『鼠は最後に帰ってくる』   作:隼人2

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第32話

翌朝。

甚兵衛は、目を開ける前から身体の重さで目が覚めかけていた。

胸にも、腹にも、足元にも何かが乗っている。

何か、ではない。

昨日と同じ三匹の鼠だ。

「……」

まだ目を閉じたまま、甚兵衛はしばらく動かなかった。

胸の上にいた鼠が鼻を動かす。

『おきた』

「まだ」

『め、あいた』

「開いただけ」

腹の上からも声がする。

『おきた』

「二度寝する」

すると足元の鼠が言った。

『そうば』

「……」

眠気が消えた。

甚兵衛は目を開け、ゆっくり身体を起こした。

胸の鼠が滑るように布団から降りる。

「お前、それ覚えてたのか」

『そうば』

別の鼠が続ける。

『まいにち』

三匹目。

『かわる』

甚兵衛は三匹を順番に見た。

「そこまで覚えた?」

三匹。

『うん』

「俺より復習してるな」

最初の鼠が首を傾げる。

『なんで?』

甚兵衛は欠伸を噛み殺した。

「それを今日聞くんだよ」

◇

顔を洗う。

水は冷たい。

頬から首筋まで冷やすと、残っていた眠気もだいぶ消えた。

部屋に戻ると、昨日使った木札がそのまま残っている。

一両。

両替。

相場。

毎日変わる。

その下には、大きく一つ。

《なぜ動く》

甚兵衛はしばらくそこを見た。

昨日、銀を欲しがった客がいた。

銭を欲しがった客もいた。

高くても銀が欲しいと言った客もいた。

そして鼠からは、同じ辺りに船や荷があると聞いた。

偶然かもしれない。

関係があるのかもしれない。

まだ分からない。

昨日までの相場は、毎日変わる数字でしかなかった。

けれど今は、その数字の後ろで人や物が動いているように思える。

甚兵衛は筆を取った。

しかし、すぐに置く。

足元の鼠が木札を覗いた。

『かかない?』

「まだ」

『なんで』

「俺が見てないから」

『きいた』

「聞いた」

『ふね』

「船も聞いた」

鼠は少し不満そうだった。

甚兵衛はしゃがむ。

「でもな。聞いたことと、確かめたことは別だ」

三匹がこちらを見る。

『べつ』

「そう」

『なんで?』

少し考えてから、甚兵衛は言った。

「お前が間違ってるかもしれない」

三匹が固まった。

『まちがう?』

「ある」

『ない』

「ある」

『ない』

「あるって」

『ない』

甚兵衛は眉を寄せた。

「昨日、お前ら飯が少ないって言っただろ」

最初の鼠。

『すくない』

「足りてた」

『すくない』

「ほら」

二匹目が首を傾げる。

『ちがう?』

「ああ。俺には十分でも、お前らには少ない。同じものを見ても、違うことはある」

三匹は少し考えた。

最初の鼠。

『ごはん、すくない』

甚兵衛はため息をついた。

「そこは譲らないんだな」

◇

店へ着くと、今日は作兵衛が先に来ていた。

帳面を開き、指で数字を追っている。

「おはようございます」

「おう」

作兵衛は帳面から目を離さない。

甚兵衛は箒を取り、いつものように床を掃き始めた。

けれど頭の中にあるのは昨日の客だった。

銀を欲しがった二人。

場所は近い。

鼠の話では船がある。

船着場なのかもしれない。

でも、それが本当に銀の相場と関係しているのかは分からない。

考え込んでいるうちに、箒の動きが止まった。

「手」

作兵衛の声。

甚兵衛が顔を上げる。

「え」

「止まってる」

見ると、本当に箒が途中で止まっていた。

「……はい」

甚兵衛は掃除を再開した。

一通り終わってから箒を戻す。

それでも作兵衛は帳面を見ていた。

甚兵衛は少し迷ってから声をかける。

「作兵衛さん」

「何だ」

「昨日の銀の客なんですけど」

作兵衛が顔を上げる。

「二人?」

「はい」

甚兵衛は足元の鼠を見た。

「こいつらが、その辺りに荷があって、船もあるって言ってました」

「へえ」

「見に行ってもいいですか」

作兵衛はすぐには答えなかった。

「何を見に行く」

「船と、荷と」

甚兵衛は少し考えた。

「あと、銀が何で必要なのか」

「どうやって調べる」

「……」

見に行けば何か分かる。

そこまでしか考えていなかった。

「人に聞く」

「誰に」

「船着場の人」

「何て」

甚兵衛は言いかけて、自分で止まる。

「昨日から何で銀が必要なんですか、とか」

作兵衛は無言。

甚兵衛も少し黙った。

「……怪しい」

「ああ」

「かなり」

甚兵衛は考え直す。

「荷を見る。どこの店に運んでるか見る。あと、聞こえた話を覚える」

作兵衛が片眉を上げた。

「最後は盗み聞きか」

「言い方」

「違うのか」

「聞こえた範囲だけです」

作兵衛は鼻を鳴らし、帳面を閉じた。

「藤吉」

奥から声が返る。

「何です」

「今日、向こうに届け物あったな」

「あります」

作兵衛は甚兵衛を見る。

「一緒に行け」

「いいんです?」

「仕事のついでだ」

一拍。

「見物だけしてくるなよ」

「はい」

「それから」

「はい」

「見たものを、すぐ答えにするな」

甚兵衛は一瞬だけ黙った。

「……はい」

足元の鼠。

『かくにん』

甚兵衛。

「ああ」

作兵衛。

「何だって?」

「確認」

作兵衛は鼠を見た。

「お前より話が早いな」

甚兵衛は嫌そうな顔をした。

「最近、俺の立場悪くないです?」

◇

朝の仕事が始まる。

昨日よりは少しだけ身体が動く。

客が来れば声をかけ、品を取り、分からない値段は藤吉や弥助を見る。

銭も数える。

一度。

念のためもう一度。

同じ数字。

「ありがとうございました」

客が帰ったあと、甚兵衛は小さく息を吐いた。

棚の下から鼠の声。

『できた』

「ちょっとだけ」

『ひとり?』

「半分」

藤吉が振り返る。

「何だって?」

「一人でできたかって」

藤吉は即答した。

「まだ半分だな」

甚兵衛は鼠を見る。

「俺も同じこと言った」

鼠。

『おなじ』

「お前が言うな」

◇

昼前。

藤吉が届け物をまとめた。

包みを紐できつく結ぶと、甚兵衛に渡す。

「持て」

「はい」

受け取る。

思っていたより重い。

「……重い」

「持てるか」

「持てます」

「無理なら言え」

「はい」

店を出る。

三匹の鼠もついてきた。

一匹は前を走り、もう一匹は塀の上を進み、残りの一匹は甚兵衛の足元を行く。

『こっち』

甚兵衛が言う。

「こっちだそうです」

藤吉。

「俺も知ってる」

「ですよね」

歩きながら、甚兵衛は町を見る。

昨日までなら、ただの道だった。

今日は少し違って見える。

荷を持っている人。

空の荷車を引く人。

店へ入る人。

店から出る人。

どこから来たのか。

どこへ向かうのか。

何を運んでいるのか。

目があちこちへ動く。

「前」

藤吉の声。

「え」

目の前の人にぶつかりそうになり、慌てて避ける。

「すみません」

藤吉が呆れた顔をする。

「見るのはいいが、前見ろ」

「はい」

足元の鼠。

『まえ』

甚兵衛。

「お前まで言うな」

◇

しばらく歩くと、匂いが変わった。

湿った水の匂い。

縄。

木材。

魚。

汗。

人の声も大きくなる。

船着場。

甚兵衛の足が少しだけ遅くなる。

何艘かの船が岸についている。

荷を積む者。

下ろす者。

声を張り上げる者。

『ふね』

前を走っていた鼠が得意そうに言う。

甚兵衛。

「うん」

『あってた』

「船着場だからな」

『あってた』

「はいはい」

藤吉。

「何だって?」

「船があってたって」

「船着場に船がなかったら困る」

甚兵衛も頷く。

「俺もそう思います」

◇

まずは仕事。

届け先の店へ入る。

「持ってけ」

「はい」

甚兵衛が包みを置く。

店の男が紐を解き、中身を確認した。

「確かに」

男が支払いを出す。

藤吉が受け取る。

甚兵衛はそこを見る。

銭。

銀ではない。

「……」

藤吉。

「行くぞ」

「はい」

外へ出る。

甚兵衛が聞く。

「今の店は銭なんですね」

「ああ」

「昨日の客は銀でした」

「ああ」

「同じ辺りなのに」

藤吉は歩きながら答えた。

「同じ辺りだからって、同じ商いするわけじゃない」

「……」

また一つ。

単純じゃない。

◇

船の近くを通る。

箱。

俵。

包み。

木桶。

次々と荷が下ろされている。

「そっちじゃない!」

「先にこっちだ!」

「それは後!」

「銀でって言っただろ!」

甚兵衛の目が動いた。

銀。

その言葉に反応する。

だが足を止めかけたところで、藤吉が袖を軽く引いた。

「止まるな」

「はい」

歩きながら耳だけを向ける。

少し離れたところで、男が二人話している。

「昨日から銀が足りねえ」

「両替屋も上げやがった」

「荷が来たんだから仕方ねえだろ」

「こっちも待たせられねえんだ」

甚兵衛は黙って聞いた。

昨日から。

銀が足りない。

両替屋が上げた。

荷が来た。

待たせられない。

頭の中で、線がつながりそうになる。

荷が来た。

支払いが必要。

銀が必要。

欲しい人が増える。

銀が足りない。

値が上がる。

前世で知っていた言葉が浮かぶ。

需要。

供給。

でも。

甚兵衛は、その言葉に飛びつかなかった。

言葉だけなら知っている。

今は、それを使えば何となく分かった気にはなれる。

けれど本当に分かったとは限らない。

藤吉が横目で見る。

「顔」

「え」

「分かった顔してる」

甚兵衛は頬に手をやった。

「そんな顔あります?」

「ある」

「……」

「聞こえたんだろ」

「はい」

「なら覚えとけ」

藤吉は前を見たまま言う。

「答えにするな」

甚兵衛も前を見る。

「……はい」

◇

その時。

一匹の鼠が道を外れた。

細い路地へ入る。

『こっち』

甚兵衛が目を向ける。

『こっち』

藤吉。

「行かんぞ」

「あ」

「仕事中だ」

「はい」

鼠。

『ある』

甚兵衛は小声で聞く。

「何が」

『ぎん』

足が止まりそうになる。

藤吉。

「甚兵衛」

「はい」

歩く。

振り返らない。

ただ、その言葉だけは頭に残った。

銀がある。

どこに。

誰が持っている。

何のために。

どうしてそこにある。

気になる。

でも今は仕事だ。

◇

帰り道。

藤吉が突然聞いた。

「何見た」

甚兵衛。

「船」

「それは見れば分かる」

「荷」

「それも」

甚兵衛は少し考える。

「銀で払えって言ってた人」

「ああ」

「昨日から銀が足りないって」

「ああ」

「両替屋が上げたって」

「ああ」

「荷が来たから仕方ないって」

藤吉は頷く。

「他」

甚兵衛はさっきの届け先を思い出した。

「俺たちの届け先は銭だった」

「そう」

「同じ場所でも、全部が銀じゃない」

「そう」

甚兵衛は黙る。

荷が来た。

銀が必要。

でも、全員ではない。

何の荷なのか。

どの店なのか。

誰との取引なのか。

どれだけ必要なのか。

いつまで続くのか。

分からない。

甚兵衛。

「まだ分からない」

藤吉。

「ああ」

「それでいいんです?」

藤吉は少し笑った。

「今日一回歩いただけで全部分かったら、俺ら要らん」

「……」

「昨日より一個増えただろ」

「何が」

「分からないこと」

甚兵衛は少し笑った。

「作兵衛さんと同じこと言う」

「長く一緒にいるからな」

◇

店へ戻る。

作兵衛はまだ帳面を見ていた。

「どうだった」

藤吉。

「こいつに聞いてください」

甚兵衛は荷を置いた。

手が少し痺れている。

鼠たちが足元に集まる。

作兵衛。

「で」

甚兵衛は今日見たことを順番に言った。

「船着場に荷が来てました」

「ああ」

「銀で払えって話も聞きました」

「ああ」

「昨日から銀が足りないって人もいました」

「ああ」

「両替屋が上げたって話も」

作兵衛。

「なら?」

甚兵衛は一度息を吸う。

「荷が来たから、支払いに銀が必要になった」

作兵衛は黙っている。

甚兵衛は続けた。

「だから銀が欲しい人が増えた」

「ああ」

「銀が足りなくなって」

そこで止まる。

船着場で銭を払った店を思い出す。

何の荷だったのか。

誰が銀払いを約束したのか。

どれほど銀が必要なのか。

何も知らない。

甚兵衛。

「値が上がった」

一拍。

「……かもしれない」

作兵衛の口元が少し上がった。

「それでいい」

「断定しない?」

「何の荷か知ってるか」

「知らない」

「誰が銀で払う約束した」

「知らない」

「どれだけ必要だ」

「知らない」

「いつまで続く」

「知らない」

甚兵衛は嫌そうな顔をした。

「知らないことばっかり」

「ああ」

作兵衛が帳面を甚兵衛へ向けた。

「だから相場を見るんだろ」

指が数字を示す。

昨日。

今日。

甚兵衛は顔を近づけた。

「……上がってる」

「ああ」

大きな差ではない。

ほんの少し。

でも確かに違う。

甚兵衛。

「昨日、高くても銀が欲しいって客がいた」

「ああ」

「今日、両替屋も上げたって話を聞いた」

「ああ」

「この店の数字も上がってる」

「ああ」

甚兵衛は帳面を見る。

「繋がってる」

作兵衛。

「かもしれん」

甚兵衛。

「また」

作兵衛が笑った。

「それに慣れろ」

◇

昼。

甚兵衛は木札を三つ並べた。

一つ目。

《鼠》

船。

荷。

銀。

二つ目。

《人》

銀が足りない。

両替屋が上げた。

荷が来た。

三つ目。

《帳面》

昨日より銀が少し高い。

甚兵衛は三枚を見比べる。

作兵衛が横を通り、足を止めた。

「何だそれ」

「同じことを、別のところから確かめる」

「誰に教わった」

「今」

少し沈黙。

作兵衛が鼻を鳴らした。

「悪くない」

甚兵衛。

「鼠だけだと駄目?」

「ああ」

「人だけでも?」

「ああ」

「帳面だけでも?」

「ああ」

甚兵衛は顔をしかめた。

「面倒」

「商いだからな」

鼠が木札の上に乗る。

『ねずみ』

「ああ」

『ひと』

「うん」

『かみ』

「帳面」

『みっつ』

甚兵衛。

「今はな」

『もっと?』

木札を見る。

「たぶん」

鼠が嬉しそうに言う。

『たぶん』

甚兵衛。

「そこ拾うな」

◇

午後。

また客が来た。

男が店へ入るなり言う。

「銀、あるか」

甚兵衛は顔を上げた。

まただ。

作兵衛。

「どれくらい」

男が量を言う。

「何に使う」

「支払い」

「どこ」

場所。

甚兵衛の目が少し動いた。

昨日の二人と近い。

作兵衛。

「急ぐ?」

「今日中」

また。

今日中。

作兵衛が値を言う。

男は顔をしかめた。

「昨日より上がってるな」

「今日はこれだ」

「少し負からんか」

「無理」

男はしばらく迷った。

やがて。

「……仕方ねえ」

払う。

銀を受け取る。

そのまま帰っていった。

甚兵衛は作兵衛を見る。

作兵衛。

「言え」

「また同じ辺り」

「ああ」

「また今日中」

「ああ」

「昨日より高くても買った」

「ああ」

甚兵衛は少し考える。

「銀が欲しい人が増えてる」

作兵衛。

「少なくとも」

甚兵衛は言い直す。

「この店で見た限り」

「ああ」

「町全部じゃない」

「そう」

甚兵衛は木札の端へ、小さく書いた。

《この店で見た限り》

「これ大事?」

作兵衛は頷いた。

「三人来たのと、町全部で三百人来たのを同じにするな」

「なるほど」

足元。

鼠。

『さんびゃく』

甚兵衛。

「そこだけ覚えるな」

◇

夕方。

客が減る。

藤吉は奥。

弥助は銭をまとめている。

作兵衛は帳面。

甚兵衛は三匹の鼠を呼んだ。

「なあ」

三匹が集まる。

「昨日、銀があるって言ってた場所」

最初の鼠。

『ある』

「どこ」

『こっち』

走り出そうとした。

甚兵衛。

「待て」

木札を一枚出す。

炭で簡単に道を書く。

店。

大きな道。

船着場。

鼠たちが寄ってくる。

甚兵衛は店を指した。

「ここ」

『ここ』

船着場。

「ここ」

『ここ』

「銀」

鼠は少し考えた。

それから前足を伸ばし、船着場から少し外れた場所を押さえる。

「ここ?」

『うん』

「誰がいる」

『ひと』

甚兵衛。

「またそれ」

『いっぱい』

「何してる」

鼠は考える。

『はこ』

「箱?」

『もつ』

「運んでる?」

『うん』

「銀は」

『ひかる』

甚兵衛は少し身を乗り出した。

「見た?」

『みた』

「聞いたんじゃなく?」

『みた』

「誰が持ってた」

鼠。

『ひと』

「だから、それじゃ分からない」

鼠が困ったように首を傾げる。

そこで甚兵衛は止まった。

人間なら、顔。

服装。

店。

名前。

そういうところで人を区別する。

でも鼠にとって、そこまで区別する必要がないのかもしれない。

聞き方が悪い。

甚兵衛は言い直した。

「箱を持ってた?」

『うん』

「銀も?」

『うん』

「同じ人?」

鼠は止まった。

少し考える。

そして。

『しらない』

甚兵衛は一瞬だけ目を丸くした。

それから少し笑った。

「それでいい」

鼠。

『いい?』

「ああ。分からない時は、分からないって言ってくれ」

鼠。

『しらない』

「今は知ってるだろ」

◇

奥で聞いていた作兵衛が言う。

「面白いな」

甚兵衛は振り返る。

「何がです?」

「鼠の使い方」

「まだ使えてないです」

「だから面白い」

作兵衛が近づき、木札を見る。

「明日、行きたいか」

「はい」

すぐ答えた。

「仕事があるなら」

作兵衛は少し考える。

「まあ、何か作る」

甚兵衛の顔が少し明るくなる。

「ただし」

「はい」

作兵衛は鼠を指した。

「こいつらに答えを探させるな」

甚兵衛。

「……」

「何がある」

「何を見た」

「どこにいた」

「そこまで聞け」

作兵衛は続ける。

「それが何を意味するかは、お前が考えろ」

甚兵衛は昨日の木札を見る。

《鼠》

聞く。

場所。

何を欲しがる。

意味を自分で判断しない。

確認。

「鼠が勝手に意味を決めるな」

「ああ」

「俺も勝手に意味を決めるな」

「ああ」

甚兵衛は少し苦い顔をした。

「同じ?」

「同じ」

「耳痛いな」

鼠。

『いたい?』

甚兵衛。

「お前らの話じゃない」

◇

夕方。

店を閉める。

戸を閉じる音がして、外の声が少し遠くなる。

物置。

灯りを一つ。

甚兵衛は今日の木札を並べた。

昨日。

相場。

なぜ動く。

今日。

鼠。

人。

帳面。

筆を持つ。

《鼠》

速い。

広い。

数が多い。

人の入れない場所にも入れる。

でも、人間の金や商いの約束は分からない。

《人》

商いの意味が分かる。

理由を言葉で話す。

でも、その人が見ている場所しか分からない。

《帳面》

数字が残る。

昨日と今日を比べられる。

でも、なぜその数字になったのかは帳面だけでは分からない。

甚兵衛は筆を止めた。

三匹が木札を囲んでいる。

最初の鼠。

『わかった?』

「昨日より」

『ちょっと?』

「ちょっと」

二匹目。

『たぶん?』

甚兵衛は少し考えた。

「今日は、たぶんじゃない」

三匹がなぜか少し残念そうな顔をする。

甚兵衛。

「何で残念そうなんだよ」

最初の鼠。

『たぶん』

「それ好きだな」

甚兵衛はもう一度筆を取る。

一番下。

《情報は答えではない》

その下。

《見る場所を増やす》

甚兵衛は書いた文字をじっと見た。

前世では。

情報。

情報網。

市場。

需要。

供給。

そういう言葉を知っていた。

意味も、説明しようと思えば説明できた。

でも今。

船着場で聞いた声。

銀を高くても欲しがる客。

店の帳面。

作兵衛が銀を全部出さずに残した顔。

藤吉の「答えにするな」という言葉。

鼠の「しらない」。

それらを一つずつ見ていく方が、教科書の言葉よりずっと腹に落ちる。

甚兵衛は小さく呟いた。

「知ってるだけじゃ、駄目なんだな」

鼠。

『だめ?』

「うん」

『みる?』

「見る」

『きく?』

「聞く」

『いっぱい?』

甚兵衛は少し笑った。

「いっぱい」

三匹は胸を張る。

『ねずみ、いっぱい』

「ああ」

甚兵衛は頷いた。

「そこは強い」

三匹はさらに得意そうにする。

ただし。

甚兵衛は指を一本立てた。

「間違うこともある」

三匹。

一斉。

『ない』

「ある」

『ない』

「ある」

『ない』

甚兵衛は笑った。

「お前ら、そこだけ頑固だな」

暗い物置に、小さな鳴き声が響く。

人には。

ただの鼠の声。

「チチッ」

「チッ」

「チチチッ」

けれど甚兵衛には。

明日、確かめる場所が一つ増えた。

見るものも。

聞くものも。

考えることも増えた。

そして。

鼠を。

答えを持ってくる存在ではなく。

自分一人では見られない町の一角を、代わりに見てくれる存在として。

ほんの少しだけ。

考え始めていた。

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