翌朝。
甚兵衛は、目を開ける前から身体の重さで目が覚めかけていた。
胸にも、腹にも、足元にも何かが乗っている。
何か、ではない。
昨日と同じ三匹の鼠だ。
「……」
まだ目を閉じたまま、甚兵衛はしばらく動かなかった。
胸の上にいた鼠が鼻を動かす。
『おきた』
「まだ」
『め、あいた』
「開いただけ」
腹の上からも声がする。
『おきた』
「二度寝する」
すると足元の鼠が言った。
『そうば』
「……」
眠気が消えた。
甚兵衛は目を開け、ゆっくり身体を起こした。
胸の鼠が滑るように布団から降りる。
「お前、それ覚えてたのか」
『そうば』
別の鼠が続ける。
『まいにち』
三匹目。
『かわる』
甚兵衛は三匹を順番に見た。
「そこまで覚えた?」
三匹。
『うん』
「俺より復習してるな」
最初の鼠が首を傾げる。
『なんで?』
甚兵衛は欠伸を噛み殺した。
「それを今日聞くんだよ」
◇
顔を洗う。
水は冷たい。
頬から首筋まで冷やすと、残っていた眠気もだいぶ消えた。
部屋に戻ると、昨日使った木札がそのまま残っている。
一両。
両替。
相場。
毎日変わる。
その下には、大きく一つ。
《なぜ動く》
甚兵衛はしばらくそこを見た。
昨日、銀を欲しがった客がいた。
銭を欲しがった客もいた。
高くても銀が欲しいと言った客もいた。
そして鼠からは、同じ辺りに船や荷があると聞いた。
偶然かもしれない。
関係があるのかもしれない。
まだ分からない。
昨日までの相場は、毎日変わる数字でしかなかった。
けれど今は、その数字の後ろで人や物が動いているように思える。
甚兵衛は筆を取った。
しかし、すぐに置く。
足元の鼠が木札を覗いた。
『かかない?』
「まだ」
『なんで』
「俺が見てないから」
『きいた』
「聞いた」
『ふね』
「船も聞いた」
鼠は少し不満そうだった。
甚兵衛はしゃがむ。
「でもな。聞いたことと、確かめたことは別だ」
三匹がこちらを見る。
『べつ』
「そう」
『なんで?』
少し考えてから、甚兵衛は言った。
「お前が間違ってるかもしれない」
三匹が固まった。
『まちがう?』
「ある」
『ない』
「ある」
『ない』
「あるって」
『ない』
甚兵衛は眉を寄せた。
「昨日、お前ら飯が少ないって言っただろ」
最初の鼠。
『すくない』
「足りてた」
『すくない』
「ほら」
二匹目が首を傾げる。
『ちがう?』
「ああ。俺には十分でも、お前らには少ない。同じものを見ても、違うことはある」
三匹は少し考えた。
最初の鼠。
『ごはん、すくない』
甚兵衛はため息をついた。
「そこは譲らないんだな」
◇
店へ着くと、今日は作兵衛が先に来ていた。
帳面を開き、指で数字を追っている。
「おはようございます」
「おう」
作兵衛は帳面から目を離さない。
甚兵衛は箒を取り、いつものように床を掃き始めた。
けれど頭の中にあるのは昨日の客だった。
銀を欲しがった二人。
場所は近い。
鼠の話では船がある。
船着場なのかもしれない。
でも、それが本当に銀の相場と関係しているのかは分からない。
考え込んでいるうちに、箒の動きが止まった。
「手」
作兵衛の声。
甚兵衛が顔を上げる。
「え」
「止まってる」
見ると、本当に箒が途中で止まっていた。
「……はい」
甚兵衛は掃除を再開した。
一通り終わってから箒を戻す。
それでも作兵衛は帳面を見ていた。
甚兵衛は少し迷ってから声をかける。
「作兵衛さん」
「何だ」
「昨日の銀の客なんですけど」
作兵衛が顔を上げる。
「二人?」
「はい」
甚兵衛は足元の鼠を見た。
「こいつらが、その辺りに荷があって、船もあるって言ってました」
「へえ」
「見に行ってもいいですか」
作兵衛はすぐには答えなかった。
「何を見に行く」
「船と、荷と」
甚兵衛は少し考えた。
「あと、銀が何で必要なのか」
「どうやって調べる」
「……」
見に行けば何か分かる。
そこまでしか考えていなかった。
「人に聞く」
「誰に」
「船着場の人」
「何て」
甚兵衛は言いかけて、自分で止まる。
「昨日から何で銀が必要なんですか、とか」
作兵衛は無言。
甚兵衛も少し黙った。
「……怪しい」
「ああ」
「かなり」
甚兵衛は考え直す。
「荷を見る。どこの店に運んでるか見る。あと、聞こえた話を覚える」
作兵衛が片眉を上げた。
「最後は盗み聞きか」
「言い方」
「違うのか」
「聞こえた範囲だけです」
作兵衛は鼻を鳴らし、帳面を閉じた。
「藤吉」
奥から声が返る。
「何です」
「今日、向こうに届け物あったな」
「あります」
作兵衛は甚兵衛を見る。
「一緒に行け」
「いいんです?」
「仕事のついでだ」
一拍。
「見物だけしてくるなよ」
「はい」
「それから」
「はい」
「見たものを、すぐ答えにするな」
甚兵衛は一瞬だけ黙った。
「……はい」
足元の鼠。
『かくにん』
甚兵衛。
「ああ」
作兵衛。
「何だって?」
「確認」
作兵衛は鼠を見た。
「お前より話が早いな」
甚兵衛は嫌そうな顔をした。
「最近、俺の立場悪くないです?」
◇
朝の仕事が始まる。
昨日よりは少しだけ身体が動く。
客が来れば声をかけ、品を取り、分からない値段は藤吉や弥助を見る。
銭も数える。
一度。
念のためもう一度。
同じ数字。
「ありがとうございました」
客が帰ったあと、甚兵衛は小さく息を吐いた。
棚の下から鼠の声。
『できた』
「ちょっとだけ」
『ひとり?』
「半分」
藤吉が振り返る。
「何だって?」
「一人でできたかって」
藤吉は即答した。
「まだ半分だな」
甚兵衛は鼠を見る。
「俺も同じこと言った」
鼠。
『おなじ』
「お前が言うな」
◇
昼前。
藤吉が届け物をまとめた。
包みを紐できつく結ぶと、甚兵衛に渡す。
「持て」
「はい」
受け取る。
思っていたより重い。
「……重い」
「持てるか」
「持てます」
「無理なら言え」
「はい」
店を出る。
三匹の鼠もついてきた。
一匹は前を走り、もう一匹は塀の上を進み、残りの一匹は甚兵衛の足元を行く。
『こっち』
甚兵衛が言う。
「こっちだそうです」
藤吉。
「俺も知ってる」
「ですよね」
歩きながら、甚兵衛は町を見る。
昨日までなら、ただの道だった。
今日は少し違って見える。
荷を持っている人。
空の荷車を引く人。
店へ入る人。
店から出る人。
どこから来たのか。
どこへ向かうのか。
何を運んでいるのか。
目があちこちへ動く。
「前」
藤吉の声。
「え」
目の前の人にぶつかりそうになり、慌てて避ける。
「すみません」
藤吉が呆れた顔をする。
「見るのはいいが、前見ろ」
「はい」
足元の鼠。
『まえ』
甚兵衛。
「お前まで言うな」
◇
しばらく歩くと、匂いが変わった。
湿った水の匂い。
縄。
木材。
魚。
汗。
人の声も大きくなる。
船着場。
甚兵衛の足が少しだけ遅くなる。
何艘かの船が岸についている。
荷を積む者。
下ろす者。
声を張り上げる者。
『ふね』
前を走っていた鼠が得意そうに言う。
甚兵衛。
「うん」
『あってた』
「船着場だからな」
『あってた』
「はいはい」
藤吉。
「何だって?」
「船があってたって」
「船着場に船がなかったら困る」
甚兵衛も頷く。
「俺もそう思います」
◇
まずは仕事。
届け先の店へ入る。
「持ってけ」
「はい」
甚兵衛が包みを置く。
店の男が紐を解き、中身を確認した。
「確かに」
男が支払いを出す。
藤吉が受け取る。
甚兵衛はそこを見る。
銭。
銀ではない。
「……」
藤吉。
「行くぞ」
「はい」
外へ出る。
甚兵衛が聞く。
「今の店は銭なんですね」
「ああ」
「昨日の客は銀でした」
「ああ」
「同じ辺りなのに」
藤吉は歩きながら答えた。
「同じ辺りだからって、同じ商いするわけじゃない」
「……」
また一つ。
単純じゃない。
◇
船の近くを通る。
箱。
俵。
包み。
木桶。
次々と荷が下ろされている。
「そっちじゃない!」
「先にこっちだ!」
「それは後!」
「銀でって言っただろ!」
甚兵衛の目が動いた。
銀。
その言葉に反応する。
だが足を止めかけたところで、藤吉が袖を軽く引いた。
「止まるな」
「はい」
歩きながら耳だけを向ける。
少し離れたところで、男が二人話している。
「昨日から銀が足りねえ」
「両替屋も上げやがった」
「荷が来たんだから仕方ねえだろ」
「こっちも待たせられねえんだ」
甚兵衛は黙って聞いた。
昨日から。
銀が足りない。
両替屋が上げた。
荷が来た。
待たせられない。
頭の中で、線がつながりそうになる。
荷が来た。
支払いが必要。
銀が必要。
欲しい人が増える。
銀が足りない。
値が上がる。
前世で知っていた言葉が浮かぶ。
需要。
供給。
でも。
甚兵衛は、その言葉に飛びつかなかった。
言葉だけなら知っている。
今は、それを使えば何となく分かった気にはなれる。
けれど本当に分かったとは限らない。
藤吉が横目で見る。
「顔」
「え」
「分かった顔してる」
甚兵衛は頬に手をやった。
「そんな顔あります?」
「ある」
「……」
「聞こえたんだろ」
「はい」
「なら覚えとけ」
藤吉は前を見たまま言う。
「答えにするな」
甚兵衛も前を見る。
「……はい」
◇
その時。
一匹の鼠が道を外れた。
細い路地へ入る。
『こっち』
甚兵衛が目を向ける。
『こっち』
藤吉。
「行かんぞ」
「あ」
「仕事中だ」
「はい」
鼠。
『ある』
甚兵衛は小声で聞く。
「何が」
『ぎん』
足が止まりそうになる。
藤吉。
「甚兵衛」
「はい」
歩く。
振り返らない。
ただ、その言葉だけは頭に残った。
銀がある。
どこに。
誰が持っている。
何のために。
どうしてそこにある。
気になる。
でも今は仕事だ。
◇
帰り道。
藤吉が突然聞いた。
「何見た」
甚兵衛。
「船」
「それは見れば分かる」
「荷」
「それも」
甚兵衛は少し考える。
「銀で払えって言ってた人」
「ああ」
「昨日から銀が足りないって」
「ああ」
「両替屋が上げたって」
「ああ」
「荷が来たから仕方ないって」
藤吉は頷く。
「他」
甚兵衛はさっきの届け先を思い出した。
「俺たちの届け先は銭だった」
「そう」
「同じ場所でも、全部が銀じゃない」
「そう」
甚兵衛は黙る。
荷が来た。
銀が必要。
でも、全員ではない。
何の荷なのか。
どの店なのか。
誰との取引なのか。
どれだけ必要なのか。
いつまで続くのか。
分からない。
甚兵衛。
「まだ分からない」
藤吉。
「ああ」
「それでいいんです?」
藤吉は少し笑った。
「今日一回歩いただけで全部分かったら、俺ら要らん」
「……」
「昨日より一個増えただろ」
「何が」
「分からないこと」
甚兵衛は少し笑った。
「作兵衛さんと同じこと言う」
「長く一緒にいるからな」
◇
店へ戻る。
作兵衛はまだ帳面を見ていた。
「どうだった」
藤吉。
「こいつに聞いてください」
甚兵衛は荷を置いた。
手が少し痺れている。
鼠たちが足元に集まる。
作兵衛。
「で」
甚兵衛は今日見たことを順番に言った。
「船着場に荷が来てました」
「ああ」
「銀で払えって話も聞きました」
「ああ」
「昨日から銀が足りないって人もいました」
「ああ」
「両替屋が上げたって話も」
作兵衛。
「なら?」
甚兵衛は一度息を吸う。
「荷が来たから、支払いに銀が必要になった」
作兵衛は黙っている。
甚兵衛は続けた。
「だから銀が欲しい人が増えた」
「ああ」
「銀が足りなくなって」
そこで止まる。
船着場で銭を払った店を思い出す。
何の荷だったのか。
誰が銀払いを約束したのか。
どれほど銀が必要なのか。
何も知らない。
甚兵衛。
「値が上がった」
一拍。
「……かもしれない」
作兵衛の口元が少し上がった。
「それでいい」
「断定しない?」
「何の荷か知ってるか」
「知らない」
「誰が銀で払う約束した」
「知らない」
「どれだけ必要だ」
「知らない」
「いつまで続く」
「知らない」
甚兵衛は嫌そうな顔をした。
「知らないことばっかり」
「ああ」
作兵衛が帳面を甚兵衛へ向けた。
「だから相場を見るんだろ」
指が数字を示す。
昨日。
今日。
甚兵衛は顔を近づけた。
「……上がってる」
「ああ」
大きな差ではない。
ほんの少し。
でも確かに違う。
甚兵衛。
「昨日、高くても銀が欲しいって客がいた」
「ああ」
「今日、両替屋も上げたって話を聞いた」
「ああ」
「この店の数字も上がってる」
「ああ」
甚兵衛は帳面を見る。
「繋がってる」
作兵衛。
「かもしれん」
甚兵衛。
「また」
作兵衛が笑った。
「それに慣れろ」
◇
昼。
甚兵衛は木札を三つ並べた。
一つ目。
《鼠》
船。
荷。
銀。
二つ目。
《人》
銀が足りない。
両替屋が上げた。
荷が来た。
三つ目。
《帳面》
昨日より銀が少し高い。
甚兵衛は三枚を見比べる。
作兵衛が横を通り、足を止めた。
「何だそれ」
「同じことを、別のところから確かめる」
「誰に教わった」
「今」
少し沈黙。
作兵衛が鼻を鳴らした。
「悪くない」
甚兵衛。
「鼠だけだと駄目?」
「ああ」
「人だけでも?」
「ああ」
「帳面だけでも?」
「ああ」
甚兵衛は顔をしかめた。
「面倒」
「商いだからな」
鼠が木札の上に乗る。
『ねずみ』
「ああ」
『ひと』
「うん」
『かみ』
「帳面」
『みっつ』
甚兵衛。
「今はな」
『もっと?』
木札を見る。
「たぶん」
鼠が嬉しそうに言う。
『たぶん』
甚兵衛。
「そこ拾うな」
◇
午後。
また客が来た。
男が店へ入るなり言う。
「銀、あるか」
甚兵衛は顔を上げた。
まただ。
作兵衛。
「どれくらい」
男が量を言う。
「何に使う」
「支払い」
「どこ」
場所。
甚兵衛の目が少し動いた。
昨日の二人と近い。
作兵衛。
「急ぐ?」
「今日中」
また。
今日中。
作兵衛が値を言う。
男は顔をしかめた。
「昨日より上がってるな」
「今日はこれだ」
「少し負からんか」
「無理」
男はしばらく迷った。
やがて。
「……仕方ねえ」
払う。
銀を受け取る。
そのまま帰っていった。
甚兵衛は作兵衛を見る。
作兵衛。
「言え」
「また同じ辺り」
「ああ」
「また今日中」
「ああ」
「昨日より高くても買った」
「ああ」
甚兵衛は少し考える。
「銀が欲しい人が増えてる」
作兵衛。
「少なくとも」
甚兵衛は言い直す。
「この店で見た限り」
「ああ」
「町全部じゃない」
「そう」
甚兵衛は木札の端へ、小さく書いた。
《この店で見た限り》
「これ大事?」
作兵衛は頷いた。
「三人来たのと、町全部で三百人来たのを同じにするな」
「なるほど」
足元。
鼠。
『さんびゃく』
甚兵衛。
「そこだけ覚えるな」
◇
夕方。
客が減る。
藤吉は奥。
弥助は銭をまとめている。
作兵衛は帳面。
甚兵衛は三匹の鼠を呼んだ。
「なあ」
三匹が集まる。
「昨日、銀があるって言ってた場所」
最初の鼠。
『ある』
「どこ」
『こっち』
走り出そうとした。
甚兵衛。
「待て」
木札を一枚出す。
炭で簡単に道を書く。
店。
大きな道。
船着場。
鼠たちが寄ってくる。
甚兵衛は店を指した。
「ここ」
『ここ』
船着場。
「ここ」
『ここ』
「銀」
鼠は少し考えた。
それから前足を伸ばし、船着場から少し外れた場所を押さえる。
「ここ?」
『うん』
「誰がいる」
『ひと』
甚兵衛。
「またそれ」
『いっぱい』
「何してる」
鼠は考える。
『はこ』
「箱?」
『もつ』
「運んでる?」
『うん』
「銀は」
『ひかる』
甚兵衛は少し身を乗り出した。
「見た?」
『みた』
「聞いたんじゃなく?」
『みた』
「誰が持ってた」
鼠。
『ひと』
「だから、それじゃ分からない」
鼠が困ったように首を傾げる。
そこで甚兵衛は止まった。
人間なら、顔。
服装。
店。
名前。
そういうところで人を区別する。
でも鼠にとって、そこまで区別する必要がないのかもしれない。
聞き方が悪い。
甚兵衛は言い直した。
「箱を持ってた?」
『うん』
「銀も?」
『うん』
「同じ人?」
鼠は止まった。
少し考える。
そして。
『しらない』
甚兵衛は一瞬だけ目を丸くした。
それから少し笑った。
「それでいい」
鼠。
『いい?』
「ああ。分からない時は、分からないって言ってくれ」
鼠。
『しらない』
「今は知ってるだろ」
◇
奥で聞いていた作兵衛が言う。
「面白いな」
甚兵衛は振り返る。
「何がです?」
「鼠の使い方」
「まだ使えてないです」
「だから面白い」
作兵衛が近づき、木札を見る。
「明日、行きたいか」
「はい」
すぐ答えた。
「仕事があるなら」
作兵衛は少し考える。
「まあ、何か作る」
甚兵衛の顔が少し明るくなる。
「ただし」
「はい」
作兵衛は鼠を指した。
「こいつらに答えを探させるな」
甚兵衛。
「……」
「何がある」
「何を見た」
「どこにいた」
「そこまで聞け」
作兵衛は続ける。
「それが何を意味するかは、お前が考えろ」
甚兵衛は昨日の木札を見る。
《鼠》
聞く。
場所。
何を欲しがる。
意味を自分で判断しない。
確認。
「鼠が勝手に意味を決めるな」
「ああ」
「俺も勝手に意味を決めるな」
「ああ」
甚兵衛は少し苦い顔をした。
「同じ?」
「同じ」
「耳痛いな」
鼠。
『いたい?』
甚兵衛。
「お前らの話じゃない」
◇
夕方。
店を閉める。
戸を閉じる音がして、外の声が少し遠くなる。
物置。
灯りを一つ。
甚兵衛は今日の木札を並べた。
昨日。
相場。
なぜ動く。
今日。
鼠。
人。
帳面。
筆を持つ。
《鼠》
速い。
広い。
数が多い。
人の入れない場所にも入れる。
でも、人間の金や商いの約束は分からない。
《人》
商いの意味が分かる。
理由を言葉で話す。
でも、その人が見ている場所しか分からない。
《帳面》
数字が残る。
昨日と今日を比べられる。
でも、なぜその数字になったのかは帳面だけでは分からない。
甚兵衛は筆を止めた。
三匹が木札を囲んでいる。
最初の鼠。
『わかった?』
「昨日より」
『ちょっと?』
「ちょっと」
二匹目。
『たぶん?』
甚兵衛は少し考えた。
「今日は、たぶんじゃない」
三匹がなぜか少し残念そうな顔をする。
甚兵衛。
「何で残念そうなんだよ」
最初の鼠。
『たぶん』
「それ好きだな」
甚兵衛はもう一度筆を取る。
一番下。
《情報は答えではない》
その下。
《見る場所を増やす》
甚兵衛は書いた文字をじっと見た。
前世では。
情報。
情報網。
市場。
需要。
供給。
そういう言葉を知っていた。
意味も、説明しようと思えば説明できた。
でも今。
船着場で聞いた声。
銀を高くても欲しがる客。
店の帳面。
作兵衛が銀を全部出さずに残した顔。
藤吉の「答えにするな」という言葉。
鼠の「しらない」。
それらを一つずつ見ていく方が、教科書の言葉よりずっと腹に落ちる。
甚兵衛は小さく呟いた。
「知ってるだけじゃ、駄目なんだな」
鼠。
『だめ?』
「うん」
『みる?』
「見る」
『きく?』
「聞く」
『いっぱい?』
甚兵衛は少し笑った。
「いっぱい」
三匹は胸を張る。
『ねずみ、いっぱい』
「ああ」
甚兵衛は頷いた。
「そこは強い」
三匹はさらに得意そうにする。
ただし。
甚兵衛は指を一本立てた。
「間違うこともある」
三匹。
一斉。
『ない』
「ある」
『ない』
「ある」
『ない』
甚兵衛は笑った。
「お前ら、そこだけ頑固だな」
暗い物置に、小さな鳴き声が響く。
人には。
ただの鼠の声。
「チチッ」
「チッ」
「チチチッ」
けれど甚兵衛には。
明日、確かめる場所が一つ増えた。
見るものも。
聞くものも。
考えることも増えた。
そして。
鼠を。
答えを持ってくる存在ではなく。
自分一人では見られない町の一角を、代わりに見てくれる存在として。
ほんの少しだけ。
考え始めていた。