朝。
昨日より、空が明るい。
雨雲はまだ遠くに残っているが、道の端にはもう乾き始めた土が見えていた。
甚兵衛は店の戸を開ける。
草履の泥を落とし。
中へ入る。
「おはようございます」
棚の奥。
かさ。
最初の鼠が顔を出す。
『おはよう』
少し遅れて。
二匹目。
三匹目。
甚兵衛。
「お前ら、もう起きてたの」
『おなか』
「はいはい」
仕事の前なので、ほんの少しだけ。
昨夜残しておいたものを分ける。
それから。
甚兵衛は壁の板を見る。
昨日から。
書いた者が分かるように、短い印を付けることにした。
藤吉。
丸の中に一本。
弥助。
斜め二本。
作兵衛。
小さな四角。
甚兵衛。
三本の髭。
昨日のままなら。
今朝は。
包み紙。
油壺。
それから。
まだ分からない道。
その三つ。
――のはずだった。
甚兵衛。
「……ん?」
板の下。
新しい字がある。
細縄 右棚
その横。
斜め二本。
弥助の印。
さらに。
少し離れたところに。
細縄 奥
四角。
作兵衛の印。
甚兵衛。
「……」
二つとも。
細縄。
でも。
場所が違う。
右棚。
奥。
「どっち」
最初の鼠。
『なに』
「細縄」
『ひも』
「うん」
甚兵衛は右棚を見る。
ない。
奥。
行く。
そこには。
細縄がある。
「奥」
鼠。
『じゃあ、おく』
「今はな」
昨日なら。
これで終わったかもしれない。
でも。
板へ戻る。
弥助は。
右棚と書いた。
作兵衛は。
奥と書いた。
誰が書いたかは分かる。
そこは昨日より良くなった。
でも。
甚兵衛。
「……どっちが後だ?」
鼠。
『あと?』
「先に右棚にあって」
「後で奥に行ったのか」
「先に奥にあって」
「後で右棚に行ったのか」
鼠。
『いま、おく』
「そう」
『じゃあ、おく』
「だから」
甚兵衛は頭を掻く。
「今は分かる」
「でも」
「何で二つ残ってる?」
鼠。
『ふたつ、かいた』
「それは見れば分かる」
最初の鼠。
『じゃあ』
少し考える。
『どっちか、ふるい』
甚兵衛。
止まる。
「……それだ」
古い。
でも。
どちらが。
古い。
甚兵衛は板に顔を近づける。
字の濃さ。
墨。
乾き。
少し違う気はする。
でも。
これだけで決めるのは。
嫌だ。
「見た目で当てるのも違うな」
最初の鼠。
『わからない』
「うん」
『きく』
甚兵衛。
「うん」
少し。
笑う。
「昨日覚えたばっかりだもんな」
先に来たのは弥助だった。
戸を開け。
甚兵衛を見るなり。
「何だ、その顔」
甚兵衛。
「これ」
板。
弥助。
「ああ」
「細縄」
「右棚って書いたの、弥助?」
「俺」
「いつ?」
弥助。
「昨日」
「いつの昨日」
「……いつ?」
甚兵衛。
「朝?」
「昼?」
「夕方?」
弥助。
「ああ」
少し考える。
「昼前だな」
甚兵衛。
「その時、右棚?」
「そこへ移した」
「何で?」
「荷ほどきした後」
「奥だと取りに行くの面倒だったから」
甚兵衛。
「じゃあ」
作兵衛の文字を指す。
「こっちは?」
「知らん」
ちょうど。
戸が開く。
作兵衛。
「何が知らん」
甚兵衛。
「これです」
作兵衛。
板を見る。
「ああ」
「俺だ」
「いつ?」
「昨日の夕方」
弥助。
「あ」
甚兵衛。
「何で奥へ?」
作兵衛。
「閉める前に戻した」
「右棚は夜の荷を置くからな」
弥助。
「そうだった」
甚兵衛。
「……」
順番が分かった。
昼前。
右棚。
夕方。
奥。
だから。
今は。
奥。
甚兵衛。
「印があっても」
「いつか分からないと」
「どっちが今か分からない」
作兵衛。
「そうなるな」
弥助。
「じゃあ日付書く?」
甚兵衛。
「でも」
「二つとも昨日」
弥助。
「……あ」
作兵衛。
「日だけじゃ足りん時もあるな」
甚兵衛。
「朝」
「昼」
「夕」
作兵衛。
「毎回そこまで書くか?」
甚兵衛。
板を見る。
また。
増える。
文字。
印。
日。
朝。
昼。
夕。
増やせば。
分かる。
増やしすぎれば。
読まない。
甚兵衛。
「……また面倒になってきた」
弥助。
「お前が始めたんだろ」
「そうだけど」
藤吉が来る。
話を聞く。
二つの細縄の記録。
誰が書いたか。
なぜ動かしたか。
どちらが先か。
甚兵衛。
「日を書けばいいと思ったけど」
「同じ日に二回動いたら」
「また分からない」
藤吉。
「そうだな」
「じゃあ」
甚兵衛。
「朝昼夕?」
藤吉。
「それでも」
「朝に二回動けば?」
甚兵衛。
「……」
弥助。
「昼に三回なら?」
甚兵衛。
「やめて」
作兵衛。
少し笑う。
藤吉。
「全部の動きを残そうとするな」
甚兵衛。
「え」
「今の板は」
「何のためだった?」
甚兵衛。
考える。
「今」
「必要なこと」
「そうだ」
藤吉は。
細縄 右棚
を見る。
「じゃあ」
指で示す。
「これは今か?」
甚兵衛。
「違う」
「なら?」
「今の板にはいらない」
藤吉。
「そういうこと」
甚兵衛。
「あ」
昨日。
古い記録は。
帳面へ。
今必要なことだけ。
板へ。
分けた。
それなのに。
また。
全部を。
板へ置こうとしていた。
藤吉。
「場所を変えたなら」
「新しい方を書いた者が」
「古い方も直す」
甚兵衛。
「消す?」
「消していい」
「でも」
「後で役に立つと思うなら帳面へ残す」
甚兵衛。
「誰が消していい?」
藤吉。
「そこも決めるか」
作兵衛。
「動かした奴が直すのが一番早い」
弥助。
「自分で動かして」
「自分で書く」
甚兵衛。
「でも」
「誰かが間違ってるの見つけたら?」
藤吉。
「勝手に消す前に確認」
「すぐ確認できないなら」
「間違ってるかもしれないと分かるようにしておく」
甚兵衛。
「どうやって」
作兵衛。
「線一本引くか?」
弥助。
「でも本当に間違いだったら?」
藤吉。
「だから」
「消し切らない」
甚兵衛。
「……」
古い文字。
その上に。
斜めに一本。
読める。
でも。
そのまま使うものではないと分かる。
「これ」
甚兵衛。
「いいかも」
藤吉。
「試してみろ」
甚兵衛は。
弥助の。
細縄 右棚
その上に。
一本。
斜め線を引く。
まだ読める。
でも。
今ではない。
そして。
細縄 奥
は残す。
四角。
作兵衛の印。
甚兵衛。
「これなら」
「今は奥」
「前は右棚だった」
弥助。
「うん」
甚兵衛。
「でも」
板を見る。
「古いのが増えたら?」
藤吉。
「朝の見直しで外す」
甚兵衛。
「毎朝?」
「毎朝」
甚兵衛。
「誰が?」
藤吉。
「最初に来た奴だけに任せるか?」
甚兵衛。
「……」
作兵衛が休んだ時。
一人にしか分からない。
一人にしかできない。
それは。
少し怖い。
甚兵衛。
「一人に決めない方がいい」
藤吉。
「何で」
「その人が休んだら」
「また止まる」
藤吉。
「じゃあ」
「朝、いる者で見る」
「はい」
「二人以上いれば一緒に」
「一人なら」
甚兵衛。
「分からないものは消さない」
藤吉。
「それでいこう」
店が動き始める。
掃除。
棚。
荷。
客。
昨日までと。
同じようで。
少し違う。
甚兵衛は。
板を見るたび。
文字だけではなく。
横の印も見るようになった。
誰が。
その文字を書いたか。
それだけで。
頭の中に。
次の動きができる。
分からないなら。
その人に聞く。
でも。
印は。
正しさの保証ではない。
それも。
覚えておく。
昼前。
包み紙を数える。
昨日。
右棚下。
十枚。
今朝。
客へ一枚。
店で一枚。
使った。
弥助。
「残り八」
甚兵衛。
「俺も八」
板。
包み紙の場所だけ。
数はない。
帳面を見る。
十。
甚兵衛。
「……」
「十のままだ」
弥助。
「あ」
「俺、一枚使った」
甚兵衛。
「俺も」
弥助。
「じゃあ八」
甚兵衛。
「うん」
帳面へ。
十。
その横へ。
二枚使用。
八。
と。
書こうとして。
筆が止まる。
「弥助」
「何」
「この十」
「いつの?」
弥助。
「昨日だろ」
「どこに書いてある?」
「……」
ない。
昨日。
自分たちには。
分かっていた。
昨日数えたから。
でも。
明後日。
来月。
誰か別の人が見たら。
いつの十か。
分からない。
甚兵衛。
「日」
弥助。
「今度はいるな」
甚兵衛。
「うん」
今まで。
日を書くもの。
書かないもの。
混ざっていた。
藤吉へ持っていく。
甚兵衛。
「これは日いります?」
藤吉。
帳面を見る。
「数は変わる」
「だから」
「いつ数えたかはあった方がいい」
甚兵衛。
「場所は?」
「場所も変わる」
「でも」
「今の板なら」
「今使う場所だけでいい」
甚兵衛。
「……同じ記録でも」
「必要なもの違う?」
藤吉。
「そういうこと」
甚兵衛。
「面倒」
藤吉。
「そればっかりだな」
甚兵衛。
「だって面倒です」
藤吉。
「でもやる?」
甚兵衛。
少し考える。
「必要なら」
藤吉。
「それでいい」
帳面。
甚兵衛は。
昨日の十の横へ。
日を書く。
今日。
八。
横に。
自分の三本線。
弥助の二本線。
二人で数えた。
甚兵衛。
「二人の印」
弥助。
「何」
「両方書く?」
「二人で数えたなら」
「でも」
甚兵衛。
「俺が八」
「弥助も八」
「別々に数えた」
「なら」
弥助。
「両方でいいんじゃねえ?」
甚兵衛。
「……」
二つの印。
ひげ。
斜め二本。
書く。
それを見ると。
少しだけ。
変な感じがした。
数字の八。
その横に。
二人。
八。
という数字だけでは。
見えなかったもの。
「……一人で数えた八じゃない」
弥助。
「何」
「いや」
「何でもない」
午後。
一人の客が。
油と紙を注文する。
届け先を聞く。
甚兵衛。
少し離れた町外れ。
藤吉。
「明日の朝でいい」
客。
「ああ」
「急がん」
「ただ」
「大通りの橋の手前」
「荷車が嵌まってる」
藤吉。
「まだ?」
「今朝から」
「車輪が折れたらしい」
「人は通れるが」
「荷を持って横抜けるのは面倒だ」
甚兵衛。
顔を上げる。
客が帰る。
店の中。
少し。
静かになる。
弥助。
「……近道」
甚兵衛。
「うん」
例の。
まだ。
分からない道。
そこを使えれば。
橋の手前を避けられる。
明日。
荷。
油。
紙。
油がある。
落とせない。
甚兵衛。
「……必要になった」
藤吉。
「そうだな」
甚兵衛。
板を見る。
道 未詳
三本線。
自分の印。
昨日。
必要なら。
準備して。
誰かと。
昼に。
荷を持たず。
見る。
そう話した。
今。
理由ができた。
藤吉。
「どうする」
甚兵衛。
「今日」
「まだ明るい」
外を見る。
「見に行く?」
藤吉。
「誰と」
甚兵衛。
弥助を見る。
弥助。
「俺行く」
作兵衛。
「待て」
二人。
見る。
作兵衛。
「行く前に」
「聞けることを聞け」
甚兵衛。
「誰に」
「近くの店」
「配達に出る奴」
「水汲みに行く奴」
「その辺の道を使う奴」
甚兵衛。
「鼠も」
「鼠もだ」
藤吉。
「一つの話だけで決めるな」
甚兵衛。
「……はい」
まず。
隣の店。
甚兵衛。
「すみません」
店の男。
「何だ」
「裏の細い道」
「橋の方へ抜けるやつ」
「ああ」
「通ります?」
男。
「俺は使わん」
甚兵衛。
「危ない?」
「知らん」
甚兵衛。
「……」
男。
「狭いから嫌いなだけだ」
甚兵衛。
「あ」
危ない。
ではない。
使わない。
理由は。
狭い。
甚兵衛。
「ありがとうございます」
次。
水を運ぶ男。
「あの道?」
「たまに通るぞ」
甚兵衛。
「今日?」
「今日は行ってねえ」
「昨日は?」
「雨だったから使ってない」
「何で?」
「滑る」
甚兵衛。
「危ない?」
「桶持ってりゃな」
「手ぶらなら知らん」
甚兵衛。
「……ありがとうございます」
次。
荷を運ぶ若い男。
「裏道?」
「この前通った」
甚兵衛。
「いつ?」
「三日くらい前」
「荷あり?」
「小さいの」
「大きい荷は?」
「嫌だな」
「何で?」
「曲がり角がきつい」
甚兵衛。
「匂い」
「何か変なのしませんでした?」
男。
「匂い?」
「知らん」
甚兵衛。
「分かりました」
戻る。
板ではなく。
小さな木札。
甚兵衛。
隣店 使わず 狭
水運び 雨時× 桶
荷運び 三日前 小荷○ 大荷?
その横。
自分で見たわけではない。
だから。
聞
一つずつ。
つける。
弥助。
「同じ道なのに」
「話違うな」
甚兵衛。
「違うというより」
木札を見る。
「使い方が違う」
「手ぶら」
「桶」
「荷」
「雨」
弥助。
「なるほど」
甚兵衛。
「だから」
「誰か一人が」
『通れる』
「って言っても」
「俺らの油と紙が通れるとは限らない」
藤吉。
「その通り」
鼠たちにも聞く。
最初の鼠。
『みち』
「うん」
『すこし、いく』
甚兵衛。
「奥まで?」
『いかない』
「何で」
『におい』
甚兵衛。
「まだ?」
『すこし』
二匹目。
『きのう、みず』
三匹目。
『きょう、へった』
甚兵衛。
「人?」
『いる』
「多い?」
『すくない』
「猫?」
『しらない』
「犬?」
『しらない』
「大きい鼠?」
三匹。
『しらない』
甚兵衛。
「……」
分からない。
増えた。
でも。
前より。
分からないものの形は。
少し見える。
藤吉。
「行くなら」
「今日のうちに」
甚兵衛。
「はい」
作兵衛。
「荷は無し」
「はい」
「弥助と」
「はい」
「最初の鼠も?」
甚兵衛。
鼠を見る。
『いく』
甚兵衛。
「嫌なら帰れよ」
『かえる』
「俺が行くって言っても」
『いやなら、かえる』
甚兵衛。
「よし」
弥助。
「俺にも言う?」
甚兵衛。
「何を」
「嫌なら帰れ」
甚兵衛。
「……」
少し考える。
「帰っていいよ」
弥助。
「お前もな」
甚兵衛。
「うん」
店を出る前。
甚兵衛は板を見る。
道 未詳
三本線。
その下に。
初めて。
日を書く。
今日。
そして。
短く。
見
と書く。
弥助。
「今から見る」
甚兵衛。
「うん」
「まだ結果は書かない?」
甚兵衛。
「見てないから」
弥助。
笑う。
「そりゃそうだ」
外。
日はまだ高い。
雨上がりの道には。
ところどころ。
濃い泥が残っている。
二人。
一匹。
甚兵衛。
弥助。
最初の鼠。
荷はない。
手も空いている。
いつもの道から。
一本。
外れる。
甚兵衛の足が。
少しだけ。
遅くなる。
弥助。
「怖い?」
甚兵衛。
「ちょっと」
「帰る?」
甚兵衛。
前を見る。
まだ。
人家がある。
声も聞こえる。
後ろには。
戻れる道。
「まだ」
「行ける」
最初の鼠。
『まだ』
甚兵衛。
「うん」
『いやなら』
「帰る」
弥助。
「三人とも同じこと言ってんな」
甚兵衛。
「一匹混じってる」
『さんにん』
甚兵衛。
「お前、自分数えてる?」
『いる』
「じゃあ三人でいいか」
細い道の入口。
以前。
甚兵衛が止まった場所。
そこから。
少し先。
湿った土。
壁。
古い板塀。
鼠の足跡は。
やっぱり少ない。
甚兵衛は。
すぐ入らない。
まず。
立つ。
見る。
匂う。
聞く。
弥助。
「どう」
「……分からない」
「匂いは?」
甚兵衛。
鼻を動かす。
前に感じた。
嫌な匂い。
まだ。
少し。
ある。
でも。
同じか。
自信がない。
「ある」
「何の?」
「分からない」
弥助。
「じゃあ」
甚兵衛。
「未詳」
最初の鼠。
鼻。
ひくひく。
『ある』
「同じ?」
『たぶん』
甚兵衛。
「お前もたぶんか」
『たぶん』
一歩。
入る。
次。
また。
一歩。
足元。
まだ湿っている。
でも。
沈むほどではない。
弥助。
壁との間を見る。
「荷車は無理だな」
甚兵衛。
「うん」
「人は?」
「通れる」
「小さい荷?」
甚兵衛。
まだ答えない。
角。
その先が。
見えない。
「まだ」
弥助。
「分かった」
進む。
急がない。
甚兵衛は。
後ろを見る。
入口。
見える。
戻れる。
次。
角。
前。
古い塀。
その横。
水の跡。
そして。
鼻。
また。
匂い。
少し。
強くなる。
甚兵衛。
止まる。
弥助も。
止まる。
最初の鼠。
止まる。
『いや』
甚兵衛。
「何」
鼠。
『におい』
甚兵衛。
「強い?」
『さっきより』
弥助。
「俺は分からん」
甚兵衛。
「俺も」
「少しだけ」
前。
まだ。
誰も見えない。
音。
遠く。
何か。
水。
木。
風。
甚兵衛。
「今日は」
少し。
考える。
「ここまで」
弥助。
「まだ先あるぞ」
「うん」
「でも」
後ろを見る。
「今日は」
「見るために来た」
「無理して全部見るためじゃない」
弥助。
少し。
甚兵衛を見る。
それから。
頷く。
「帰るか」
甚兵衛。
「うん」
最初の鼠。
『かえる』
三人。
いや。
二人と一匹。
来た道を。
そのまま。
戻る。
店。
藤吉。
「どうだった」
甚兵衛。
「全部は見てない」
「どこまで」
甚兵衛は。
入口。
角。
塀。
湿ったところ。
匂いが少し強くなった場所。
そこまで。
話す。
「人は通れる」
「でも」
「荷を持って通れるかは」
「まだ分からない」
「道幅は狭い」
「雨の後」
「まだ少し湿ってる」
「匂い」
「まだある」
藤吉。
「危険?」
甚兵衛。
すぐには答えない。
「……分からない」
「危ないものは見てない」
「でも」
「安全って言えるほど見てもない」
藤吉。
「なら」
「何て書く」
甚兵衛。
板を見る。
少し考える。
そして。
書く。
道 今日 手ぶら 途中まで○
その下。
荷 未詳
さらに。
匂 未詳
横。
自分の三本線。
弥助の二本線。
甚兵衛。
「二人で見た」
弥助。
「全部じゃないけどな」
甚兵衛。
「だから」
「途中まで」
藤吉。
頷く。
「それでいい」
甚兵衛は。
最初。
道○
とだけ。
書きそうになった。
でも。
やめた。
それでは。
全部通れるように見える。
だから。
手ぶら。
途中まで。
そこまで。
書く。
短く。
でも。
削りすぎない。
作兵衛。
板を見る。
「明日の荷」
甚兵衛。
「この道は」
「まだ使わない方がいいと思います」
藤吉。
「理由は?」
「油がある」
「紙もある」
「曲がり角」
「狭い」
「匂いの先を見てない」
「戻るなら」
少し考える。
「いつもの道」
「荷車のところだけ」
「人に声かけて通す方が」
「分かる」
藤吉。
「俺もそう思う」
甚兵衛。
「じゃあ」
「明日はいつもの道」
「そうする」
夜。
物置。
甚兵衛は木札を出す。
今日。
覚えたこと。
書く。
誰
なぜ
今
その下。
新しく。
どこまで
甚兵衛。
「……」
全部見た。
ように。
書かない。
途中なら。
途中。
聞いたなら。
聞いた。
見たなら。
見た。
最初の鼠が。
横から覗く。
『どこまで』
甚兵衛。
「うん」
『きょう』
「途中まで」
『あした』
「分からない」
『また、みる?』
甚兵衛。
「必要なら」
鼠。
『たぶん』
甚兵衛。
「たぶん」
三匹。
『たぶん』
甚兵衛。
「もうそれ挨拶みたいになってない?」
鼠。
『たぶん』
甚兵衛。
「絶対わざとだろ」
藁が。
小さく揺れる。
笑っているのか。
甚兵衛には。
まだ。
分からなかった。