『鼠は最後に帰ってくる』   作:隼人2

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第29話

朝。

まだ暗い。

甚兵衛は目を開ける。

「……」

最初に感じたのは。

重さだった。

胸の上。

一匹。

腹の横。

一匹。

足元。

一匹。

「重い」

胸の鼠が顔を上げる。

『おきた』

「起きたよ」

腹の横。

『あさ』

「まだ早い」

足元。

『でも、おきた』

「お前らが乗ってるからな」

三匹。

『うん』

「認めるな」

身体を起こす。

胸の一匹が布団の上を転がる。

腹の一匹もつられて落ちる。

足元の一匹は逃げ遅れて、ころんと横向きになる。

三匹。

『おちた』

甚兵衛。

「落とした」

一匹。

『ちがう?』

「だいたい同じだ」

『おとした』

「そこ覚えなくていい」

三匹は気にした様子もなく、布団の上を走り回る。

甚兵衛は欠伸を噛み殺す。

昨夜。

帰ってからも。

道のことを少し考えていた。

三匹なら早い。

一匹に全部任せるより。

二匹。

三匹。

同じことができる方がいい。

けれど。

鼠が道を知っている。

それと。

自分が道を知っている。

同じではない。

布団を畳む。

立ち上がる。

戸を開ける。

冷気が入る。

「寒っ」

三匹は平気そうに外へ出る。

「お前ら毛があるからな……」

『け』

『ある』

『いっぱい』

「知ってる」

井戸へ行く。

桶を落とす。

縄が軋む。

底で。

ぽちゃん。

音。

引き上げる。

水面が薄い朝の光を揺らしている。

手を入れる。

「っ」

冷たい。

顔を洗う。

指先が痛い。

眠気が消える。

吐く息が白くなる。

遠く。

どこかで戸が開いた。

箒の音。

鶏。

子供の泣き声。

薪を割る音。

町が少しずつ起き始めている。

甚兵衛は顔を拭く。

物置へ戻る。

昨夜。

伏せておいた木札。

手に取る。

ひっくり返す。

道。

昨日。

手ぶら。

途中まで、丸。

荷。

未詳。

匂い。

未詳。

甚兵衛。

「……」

最初の鼠が足元から登ってくる。

膝。

腰。

肩。

木札を覗く。

『きのう』

「そう」

鼠。

『きょうも?』

甚兵衛は札を見る。

道。

歩ける。

それだけなら。

昨日ある程度は分かった。

しかし。

店の仕事で使うなら。

それだけでは足りない。

甚兵衛。

「今日は荷を持つ」

鼠。

『にもつ』

別の鼠も寄ってくる。

『おおきい?』

「小さいの」

『おもい?』

「軽いやつ」

鼠。

『じゃあ、おなじ』

「違う」

三匹が首を傾げる。

甚兵衛は帯を締める。

「手ぶらなら身体を横にできるだろ」

『うん』

「両手が空いてる」

『うん』

「転びそうなら壁にも手つける」

『うん』

「荷物持ってたら?」

三匹。

沈黙。

甚兵衛。

「そういうこと」

最初の鼠。

『みち、おなじ』

「道はな」

帯を締め終える。

「通る方が変わる」

鼠は分かったのか分からないのか。

『ふうん』

「その返事、人間みたいだな」

外へ。

細道。

まだ太陽は屋根の向こう。

空だけが白い。

濡れた土。

昨夜の灰。

薪の煙。

飯を炊く匂い。

魚を焼く匂い。

昨日まで。

ただ町の匂いだと思っていたものが。

今は少しずつ分かれる。

甚兵衛。

「……」

鼻を動かす。

三匹も同じように鼻を動かす。

『さかな』

『こめ』

『ねこ』

甚兵衛。

「猫いるのか?」

『いる』

「どこ」

二匹が同時に違う方を向く。

甚兵衛。

「……どっちだよ」

『いる』

「そうじゃない」

店へ行く。

戸を開ける。

まだ。

誰もいない。

甚兵衛は少しだけ止まる。

昨日より早い。

箒を取る。

入口。

土間。

隅。

奥。

掃く。

埃。

藁。

糸くず。

小さな紙片。

昨日動かした物。

見る。

「……」

少し位置が違う。

昨夜。

誰かが戻したのか。

あるいは。

自分が覚え間違えたか。

甚兵衛は元の場所だと思う位置へ戻しかける。

止まる。

「……いや」

勝手に動かすのも違う。

そのまま。

覚えておく。

店の入口から声。

「早いな」

弥助。

甚兵衛。

「おはようございます」

「おう」

弥助は肩を回す。

欠伸。

「今日は俺が一番だと思ったんだけどな」

甚兵衛。

「鼠に起こされました」

弥助。

「便利なんだか不便なんだか」

足元。

一匹が。

「チチッ」

甚兵衛には。

『べんり』

と聞こえる。

甚兵衛。

「自分で言うな」

弥助。

「ん?」

甚兵衛。

「こいつ、自分は便利だって」

弥助は鼠を見る。

鼠も見る。

「今ので?」

「はい」

「俺にはただ鳴いたようにしか聞こえん」

「普通はそうです」

鼠。

『べんり』

「チッ」

甚兵衛。

「二回言わなくていい」

弥助が笑う。

「ほんとか?」

「ほんとです」

「鼠が嘘ついてる可能性は?」

甚兵衛。

「あります」

足元。

『ない』

甚兵衛。

「あるだろ」

弥助。

「今度は?」

「ないって言ってます」

「喧嘩するなよ」

「してません」

弥助。

「どう見ても喧嘩だろ」

少しして。

作兵衛。

続いて。

藤吉。

店が本格的に動き出す。

戸を開ける。

荷を出す。

紙を広げる。

縄を用意する。

数える。

運ぶ。

置く。

包む。

甚兵衛は昨日より少しだけ早く動ける。

どこに何があるか。

全部ではない。

でも。

昨日よりは分かる。

作兵衛。

「甚兵衛」

「はい」

「それ三つ、こっち」

「はい」

運ぶ。

一つ。

二つ。

三つ。

藤吉。

「そっちはまだ包むな」

甚兵衛。

「はい」

手を止める。

昨日なら。

なぜ。

と考えていた。

今日は見る。

藤吉が中身を確認している。

数。

紙。

汚れ。

確認してから包む。

甚兵衛。

「……」

覚える。

少し後。

甚兵衛。

「藤吉さん」

「ん?」

「今日、外に持っていく小さい荷あります?」

藤吉。

「小さいの?」

「はい」

「何に使う」

甚兵衛。

「昨日見た道を、荷を持って通れるか見たいんです」

藤吉。

「道?」

「手ぶらでは通れました。でも仕事で通れないなら意味ないので」

作兵衛が横から聞いている。

「それなら」

荷の中から小さな包みを一つ持ち上げる。

「これくらいだな」

甚兵衛が受け取る。

手のひらより大きい。

片手で持てる。

重くはない。

「中は?」

作兵衛。

「紙」

甚兵衛。

「濡らしたら?」

「困る」

「落としたら?」

「困る」

「ぶつけたら?」

作兵衛。

「まあ困る」

甚兵衛。

「じゃあちょうどいいですね」

弥助。

「何がちょうどいいんだよ」

甚兵衛。

「荷としてです」

「困るもんで練習するな」

「でも」

包みを見る。

「本物じゃないと、どこまで気をつけるか分からないです」

弥助。

「落とすなよ」

甚兵衛。

「落としません」

鼠。

『たぶん』

「チチッ」

甚兵衛。

「お前は黙れ」

作兵衛。

「どうした」

甚兵衛。

「こいつが」

鼠を見る。

「たぶんって」

弥助。

「お前、鼠にまで信用されてないぞ」

鼠。

『ちがう』

甚兵衛。

「違うって」

「何が違うんだよ」

甚兵衛。

「俺にも分かりません」

藤吉。

「分からんのか」

「言葉は分かりますけど、何を考えてるかまでは」

弥助。

「そりゃそうか」

甚兵衛。

「人間と同じです」

作兵衛。

「鼠と人間を一緒にするな」

足元。

三匹。

『おなじ?』

甚兵衛。

「今は黙ってろ」

店の仕事。

しばらく。

朝一番の人の流れが落ち着く。

作兵衛が外を見る。

「行くなら今だ」

甚兵衛。

「はい」

包みを抱える。

弥助も腰紐を締め直す。

「俺も行く」

甚兵衛。

「昨日も一緒でしたけど」

弥助。

「だからだ」

「?」

「昨日と違うなら、昨日見た奴がいた方が分かるだろ」

甚兵衛。

「……なるほど」

昨日と今日を比べる。

一人より。

二人。

甚兵衛。

「お願いします」

二人で外へ。

鼠。

最初の鼠。

もう一匹。

二匹だけ。

甚兵衛は足元を見る。

「三匹目は?」

鼠。

『ねてる』

甚兵衛。

「……自由だな」

弥助。

「何だって」

「三匹目は寝てるそうです」

弥助。

「鼠なんてそんなもんだろ」

甚兵衛。

「昨日は起こしに来たのに」

鼠。

『つかれた』

甚兵衛。

「何に疲れたんだ」

鼠。

『いっぱい、あるいた』

甚兵衛。

「俺も歩いたよ」

弥助。

「何の話してる」

「昨日いっぱい歩いたから疲れたそうです」

「お前も寝ればよかったじゃねえか」

「仕事です」

「真面目だな」

歩く。

昨日の道。

まず。

大通り。

昨日とは違う。

人が多い。

荷車。

行商。

桶。

天秤棒。

子供。

犬。

声。

足音。

車輪。

甚兵衛。

「昨日より多い」

弥助。

「時間が違うからな」

「はい」

昨日通った角。

曲がる。

細道。

包みは左手。

数歩。

右へ持ち替える。

また左。

弥助。

「何してる」

甚兵衛。

「持ち替えた時に通りにくくならないか見てます」

弥助。

「そんな変わるか?」

「狭いと」

包みを身体の前に持つ。

「これでも幅が増えます」

次に。

脇へ寄せる。

「こうすると右側に寄れない」

弥助。

「……」

甚兵衛。

「両手で持つくらい大きかったら、もっと変わると思います」

弥助。

「そこまで考えるのか」

甚兵衛。

「落としたら怒られるので」

弥助。

「そこかよ」

甚兵衛。

「大事です」

先。

止まる。

昨日は。

なかった。

壁の反対側。

桶。

いくつも積んである。

洗い物に使ったのか。

縁から水。

ぽたり。

土に落ちる。

一滴。

二滴。

道が。

昨日より狭い。

甚兵衛。

「……」

弥助も見る。

「昨日、あったか?」

「なかったです」

人だけなら。

通れる。

包みも。

この大きさなら。

少し身体を斜めにすれば。

通れる。

甚兵衛。

「小さい荷なら通れます」

弥助。

「だな」

甚兵衛はすぐには進まない。

木札。

出す。

書く。

朝。

桶あり。

小荷。

丸。

大荷。

難。

弥助が覗く。

「大きいのは駄目か」

甚兵衛。

「たぶん」

壁。

桶。

見る。

「あと、二人ですれ違うのも難しいです」

その時。

向こうから男が一人来る。

甚兵衛。

「……」

横へ寄る。

荷を胸に抱える。

男が通る。

肩が。

ぎりぎり。

弥助。

「本当だな」

甚兵衛。

「昨日、誰も来なかったから気づきませんでした」

木札。

追記。

すれ違い。

難。

弥助。

「道ってのは、道だけ見りゃいいわけじゃねえんだな」

甚兵衛。

「たぶん」

鼠。

『たぶん』

「チッ」

甚兵衛。

「真似するな」

弥助。

「今度は?」

甚兵衛。

「俺の『たぶん』を真似しました」

弥助は鼠を見る。

「本当にそんな細かいことまで分かるんだな」

甚兵衛。

「分かります」

鼠。

『たぶん』

「もういい」

進む。

昨日。

引き返した場所。

最初の鼠が止まる。

『ここ』

甚兵衛。

「昨日はここまで」

鼠。

『うん』

その先。

細道。

続く。

右。

左。

また右。

屋根が近い。

家と家。

その隙間に道。

軒先から落ちる水。

洗った布。

炭。

煮物。

魚。

人。

昨日より。

ずっと匂いが多い。

甚兵衛。

「分かる?」

最初の鼠。

『いっぱい』

甚兵衛。

「何が」

『におい』

「それは分かる」

鼠。

『さかな』

『ひと』

『いぬ』

『ねこ』

甚兵衛。

「帰り道」

最初の鼠。

『わかる』

もう一匹。

『わかる』

甚兵衛。

「別々でも?」

最初の鼠。

すぐ。

『わかる』

もう一匹。

少し間。

『……たぶん』

甚兵衛。

「お前は正直でよろしい」

弥助。

「何を聞いてる」

甚兵衛。

「帰れるかです」

弥助。

「鼠に?」

「はい」

「答えてるのか」

「答えてます」

弥助は鼠を見る。

二匹は。

鼻をひくひくさせている。

時々。

「チチッ」

と鳴く。

それだけ。

弥助。

「……俺には全然分からん」

甚兵衛。

「普通はそうです」

「どっちも帰れるのか?」

甚兵衛。

「こっちは自信あり」

最初の鼠。

「こっちは」

もう一匹。

「たぶん」

弥助。

「鼠にも自信ある奴とない奴がいるのか」

甚兵衛。

「あるみたいです」

鼠。

『ある』

甚兵衛。

「あるって」

弥助。

「それまで分かるの、ちょっと怖いな」

甚兵衛。

「便利ですよ」

弥助。

「さっき鼠が言ってたやつじゃねえか」

さらに進む。

少し。

道が開ける。

井戸。

濡れた石。

朝の光。

縄。

桶。

人が三人。

女。

老人。

若い男。

話している。

桶が石に当たる。

からん。

水。

ざあ。

女がこちらを見る。

甚兵衛。

弥助。

荷。

見慣れない顔。

視線が。

少し止まる。

甚兵衛。

「……」

歩く速度を落とす。

弥助。

「どうした」

小声。

甚兵衛。

「昨日、ここに誰もいませんでした」

弥助。

「今日はいるな」

甚兵衛。

「ここ」

もう一度見る。

井戸。

家。

洗濯物。

桶。

戸口。

「近道にしていいんですかね」

弥助。

「道だぞ」

「道ですけど」

甚兵衛は後ろを見る。

誰かの生活の真ん中を。

横切っている。

「毎日」

「店の荷物持った知らない奴が」

「朝から何度も通ったら」

弥助。

「……」

「嫌じゃないです?」

弥助は少し考える。

「まあ」

甚兵衛。

「ですよね」

「でも道だぞ」

「道です」

甚兵衛。

「だから通れないとは言わないですけど」

井戸を見る。

「あそこ使う人の邪魔になる時間とか」

「荷車が通る時間とか」

「水を撒く時間とか」

「あるかもしれない」

弥助。

「そこまで調べるのか」

甚兵衛。

「店の近道として使うなら」

一拍。

「一回通れた、だけじゃ駄目だと思います」

弥助。

「誰に聞く」

甚兵衛。

「住んでる人」

「今聞けばいいだろ」

甚兵衛。

「今日はやめます」

「なんでだ」

甚兵衛は包みを持ち直す。

「俺」

「まだ店のこと、ちゃんと説明できないから」

弥助。

「……」

甚兵衛。

「どこの店だって聞かれたら」

「名前は言えます」

「何を扱ってる」

「何をどこまで運ぶ」

「なんでこの道を使う」

「何時頃通る」

「そういうの」

少し間。

「全部聞かれたら」

弥助を見る。

「弥助さんに答えてもらうことになる」

弥助。

「俺がいるんだからいいだろ」

甚兵衛。

「今日は」

弥助。

「……」

甚兵衛。

「でも」

「一人だったら?」

弥助は黙る。

甚兵衛。

「先に覚えます」

弥助。

鼻を鳴らす。

「変なところで慎重だな」

甚兵衛。

「怖いんで」

「何が」

甚兵衛。

「知らないまま」

少し考える。

「知ってるつもりになるのが」

弥助。

「……」

甚兵衛。

「昨日」

「鼠に道聞いて」

「今日ここまで来て」

「俺」

「もうこの道知ってる気になりかけてました」

井戸。

桶。

人。

見る。

「全然知らなかった」

弥助は何も言わない。

足元。

鼠。

「チチッ」

甚兵衛には。

『かえる?』

甚兵衛。

「帰る」

弥助。

「鼠か」

「はい」

最初の鼠。

『こっち』

道の横。

さらに細い道へ向く。

甚兵衛。

「待て」

鼠が止まる。

「昨日と違う道?」

『ちがう』

「店に帰れる?」

『かえれる』

「近い?」

鼠。

考える。

『……』

甚兵衛。

「分からない?」

『わからない』

甚兵衛。

「そうか」

弥助。

「何だって」

甚兵衛。

「別の道でも帰れるそうです」

「近いのか?」

「それは分からないって」

弥助。

「鼠も何でも知ってるわけじゃないんだな」

甚兵衛。

「はい」

少しだけ。

安心する。

何でも分かるわけではない。

鼠は鼠。

自分は自分。

弥助。

「行くか?」

甚兵衛は道を見る。

新しい道。

鼠。

荷。

木札。

今来た道。

「……今日は行きません」

鼠。

『なんで』

甚兵衛。

「今の道もまだ最後まで確認してない」

木札を叩く。

「知らない道を増やしすぎると、分からなくなる」

鼠。

『でも、かえれる』

甚兵衛。

「お前はな」

鼠。

『うん』

「俺が覚えたいんだよ」

鼠。

『たいへん』

甚兵衛。

「人間だからな」

弥助。

「何だって」

甚兵衛。

「人間は大変だって」

弥助。

「半分だろ、お前」

甚兵衛。

「そこは今関係ないです」

戻る。

同じ道。

でも。

行きとは違う。

人が増えている。

さっきなかった籠。

さっき閉まっていた戸。

開いている。

子供。

犬。

桶。

甚兵衛。

「……」

弥助。

「どうした」

「帰りも違う」

「道同じだぞ」

甚兵衛。

「はい」

少し笑う。

「でも、道の中身は違います」

弥助。

「変な言い方だな」

甚兵衛。

「俺もそう思います」

狭い場所。

桶。

さっきより一つ増えている。

甚兵衛。

「……」

木札。

追記。

昼前。

さらに狭い。

弥助。

「細けえな」

甚兵衛。

「忘れるんで」

「そんなに忘れるか?」

甚兵衛。

「忘れます」

即答。

弥助。

「そこは自信あるのか」

「あります」

大通り。

店。

戻る。

藤吉が荷から顔を上げる。

「どうだった」

甚兵衛。

「昨日より分かりませんでした」

藤吉。

「……昨日より?」

「はい」

木札を出す。

昨日。

今日。

並べる。

道。

朝。

桶あり。

小荷。

丸。

大荷。

難。

すれ違い。

難。

井戸。

人あり。

毎日通ってよいか。

未詳。

時間による違い。

未詳。

先。

未詳。

別路。

あり。

距離。

未詳。

藤吉が読む。

作兵衛も覗く。

弥助。

「道自体は昨日より先まで分かったんだけどな」

甚兵衛。

「分からないことも増えました」

作兵衛。

「それでいい」

甚兵衛。

「いいんです?」

作兵衛。

「分からんことが分かったんだろ」

「……」

作兵衛は荷を持ち上げる。

「昨日より進んでる」

甚兵衛は木札を見る。

未詳。

未詳。

未詳。

多い。

昨日なら。

知らなかった。

知らないことすら。

知らなかった。

甚兵衛。

「……なるほど」

足元。

鼠。

『わかった?』

「チチッ」

甚兵衛。

「ちょっと」

鼠。

『たぶん?』

甚兵衛。

「たぶん」

二匹。

『たぶん』

「チチッ」

「チッ」

甚兵衛。

「お前ら、それ気に入ったな」

店の奥。

弥助。

「今度は何て言ってる?」

甚兵衛。

「『たぶん』って」

弥助。

「鼠にまで口癖を真似されてるじゃねえか」

甚兵衛。

「俺のせいじゃないです」

「お前以外の誰のせいだ」

藤吉。

「それより働け」

二人。

「はい」

仕事に戻る。

夕方。

店を閉める。

物置。

甚兵衛は今日使った木札を並べる。

昨日。

今日。

鼠が横から見る。

『いっぱい』

「増えたな」

『しらない』

「そう」

筆を取る。

一つ。

書く。

知らない。

その横。

分からない。

筆を止める。

「……」

少し考える。

消す。

もう一度。

書く。

知らないこと。

未詳。

確かめたこと。

丸。

危ないこと。

注意。

一つずつ。

分ける。

昨日までは。

全部。

知らない。

だった。

でも。

今日。

少し違った。

分からないなら。

確かめればいい。

分からないと分かったなら。

次に何を見るか考えられる。

甚兵衛。

「……」

最初の鼠。

『あした』

「明日な」

『いく?』

「行く」

『あたらしいみち?』

甚兵衛。

「その前に」

今日の木札を見る。

井戸。

店。

人。

未詳。

「店のこと覚える」

鼠。

『みせ』

「俺が」

自分を指す。

「どこで働いてるか」

「何をしてるか」

「ちゃんと説明できるようにする」

鼠。

『しってる』

甚兵衛。

「お前はな」

『みせ、ここ』

「……」

鼠にとっては。

それで十分なのだろう。

甚兵衛は少し笑う。

「人間は面倒なんだよ」

鼠。

『たいへん』

「それ今日二回目」

物置の奥。

藁。

もぞり。

三匹目。

顔だけ出す。

『おきた』

甚兵衛。

「遅い」

『あさ?』

「夜だよ」

鼠。

『……』

少し考える。

また藁へ潜る。

甚兵衛。

「寝るのかよ」

返事。

ない。

藁だけが。

少し動く。

甚兵衛は木札を重ねる。

一番上。

明日。

空欄。

今日は。

知らなかったことが増えた。

けれど。

それは。

昨日より。

少しだけ。

前に進んだということなのかもしれない。

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