翌朝。
少年は、いつもより早く目を覚ました。
理由は単純だった。
眠れなかった。
「……最悪」
藁の上で身体を起こす。
寝坊が怖かった。
だから昨夜は早く横になった。
そのせいで、夜中に何度も目が覚めた。
目を開ける。
暗い。
また眠る。
目を開ける。
まだ暗い。
それを何度繰り返したか分からない。
最初の鼠が、藁の隙間から顔を出した。
『おきた』
「起きた」
『しごと』
「仕事」
もう一匹。
『ごはん』
少年はそちらを見る。
「お前は仕事より先に飯なんだな」
『だいじ』
「……否定できねえ」
腹が減っていた。
昨日までは、それだけで不安になった。
今日は少し違う。
店へ行けば、仕事がある。
昼になれば飯が出る。
昨日、藤吉がそう言った。
それだけで朝の怖さが少し減る。
少年は立ち上がった。
着物についた藁を払う。
袖を見る。
昨日よりはまし。
髪を手で撫でつける。
離す。
戻る。
もう一度。
戻る。
「……もういい」
最初の鼠。
『へん』
「髪?」
『ぜんぶ』
「朝から喧嘩売んな」
三匹が鳴く。
笑っているように聞こえた。
少年は戸を開けた。
朝の空気は冷たい。
けれど。
今日は、自分から行く場所がある。
それが少しだけ嬉しかった。
藤吉の店へ着いた時。
まだ店先に客はいなかった。
軒下には昨日見た籠。
包み。
縄で括られた荷。
布。
少年は入口で止まる。
昨日、庄助に教わったことを思い出す。
勝手に入らない。
まず声をかける。
少年は背筋を伸ばした。
「おはようございます」
少し固い。
奥からすぐ返事が来た。
「入れ」
藤吉だ。
少年は中へ入る。
藤吉はすでに帳面を開いていた。
その横に、見知らぬ男が立っている。
少年よりずっと年上。
二十代か。
三十代か。
少年には、まだ人の年齢を見分ける感覚が曖昧だった。
細身。
だが、弱そうには見えない。
荷運びでも何でも、手早くこなしそうな身体。
目つきは藤吉より柔らかい。
男。
「こいつ?」
藤吉。
「ああ」
男が少年を見る。
鼻。
歯。
耳。
少年。
「そこ見るよな、やっぱり」
男。
「見ちゃ悪いか」
「別に」
「気にしてないのか」
少年は少し考える。
「最近、慣れた」
男は笑った。
「弥助だ」
少年。
「……」
少し待つ。
弥助。
「今度は何だ」
少年。
「俺の名前、聞く?」
「聞いちゃ駄目なのか」
「まだ、人に使う名前決めてない」
弥助が首を傾げた。
「名前を決める?」
「あるにはある」
「じゃあそれでいいだろ」
少年。
「嫌」
「なんで」
少しだけ迷う。
「母ちゃんのだから」
弥助は一瞬黙った。
「ああ」
それ以上、聞かなかった。
少年は思う。
この村の大人は、思っていたよりそこで止まってくれる。
聞こうと思えば、もっと聞けるはずなのに。
無理にこじ開けない。
ありがたい。
藤吉が帳面を閉じた。
「今日からしばらく、弥助について動け」
少年。
「藤吉さんじゃないの?」
「俺は店全部を見なきゃならん」
「弥助は?」
弥助。
「俺はお前を見る」
少年。
「嫌そう」
「初日から面倒そうだからな」
「まだ何もしてない!」
藤吉。
「昨日の時点で十分だ」
少年。
「ひどくない?」
藤吉。
「まず仕事を覚えろ」
「はい」
最初に渡されたのは、箒だった。
少年。
「……」
弥助。
「何だ、その顔」
「商いって言うから、もっとこう……」
「何だ」
「物売ったり」
「する」
「帳面つけたり」
「する」
「値段決めたり」
弥助。
「お前が?」
少年。
「……しません」
「じゃあ掃け」
「はい」
店先。
倉の前。
裏口。
少年は言われた通り掃き始めた。
前の人生でも掃除くらいはしたことがある。
箒の使い方も分かる。
だから最初は、少し安心していた。
しばらくして。
弥助。
「そこ違う」
少年が止まる。
「何が」
「埃、全部外へ出すな」
「掃除って外に出すんじゃないの?」
「人通るだろ」
「あ」
「商品にもつく」
「あ」
「隣へ飛ぶ」
少年。
「……あ」
弥助。
「三回気づいたな」
少年は箒を見る。
「掃けばいいだけじゃないの?」
「店の掃除だからな」
前の人生で知っていた掃除。
今ここで必要な掃除。
同じようで、少し違う。
少年。
「分かった」
もう一度。
今度は周囲を見る。
人が歩く場所。
品物のある場所。
風の向き。
埃を集める場所。
弥助。
「今度はいい」
少年。
「最初に全部教えてくれたら早いのに」
弥助。
「全部言われなきゃ動けんのか」
少年。
「……」
それも困る。
弥助。
「ただし、分からん時は聞け」
少年。
「どっちだよ」
「分かるところまで自分で考えろ」
「分からなくなったら聞け」
少年。
「その境目どこ」
弥助。
「それを覚えるのも仕事だ」
少年。
「難しいなあ!」
弥助が笑う。
「だから金になる」
少年は、その言葉だけ妙に覚えた。
掃除が終わる。
次は荷物の確認だった。
弥助が一つの包みを台へ置く。
「これは触っていい」
少年。
「“これは”?』
「他は勝手に触るな」
「はい」
包みを開く。
中には布。
少年。
「売り物?」
「そう」
「いくら?」
「まだお前には関係ない」
「なんで」
「値を知らなくても、扱い方は覚えられる」
少年。
「……なるほど」
弥助。
「端を持って」
少年が手を伸ばす。
「そこじゃない」
「今、端って言った!」
「汚れた手で表を触るな」
少年。
「先に言って!」
弥助。
「手を見ろ」
少年は自分の手を見る。
朝の掃除で少し汚れている。
指先に土。
掌にも埃。
「あ」
弥助。
「商品は、お前の持ち物じゃない」
少年は黙る。
弥助。
「汚したら?」
「売れなくなる」
「誰が困る」
少年はすぐ答えようとして。
止まる。
藤吉。
それだけではない。
仕入れた金が戻らない。
買うつもりだった人。
作った人。
運んだ人。
弥助。
「どうした」
少年。
「……いっぱいいる」
「そういうことだ」
少年は手を洗いに行った。
戻る。
今度は、布を見るだけ。
触る前に聞く。
「これ、持っていい?」
「いい」
「こう?」
「いい」
「畳む?」
「まだいい」
少年。
「何で?」
「まず見る」
「何を」
「傷」
「汚れ」
「ほつれ」
「数」
少年の目が少し変わる。
「届いた物が合ってるか確認する?」
弥助。
「そうだ」
「帳面と?」
弥助が少し眉を上げた。
「帳面知ってるのか」
「慧円さんに見せてもらった」
「読める?」
少年。
「ちょっとだけ」
「じゃあ見ろ」
帳面を渡される。
少年。
「……」
弥助。
「読めるか」
少年。
「……これ何て書いてある?」
「読めないじゃないか」
少年。
「ちょっとだけって言った!」
弥助が笑う。
「正直なのはいい」
少年。
「褒めた?」
「半分」
「残りは?」
「仕事じゃ、読めないと困る」
少年。
「ですよね」
悔しい。
でも。
昨日までなら、分かるふりをしていたかもしれない。
今は違う。
読めないなら、読めない。
そこからだ。
しばらくすると、最初の客が来た。
中年の女だった。
「藤吉さんいる?」
少年。
「い、います」
声が裏返った。
女が少年を見る。
「あら」
鼻。
歯。
耳。
やっぱり見る。
女。
「新しい子?」
少年。
「今日から……試しです」
奥から藤吉。
「どうした」
女が注文を話し始める。
少年は横で聞く。
品。
値。
量。
知らない単位。
知らない呼び方。
頭の中で、前の人生の知識が勝手に現代の数字へ置き換えようとする。
少年はそれを止めた。
待て。
まだ。
ここの量を知らない。
ここの単位も。
ここで勝手に分かった気になる方が危ない。
藤吉が少年を見る。
「取ってこい」
少年。
「何を?」
藤吉。
「今、聞いてただろ」
「聞いてたけど、どれか分かんない」
客が少し笑う。
少年は恥ずかしくなる。
それでも言った。
「間違えた物持ってくるよりいいだろ」
藤吉。
「弥助」
「はいはい」
弥助が少年を連れていく。
品物を持って戻る。
藤吉が客へ渡す。
女。
「この子、妖怪?」
少年。
「半分くらいです」
藤吉。
「お前が答えるのか」
「俺のことだし」
女。
「怖くないの?」
少年。
「何が?」
「人の村」
少年は少し止まった。
怖い。
怖くない。
どちらかだけではない。
「怖い時もあります」
女は少し驚く。
少年。
「でも、飯食わないと死ぬから」
女。
「ふふっ」
なぜか笑われる。
「変な子ね」
少年。
「今日それ何人目だろ」
女は笑ったまま帰っていった。
その背中を見送ってから。
藤吉。
「余計なことは言うな」
少年。
「何か悪かった?」
「悪いとは言ってない」
「じゃあ何で」
藤吉は店先を見る。
「客との話も、店の仕事だ」
少年。
「……話しただけじゃん」
「その“だけ”で、客が来なくなることもある」
少年が黙る。
少し考える。
「逆も?」
藤吉。
「ある」
「話したから、また来る?」
「ああ」
少年。
「……難しいな」
藤吉。
「商いを何だと思ってた」
少年。
「物と金を交換する?」
「それだけで店が続くなら、誰でも商人になれる」
少年。
「じゃあ何がいる」
藤吉はすぐ答えなかった。
「見て覚えろ」
少年の顔が露骨に嫌そうになる。
「それ嫌い」
藤吉。
「何?」
「分かんない時、答え教えてくれないやつ」
藤吉。
「全部教えられると思うな」
少年。
「じゃあ、少しだけ教えて」
藤吉が少年を見る。
少年も引かない。
しばらくして。
藤吉がため息をつく。
「約束を守る」
「うん」
「嘘をつかない」
「うん」
「品を雑に扱わない」
「うん」
「相手の顔を覚える」
「うん」
「分からんことを勝手に決めない」
少年。
「それ、商い?」
「商いだ」
「値段より先?」
「値段も大事だ」
少年。
「全部大事じゃん」
藤吉。
「そうだ」
少年。
「面倒くさ!」
「帰るか?」
「帰らない」
即答。
藤吉。
「なら覚えろ」
「はい」
昼。
少年は店の裏で握り飯を食べていた。
弥助も隣にいる。
少年。
「商人って、ずっとこんな忙しい?」
弥助。
「今日は暇な方だ」
少年。
「嘘だろ」
「本当」
「帰りたい」
弥助。
「帰れば」
少年。
「でも飯出る」
「そこかよ」
少年は握り飯を一口食べる。
それから。
「それに」
弥助。
「?」
「まだ、ほとんど何も分かってない」
「だから?」
少年。
「分かるようになってから、辞めるか決める」
弥助。
「辞める前提なのか?」
少年。
「分かんない仕事を、好きか嫌いか決められないだろ」
弥助が少しだけ笑う。
「面倒だけど、筋は通ってるな」
少年。
「褒めた?」
「半分」
「また半分か」
草むら。
小さな鼻が三つ。
少年の目が動く。
「……」
弥助。
「どうした」
「何でもない」
鼠たちは今日は近づかない。
朝、言っておいた。
店は人が多い。
猫も来る。
危なければ入るな。
最初の鼠が、こちらを見る。
少年は、ほんの少しだけ手を動かした。
帰れ。
鼠は動かない。
少年。
「……」
もう一度。
帰れ。
最初の鼠が、ようやく草むらへ消えた。
残り二匹も続く。
弥助。
「本当にどうした」
少年。
「虫」
「どこに」
「行った」
弥助。
「変な奴」
少年。
「知ってる」
だが。
少し嬉しかった。
ちゃんと来ていた。
それでも、言われたら引いた。
一人で動いているわけではない。
それが分かるだけで。
少し安心する。
午後。
藤吉が、小さな荷を少年へ渡した。
「庄助の家へ」
少年。
「配達?」
「そうだ」
「俺一人?」
「道は分かるだろ」
少年。
「分かる」
藤吉。
「何を渡すか言ってみろ」
少年は荷を見る。
さっき聞いた品名を言う。
藤吉。
「数」
答える。
「相手」
「庄助」
「代金」
少年。
「……」
止まる。
「聞いてない」
藤吉。
「よし」
少年。
「何がよし?」
「聞いてないのに、作らなかった」
少年。
「作るわけないだろ」
藤吉。
「そういう奴はいる」
少年。
「怖っ」
藤吉。
「今日は代金を受け取らない」
少年。
「なんで?」
「庄助の家とは、後でまとめる」
「そういう売り方もあるの?」
「ある」
「誰にでも?」
「しない」
「何で庄助はいいの」
藤吉。
「それを今から考えろ」
少年。
「またそれ?」
「行け」
「はいはい」
庄助の家。
少年。
「庄助ー」
中から声。
「店先で大声出すな!」
「いた」
「何だ」
少年は荷を差し出す。
「藤吉さんから」
庄助。
「お前が持ってきたのか」
「初配達」
庄助。
「落とさなかったか?」
少年。
「俺を何だと思ってんの!」
「芋を落とした奴」
「一回だけだって!」
庄助が荷を確認する。
少年は横で待つ。
「合ってる?」
「ああ」
少年は、ほんの少し息を吐いた。
庄助。
「そんな心配だったのか」
「間違ってたら嫌だろ」
「お前が詰めたのか?」
「違う」
「なら、お前のせいじゃない」
少年は少し考える。
「でも」
庄助。
「何だ」
「持ってきた時に、気づけたかもしれない」
庄助が少し黙った。
「……藤吉さんに似てきたな」
少年。
「今日一日だぞ」
「嫌なら今のうちに逃げろ」
少年。
「それ、本人に言っていい?」
庄助。
「やめろ」
「じゃあ言わない」
店へ戻る。
藤吉。
「どうだった」
少年。
「渡した」
「それだけか」
「庄助が中見た」
「合ってたか」
「うん」
「他に」
少年。
「他?」
「何か聞かれなかったか」
少年は考える。
庄助との会話。
「芋落とした話された」
藤吉。
「それはいらん」
弥助が吹き出す。
少年。
「じゃあ何聞けばいいんだよ!」
藤吉。
「そのうち分かる」
少年。
「そればっかりだな!」
藤吉。
「今はそれでいい」
少年。
「どっちだよ!」
夕方。
一日の仕事が終わる。
少年は、もうくたくただった。
腕より。
脚より。
頭が疲れている。
知らない言葉。
知らない品。
知らない客。
知らない決まり。
全部。
少しずつ気をつけなければならない。
藤吉が小さな包みを出す。
少年。
「何?」
「今日の分だ」
少年の目が大きくなる。
「……金?」
「少しだけな」
少年は受け取ろうとして。
止まる。
「本当に?」
藤吉。
「いらんのか」
「いる!」
今度はすぐ受け取る。
手のひら。
小さな金。
少ない。
でも。
どれくらい少ないのか。
今の自分には、まだ分からない。
前の人生の金額へ置き換えようとしても意味がない。
少年。
「……これで何買える?」
藤吉。
「お前」
「だって価値分かんないんだよ」
弥助。
「最初に聞くのがそこなのは正しいな」
少年。
「じゃあ教えて」
いくつか。
飯。
布。
日用品。
例を聞く。
少年は真剣に覚える。
藤吉。
「全部使うなよ」
少年。
「なんで?」
「明日、何があるか分からん」
少年は手の中の金を見る。
前の人生なら。
貯金。
予備費。
生活防衛。
そんな言葉があった。
でも。
今はもっと単純だった。
明日。
もし働けなくても。
飯を一回くらい選べる。
それだけでいい。
少年。
「……取っとく」
藤吉。
「そうしろ」
少年は金を握る。
小さい。
でも。
自分で働いて受け取った。
それが嬉しかった。
物置。
戸を開ける。
「ただいま」
三匹。
『かえった!』
『しごと!』
『ごはん!』
少年。
「今日は金もらったぞ」
三匹。
『かね?』
少年は手のひらを開く。
鼠たちが集まる。
一匹が匂いを嗅ぐ。
『たべられない』
少年。
「金食うなよ」
『いらない』
「俺にはいるんだよ」
最初の鼠。
『なにする』
少年は少し考える。
「今は使わない」
『なぜ』
「困った時に使う」
鼠。
『いま、こまってない?』
少年。
「……」
物置を見る。
借り物。
飯は仕事先。
着物も古い。
困っていないわけではない。
「困ってる」
『つかう?』
少年は金を見る。
「でも」
少し考える。
「全部使ったら、明日の俺がもっと困るかもしれない」
三匹は、よく分からない顔をする。
少年。
「まあ、お前らにはいらないよな」
最初の鼠。
『ごはん、ためる』
少年。
「……あ」
鼠。
『あとでたべる』
少年はもう一度、金を見る。
「同じか」
『おなじ?』
「たぶん」
少し笑う。
「お前らの方が先にやってんな」
少年は金を小さく包む。
その横へ。
母の布。
並べる。
金。
母の残した物。
少年はしばらく見た。
それから。
少し離して置いた。
鼠。
『なぜ』
「こっちは使う物」
金を指す。
「こっちは使わない」
布。
鼠。
『なぜ』
少年は布へそっと触れる。
「これは売り物じゃないから」
『うりもの?』
「金に替えないもの」
『だいじ?』
少年。
「うん」
それだけ答える。
説明する必要はなかった。
自分の中では、もう分かっている。
夜。
少年は藁へ横になる。
身体は疲れている。
頭も疲れている。
今日は失敗した。
知らないことも山ほどあった。
客の前で声も裏返った。
帳面も満足に読めない。
商品の名前も十分覚えていない。
それでも。
藤吉は、
明日来るな。
とは言わなかった。
弥助も。
庄助も。
誰も。
少年は目を閉じる。
最初の鼠。
『あした、しごと?』
「仕事」
『こわい?』
少年は少し考えた。
「今日よりは、ちょっとだけまし」
『にげる?』
少年は笑う。
「明日になって嫌だったら考える」
『あした』
「うん」
今のところ。
明日も行く。
それで十分だった。