
最初の鼠。
『わからない』
「うん」
『でも』
鼠は鼻を動かす。
『あとで、みる』
甚兵衛。
「そう」
「分からないから帰る」
「でも」
鼠を見る。
「分からないままでいいとは限らない」
最初の鼠。
『ひつようなら?』
甚兵衛。
「必要なら」
「準備して」
「誰かと」
「昼に」
「帰れるようにして」
『みる』
「見る」
甚兵衛は木札を出す。
今日覚えたことを書く。
最初は。
「書いた人」
と書こうとした。
少し長い。
消す。
「誰」
その横に。
「なぜ」
そして。
「今?」
三つ。
誰が書いた。
なぜそうした。
それは今も同じか。
甚兵衛。
「……」
さらに。
小さく。
「聞」
と書く。
分からなければ。
聞く。
最初の鼠が覗き込む。
『だれ』
「うん」
『なぜ』
「うん」
『いま』
「うん」
鼠。
『じんべえ』
「何」
『めんどう』
甚兵衛。
「……俺もそう思う」
鼠。
『でも、かえる?』
甚兵衛は少し笑った。
「間違っても帰れるようにするためだよ」
鼠。
『じゃあ、いい』
「そうだな」
外。
雨はもう降っていない。
けれど。
昨日濡れた道が。
全部乾いたかは分からない。
書いたことも。
昨日見たことも。
人から聞いたことも。
そのまま今日になるわけではない。
だから。
明日も。
見る。
聞く。
必要なら。
直す。
甚兵衛は木札を伏せる。
三匹の鼠が。
藁の中へ潜っていく。
『おやすみ』
「おやすみ」
少しして。
暗がりから。
『たぶん』
甚兵衛。
「何がだよ」
返事はなかった。
藁が。
小さく揺れた。