『鼠は最後に帰ってくる』   作:隼人2

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第28話

朝。

まだ暗い。

甚兵衛は目を開ける。

「……」

胸の上に一匹。

腹の横に一匹。

足元に一匹。

「重い」

胸の鼠。

『おきた』

「起きた」

腹の鼠。

『あさ』

「まだ早い」

足元の鼠。

『でも、おきた』

「お前らが乗ってるからな」

三匹。

『うん』

「認めるな」

甚兵衛が身体を起こすと、鼠たちがころころ落ちる。

『おちた』

「落とした」

『ちがう?』

「だいたい同じだ」

顔を洗う。

井戸水が指先を刺すように冷たい。

吐く息が白い。

物置へ戻り、昨夜伏せた木札を見る。

甚兵衛。

「……」

ひっくり返す。

道。

今日。

手ぶら。

途中まで、丸。

荷。

未詳。

匂い。

未詳。

最初の鼠が横から覗く。

『きのう』

「そう」

『きょうも?』

甚兵衛は少し考える。

「今日は荷を持つ」

三匹。

『にもつ』

「軽いやつ」

木札を持ち上げる。

「手ぶらで通れるのと、荷物を持って通れるのは別だからな」

鼠。

『みち、おなじ』

「道はな」

帯を締める。

「人間は違う」

戸を開ける。

朝の光が、細道の屋根の隙間から細い筋になって差し込んでいる。

濡れた土。

昨夜の灰。

どこかで炊き始めた飯の匂い。

店へ行く。

戸を開ける。

まだ藤吉も弥助も作兵衛もいない。

甚兵衛は箒を取る。

入口。

土間。

奥。

昨日動かした物の位置を確かめる。

少しずれている。

直す。

そこへ。

「早いな」

弥助が入ってくる。

甚兵衛。

「おはようございます」

「おう。今日は俺が一番だと思ったんだけどな」

「鼠に起こされました」

「便利なのか不便なのか分からんな」

足元の鼠が鳴く。

「チチッ」

甚兵衛には。

『べんり』

そう聞こえる。

「自分で便利って言うな」

弥助。

「ん?」

甚兵衛。

「こいつ、自分は便利だって」

弥助は鼠を見る。

「今ので?」

「はい」

「ただ鳴いただけにしか聞こえんぞ」

「俺には分かるんです」

鼠。

『べんり』

「チッ」

甚兵衛。

「二回言わなくていい」

弥助が笑う。

「便利なんだか面倒なんだか、本当に分からんな」

少しして。

作兵衛。

その後に藤吉。

店が動き始める。

荷を出す。

数える。

置く。

包む。

甚兵衛は手を動かしながら藤吉を見る。

「藤吉さん」

「ん?」

「今日、外に持っていく小さい荷あります?」

「なんでだ」

「昨日見た道を、荷を持って通れるか見たいんです」

作兵衛が横から言う。

「それなら、これくらいだな」

小さな包みをひとつ持ち上げる。

軽い。

片手でも持てる。

甚兵衛が受け取る。

「中は?」

「紙」

「濡らしたら?」

「困る」

「落としたら?」

「困る」

「ぶつけたら?」

「まあ困る」

甚兵衛。

「じゃあ練習にはちょうどいいですね」

弥助。

「困る物で練習するなよ」

「本物じゃないと分からないこともあります」

「落とすなよ」

「落としません」

足元。

鼠。

『たぶん』

小さく。

「チチッ」

甚兵衛。

「お前は黙れ」

作兵衛。

「?」

甚兵衛。

「鼠です」

「鼠に何言われた」

「落とすかもしれないって」

弥助。

「縁起でもねえな」

甚兵衛。

「だから黙れって言ったんです」

鼠。

『いってない』

甚兵衛。

「似たようなもんだ」

藤吉。

「……一人で鼠と喧嘩するなよ」

「してません」

朝の忙しさが少し落ち着く。

作兵衛が言う。

「行くなら今だ」

「はい」

弥助が腰紐を締め直す。

「俺も行く」

甚兵衛。

「昨日も一緒でしたけど」

「だからだ。昨日と違うなら分かるだろ」

「……なるほど」

二人で店を出る。

鼠は最初の鼠と、もう一匹。

今日は二匹だけだ。

甚兵衛が足元を見る。

「三匹目は?」

最初の鼠。

『ねてる』

「……自由だな」

弥助。

「何だって?」

「三匹目は寝てるそうです」

弥助。

「鼠なんてそんなもんだろ」

歩く。

昨日の道。

大通りまでは同じ。

朝の光が屋根の端をなぞり、店先の水たまりを白く光らせている。

人が増えている。

荷車。

行商。

桶。

子供。

犬。

焼いた魚の匂い。

味噌汁の湯気。

呼び声。

車輪の軋む音。

甚兵衛。

「昨日より多い」

弥助。

「時間が違う」

「はい」

昨日通った角を曲がる。

細道。

甚兵衛は包みを左手に持つ。

数歩。

右手へ持ち替える。

弥助。

「何してる」

「持ち替えた時に通りにくくならないか見てます」

「そんな変わるか?」

「狭いと変わります」

少し先。

壁。

反対側には桶が積まれている。

昨日より道が狭い。

桶の縁から水が一滴落ち、土に黒い跡を作っている。

甚兵衛が止まる。

弥助も止まる。

「昨日、あったか?」

「なかったです」

桶の横。

人一人なら通れる。

荷が小さければ。

通れる。

甚兵衛。

「通れますね」

「だな」

甚兵衛は進まず、木札を出す。

朝。

桶。

小荷、丸。

大荷、難。

弥助。

「道ってのは、道だけ見りゃいいわけじゃねえんだな」

甚兵衛。

「たぶん」

鼠。

『たぶん』

「チッ」

甚兵衛。

「真似するな」

弥助。

「今度は何だ」

「俺の『たぶん』を真似しました」

弥助は鼠を見る。

「本当にそんな細かいことまで分かるのか」

「分かります」

鼠。

『たぶん』

「もういい」

進む。

昨日引き返したところまで来る。

鼠が止まる。

最初の鼠。

『ここ』

甚兵衛。

「昨日はここまで」

鼠。

『うん』

その先にも細道は続いている。

右。

左。

また右。

屋根が近い。

軒先から落ちる水が道の端を濡らしている。

洗い物の水。

魚の匂い。

炭。

人。

戸の向こうで誰かが笑う。

別の家では包丁の音が続いている。

昨日より匂いが多い。

甚兵衛。

「分かる?」

最初の鼠。

『いっぱい』

「帰り道」

『わかる』

もう一匹。

『わかる』

甚兵衛。

「別々でも?」

二匹の間に少し間が空く。

最初の鼠。

『わかる』

もう一匹。

『……たぶん』

甚兵衛。

「お前は正直でよろしい」

弥助。

「さっきから何を聞いてる」

「帰れるかです」

「鼠に?」

「はい」

「答えてるのか」

「答えてます」

弥助は鼠を見る。

二匹は鼻を動かしているだけに見える。

「俺には全然分からんな」

甚兵衛。

「普通はそうです」

「どっちも帰れるって?」

甚兵衛は二匹を見る。

「片方は自信あり。もう片方は、たぶん」

弥助。

「鼠にも自信の差があるのか」

「あるみたいです」

さらに進む。

少し広い場所に出た。

井戸。

朝の光が縁に差し、濡れた石だけが明るく浮いている。

人が三人。

桶を並べて話している。

縄の音。

桶の底が石に当たる音。

女がこちらを見る。

甚兵衛と弥助。

荷。

見慣れない顔。

ほんの一瞬。

視線が止まる。

甚兵衛。

「……」

弥助。

「どうした」

歩きながら。

甚兵衛は小声で言う。

「昨日は誰もいませんでした」

「今日はいるな」

「ここ、近道にしていいんですかね」

弥助が少し考える。

「道だぞ」

「道ですけど」

甚兵衛は後ろを見る。

井戸。

家。

洗った布。

軒先の桶。

生活している場所だ。

「毎日荷物を持った知らない奴が通ったら、嫌じゃないです?」

弥助。

「……まあ」

「店の近道として使うなら、そのへんも聞かないと」

「誰に?」

「住んでる人」

「今?」

「今日はやめます」

「なんでだ」

甚兵衛は荷を持ち直す。

「俺、まだ店のことをちゃんと説明できないから」

弥助。

「……」

「誰の店で、何を運んで、なんでここを通るのか聞かれた時、弥助さんに全部答えてもらうことになる」

弥助。

「俺がいるんだからいいだろ」

「今日は」

甚兵衛は弥助を見る。

「でも、一人だったら?」

弥助。

「……」

「先に覚えます」

弥助は鼻を鳴らす。

「お前、変なところで慎重だな」

「怖いんで」

「何が」

「知らないまま、知ってるつもりになるのが」

弥助は何も言わない。

足元で鼠が鳴く。

「チチッ」

甚兵衛には。

『かえる?』

そう聞こえる。

「帰る」

弥助。

「鼠か?」

「はい」

鼠。

『こっち』

一匹が違う細道へ向く。

甚兵衛。

「待て」

鼠が振り返る。

「昨日と違う道?」

『ちがう』

「店に帰れる?」

『かえれる』

甚兵衛は弥助を見る。

弥助も、鼠が向いた方向を見る。

「そっちにも道があるのか?」

「こいつは帰れるって言ってます」

「行くか?」

甚兵衛は少し考える。

荷を見る。

空を見る。

来た道を見る。

「今日は行きません」

鼠。

『なんで』

「今の道もまだ最後まで確認してない」

木札を叩く。

「知らない道を増やしすぎると、分からなくなる」

鼠。

『でも、かえれる』

「お前はな」

『うん』

「俺が覚えたいの」

鼠。

『たいへん』

「人間だからな」

弥助。

「今度は何だ?」

甚兵衛。

「人間は大変だって」

弥助。

「半分だろ、お前」

甚兵衛。

「そこは今関係ないです」

来た道を戻る。

井戸。

桶。

狭い場所。

大通り。

店。

帰ると藤吉が顔を上げる。

「どうだった」

甚兵衛。

「昨日より分かりませんでした」

藤吉。

「……昨日より?」

「はい」

甚兵衛は木札を出す。

昨日の札。

その横に今日の札。

道。

朝。

桶あり。

小荷、丸。

大荷、難。

井戸。

人あり。

毎日通っていいか、未詳。

先。

まだ未詳。

藤吉が読む。

作兵衛も見る。

弥助。

「通れる道は増えたけどな」

甚兵衛。

「分からないことも増えました」

作兵衛。

「それでいい」

「いいんです?」

「分からんことが分かったんだろ」

作兵衛は荷を持ち上げる。

「昨日より進んでる」

甚兵衛は木札を見る。

未詳。

未詳。

未詳。

多い。

でも。

昨日までは。

それが未詳だということすら知らなかった。

甚兵衛。

「……なるほど」

鼠。

『わかった?』

「チチッ」

甚兵衛。

「ちょっと」

鼠。

『たぶん?』

「たぶん」

二匹。

『たぶん』

「チチッ」

「チッ」

甚兵衛。

「お前ら、ほんとにそれ気に入ったな」

店の奥から弥助が顔を出す。

「今度は何て言ってる?」

「『たぶん』って」

弥助。

「鼠にまで口癖を真似されてるのか」

甚兵衛。

「俺のせいじゃないです」

「お前以外の誰のせいだよ」

物置へ戻る。

木札を置く。

知らないことは、まだ多い。

けれど。

分からないことを。

分からないと気づけるだけ。

昨日よりはましだ。

甚兵衛は筆を取る。

木札に。

一つ書く。

未詳。

その隣。

明日の欄を空ける。

戸の外。

鼠が鳴く。

「チチッ」

甚兵衛には。

『あした』

と聞こえた。

木札を見る。

「明日、また確かめる」

返事はない。

物置の隅。

藁の中。

三匹目の鼠が。

もぞりと寝返りを打った。

 

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