翌朝。
甚兵衛が目を覚ますと、三匹の鼠はもう起きていた。
正確には、一匹は胸の上。
一匹は枕元。
もう一匹は、昨日書いた木札の前に座っている。
「……何してる」
木札の前にいた鼠が振り返った。
『ぎん』
人間の耳には、ただの短い鳴き声にしか聞こえない。
けれど甚兵衛には、はっきり意味が分かる。
「まだ朝だぞ」
『きょう、いく』
「行けたらな」
『いく』
「仕事があったらって言っただろ」
鼠は少し考えた。
『しごと、つくる』
甚兵衛は黙った。
「……お前が店の仕事を作るな」
胸の上の鼠が鳴く。
『おきた』
「起きたよ」
今度は否定しなかった。
◇
顔を洗う。
冷たい水で眠気を飛ばしてから、昨日の木札を見る。
《情報は答えではない》
《見る場所を増やす》
その隣には、鼠が示した場所を簡単に描いた木札もある。
船着場から少し外れた辺り。
鼠が銀を見た場所。
箱を運ぶ人間もいたらしい。
ただし、誰が。
何のために。
どれほどの銀を。
そこまでは分からない。
甚兵衛は木札を持ち上げた。
「今日は、この続きだな」
足元の鼠。
『ぎん』
「銀があった。それは分かった」
別の鼠が鳴く。
『いっぱい』
「お前の『いっぱい』が、人間にとってどれくらいかは分からないけどな」
『みた』
「疑ってるわけじゃない」
甚兵衛はしゃがんだ。
「見たものは信じる。でも、その意味は別だ」
三匹がこちらを見る。
最初の鼠。
『いみ?』
「そこに銀があるからって、余ってるとは限らないだろ」
三匹とも首を傾げた。
甚兵衛自身、言いながら止まる。
「……いや」
それを確かめるために行くのか。
甚兵衛は立ち上がった。
「まだ俺も分かってない」
鼠。
『しらない』
「ああ」
『きく』
「聞くし、見る」
三匹。
『いく』
「まず仕事な」
◇
店へ着く。
今日は藤吉が先に来ていた。
戸口を開け、店先を整えている。
「おはようございます」
「おう」
「作兵衛さんは?」
「奥」
奥を見ると、作兵衛はすでに帳面と何枚かの紙を広げていた。
甚兵衛はそちらへ行きかけて。
止まった。
先に掃除。
箒を取る。
藤吉がちらりと見る。
「今日は言われる前にやるな」
「昨日、途中で止まったので」
「覚えたか」
「はい」
足元から声。
『せいちょう』
甚兵衛は鼠を見る。
「朝から偉そうだな」
藤吉が振り返った。
「鼠に何か言われたのか」
「成長したって」
「鼠にまで褒められてるのか」
「本人はかなり得意そうですけど」
藤吉には。
「チチッ」
としか聞こえない。
鼠は胸を張っている。
藤吉が笑った。
「本当にそんなこと言ってるのか?」
「言ってます」
「便利な耳だな」
甚兵衛は箒を動かしながら答える。
「便利ですけど、こいつらが人間と同じように物を見てるわけじゃないです」
「ふうん」
今は。
それ以上。
説明しない。
◇
掃除を終えてから、作兵衛のところへ行く。
「終わりました」
「ああ」
「昨日の場所なんですけど」
作兵衛が顔を上げる。
「鼠が銀を見たってところか」
「はい」
昨日。
必要なところだけ。
甚兵衛が伝えてある。
作兵衛は足元の三匹を見る。
鼠たちは作兵衛を見返す。
「チッ」
「チチッ」
作兵衛には。
それだけ。
「今日は何て言ってる」
甚兵衛。
「行きたいって」
「鼠が?」
「はい」
一匹が鳴く。
『しごと、つくる』
甚兵衛は眉を寄せる。
「今のは訳さなくていいです」
作兵衛。
「何だ」
「仕事作れって」
一拍。
作兵衛が笑った。
「ちょうどいい」
甚兵衛。
「え」
作兵衛は紙を一枚出した。
「届け物」
「どこです?」
「昨日より少し先」
甚兵衛は紙の文字を見る。
まだ全部は読めない。
けれど店の名と、おおよその場所は分かる。
「鼠が言ってた場所に近い?」
「近い」
甚兵衛の顔が少し明るくなる。
作兵衛はすぐに釘を刺した。
「届け物が先だ」
「はい」
「相場見物が先になったら帰す」
「はい」
「鼠追って勝手に路地へ入っても帰す」
「はい」
「分かった気になるな」
「はい」
奥から藤吉。
「俺も行くんですよね」
「行け」
藤吉。
「やっぱり」
◇
午前中。
甚兵衛は店の仕事をする。
昨日より、少しだけ品の場所が分かるようになってきた。
紐ならこの辺り。
紙ならあちら。
小物は奥。
値段はまだ分からないものが多い。
でも。
分からない時に、誰を見ればいいかは分かる。
それだけで動きは少し速くなる。
客が一人。
品を買う。
甚兵衛は銭を受け取った。
数える。
一度。
念のためもう一度。
同じ。
「ありがとうございました」
客が出る。
棚の下。
『できた』
甚兵衛は小さく返す。
「ちょっとな」
『ひとり?』
「六割くらい」
藤吉。
「何の話だ」
甚兵衛。
「一人でできたかって聞かれました」
「値段、俺に聞いただろ」
「だから六割です」
鼠。
『ろく』
甚兵衛は足元を見る。
「数字まで覚え始めたな」
藤吉には。
「チュッ」
としか聞こえない。
「今は?」
「六って」
「本当に喋ってんだな」
「ずっと喋ってますよ」
「俺には鼠だ」
甚兵衛は少しだけ笑った。
「それでいいんです」
◇
昼前。
藤吉が届け物をまとめる。
今日は包みが二つ。
昨日より小さい。
けれど持ってみると、それなりに重い。
「何が入ってるんです?」
「紙」
「紙って重いんですね」
「一枚なら軽い」
藤吉は包みを持ち上げる。
「束になるとな」
甚兵衛は受け取った。
「なるほど」
三匹の鼠も店を出る。
一匹が先へ。
一匹が塀の上へ。
もう一匹が甚兵衛の足元を走る。
前を行く鼠が鳴く。
『こっち』
甚兵衛。
「道は合ってるみたいです」
藤吉。
「鼠に確認してもらわなくても知ってる」
「それもそうですね」
◇
町を歩く。
昨日までなら。
道は道。
店は店。
人は人。
それだけだった。
今日は少し違う。
荷を積んだ車。
空の車。
同じ道を往復する男。
店先で荷を待つ者。
荷札を確かめる者。
銭を数える者。
怒鳴っている者。
笑っている者。
甚兵衛の目が、自然と動く。
藤吉。
「前」
甚兵衛。
「はい」
今日は人にぶつからない。
「今日は見てます」
「昨日ぶつかりかけたからな」
足元。
『まえ』
甚兵衛。
「今日は大丈夫」
藤吉。
「鼠は何て」
「前見ろって」
藤吉が笑う。
「俺と同じじゃねえか」
「言うことまで似てきました」
◇
水の匂いが近づく。
湿った風。
縄と木材。
魚。
汗。
大勢の人間。
船着場。
昨日よりも。
少し余裕を持って見られる。
何艘かの船が岸についている。
荷を下ろす人。
積む人。
帳面を見る人。
運ぶ人。
前を走っていた鼠が振り返る。
『ふね』
甚兵衛。
「あるな」
『あってた』
「そこは疑ってないよ」
藤吉。
「今は?」
「船があったって喜んでます」
藤吉は船着場を見渡した。
「ここまで来てなかったら大事だ」
甚兵衛。
「俺もそう言ったんですけど」
鼠。
『あってた』
甚兵衛。
「はいはい」
◇
まず仕事。
届け先へ行く。
包みを渡し。
中身を確かめてもらう。
相手が支払いを出す。
銭。
今日も銀ではない。
藤吉が受け取る。
甚兵衛は黙って見る。
昨日も銭。
今日も銭。
同じ船着場の辺り。
それでも。
銀を欲しがる人間はいる。
町全体が同じ金で動いているわけではない。
当たり前。
けれど。
こうして一つずつ見ると、その当たり前が大事に思える。
店を出る。
甚兵衛。
「ここは今日も銭でしたね」
藤吉。
「ああ」
「銀が欲しい人が増えてても」
「全部の店が銀を使うわけじゃない」
「ああ」
甚兵衛は頷いた。
「混ぜない方がいいですね」
「何を」
「近い場所だからって、全部同じだと思うこと」
藤吉。
「そうだな」
◇
仕事を終える。
藤吉が甚兵衛を見る。
「で」
「はい」
「行きたいんだろ」
甚兵衛。
「いいんです?」
「寄るだけ」
「はい」
「勝手なことはするな」
「はい」
◇
昨日。
鼠が示した路地へ入る。
大通りより人は少ない。
それでも荷は動いている。
木箱がいくつも積まれている。
男たちが運ぶ。
鼠が先へ行く。
壁際で止まった。
『ここ』
甚兵衛は声に出さず、鼠が見ている方向を見る。
建物。
店というより倉に近い。
戸が開いている。
中は薄暗い。
人が数人。
箱。
帳面。
秤。
そして。
銀。
甚兵衛の目が少し大きくなる。
鼠の話は本当だった。
銀がある。
一つや二つではない。
少なくとも。
甚兵衛がこれまで店で一度に見た量よりは多い。
横の鼠が鳴く。
『いっぱい』
甚兵衛は小さく。
「うん」
藤吉。
「何だ」
「銀がいっぱいあるって」
藤吉も倉の中を見る。
「ああ」
「こいつが昨日見たのも、たぶんこれです」
「だろうな」
その時。
倉の中から大きな声がした。
「それは出すな!」
別の男が答える。
「でも今日の分が」
「それは明日の支払いだ!」
「じゃあこっちは?」
「そっちは向こうへ回す!」
「店からまた銀の頼み来てます!」
「全部出したら、こっちが払えんだろ!」
甚兵衛は黙る。
銀はある。
目の前に。
確かにある。
でも。
出せない。
明日の支払い。
別の場所へ回す分。
自分たちが払う分。
すでに行き先がある。
昨日。
作兵衛も店にある銀を全部は出さなかった。
次に必要になるかもしれない。
明日の相場も分からない。
店自身の支払いもある。
同じ。
甚兵衛は倉を見る。
銀があることと。
銀が余っていること。
同じではない。
藤吉。
「行くぞ」
甚兵衛。
「はい」
鼠。
『ぎん、あった』
甚兵衛は歩きながら、小さく答える。
「あった」
『いっぱい』
「あった」
『じゃあ、いっぱい』
「でも全部は出せない」
鼠。
『なんで?』
「使うから」
『だれ?』
「人間が」
『いつ?』
甚兵衛。
「……」
そこで止まる。
いつ使う。
甚兵衛は鼠を見る。
「それ、あとで書く」
鼠。
『かく』
◇
帰り道。
藤吉が聞いた。
「何が分かった」
甚兵衛は少し考えてから答える。
「銀はありました」
「ああ」
「鼠の言ってた通り、俺が今まで見たより多かった」
「ああ」
「でも」
少し考える。
「銀があるのと、銀が余ってるのは違う」
藤吉。
「ああ」
「明日の支払い用」
「別のところへ回す分」
「自分たちが払う分」
「もう使い道が決まってる」
「ああ」
甚兵衛は歩きながら眉を寄せる。
「じゃあ、たくさん持ってても売れないことがある」
「ある」
「売れないなら」
少し迷う。
「銀を欲しい側から見れば、使える銀は少ない」
藤吉。
「ああ」
「でも銀そのものが無いわけじゃない」
「そう」
甚兵衛。
「……ややこしい」
藤吉。
「商いだからな」
甚兵衛。
「最近それで全部済ませてません?」
「便利だからな」
足元で鼠が鳴く。
「チチッ」
藤吉。
「今度は何て」
甚兵衛。
「難しいって」
藤吉。
「鼠にも分かるか」
「たぶん、俺の顔見て言ってます」
◇
店へ戻る。
作兵衛が帳面から顔を上げる。
「どうだった」
甚兵衛。
「銀、ありました」
「鼠の話通り?」
「はい」
「多かった?」
「少なくとも、俺が今まで見たよりは」
作兵衛。
「じゃあ余ってたか」
甚兵衛。
「余ってませんでした」
作兵衛の口元が少し上がる。
「何で」
「明日の支払いに残す銀があった」
「別のところに回す銀も」
「店から頼まれてる分も」
「全部出したら自分たちが払えないって言ってました」
作兵衛。
「ああ」
甚兵衛。
「だから、持ってる量だけじゃ分からない」
「そう」
「今すぐ出せる量も見る」
「そういう見方もある」
甚兵衛は木札を取る。
《銀がある》
その下。
《銀が余っている》
二つの間に。
《同じではない》
と書く。
さらに。
《使い道が決まっている銀》
《支払いに残す銀》
《売れる銀》
《すぐ出せる銀》
作兵衛が見る。
甚兵衛。
「銀は銀なのに」
「人によって違うんですね」
作兵衛。
「銀そのものが変わるわけじゃない」
「ああ」
「人の都合が違う」
甚兵衛はその言葉を見るように、少し黙った。
「人の都合」
「そう」
「銀だけ見ても相場は分からん」
甚兵衛。
「欲しい人」
「持ってる人」
「急ぐ人」
「待てる人」
そこへ。
「持ってても出せない人」
作兵衛。
「ああ」
◇
午後。
一人の客が来る。
「銀、あるか」
作兵衛。
「ある」
量を聞く。
値を言う。
客は顔をしかめた。
「高いな」
「今日はな」
「昨日までならもう少し安かっただろ」
「昨日は昨日」
客は少し迷った。
「明日、下がるか?」
作兵衛。
「知らん」
客。
「知らんって」
「下がるかもしれん」
「上がるかもしれん」
作兵衛は平然としている。
「今日要るなら今日の値だ」
客。
「……急がん」
「なら待て」
「そうする」
客は買わずに帰った。
甚兵衛はその背中を見る。
「買わなかった」
作兵衛。
「ああ」
「昨日の人は高くても買った」
「ああ」
「今の人は待てる」
「ああ」
甚兵衛は木札を見る。
「同じ『銀が欲しい』でも違う」
「そう」
「どれくらい欲しいか」
「いつまでに欲しいか」
作兵衛。
「ああ」
甚兵衛は書き足す。
《欲しい》
だけではない。
《いつ欲しい》
《どれくらい欲しい》
◇
夕方。
客が減る。
藤吉は奥。
弥助は銭をまとめている。
作兵衛は帳面を確認している。
甚兵衛は三匹の鼠を呼んだ。
「今日の銀」
三匹が集まる。
最初の鼠。
『あった』
「うん」
『いっぱい』
「お前から見たらな」
『いっぱい』
「そこはもういい」
別の鼠が鳴く。
『もってく?』
甚兵衛。
「持ってこない」
『なんで』
「人のものだから」
『でも、ぎん』
「銀でも」
『ほしい?』
甚兵衛。
「俺は今はいらない」
鼠。
『ひと、ほしい』
「そう」
鼠。
『ある』
「ある」
『なのに、ほしい』
「そう」
鼠が首を傾げる。
甚兵衛も少し笑った。
「変だろ」
『へん』
「でも、そこが今日分かったところ」
作兵衛が帳面から顔を上げた。
彼には鼠の言葉は聞こえない。
甚兵衛が一人で鼠に話しかけているようにしか見えない。
「何を教えてる」
甚兵衛。
「銀があるのに、銀を欲しがる人がいるって」
作兵衛。
「鼠に分かるのか」
甚兵衛は三匹を見る。
三匹とも首を傾げている。
「まだ全然」
作兵衛。
「だろうな」
鼠。
『わかる』
「分かってない」
「チチチッ」
作兵衛には普通の鳴き声。
甚兵衛だけが苦笑する。
◇
その夜。
物置。
灯りを一つ。
甚兵衛は今日の木札を並べた。
昨日。
《欲しい人》
《持っている人》
《急ぐ人》
《待てる人》
今日。
そこへ増える。
《持っているだけでは足りない》
《出せるか》
《いつ使うか》
《もう使い道が決まっているか》
甚兵衛は筆を止める。
前世なら。
需要。
供給。
在庫。
流動性。
そんな言葉が頭に出てくる。
意味も知っている。
でも。
今は無理に書かない。
船着場の倉には銀があった。
それでも店には、銀を欲しがる客が来る。
両替屋では値が動く。
作兵衛も銀を全部は出さない。
客には、高くても今日買う者がいる。
値が下がるかもしれないから待つ者もいる。
銀が勝手に高くなるわけではない。
人が銀を欲しがる。
人が銀を残す。
人が銀を出す。
人が待つ。
人が急ぐ。
その重なったところに、今日の値がある。
たぶん。
足元で。
「チッ」
甚兵衛には意味が届く。
『たぶん』
甚兵衛は鼠を見る。
「まだ言ってない」
鼠。
『いう』
「先回りするな」
別の鼠。
『たぶん』
甚兵衛。
「お前ら、それ気に入ったな」
三匹。
『たぶん』
「……」
甚兵衛は笑った。
「まあ」
少し考えてから。
「たぶん」
三匹が嬉しそうに鳴く。
人間が聞けば。
「チチッ、チュッ」
それだけ。
でも。
甚兵衛には。
三匹が同じ言葉を繰り返しているのが分かる。
木札の一番下に。
新しく書く。
《物があるだけでは相場は分からない》
その下。
《人がどう動かすかを見る》
筆を置く。
鼠が一匹。
木札を覗く。
『ひと』
「ああ」
『ぎん』
「ああ」
『ねずみ』
「ああ」
最後。
『ごはん』
甚兵衛。
「それは関係ない」
鼠。
『ほしい』
「……」
甚兵衛は止まる。
確かに。
欲しい。
という意味では。
同じ。
「まあ」
少し笑う。
「そこだけなら、少し似てる」
鼠。
『おなじ』
「全部同じじゃないぞ」
『ごはん』
「戻ったな」
暗い物置に、鼠の鳴き声が響く。
誰かが聞けば。
ただ。
鼠が鳴いているだけ。
けれど甚兵衛には。
三匹が何を見て。
何を知らなくて。
何を欲しがっているか。
少しずつ分かる。
そして。
それを人間の商いへそのまま当てはめず。
自分で見て。
聞いて。
帳面と比べて。
確かめる。
鼠は答えを教えてくれる存在ではない。
自分一人では見られない場所を。
代わりに見てくれる。
今の甚兵衛にとって。
それだけでも。
十分に大きな力だった。