翌朝。
甚兵衛は目を開ける。
「……」
今日は、胸が軽い。
何もいない。
腹にもいない。
足元にもいない。
甚兵衛。
「……」
身体を起こす。
布団を見る。
鼠はいない。
「珍しいな」
返事もない。
戸を開ける。
冷たい空気。
外へ出る。
井戸で顔を洗う。
水は昨日と同じくらい冷たい。
「っ」
眠気が飛ぶ。
顔を拭き、物置へ戻る。
木札。
昨日のもの。
その上に、今日。
店。
何を扱う。
誰が決める。
誰に売る。
どこへ運ぶ。
何を聞かれる。
甚兵衛。
「……」
並べてみる。
多い。
「全部は無理だな」
一日で全部覚えるな。
作兵衛に言われた言葉を思い出す。
甚兵衛。
「一個ずつ」
まず、何を扱うか。
その横に丸をつける。
木札を懐へ入れ、外へ出る。
その時。
壁際。
「チチッ」
甚兵衛が止まる。
最初の鼠。
一匹。
口に何か咥えている。
「何持ってる」
鼠。
『たべもの』
「見れば分かる」
小さな欠片。
飯粒。
少し乾いている。
鼠。
『みつけた』
「朝飯?」
『うん』
甚兵衛。
「他の二匹は」
鼠。
『たべてる』
「俺だけ起こさなかったのか」
鼠。
『きのう、ねろっていった』
甚兵衛。
「言ってない」
『いった』
「言ってない」
鼠。
『つかれた』
甚兵衛。
「それは三匹目だろ」
鼠。
『おなじ』
「違うだろ」
鼠は飯粒を食べる。
甚兵衛。
「……まあいい」
歩く。
鼠もついてくる。
朝の町は、昨日と似ている。
でも、少し違う。
開いている戸。
閉じている戸。
煙が出ている家。
まだ暗い家。
道端の桶。
犬。
猫。
人。
毎朝、同じようで、同じではない。
店へ着く。
戸は開いている。
甚兵衛。
「……」
今日は作兵衛が先に来ていて、中で荷を動かしている。
「おはようございます」
作兵衛。
「おう」
甚兵衛。
「今日は負けました」
「勝負してたのか」
「してません」
作兵衛。
「なら負けてないだろ」
甚兵衛。
「……確かに」
箒を取る。
掃く。
昨日、動かさなかった箱を、今日は作兵衛が別の場所へ動かす。
甚兵衛。
「それ、そこなんです?」
「今日はな」
「今日は?」
「後で使う」
甚兵衛。
「……」
昨日、場所を覚えるだけでは駄目だった。
使う順や使う日で、仕事は変わる。
甚兵衛は木札を出しかける。
作兵衛。
「掃いてから書け」
甚兵衛。
「はい」
箒を動かす。
少しして、弥助と藤吉が来る。
店が動く。
甚兵衛は昨日より、あまり口を出さない。
見る。
聞く。
運ぶ。
藤吉。
「甚兵衛」
「はい」
「こっち」
包み。
二つ。
「奥」
「はい」
持つ。
奥へ運ぶ。
戻る。
作兵衛。
「その紐取ってくれ」
「はい」
渡す。
弥助。
「こいつも」
「はい」
動く。
そのうち、外から声がする。
「ごめんよ」
甚兵衛が顔を上げる。
男。
五十くらい。
粗末ではない。
でも、着物の袖に少し擦れがある。
手は硬い。
作兵衛。
「いらっしゃい」
男。
「この前の紙、まだあるかい」
甚兵衛。
「……」
紙。
昨日、荷に入っていた紙。
同じか、違うか。
分からない。
作兵衛。
「どれだ」
男。
「前に買った、少し厚い方」
作兵衛。
「何に使う」
男。
「帳面」
作兵衛。
「なら、前のよりこっちだな」
奥から紙を何枚か出す。
男は触る。
指で撫でる。
光に透かす。
「ちょい高いな」
作兵衛。
「厚いからな」
「前ので足りると思うか」
「使い方次第だ」
男。
「毎日つける」
作兵衛。
「何を」
「米」
作兵衛。
「ならこっち」
別の紙。
さっきより少し薄い。
男。
「安いな」
「毎日書くなら枚数いるだろ」
「破れんか」
「普通に使えばな」
「水には」
「弱い」
「どれくらい」
作兵衛。
「濡れた手で触るならやめとけ」
男。
「……」
少し考える。
「こっちを十」
「はいよ」
甚兵衛は見る。
高い方を売らなかった。
男は高い方も買えそうだった。
でも、使い方を聞いた。
藤吉が紙を数える。
一。
二。
三。
十。
包む。
紐を結ぶ。
男が銭を置く。
帰る。
戸が閉まる。
甚兵衛。
「……」
作兵衛。
「何だ」
「今」
「うん」
「高い方、売らなかったんですね」
作兵衛。
「要らんからな」
甚兵衛。
「でも売れましたよね」
作兵衛。
「売れただろうな」
「なら」
作兵衛が見る。
甚兵衛。
「……」
言葉を止める。
作兵衛。
「高いのを一回売って終わりと」
紙を片づける。
「使うたびに買いに来るのと」
甚兵衛。
「……」
作兵衛。
「どっちがいい」
甚兵衛。
「後者」
「だろ」
弥助。
横から。
「前者も悪くないけどな」
作兵衛。
「お前は余計なこと言うな」
弥助。
「なんでだよ」
作兵衛。
「こいつ今、覚えてる最中だ」
弥助。
「じゃあ、間違いも覚えた方がいいだろ」
甚兵衛。
「それも一理ある」
作兵衛。
「お前も乗るな」
甚兵衛。
「はい」
木札を出す。
何を扱う。
紙。
用途を聞く。
高いものを売るとは限らない。
甚兵衛。
「……」
作兵衛。
「それだけ書くな」
甚兵衛。
止まる。
「違います?」
「紙だけじゃない」
「……」
甚兵衛は書き直す。
品。
用途を聞く。
作兵衛。
「それなら、まあ」
甚兵衛。
「丸?」
作兵衛。
「勝手につけろ」
丸をつける。
足元。
鼠。
『まる』
「お前は見なくていい」
弥助。
「今、何て?」
甚兵衛。
「丸って」
弥助。
「何で鼠まで帳面仕事してるんだ」
甚兵衛。
「知りません」
鼠。
『しってる』
甚兵衛。
「お前は知らないだろ」
作兵衛。
「仕事中だぞ」
「はい」
次の客。
女。
若い。
子供を連れている。
「これ」
持ってきたのは包み。
中から紙を出す。
角が少し潰れている。
女。
「昨日買ったんだけど」
藤吉。
「はい」
「ここ」
指。
折れ。
「開けたらこうなってた」
藤吉。
「……」
見る。
裏。
表。
端。
作兵衛も見る。
甚兵衛は少し離れて見る。
女。
「使えないほどじゃないけど」
藤吉。
「交換します」
女。
「いいの?」
「はい」
すぐに新しいものを持ってくる。
女。
「ごめんね」
藤吉。
「いえ」
女が帰る。
甚兵衛。
「……」
藤吉が潰れた紙を見る。
甚兵衛。
「それ」
「ん?」
「もう売らないんですか」
藤吉。
「そのままはな」
「捨てる?」
「まさか」
少し考える。
端を切る。
「小さくして使える」
甚兵衛。
「店で?」
「店でも」
「売ることも?」
藤吉。
「ものによる」
甚兵衛。
「ものによる」
木札。
傷み。
交換。
捨てない。
使い道を変える。
甚兵衛。
「……」
一つ、気になる。
「誰が決めるんです?」
藤吉。
「何を」
「交換」
藤吉。
「今のくらいなら俺」
「もっと高い物なら?」
藤吉。
「作兵衛さん」
「もっと大きな話なら?」
藤吉。
少し考える。
「店主」
甚兵衛。
「……」
木札。
誰が決める。
小さいこと。
藤吉。
大きいこと。
作兵衛。
さらに。
店主。
甚兵衛。
「俺は?」
弥助。
「掃除」
甚兵衛。
「聞いてない」
弥助。
「合ってるだろ」
甚兵衛。
「合ってますけど」
作兵衛。
「今は勝手に決めるな」
甚兵衛。
「はい」
「分からなきゃ聞け」
「はい」
「迷ったら止めろ」
甚兵衛。
「止める」
作兵衛。
「勝手に話を進める方が面倒だ」
甚兵衛。
「……」
覚える。
分からない時は聞く。
それは昨日、道でも同じだった。
少しして、別の客。
今度は商人らしい男。
腰に帳面。
声が大きい。
「いつもの」
弥助。
「はいよ」
甚兵衛。
「……」
いつもの。
それだけで、弥助は迷わない。
奥から包みを三つ出す。
男。
「今日は二つでいい」
弥助。
「三つじゃないのか」
「向こうが休みだ」
「じゃ二つ」
戻す。
男。
「来週は四つ」
弥助。
「四つ?」
「増える」
「何が」
男。
「人」
弥助。
「ああ」
「いつもの日」
「分かった」
男が金を置く。
「じゃあ」
帰る。
甚兵衛。
「……」
弥助。
「何だ」
「今ので分かるんです?」
「何が」
「いつもの、で」
弥助。
「分かる」
「俺は分かりません」
「そりゃお前、初めて見たからな」
甚兵衛。
「来週四つ」
「そう」
「いつもの日」
「そう」
甚兵衛。
「何の日?」
弥助。
「向こうの店に人が集まる日」
「何の店?」
「飯屋」
「何を買ってる?」
弥助。
「紙」
甚兵衛。
「どの紙?」
弥助。
「あれ」
指す。
甚兵衛。
「何に使う?」
弥助。
「包む」
「何を?」
弥助。
「……」
少し考える。
「知らん」
甚兵衛。
「知らない?」
弥助。
「そこまでは聞いてねえ」
甚兵衛。
「……」
弥助。
「必要か?」
甚兵衛。
考える。
「今は分かりません」
弥助。
「ならそれでいいだろ」
甚兵衛。
「……」
木札。
誰に売る。
飯屋。
定期。
数が変わる。
理由。
人が増える。
用途。
一部不明。
書く。
弥助。
「細かいなあ」
甚兵衛。
「忘れるんで」
「それ昨日も言ってたな」
「昨日より増えたんで」
「何が」
「忘れること」
弥助。
笑う。
昼前。
少し暇になる。
甚兵衛は木札を見る。
何を扱う。
紙。
他にも紐。
包み。
小物。
まだ名前を知らない品もある。
甚兵衛。
「藤吉さん」
「ん?」
「この店」
「うん」
「紙屋なんです?」
藤吉。
「紙だけじゃない」
「じゃ何屋です?」
藤吉。
「……」
止まる。
作兵衛を見る。
作兵衛。
「何でも屋」
弥助。
「雑だな」
作兵衛。
「でも間違ってない」
藤吉。
「紙が多いけどな」
甚兵衛。
「誰向け?」
作兵衛。
「使う奴向け」
弥助。
「もっと雑になったぞ」
甚兵衛。
「……」
作兵衛。
「何でも名前つけたがるな」
甚兵衛。
「名前あった方が覚えやすいので」
作兵衛。
「じゃあ」
店の中を見る。
「紙も売る」
「紐も売る」
「包む物も売る」
「頼まれりゃ仕入れる」
「持っていくこともある」
「預かることもある」
甚兵衛。
「預かる?」
「ある」
「何を」
作兵衛。
「そのうち見りゃ分かる」
甚兵衛。
「今じゃ駄目?」
「一日で全部覚えるな」
甚兵衛。
「……」
昨日。
言われた。
甚兵衛。
「はい」
作兵衛。
「今は」
紙を一束持ち上げる。
「これがどれで」
隣。
「これがどれか」
「それ覚えろ」
甚兵衛。
「名前?」
「名前」
「値段?」
「後」
「用途?」
「一緒」
「仕入れ先?」
「もっと後」
甚兵衛。
「……順番あるんですね」
作兵衛。
「お前、字覚える時に」
「いきなり本一冊全部覚えたか?」
甚兵衛。
「……」
前世。
思い出す。
学校。
文字。
単語。
文章。
甚兵衛。
「覚えてないです」
作兵衛。
「なら同じだ」
甚兵衛。
「はい」
紙。
並ぶ。
薄い。
厚い。
白い。
少し黄。
ざらざら。
滑らか。
甚兵衛。
触る。
作兵衛。
「これは」
名前を言う。
甚兵衛。
復唱。
次。
また名前。
用途。
値段はまだ聞かない。
三つ覚える。
四つ目。
甚兵衛。
「……」
止まる。
作兵衛。
「何だ」
「もう混ざりました」
作兵衛。
「なら今日は三つ」
甚兵衛。
「少なくないです?」
「三つ確実に覚える」
「十覚えて九つ忘れる」
甚兵衛。
「……」
作兵衛。
「どっちがいい」
甚兵衛。
「三つ」
「なら三つ」
甚兵衛。
木札。
三つだけ書く。
鼠が荷の影から顔を出す。
『かみ』
甚兵衛。
「全部紙だよ」
鼠。
『しろい』
「全部だいたい白いよ」
『たべられる?』
「食うな」
作兵衛。
「何て?」
甚兵衛。
「食べられるかって」
作兵衛。
「食わせるな」
甚兵衛。
「食わせません」
鼠。
『すこし?』
「駄目」
『はし?』
「駄目」
弥助。
「何交渉してるんだ」
甚兵衛。
「紙を食べたいそうです」
弥助。
「そりゃ鼠だしな」
甚兵衛。
「店では禁止」
鼠。
『なんで』
甚兵衛。
「商品だから」
鼠。
『そとなら?』
甚兵衛。
「外なら……」
作兵衛を見る。
作兵衛。
「俺を見るな」
甚兵衛。
「落ちてるやつなら」
作兵衛。
「食わせる前に聞け」
甚兵衛。
「はい」
鼠。
『きく』
甚兵衛。
「お前が聞いても作兵衛さん分からないから」
鼠。
『じんべえ、きく』
「そう」
作兵衛。
「……」
甚兵衛。
「どうしました」
「お前」
「はい」
「ほんとに一日中そんな感じなのか」
甚兵衛。
「だいたい」
作兵衛。
「疲れんか」
甚兵衛。
「人と話すより楽です」
弥助。
「俺らに失礼じゃねえ?」
甚兵衛。
「今のは聞かなかったことにしてください」
「聞こえたよ」
昼。
飯。
甚兵衛は昨日より、少し店の奥を見る目が変わっている。
紙。
ただの紙ではない。
同じように見えて、違う。
買う人が違う。
使い方が違う。
値段が違う。
扱いが違う。
誰が決めるかも違う。
甚兵衛。
「……」
作兵衛。
「何だ」
「店って」
「うん」
「物を置いて、売るだけじゃないんですね」
弥助。
「今さらか」
甚兵衛。
「知ってました」
「じゃあ何だ」
「知ってたけど」
箸。
止める。
「分かってなかった」
作兵衛。
少し笑う。
「そういうことは多い」
午後。
客は少ない。
甚兵衛は三つの紙を何度も見分ける。
作兵衛。
「これは」
甚兵衛。
名前を言う。
「用途」
答える。
「これは」
答える。
三つ目。
甚兵衛。
一瞬、止まる。
「……」
鼠。
足元。
『うすい』
甚兵衛。
「それは見れば分かる」
作兵衛。
「鼠が答えたか」
「薄いって」
作兵衛。
「外れじゃないな」
甚兵衛。
「でも名前じゃない」
もう一度見る。
指で触る。
繊維。
厚み。
端。
「……これ」
名前を言う。
作兵衛。
「正解」
甚兵衛。
「よし」
鼠。
『せいかい』
「お前は何もしてない」
『うすい、いった』
「それは分かった」
夕方。
片づけ。
掃く。
包む。
戻す。
甚兵衛は、朝に位置が違っていた箱を見る。
作兵衛が元の場所へ戻す。
甚兵衛。
「あ」
作兵衛。
「何だ」
「朝の箱」
「うん」
「今日使うから動かしてたんですね」
「そう」
甚兵衛。
「昨日と場所が違うと思って」
作兵衛。
「動かした」
「戻そうか迷いました」
「戻さなくて正解だ」
甚兵衛。
「……」
勝手に知っているつもりにならなかった。
一つ。
当たり。
甚兵衛。
少し嬉しい。
店を閉める。
物置。
鼠。
三匹。
今日は全部いる。
三匹目。
まだ少し眠そう。
甚兵衛。
木札を並べる。
昨日。
道。
今日。
店。
鼠。
『いっぱい』
甚兵衛。
「いっぱいだな」
今日の札。
何を扱う。
紙。
他。
用途を聞く。
高い物が正しいとは限らない。
傷み。
交換。
使い道を変える。
判断。
小さいこと。
藤吉。
大きいこと。
作兵衛。
さらに。
店主。
自分。
勝手に決めない。
分からなければ聞く。
甚兵衛。
「……」
その下。
今日覚えた紙。
三つ。
名前。
用途。
だけ。
値段。
空欄。
仕入れ。
空欄。
客。
まだ。
少し。
甚兵衛。
「昨日より増えた」
最初の鼠。
『しらない?』
甚兵衛。
「そう」
鼠。
『また?』
「また」
三匹目。
『たいへん』
甚兵衛。
「お前は寝てただけだろ」
『ねるの、たいへん』
「嘘つけ」
一匹が木札の端を齧ろうとする。
甚兵衛。
「こら」
鼠。
止まる。
『そとなら?』
甚兵衛。
「これは外でも駄目」
『なんで』
「俺のだから」
『じんべえの』
「そう」
鼠。
『じゃあ、だめ』
甚兵衛。
「分かるんだ」
木札を重ねる。
最後。
新しい札。
明日。
甚兵衛。
筆を持つ。
少し考える。
書く。
客。
その下。
何を欲しい。
何に使う。
どれくらい。
いつ使う。
誰が決める。
「……」
今日。
客を見た。
でも、まだ自分で相手をしたことはない。
甚兵衛。
「明日」
最初の鼠。
『みち?』
「店」
『かみ?』
「客」
三匹。
『きゃく』
甚兵衛。
「できるかね」
鼠。
『たぶん』
三匹。
『たぶん』
甚兵衛。
「……」
少し黙る。
「お前ら」
三匹を見る。
甚兵衛。
「絶対わざとだろ」
『たぶん』
「覚えやがったな」
物置に鼠の鳴き声。
「チチッ」
「チチッ」
人が聞けば、それだけ。
甚兵衛には、笑われているようにしか聞こえなかった。