朝。
まだ暗い。
甚兵衛は目を開ける。
「……」
胸の上に一匹。
腹の横に一匹。
足元に一匹。
「重い」
胸の鼠。
『おきた』
「起きた」
腹の鼠。
『あさ』
「まだ早い」
足元の鼠。
『でも、おきた』
「お前らが乗ってるからな」
三匹。
『うん』
「認めるな」
甚兵衛が身体を起こすと、鼠たちがころころ落ちる。
『おちた』
「落とした」
『ちがう?』
「だいたい同じだ」
顔を洗う。
井戸水が指先を刺すように冷たい。
吐く息が白い。
物置へ戻り、昨夜伏せた木札を見る。
甚兵衛。
「……」
ひっくり返す。
道。
今日。
手ぶら。
途中まで、丸。
荷。
未詳。
匂い。
未詳。
最初の鼠が横から覗く。
『きのう』
「そう」
『きょうも?』
甚兵衛は少し考える。
「今日は荷を持つ」
三匹。
『にもつ』
「軽いやつ」
木札を持ち上げる。
「手ぶらで通れるのと、荷物を持って通れるのは別だからな」
鼠。
『みち、おなじ』
「道はな」
帯を締める。
「人間は違う」
戸を開ける。
朝の光が、細道の屋根の隙間から細い筋になって差し込んでいる。
濡れた土。
昨夜の灰。
どこかで炊き始めた飯の匂い。
店へ行く。
戸を開ける。
まだ藤吉も弥助も作兵衛もいない。
甚兵衛は箒を取る。
入口。
土間。
奥。
昨日動かした物の位置を確かめる。
少しずれている。
直す。
そこへ。
「早いな」
弥助が入ってくる。
甚兵衛。
「おはようございます」
「おう。今日は俺が一番だと思ったんだけどな」
「鼠に起こされました」
「便利なのか不便なのか分からんな」
足元の鼠が鳴く。
「チチッ」
甚兵衛には。
『べんり』
そう聞こえる。
「自分で便利って言うな」
弥助。
「ん?」
甚兵衛。
「こいつ、自分は便利だって」
弥助は鼠を見る。
「今ので?」
「はい」
「ただ鳴いただけにしか聞こえんぞ」
「俺には分かるんです」
鼠。
『べんり』
「チッ」
甚兵衛。
「二回言わなくていい」
弥助が笑う。
「便利なんだか面倒なんだか、本当に分からんな」
少しして。
作兵衛。
その後に藤吉。
店が動き始める。
荷を出す。
数える。
置く。
包む。
甚兵衛は手を動かしながら藤吉を見る。
「藤吉さん」
「ん?」
「今日、外に持っていく小さい荷あります?」
「なんでだ」
「昨日見た道を、荷を持って通れるか見たいんです」
作兵衛が横から言う。
「それなら、これくらいだな」
小さな包みをひとつ持ち上げる。
軽い。
片手でも持てる。
甚兵衛が受け取る。
「中は?」
「紙」
「濡らしたら?」
「困る」
「落としたら?」
「困る」
「ぶつけたら?」
「まあ困る」
甚兵衛。
「じゃあ練習にはちょうどいいですね」
弥助。
「困る物で練習するなよ」
「本物じゃないと分からないこともあります」
「落とすなよ」
「落としません」
足元。
鼠。
『たぶん』
小さく。
「チチッ」
甚兵衛。
「お前は黙れ」
作兵衛。
「?」
甚兵衛。
「鼠です」
「鼠に何言われた」
「落とすかもしれないって」
弥助。
「縁起でもねえな」
甚兵衛。
「だから黙れって言ったんです」
鼠。
『いってない』
甚兵衛。
「似たようなもんだ」
藤吉。
「……一人で鼠と喧嘩するなよ」
「してません」
朝の忙しさが少し落ち着く。
作兵衛が言う。
「行くなら今だ」
「はい」
弥助が腰紐を締め直す。
「俺も行く」
甚兵衛。
「昨日も一緒でしたけど」
「だからだ。昨日と違うなら分かるだろ」
「……なるほど」
二人で店を出る。
鼠は最初の鼠と、もう一匹。
今日は二匹だけだ。
甚兵衛が足元を見る。
「三匹目は?」
最初の鼠。
『ねてる』
「……自由だな」
弥助。
「何だって?」
「三匹目は寝てるそうです」
弥助。
「鼠なんてそんなもんだろ」
歩く。
昨日の道。
大通りまでは同じ。
朝の光が屋根の端をなぞり、店先の水たまりを白く光らせている。
人が増えている。
荷車。
行商。
桶。
子供。
犬。
焼いた魚の匂い。
味噌汁の湯気。
呼び声。
車輪の軋む音。
甚兵衛。
「昨日より多い」
弥助。
「時間が違う」
「はい」
昨日通った角を曲がる。
細道。
甚兵衛は包みを左手に持つ。
数歩。
右手へ持ち替える。
弥助。
「何してる」
「持ち替えた時に通りにくくならないか見てます」
「そんな変わるか?」
「狭いと変わります」
少し先。
壁。
反対側には桶が積まれている。
昨日より道が狭い。
桶の縁から水が一滴落ち、土に黒い跡を作っている。
甚兵衛が止まる。
弥助も止まる。
「昨日、あったか?」
「なかったです」
桶の横。
人一人なら通れる。
荷が小さければ。
通れる。
甚兵衛。
「通れますね」
「だな」
甚兵衛は進まず、木札を出す。
朝。
桶。
小荷、丸。
大荷、難。
弥助。
「道ってのは、道だけ見りゃいいわけじゃねえんだな」
甚兵衛。
「たぶん」
鼠。
『たぶん』
「チッ」
甚兵衛。
「真似するな」
弥助。
「今度は何だ」
「俺の『たぶん』を真似しました」
弥助は鼠を見る。
「本当にそんな細かいことまで分かるのか」
「分かります」
鼠。
『たぶん』
「もういい」
進む。
昨日引き返したところまで来る。
鼠が止まる。
最初の鼠。
『ここ』
甚兵衛。
「昨日はここまで」
鼠。
『うん』
その先にも細道は続いている。
右。
左。
また右。
屋根が近い。
軒先から落ちる水が道の端を濡らしている。
洗い物の水。
魚の匂い。
炭。
人。
戸の向こうで誰かが笑う。
別の家では包丁の音が続いている。
昨日より匂いが多い。
甚兵衛。
「分かる?」
最初の鼠。
『いっぱい』
「帰り道」
『わかる』
もう一匹。
『わかる』
甚兵衛。
「別々でも?」
二匹の間に少し間が空く。
最初の鼠。
『わかる』
もう一匹。
『……たぶん』
甚兵衛。
「お前は正直でよろしい」
弥助。
「さっきから何を聞いてる」
「帰れるかです」
「鼠に?」
「はい」
「答えてるのか」
「答えてます」
弥助は鼠を見る。
二匹は鼻を動かしているだけに見える。
「俺には全然分からんな」
甚兵衛。
「普通はそうです」
「どっちも帰れるって?」
甚兵衛は二匹を見る。
「片方は自信あり。もう片方は、たぶん」
弥助。
「鼠にも自信の差があるのか」
「あるみたいです」
さらに進む。
少し広い場所に出た。
井戸。
朝の光が縁に差し、濡れた石だけが明るく浮いている。
人が三人。
桶を並べて話している。
縄の音。
桶の底が石に当たる音。
女がこちらを見る。
甚兵衛と弥助。
荷。
見慣れない顔。
ほんの一瞬。
視線が止まる。
甚兵衛。
「……」
弥助。
「どうした」
歩きながら。
甚兵衛は小声で言う。
「昨日は誰もいませんでした」
「今日はいるな」
「ここ、近道にしていいんですかね」
弥助が少し考える。
「道だぞ」
「道ですけど」
甚兵衛は後ろを見る。
井戸。
家。
洗った布。
軒先の桶。
生活している場所だ。
「毎日荷物を持った知らない奴が通ったら、嫌じゃないです?」
弥助。
「……まあ」
「店の近道として使うなら、そのへんも聞かないと」
「誰に?」
「住んでる人」
「今?」
「今日はやめます」
「なんでだ」
甚兵衛は荷を持ち直す。
「俺、まだ店のことをちゃんと説明できないから」
弥助。
「……」
「誰の店で、何を運んで、なんでここを通るのか聞かれた時、弥助さんに全部答えてもらうことになる」
弥助。
「俺がいるんだからいいだろ」
「今日は」
甚兵衛は弥助を見る。
「でも、一人だったら?」
弥助。
「……」
「先に覚えます」
弥助は鼻を鳴らす。
「お前、変なところで慎重だな」
「怖いんで」
「何が」
「知らないまま、知ってるつもりになるのが」
弥助は何も言わない。
足元で鼠が鳴く。
「チチッ」
甚兵衛には。
『かえる?』
そう聞こえる。
「帰る」
弥助。
「鼠か?」
「はい」
鼠。
『こっち』
一匹が違う細道へ向く。
甚兵衛。
「待て」
鼠が振り返る。
「昨日と違う道?」
『ちがう』
「店に帰れる?」
『かえれる』
甚兵衛は弥助を見る。
弥助も、鼠が向いた方向を見る。
「そっちにも道があるのか?」
「こいつは帰れるって言ってます」
「行くか?」
甚兵衛は少し考える。
荷を見る。
空を見る。
来た道を見る。
「今日は行きません」
鼠。
『なんで』
「今の道もまだ最後まで確認してない」
木札を叩く。
「知らない道を増やしすぎると、分からなくなる」
鼠。
『でも、かえれる』
「お前はな」
『うん』
「俺が覚えたいの」
鼠。
『たいへん』
「人間だからな」
弥助。
「今度は何だ?」
甚兵衛。
「人間は大変だって」
弥助。
「半分だろ、お前」
甚兵衛。
「そこは今関係ないです」
来た道を戻る。
井戸。
桶。
狭い場所。
大通り。
店。
帰ると藤吉が顔を上げる。
「どうだった」
甚兵衛。
「昨日より分かりませんでした」
藤吉。
「……昨日より?」
「はい」
甚兵衛は木札を出す。
昨日の札。
その横に今日の札。
道。
朝。
桶あり。
小荷、丸。
大荷、難。
井戸。
人あり。
毎日通っていいか、未詳。
先。
まだ未詳。
藤吉が読む。
作兵衛も見る。
弥助。
「通れる道は増えたけどな」
甚兵衛。
「分からないことも増えました」
作兵衛。
「それでいい」
「いいんです?」
「分からんことが分かったんだろ」
作兵衛は荷を持ち上げる。
「昨日より進んでる」
甚兵衛は木札を見る。
未詳。
未詳。
未詳。
多い。
でも。
昨日までは。
それが未詳だということすら知らなかった。
甚兵衛。
「……なるほど」
鼠。
『わかった?』
「チチッ」
甚兵衛。
「ちょっと」
鼠。
『たぶん?』
「たぶん」
二匹。
『たぶん』
「チチッ」
「チッ」
甚兵衛。
「お前ら、ほんとにそれ気に入ったな」
店の奥から弥助が顔を出す。
「今度は何て言ってる?」
「『たぶん』って」
弥助。
「鼠にまで口癖を真似されてるのか」
甚兵衛。
「俺のせいじゃないです」
「お前以外の誰のせいだよ」
物置へ戻る。
木札を置く。
知らないことは、まだ多い。
けれど。
分からないことを。
分からないと気づけるだけ。
昨日よりはましだ。
甚兵衛は筆を取る。
木札に。
一つ書く。
未詳。
その隣。
明日の欄を空ける。
戸の外。
鼠が鳴く。
「チチッ」
甚兵衛には。
『あした』
と聞こえた。
木札を見る。
「明日、また確かめる」
返事はない。
物置の隅。
藁の中。
三匹目の鼠が。
もぞりと寝返りを打った。