『鼠は最後に帰ってくる』   作:隼人2

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分からないなら、聞けばいい

庄助について、村の中を歩く。

朝の村は、少年が思っていたよりずっと騒がしかった。

戸板の開く音。桶がぶつかる乾いた音。鶏の鳴き声。どこかで吠える犬。家の中から子供を呼ぶ女の声。鍬を肩に担ぎ、畑へ向かう男たち。

昨日はただの「知らない場所」にしか見えなかったものが、朝の光の中では少し違って見える。

人が起きる。

飯を食う。

働きに出る。

昨日まで自分の知らなかった場所でも、そこで暮らしている者にとっては、これが毎日の朝なのだ。

少年は庄助の背中を追いながら尋ねた。

「どこ行くの?」

「仕事場だ」

「それは聞いた。何するの?」

「着いたら説明する」

少年は口を尖らせた。

「先に聞いた方が準備できるじゃん」

庄助が振り返る。

「お前に準備する物があるのか」

「……ない」

「なら歩け」

「はい」

悔しいが正しい。

こういう時に言い返しても仕方がない。

連れていかれたのは、村の者が共同で使っているらしい物置だった。

戸を開けると、土と藁と乾いた木の匂いがする。

壁際には農具。束ねられた縄。大小の籠。俵。桶。木箱。

見覚えのある物もある。

見たことはあるが名前を知らない物もある。

まったく用途の分からない物もあった。

少年がきょろきょろしていると、庄助が大きめの籠を顎で示す。

「今日はまず、これを運べ」

「どこに?」

「向こうの家」

「中身は?」

「芋だ」

少年は籠の両側へ手をかける。

持ち上げた。

「重っ!」

腕が一気に引っ張られる。

前の身体なら、たぶん無理だった。

今の身体がどれくらい強いのかは、まだ自分でも分からない。

庄助。

「無理か?」

少年は籠を抱え直した。

「持てないとは言ってない」

「なら落とすなよ」

「それ先に言う?」

「普通は分かる」

少年は籠を見る。

それから庄助を見る。

「その“普通”が、俺には怪しいんだよなあ……」

「何か言ったか?」

「何でもない!」

最初の一往復は、とにかく慎重だった。

足元を見る。

籠を見る。

道の窪みを避ける。

二往復目。

少し慣れる。

どの辺を持てば揺れにくいかも分かってきた。

そして三往復目。

慣れた頃に、余計なことを考える。

――持ち方を変えたら、もう少し楽なんじゃないか?

前の人生の記憶が頭を出す。

重心。

身体への負担。

効率。

知識ならある。

実際にこの籠を持った経験はない。

それなのに、頭の中では何となく出来そうな気がした。

少年は籠を少し持ち替えた。

「よし」

歩く。

一歩。

二歩。

三歩。

四歩。

五歩。

ぐらっ。

「あ」

籠が傾いた。

次の瞬間。

ごろごろごろ。

芋が道へ転がる。

少年。

「……」

少し離れたところで見ていた庄助。

「……」

通りかかった男も止まる。

「何してんだ?」

少年は転がる芋を見ながら答えた。

「効率化に失敗した」

男が吹き出した。

庄助。

「拾え」

「はい」

少年はしゃがみ込む。

一つ。

二つ。

転がった芋を集めながら、ふと尋ねた。

「庄助」

「何だ」

「最初の持ち方、理由あった?」

「ある」

少年の手が止まる。

「先に言ってよ」

庄助は呆れた顔をする。

「お前、分かった顔して持っていっただろ」

「……」

言った。

確かに言った。

持てる、と。

少年は芋を拾いながら、小さく頷く。

「次から聞く」

「そうしろ」

通りすがりの男。

「素直だな」

少年。

「同じ失敗でもう一回芋拾いたくない」

「そっちか」

仕事は単純だった。

荷を運ぶ。

縄をまとめる。

散らかった物を元の位置へ戻す。

水を汲む。

言葉にすれば、それだけだ。

だが。

単純なのは、やり方を知っていればの話だった。

庄助。

「それ、たがね持ってこい」

少年。

「たがね?」

「そこにあるだろ」

「どれ?」

庄助が指を差す。

「あれだ」

少年は一つ手に取る。

「これ?」

「違う」

「じゃあ、こっち?」

「それは鎌だ!」

「似てない?」

「どこがだ!」

周りで仕事をしていた男たちが笑う。

少年はむっとする。

「笑うなら名前書いとけよ!」

一人の男が聞いた。

「字読めるのか?」

少年。

「……」

一瞬、止まる。

前の人生では読めた。

もちろん読めた。

漢字も平仮名も片仮名も。

でも。

この時代の文字を、自分はどこまで読める?

少年。

「たぶん」

男。

「たぶん?」

少年は少し考えて、言い直した。

「……確認してから言う」

庄助。

「妙なところで慎重だな」

「昨日から学習してんの」

昼。

庄助が握り飯を渡してくる。

少年は両手で受け取った。

「本当に飯出るんだ」

「言っただろ」

「口約束だったから」

庄助が眉を寄せる。

「信用してなかったのか」

「半分」

「半分は?」

少年は握り飯を見る。

「飯出たら信用増える」

庄助。

「ずいぶん安い信用だな」

少年は真顔で返す。

「腹減ってる時の飯って高いぞ」

近くで聞いていた男が笑った。

「こいつ、商人向きじゃないか?」

庄助。

「まだ籠一つまともに運べん」

少年。

「一回落としただけだろ!」

「一回で済ませろよ」

「そのつもり!」

握り飯を食べながら、少年は周囲の会話へ耳を傾ける。

誰がどこへ行く。

何を運ぶ。

どこへ置く。

いつまでに。

いくつ必要か。

知らない言葉が多い。

物の名前。

土地の名前。

長さ。

重さ。

量。

日本語なのに、自分の知っている日本語とは少しずつ違う。

少年は庄助を見る。

「なあ」

「何だ」

「さっき言ってた“ひとつ”って、どれくらい?」

庄助。

「何の話だ」

「あの荷」

「あれは――」

庄助が説明する。

少年は聞き終わってから尋ねた。

「……それ、どこでも同じ?」

「何が」

「量」

庄助は少し考えた。

「違うこともある」

少年。

「やっぱり」

「何がやっぱりだ」

少年は握り飯を見ながら呟く。

「数字だけ分かってても駄目なんだなって」

庄助。

「お前、時々変なこと言うな」

「俺もそう思う」

昼休みが終わる前。

少年は村外れの物置まで走った。

戸を開ける。

「ただいま」

三匹の鼠が、それぞれ違う場所から顔を出した。

『かえった』

『ごはん』

『おそい』

少年。

「まず“おかえり”くらい言えよ!」

鼠たちは気にしない。

残しておいた握り飯を少しずつちぎる。

『しごと?』

「した」

『つかれた?』

「疲れた」

『にげた?』

「逃げてない」

最初の鼠が少年を見る。

『こわくない?』

少年は少し考えた。

「仕事は怖くない」

「……失敗はちょっと怖い」

鼠。

『しっぱいした?』

「芋落とした」

三匹。

『いも』

少年。

「笑うなよ」

『わらってない』

「顔が笑ってる」

『ねずみ』

「そうだった」

午後。

仕事へ戻る。

朝より少しだけ動ける。

そして、朝よりずっと聞く。

庄助。

「それ、向こうへ」

少年。

「“向こう”のどこ?」

「壁際」

「どっちの壁?」

庄助。

「……右」

少年。

「最初からそれ言って!」

「お前、細かいな」

「間違えて怒られるよりいい」

庄助は少し黙る。

「……まあな」

少しずつ。

本当に少しずつ。

村の「普通」が、少年の中へ入っていく。

夕方。

仕事が終わる。

少年は自分の手のひらを見る。

赤い。

指も少し痛い。

腕も重い。

腹も減った。

昨日より疲れている。

それなのに。

少し気分がよかった。

庄助。

「明日も来るか?」

少年。

「飯出る?」

「出る」

「じゃあ来る」

「金は?」

少年の目が細くなる。

「まだ?」

庄助。

「今日は見習いだ」

「明日は?」

「働き次第」

少年。

「……覚えとく」

「何を」

「その言葉」

庄助。

「怖いな、お前」

少年。

「商売じゃ普通じゃない?」

「商売したことないだろ」

「ない」

「なら普通かどうか知らんだろ」

少年。

「……それもそうだな」

帰る途中。

庄助が道端にいた老人へ声をかけた。

「慧円さん」

少年も見る。

僧衣姿。

かなり年を取っている。

白髪。

細い身体。

だが歩き方は妙に軽い。

老人――慧円が少年を見る。

「その子か」

庄助。

「昨日来た子です」

少年。

「俺の話してたの?」

庄助。

「珍しいからな」

「それ、褒めてる?」

「さあな」

慧円が笑う。

「元気そうで何より」

少年。

「知ってる人?」

庄助。

「慧円さんだ。子供に字を教えてる」

少年の目が変わる。

「字?」

慧円。

「興味があるかね」

「ある」

即答だった。

「読める?」

慧円。

「何を?」

「この辺の字」

「この辺?」

少年。

「……字」

言い直す。

慧円は少し不思議そうにしながら、地面へ指で文字を書く。

山。

少年。

「山」

慧円。

「ほう」

次。

川。

少年。

「川」

次。

少し崩した字。

少年。

「……」

慧円。

「どうした」

「分かりそう」

「では読んでみなさい」

少年はじっと見る。

知っている。

気がする。

線のどこかに覚えがある。

でも。

「……分からない」

庄助。

「読めるんじゃなかったのか」

少年。

「読める字もある!」

慧円。

「なるほど」

もう一つ。

少年。

「それも……分かんない」

庄助。

「読めないじゃないか」

少年。

「全部とは言ってない!」

慧円が笑う。

「では、習うかね」

少年。

「金ない」

庄助。

「お前はまずそこか」

慧円。

「金は要らんよ」

少年は一歩下がる。

「なんで?」

慧円。

「子供へ字を教えるたび、いちいち銭を取ってはいない」

「本当に?」

「疑うのかね」

「ただより高いものはないっていうし」

庄助。

「誰に教わったんだ、そんな言葉」

少年。

「……分かんない」

前の人生のどこか。

家族。

本。

テレビ。

誰かの言葉。

全部が少しずつ混ざっている。

慧円。

「なら、掃除を手伝ってもらおう」

少年の顔が少し明るくなる。

「それなら分かる」

「明日来なさい」

「仕事ある」

庄助。

「朝の仕事が終わってから行けばいい」

少年。

「いいの?」

「全部一日中やるわけじゃない」

慧円。

「子供たちもいる」

少年。

「俺より小さい?」

「多いな」

少年。

「俺、年下に教わってもいい?」

慧円。

「嫌なのか?」

少年は少し考える。

「読めるなら先生だろ」

慧円の眉がわずかに上がる。

「年下でも?」

「知ってる奴が先生だ。歳なんか関係ねえよ」

口にした後。

少年自身が少し驚く。

だが、慧円は何も笑わなかった。

「なら明日、皆に混ざりなさい」

少年。

「うん」

物置へ戻る。

三匹が迎える。

『かえった』

少年。

「ただいま」

今日は少し自然に出た。

藁へ座る。

『しごと?』

「した」

『いも?』

少年が止まる。

「なんで芋落としたの知ってんの?」

最初の鼠。

『みた』

「いたの!?」

『いた』

「言えよ!」

『しっぱい』

「一回だけ!」

三匹が鳴く。

少年には笑っているように聞こえる。

「お前らほんと……」

それでも。

少年も笑った。

しばらくして。

床の土へ指を走らせる。

「山」

鼠。

『なに』

「字」

『じ』

「山って意味」

『やま』

「そう」

次。

川。

『かわ』

少年。

「覚えるの早いな」

最初の鼠。

『おまえ、せんせい?』

少年。

「今は俺が先生」

『でも、よめない』

「明日習うんだよ!」

『せんせい、いる?』

「いる」

少年は少し嬉しくなる。

「慧円って人」

『にんげん?』

「人間」

『こわい?』

少年。

「今のところは」

『こわい?』

少し考える。

「怖くない」

それから。

「……たぶん」

鼠。

『たぶん』

少年。

「まだ一回しか会ってないから」

夜。

少年は母の残した小さな布を取り出す。

手の中で広げる。

母は字をどれくらい読めたのだろう。

聞いたことがなかった。

もっと聞けばよかった。

そう思う。

でも。

もう聞けない。

布を丁寧に畳む。

「……明日、覚えるか」

最初の鼠。

『じ?』

「字」

『なんで』

少年は考える。

仕事。

道。

金。

約束。

知らないままでは困るものばかりだ。

「人間は、覚えておきたいことを字にするんだよ」

鼠。

『ねずみ、におい』

少年。

「お前らは匂いか」

『うん』

「そっちも覚えたいな」

『なぜ』

少年。

「俺、お前らのこと分かんないから」

鼠。

『わかる』

「言葉はな」

少年は床の文字を見る。

「話せるのと、分かってるのは別だろ」

鼠は首を傾げる。

少年自身も、まだ上手く説明できない。

だから。

明日聞けばいい。

知っている者に。

少年は藁へ横になる。

屋根。

仕事。

飯。

そして。

明日は、字を教えてくれる人がいる。

「……悪くないな」

『なにが』

「今日」

『きょう』

「うん」

目を閉じる。

明日がどうなるかは知らない。

でも明日は、とりあえず。

仕事へ行く。

そのあと字を習う。

それだけ決まっていれば、十分だった。

翌朝。

少年は目を覚ますと、最初に戸の隙間から外を覗いた。

明るい。

「……寝坊してないよな?」

最初の鼠が藁から顔を出す。

『おきた』

「それは見れば分かる」

『おそい?』

「それを聞いてんの」

『しらない』

「だよなあ」

時計がない。

前の人生なら、目を開ければ時間が分かった。

今は空を見るしかない。

便利だったんだな。

なくなってから気づくことばかりだ。

どんどん。

戸が鳴る。

少年。

「誰!」

庄助。

「毎朝やるのか、それ!」

「庄助?」

「そうだ!」

「合言葉は」

「決めてない!」

少年。

「正解」

戸を開ける。

庄助。

「……そのうち置いていくぞ」

「それは困る」

「なら早く来い」

「飯は?」

「働いたらな」

少年は即座に外へ出る。

「行こう」

庄助。

「そこだけは本当に早いな」

朝の仕事は、昨日と似ていた。

ただし。

少年は昨日より聞いた。

庄助。

「これ、裏へ」

「裏のどこ?」

「棚」

「上? 下?」

「上!」

「はい」

少しして。

少年。

「庄助」

「今度は何だ」

「この縄、昨日のと一緒に置いていい?」

「駄目だ」

「何で?」

「使い道が違う」

少年は縄を見比べる。

「見た目ほとんど同じなのに?」

「違う」

「どう違う?」

庄助が説明する。

少年は触る。

太さ。

撚り。

固さ。

もう一度見る。

「……ほんとだ」

「最初からそう言ってる」

少年。

「いや、言われただけじゃ分かんなかった」

庄助。

「面倒な奴だな」

「間違えてから怒るよりいいだろ」

近くの男が笑う。

「庄助、お前いいの拾ったな」

庄助。

「拾ってない」

少年。

「俺も拾われてない」

男。

「息合ってるじゃねえか」

二人。

「合ってない」

さらに笑われた。

昼前。

仕事が一段落する。

庄助。

「今日はここまででいい」

少年。

「もう?」

「慧円さんのところへ行くんだろ」

「あ」

忘れてはいない。

少しだけ仕事に夢中になっていただけだ。

少年。

「飯は?」

庄助。

「持っていけ」

握り飯を渡される。

少年は受け取りながら尋ねる。

「庄助」

「何だ」

「今日の仕事、昨日よりましだった?」

庄助は少し考える。

「昨日よりはな」

少年の目が細くなる。

「じゃあ金は?」

庄助。

「お前、本当にそこ聞くな」

「働いたから」

「まだ俺の手伝いだ。ちゃんと雇う話は別だ」

少年。

「ちゃんと雇う?」

庄助。

「そのうち、もっと人手が要るところを紹介するかもしれん」

少年の耳がぴくりと動く。

「仕事?」

「ああ」

「飯出る?」

庄助。

「まずそこから離れろ」

「大事だろ」

「字を習ってこい!」

追い払われた。

慧円のところへ着く。

戸口から中を覗く。

「……多いな」

小さな子。

同じくらいの子。

少し年上の子。

皆、板や紙を前にして座っている。

少年が入ると、一斉に視線が集まった。

「……」

「……」

少年。

「何だよ」

一人の男の子。

「本当に来た」

「来るって言ったろ」

女の子。

「妖怪?」

少年。

「昨日から似たようなこと何回聞かれるんだよ」

別の子。

「鼻長い」

「知ってる!」

「歯も――」

「それも知ってる!」

慧円。

「始める前に喧嘩をするなら外でやりなさい」

少年。

「俺からじゃない!」

慧円。

「なら座りなさい」

「はい」

素直に座る。

少年の前へ、小さな板が置かれる。

慧円。

「まず、どこまで読めるか見よう」

少年。

「山と川」

 

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子供。

「少なっ」

少年。

「昨日始めたばっかりだよ!」

慧円が一字書く。

「これは?」

「田」

「これは?」

「人」

「これは?」

少年。

「……」

知っている。

前の人生なら。

でも崩されると分からない。

「これ……元は何?」

慧円。

「先に答えを聞くのか」

「分かりそうなんだよ」

「では考えなさい」

少年は文字を睨む。

横から女の子が覗く。

「あ、それ――」

少年。

「待って」

「教えてあげようと思ったのに」

「もう少しだけ考える」

女の子。

「さっき答え聞こうとしたのに?」

少年。

「気が変わった」

しばらく。

「……無理」

女の子。

「早っ!」

少年。

「分かんないものは分かんない」

慧円が答えを教える。

少年。

「ああ!」

知っている字だった。

「これか!」

女の子。

「分かった?」

「元の形なら」

「じゃあ書いて」

少年。

「……」

筆を持つ。

止まる。

「あれ?」

慧円。

「読めたのでは?」

「読めた」

「なら書きなさい」

「書けるとは言ってない」

周囲から笑いが起こる。

少年。

「なんでだよ!」

そこからは苦戦した。

読める。

書けない。

書ける。

崩されると読めない。

前の人生で知っている形を書けば、

「ここではそう書かない」

と言われる。

少年。

「同じ字なのに!?」

慧円。

「同じ字でも書き方は一つではない」

「面倒!」

「字に言いなさい」

「字に言っても返事しないだろ!」

隣の女の子が笑う。

少年。

「笑うなって」

「だって変なんだもん」

「どこが」

「知らないのに、時々すごく知ってる」

少年の手が止まる。

「……」

前の人生。

説明できない。

女の子は深く考えていないらしく、すぐ自分の板へ戻った。

少年も手元を見る。

慧円。

「どうした」

「何でもない」

「分からないことがあるなら聞きなさい」

少年は少し黙った。

「……まだ、どう聞けばいいか分かんない」

慧円は少年をしばらく見る。

「なら、聞き方が分かってから聞けばよい」

それ以上、追及しなかった。

少年は小さく息を吐く。

少しして。

数の勉強になった。

少年の顔が明るくなる。

「これは得意」

慧円。

「そうかね」

「計算なら」

慧円が数字を書く。

少年。

「…………」

慧円。

「どうした」

「……これ何」

子供たち。

「ええー!」

少年。

「待て待て! 数字は分かるんだよ!」

女の子。

「読めてないじゃん」

「書き方が違う!」

男の子。

「言い訳!」

「言い訳じゃねえ!」

慧円。

「なら、ここで使う書き方を覚えなさい」

少年。

「……はい」

悔しい。

ものすごく悔しい。

でも知らない。

本当に知らない。

なら。

覚えるしかない。

休憩。

外へ出る。

握り飯を食べようとして。

草むらを見る。

「いるんだろ」

しーん。

少年。

「出てこい」

三匹。

ひょこ。

少年。

「全員来てたの?」

『きた』

『じ』

『ごはん』

少年。

「最後の奴、期待を裏切らねえな」

握り飯を少しだけ分ける。

食べながら、地面へ指で文字を書く。

「これ、山」

『やま』

「これ、川」

『かわ』

「これ……」

止まる。

「……何だっけ」

三匹がじっと見る。

少年。

「待って」

思い出す。

「あ、これだ」

書き直す。

鼠。

『わすれた』

「覚え直した!」

『せんせい?』

「今は俺が先生」

『わすれたせんせい』

「先生だって忘れるんだよ!」

後ろ。

「誰と話してるの?」

少年。

「うわっ!」

振り向く。

さっきの女の子。

三匹は一瞬で草へ消えた。

女の子。

「今、鼠いた?」

少年。

「……いた?」

「いたよね」

「野鼠じゃない?」

「話してた?」

少年。

「俺、独り言多いんだよ」

女の子。

「変なの」

少年。

「今日それ何回目だ!」

午後。

慧円が一冊の簡単な帳面を見せた。

少年。

「これ何?」

「商いの記録だ」

少年の目が変わる。

「売った物?」

「それもある」

「金?」

「それも」

「誰に売ったかも?」

「場合による」

少年は身を乗り出す。

「全部字で残すの?」

「必要なことをな」

「何で?」

慧円は答えた。

「忘れるからだ」

少年。

「……」

あまりにも単純な答えだった。

慧円。

「人は忘れる。間違える。言った、言わないにもなる」

帳面を指す。

「だから残す」

少年は帳面を見る。

「残ってたら、別の人も読める?」

「読める者なら」

「じゃあ、その人がいなくても分かる?」

「全部ではないがな」

少年は黙る。

前の人生でも。

メモ。

記録。

引き継ぎ。

帳簿。

当たり前すぎて、深く考えたことはなかった。

「……便利だな」

慧円。

「だから字を覚える」

少年。

「うん」

今度は返事が早かった。

それから数日。

仕事。

字。

仕事。

字。

毎日、少しずつ増える。

分かるもの。

できること。

そして。

分からないものも増えた。

ある日。

庄助。

「これ、三つ持っていけ」

少年。

「三つ」

数える。

一。

二。

三。

持っていく。

途中。

一つを地面へ置いて休む。

そのまま残り二つを持っていく。

庄助。

「二つしかないぞ」

少年。

「……」

沈黙。

「一つ置いてきた」

「何で」

「重かったから休んだ」

「何で持ってこない」

少年。

「忘れた」

庄助。

「……」

少年。

「ごめん」

「取ってこい」

「はい!」

走る。

道端から鼠が顔を出す。

『わすれた』

少年。

「言うな!」

その日の夕方。

庄助が少年を呼び止めた。

「明日、朝の仕事はいい」

少年の顔が固まる。

「クビ?」

「違う」

「じゃあ何?」

「会わせたい人がいる」

「誰」

「藤吉さんだ」

「知らない」

「商いをしている人だ」

少年。

「商い?」

「村の物も、外から来た物も扱ってる」

少年の耳がわずかに動く。

「仕事?」

庄助。

「まだ分からん」

少年は少し笑った。

「庄助」

「何だ」

「分かんないなら、分かんないって言うんだな」

庄助。

「誰の影響だ」

「慧円さん」

庄助。

「俺じゃないのか」

「庄助も少し」

「少しか」

少年。

「飯くれた分は大きい」

「そこか」

翌朝。

少年はいつもより少し早く起きた。

着物を見る。

汚い。

昨日よりはまし。

髪を手で押さえる。

戻る。

もう一回押さえる。

戻る。

少年。

「……こいつどうなってんだ」

鼠。

『へん』

「髪の話?」

『ぜんぶ』

「朝から喧嘩売るな」

庄助が来る。

少年。

「今日、何すればいい?」

「まず挨拶だ」

「どうやって?」

「普通に」

少年。

「だから、その普通を聞いてんの」

庄助。

「……」

「商人相手に、村の人と同じでいいの?」

庄助。

「それは――」

少し考える。

少年。

「分かんない?」

「黙れ」

「慧円さんに聞く?」

「そのくらい俺が教える!」

庄助は最低限を教える。

勝手に商品へ触らない。

話している時にきょろきょろしすぎない。

聞かれたことには答える。

分からないことを知ったふりしない。

少年。

「よし」

庄助。

「そこだけは得意になったな」

少年。

「最初はできなかったからな」

藤吉のところは、村の他の家より人の出入りが多かった。

軒先には籠。

包み。

縄で括られた荷。

布。

瓶。

木箱。

少年の目が忙しく動く。

「あれ何?」

庄助。

「後にしろ」

「あっちは?」

「後だ」

「これ――」

「触るな!」

「触ってない!」

奥から声がした。

「朝から騒がしいな」

一人の男が出てくる。

庄助と同じくらいか、少し若い。

細身。

よく周囲を見る目。

手には帳面。

少年の視線は真っ先に帳面へ行った。

藤吉。

「その子か」

庄助。

「はい」

少年。

「俺の話、そんな回ってんの?」

藤吉。

「鼻の長い半妖の子供が来たとな」

少年。

「特徴そこしかないの?」

「よく喋るとも聞いた」

庄助。

「それは間違ってません」

少年。

「庄助」

藤吉が笑う。

「名は?」

少年は止まる。

「……まだ、人に言う名前は決めてない」

藤吉。

「決めてない?」

「ある名前はある」

「ならそれを使えばいい」

少年。

「嫌だ」

「なぜ」

少し迷う。

「母ちゃんが呼んでた名前だから」

藤吉は少年を見る。

「そうか」

それ以上聞かない。

少年は少しだけ藤吉を見る目を変えた。

藤吉が帳面を閉じる。

「で」

「何ができる?」

少年。

「……」

以前なら。

計算。

現代知識。

いろいろ言えたかもしれない。

でも。

ここの文字はまだ十分読めない。

数字の書き方も習っている途中。

商いの作法。

相場。

単位。

土地。

人。

何も知らない。

少年。

「荷運び」

庄助。

「たまに落とします」

少年。

「最近は落としてない!」

藤吉。

「他は」

「字を習ってる」

「読めるのか」

「少し」

「計算は」

少年。

「考え方は分かる」

藤吉。

「考え方?」

少年。

「……ここの数字の読み書きは、まだ習ってる途中」

藤吉の眉が少し上がる。

「変な答えだな」

少年。

「俺もそう思う」

「商いの経験は?」

「ない」

「客の相手は?」

「ない」

「帳面は?」

「この前初めてちゃんと見た」

藤吉。

「つまり」

少年。

「ほとんど何もできない」

庄助が額を押さえる。

「お前、もう少し売り込め」

少年。

「できないものを、できますって言えって?」

「そうは言ってない」

藤吉は黙って少年を見る。

少年も見返す。

正直。

逃げたい。

ここで追い返されたら。

仕事は増えない。

飯も。

金も。

居場所も。

でも。

嘘をついたところで。

できないものはできない。

少年は藤吉を見る。

「今できること見て決めてよ」

藤吉。

「随分偉そうだな」

「偉くない」

「なら、もっと頭を下げろ」

少年。

「あ」

慌てて頭を下げる。

庄助。

「そこからか……」

少年。

「習ってないことはできないんだよ!」

藤吉が吹き出した。

少年。

「何で笑うんだ」

「面倒な小僧だ」

「昨日も言われた」

「誰に」

「庄助」

庄助。

「毎日言ってる」

藤吉。

「一つ聞く」

少年。

「何」

「なぜ商いを覚えたい」

少年は口を開く。

閉じる。

立派な理由なんてない。

大商人になりたい。

金持ちになりたい。

そんな夢を持つ余裕は、まだない。

「……金」

庄助。

「お前!」

藤吉は笑わなかった。

「何のための金だ」

「飯」

「他は」

「寝る場所」

「他は」

少年は考える。

着物。

道具。

字を習う物。

母の布を濡らさずしまえる場所。

鼠たちと雨を避けられる場所。

そして。

「……困った時に、選べるように」

藤吉。

「選ぶ?」

少年は少し言葉を探す。

「腹減ってる時ってさ」

藤吉を見る。

「嫌な仕事でも、嫌な奴でも、“これしかない”ってなったら断れないだろ」

庄助が黙る。

少年。

「少し金があったら」

「今日はやめるとか」

「別のところ行くとか」

「逃げるとか」

「そういうの、できるかもしれない」

「だから欲しい」

藤吉。

「金があれば何でもできるか?」

少年。

「できない」

即答だった。

「母ちゃん助からなかったし」

空気が止まる。

少年自身も。

自分が何を言ったのか、一拍遅れて気づく。

少し目を伏せる。

「……でも」

「できることが増えるなら」

「ないよりいい」

藤吉は長く黙っていた。

少年も黙る。

やがて。

藤吉。

「明日から来い」

少年。

「……え?」

「朝。遅れるな」

少年の顔が明るくなる。

「働ける?」

「試す」

「飯は?」

庄助。

「やっぱりそこか!」

藤吉。

「昼は出す」

少年。

「金は?」

「働き次第」

「できること増えたら?」

「その時に話す」

少年。

「分かった」

藤吉。

「ただし」

「?」

「勝手なことはするな」

「知らんことは聞け」

少年はすぐ頷く。

「それなら得意」

庄助。

「最近得意になった、だろ」

少年。

「細かいなあ」

藤吉。

「商いは細かいぞ」

少年は少しだけ止まる。

それから。

「……じゃあ覚える」

店を出る。

しばらく。

少年は何も言わない。

庄助。

「どうした」

「働ける」

「ああ」

「飯も出る」

「そこから離れろ」

少年は少し笑った。

「庄助」

「何だ」

「ありがと」

庄助が止まる。

「……急に何だ」

「紹介してくれたから」

「まだ採用されたわけじゃない」

「でも明日行ける」

庄助。

「そうだな」

少年。

「じゃあ、ありがと」

庄助は少しだけ顔を逸らす。

「明日失敗して追い出されるなよ」

少年。

「嫌な応援だな!」

物置。

戸を開ける。

「ただいま!」

三匹が顔を出す。

『かえった』

『はやい』

『ごはん?』

少年。

「仕事決まった!」

三匹。

『しごと』

「明日から」

最初の鼠。

『こわい?』

少年。

「怖い」

『にげる?』

少年は少し考える。

それから笑った。

「逃げ道は覚えとく」

鼠。

『にげる?』

「でも、明日は行く」

『なぜ』

少年は藁へ腰を下ろす。

藤吉。

帳面。

積まれた荷物。

知らない品。

知らない言葉。

知らない商い。

失敗するかもしれない。

怒られるかもしれない。

役に立たないと言われるかもしれない。

それでも。

「行かないともったいない」

一匹。

『ごはん』

少年。

「それもある!」

鼠たちが鳴く。

少年には、笑っているように聞こえた。

自分も笑う。

明日。

何が起こるかは知らない。

だからこそ。

明日になったら。

また聞けばいい。

知らないことを。

知っている奴に。

そして今度は。

少しずつ、自分でも覚えていけばいい。

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