翌朝。
少年が藤吉の店へ着くと、弥助はすでに店先で荷をほどいていた。
朝の空気にはまだ少し冷たさが残っている。縄を解く音と、木箱が地面に置かれる鈍い音が、人気の少ない通りによく響いた。
少年は店先で一度足を止め、昨日教わった通りに声をかける。
「おはよう」
「おう」
弥助は荷から目を離さずに返した。
少年は店の奥を覗く。
「藤吉さんは?」
「奥」
「今日、何する?」
そこでようやく弥助が顔を上げた。
「まず掃除」
「また?」
思わず聞き返すと、弥助は呆れたように箒を顎で示した。
「店は一回掃いたら一生綺麗なのか?」
少年は口を閉じた。
昨日、自分で掃いた場所を見る。
当然だが、もう土埃も落ち葉もある。
「……違います」
「じゃあ掃け」
「はい」
箒を取る。
昨日と同じ仕事。
けれど、昨日とまったく同じではない。
少年はすぐには掃き始めなかった。
道を見る。
まだ客はいない。
隣の家の前には人がいる。
軒先には売り物。
風は昨日より弱い。
埃を集める場所も覚えている。
それを確認してから、箒を動かした。
弥助は何も言わない。
少年はしばらく掃いていたが、だんだん落ち着かなくなった。
ちらりと弥助を見る。
弥助は荷をほどいたまま。
また見る。
「……」
「何だ」
ついに気づかれた。
少年は箒を止める。
「何も言わないから」
「何か言ってほしいのか」
「間違ってない?」
弥助は少年が掃いた場所へ視線を向けた。
少し見る。
「今のところは」
少年の口元がわずかに上がった。
「よし」
「そこで気を抜くな」
「分かってるって」
その直後。
箒の柄が、後ろにあった籠へ当たった。
がたっ。
籠が大きく傾く。
少年。
「……」
弥助。
「……」
籠はぎりぎりで倒れなかった。
少年はゆっくり箒を引いた。
「今のは倒してない」
「倒れかけた」
「耐えた」
「籠がな」
「はい」
今日も完璧ではなかった。
それでも、昨日よりは少しましだった。
掃除の次は、品物の数を確かめる仕事になった。
弥助が乾物の包みをいくつか並べる。
大きさも形も似ている。
「数えろ」
少年は胸を張った。
「これならできる」
一つ。
二つ。
三つ。
順番に指を動かす。
「十、十一、十二。十二」
弥助。
「もう一回」
少年は眉を寄せた。
「十二だって」
「もう一回」
「……」
不満はある。
けれど昨日までの経験で、弥助が意味もなく言っているわけではないことも少し分かってきた。
少年はもう一度数える。
一つ。
二つ。
三つ。
最後まで。
「……十一」
沈黙。
少年は包みを見る。
弥助を見る。
もう一度包みを見る。
「何で減った?」
「俺に聞くな」
「いや、さっき十二だったぞ」
「お前がそう言っただけだ」
少年はもう一度数える。
今度は慎重に。
「十一」
弥助。
「最初の十二は?」
「間違えた」
「どうして」
少年は並んだ包みを見る。
途中まで数えた。
少し目を離した。
似たような包みばかりで、どこまで数えたか分からなくなった。
「……分かんなくなった」
「なら、分からなくならないようにしろ」
少年は顔を上げる。
「どうやって?」
「考えろ」
「またそれかよ」
思わずむっとする。
だが。
今回はすぐに「教えて」とは言わなかった。
包みを見る。
一つ数える。
その包みを少し横へ動かす。
次。
また動かす。
数え終わったものと、まだ数えていないものを分けていく。
最後まで終える。
「十一」
もう一度。
同じ方法で。
「十一」
弥助が頷く。
「よし」
少年は並び替えた包みを見る。
「最初からこうやればよかった」
「次からな」
少年は少し考えた。
「でもさ」
「何だ」
「これ、百個とかあったら面倒じゃない?」
「面倒だ」
「千個なら?」
「もっと面倒だ」
少年は露骨に嫌そうな顔をした。
「嫌だなあ」
弥助は笑いもせず答える。
「だから、間違えない工夫をする」
少年はその言葉を覚えた。
速くやる。
楽にやる。
それだけではない。
間違えないようにする。
昨日、自分が芋を落とした時とは少し違う。
効率を考える前に、まず正しくやる。
その順番があるらしい。
その時、店の奥から藤吉が出てきた。
「弥助」
「はい」
「昨日の帳面」
「ああ」
弥助が棚から一冊の帳面を持ってくる。
少年の目がそちらへ吸い寄せられた。
藤吉はそれに気づいた。
「見たいか」
「見たい」
即答。
「読めるか」
少年は一瞬だけ考えた。
「全部は無理」
「なら横に来い」
すぐ移動する。
帳面の中には、まだ読めない字が多い。
崩れた文字。
見慣れない数字の書き方。
だが。
全部が分からないわけでもなかった。
数字らしいもの。
品名。
人の名前らしいもの。
昨日までより、少しだけ意味のある形に見える。
藤吉が一行を指した。
「これは昨日、お前が庄助の家へ持っていった分だ」
少年。
「あ」
確かに見覚えのある品名がある。
完全には読めない。
けれど、昨日聞いた言葉と形がつながる。
少年は思い出した。
「金はもらってない」
「そうだ」
「でも帳面には書く?」
「書く」
「なんで?」
藤吉は短く答えた。
「忘れないためだ」
少年は慧円に言われたことを思い出す。
同じ答えだ。
「庄助が忘れたら?」
「帳面を見る」
「藤吉さんが忘れたら?」
「帳面を見る」
「両方覚えてたら?」
「それでも残す」
少年は黙った。
少しずつ分かってくる。
「覚えてる人がいるから、書かなくていいってわけじゃないんだ」
藤吉。
「そうだ」
「弥助が知ってても?」
「書く」
「藤吉さんが全部覚えてても?」
「書く」
少年は帳面をじっと見る。
「面倒」
藤吉。
「面倒だからやらない奴もいる」
少年は顔を上げた。
「どうなる?」
「困る」
「いつ?」
「忘れた時」
少年は少し眉を寄せる。
「……それ、困ってからじゃ遅いじゃん」
藤吉。
「だから今やる」
少年は帳面を見る。
前の人生の記憶が、ほんの少しだけ疼いた。
記録。
引き継ぎ。
誰か一人しか知らない仕事。
何となく覚えている言葉はいくつかある。
でも。
今、それを難しく説明する必要はない。
目の前の帳面が、すでに同じことを教えていた。
少年。
「俺も字覚えたら書く?」
藤吉。
「まず読め」
「はい」
それはもっともだった。
午前の半ば。
客が来た。
昨日とは違う男だった。
「藤吉さん、例のはあるか」
「ああ」
藤吉が品を出す。
男はそれを手に取り、少し眺める。
「もう少しまからんか」
少年の耳が、ぴくっと動いた。
値切り。
それなら知っている。
前の人生にもあった。
少年は仕事をしながら、少し身を乗り出した。
藤吉。
「無理だ」
客。
「そこを何とか」
「前も同じ値だったろ」
「今日は二つ買う」
「二つなら――」
そこから話が続いた。
値段。
数。
付き合い。
どこまで下げるか。
藤吉はすぐ折れない。
客も簡単には引かない。
けれど怒鳴り合いにはならない。
最後には、最初とは少し違う値で話が決まった。
客が帰る。
少年は我慢できずに聞いた。
「何で最初からその値段にしないの?」
藤吉。
「何を」
「最後に決めた値段」
「いつもその数買うとは限らん」
「一個なら?」
「さっきの値だ」
「二個なら安くする?」
「場合による」
「何個でも?」
「場合による」
少年は両手を広げた。
「何でも場合によるじゃん!」
弥助が笑う。
「商いなんて、そんなもんだ」
少年。
「じゃあ決まりないの?」
藤吉。
「ある」
「どっち!」
藤吉は今度は笑わなかった。
「決まりがあるところと、決めるところがある」
少年は少し黙る。
藤吉は続ける。
「勝手に変えていいものと、変えてはいけないものもある」
「誰が決める?」
「店だ」
「俺は?」
藤吉は即答した。
「まだ決めるな」
少年。
「はい」
今度は少年も即答した。
弥助が笑う。
「そこだけは返事が早いな」
少年。
「分かんない値段を勝手に決める方が怖いだろ」
藤吉が少年を見る。
「それでいい」
少年の顔が少し明るくなる。
「褒めた?」
「今のはな」
「よし」
小さなことだった。
けれど。
昨日はほとんど何もできなかった。
今日は、一つだけ「それでいい」と言われた。
それだけで、少し嬉しい。
昼前。
もう一人、客が来た。
今度は老婆だった。
少年は見覚えがある。
昨日、村の中で遠くから見かけた人だ。
老婆。
「藤吉さん」
「はい」
「少し待ってもらえんかね」
声を聞いた瞬間。
店の空気が少し変わった。
少年にも分かった。
品物を買いに来ただけではない。
藤吉。
「どれくらい」
老婆が何かを説明する。
少年には分からない言葉も混じっている。
時期。
家の事情。
支払い。
藤吉は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「分かった」
老婆。
「すまないね」
藤吉。
「無理なら早く言ってください」
「分かってるよ」
老婆は何度も頭を下げて帰った。
少年はその背中が見えなくなるまで待った。
それから。
「今の何?」
藤吉。
「支払いを待ってほしいって話だ」
少年。
「いいの?」
「今回はな」
「なんで?」
弥助が横から苦笑する。
「また始まった」
少年。
「だって気になる」
藤吉。
「長く知ってる人だからだ」
少年は首を傾げる。
「長く知ってたら払わなくていい?」
「違う」
「じゃあ何で」
藤吉は少し考えてから答えた。
「今まで約束を破ってない」
少年。
「……」
藤吉はさらに続ける。
「家の事情も分かってる。返せる見込みもある。それで待つ」
少年。
「じゃあ、知らない人が同じこと言ったら?」
「同じには扱わん」
「不公平?」
藤吉。
「信用が違う」
少年は、その言葉を口の中で転がす。
「信用」
知っている。
言葉の意味なら。
でも。
今、藤吉が言った「信用」は、少年の知っていた言葉より少し重く聞こえた。
少年。
「信用って何?」
弥助。
「そこからか?」
少年。
「言葉の意味じゃなくて」
少し考える。
「何があったら信用になるの」
藤吉は、すぐには答えなかった。
「簡単に言うな」
「難しい?」
「時間がかかる」
「金じゃ買えない?」
「買えん」
「一回約束守れば?」
「一回分だ」
少年。
「百回なら?」
藤吉。
「百回分だ」
少年。
「じゃあ、一回破ったら全部なくなる?」
藤吉。
「場合による」
少年。
「またそれ!」
今度は藤吉も少し笑った。
「だから商いは帳面だけじゃできん」
少年。
「……」
「人を見る」
「話を聞く」
「約束を覚える」
「困った時にどうしたかも覚える」
少年。
「全部?」
「できるだけな」
少年は額を押さえる。
「頭いっぱいになりそう」
藤吉。
「だから帳面も使う」
少年は帳面を見る。
人間の頭。
紙。
どちらか片方だけでは足りない。
それが少し分かってきた。
午後。
少年は倉の中で、弥助と荷を整理していた。
光の少ない倉は、店先より少し涼しい。
乾物。
布。
木箱。
縄。
油。
いろんな匂いが混じっている。
少年は荷を置きながら呟いた。
「信用って面倒だな」
弥助。
「何を今さら」
「だって見えないじゃん」
「金だって、価値そのものが見えるわけじゃないぞ」
少年。
「でも金は手に持てる」
「信用は?」
弥助は少し笑った。
「なくした時によく見える」
少年。
「……嫌な見え方だな」
「そうだな」
少年は次の荷を置く。
少ししてから、弥助を見る。
「弥助」
「ん?」
「俺、信用ある?」
「ない」
即答。
少年。
「早っ!」
「来て二日目だぞ」
「少しくらい」
弥助。
「二日分」
少年は口を尖らせる。
「藤吉さんみたいな言い方するなよ」
弥助。
「じゃあ逆に聞く」
「何」
「俺のこと信用してるか」
少年は止まった。
考える。
飯を盗られてはいない。
わざと間違ったことも教えられていない。
失敗した時は怒られる。
けれど、今のところ理不尽なことはされていない。
でも。
まだ二日。
少年。
「……二日分?」
弥助。
「それでいい」
少年は少し意外そうに見る。
「怒らないの?」
「何で」
「信用してませんって言ったようなもんだろ」
弥助は荷を棚へ置いた。
「二日しか一緒にいないのに、何でも信用される方が怖い」
少年。
「……あ」
それは。
自分も同じだった。
庄助だって。
慧円だって。
藤吉だって。
最初から全部信用したわけではない。
少しずつ。
一日ずつ。
その方がいい。
倉の奥に、一つだけ他と違う箱が置かれていた。
少し古い。
木の表面には細かな傷。
金具もついている。
少年は目を止めた。
弥助。
「触るなよ」
「触ってない」
少年はしゃがみ込む。
距離は保ったまま。
「これ、何?」
「古い箱」
「それは見れば分かる」
「鍵が開かない」
少年。
「鍵?」
金具を見る。
単純な留め具ではない。
少し複雑そうな作り。
その形を見た瞬間。
前の人生の記憶が、微かに刺激される。
錠。
仕掛け。
パズル。
開け方。
考えれば。
何か分かるかもしれない。
でも。
少年は手を伸ばさなかった。
「誰の?」
「藤吉さんが預かってる」
「じゃあ、勝手に開けちゃ駄目?」
弥助。
「当たり前だ」
少年は頷く。
「だよな」
弥助が少し意外そうに見る。
「開けられるのか?」
少年。
「知らない」
「触りもしないのに?」
少年は箱を見たまま言う。
「開けられるかどうかと、開けていいかどうかは別だろ」
弥助の動きが少し止まった。
少年。
「何」
「どっかで聞いたような言い方だな」
少年の頭に、母の姿が浮かぶ。
祠。
鳥居。
近づいてはいけない場所。
触ってはいけないもの。
少年。
「母ちゃん」
それだけ答えた。
弥助は箱について、それ以上何も言わなかった。
夕方。
藤吉が少年へ小さな紙を渡した。
「慧円さんのところへ持っていけ」
少年。
「何これ」
「頼み事を書いた」
少年は紙を見る。
「読んでいい?」
藤吉。
「読めるならな」
「……」
少年は真剣に紙を見る。
最初。
分からない。
途中。
「あ」
知っている字がある。
また分からない。
少し先。
一字だけ読める。
最後。
分からない。
少年は悔しそうに言った。
「三つくらいしか読めない」
藤吉。
「なら、それを慧円さんにも言え」
少年。
「何を」
「仕事で読むには足りないってな」
少年。
「……」
ちょっと悔しい。
だが。
事実だ。
「分かった」
慧円のところへ行く頃には、子供たちはもう帰った後だった。
戸口へ顔を出す。
慧円。
「今日は遅いな」
少年。
「仕事」
紙を渡す。
「藤吉さんから」
慧円は紙を受け取り、ゆっくり目を通した。
「なるほど」
少年は待てずに聞く。
「何て?」
「お前さんに、商いで必要な字も少しずつ教えてほしいそうだ」
少年。
「藤吉さんが?」
「ああ」
少し意外だった。
仕事は仕事。
勉強は勉強。
別のものだと思っていた。
慧円。
「喜ばないのか」
少年。
「いや」
少し迷う。
「藤吉さん、俺が読めないの面倒だから追い出すかと思った」
慧円は紙を畳む。
「追い出すなら、この紙は来ないだろう」
少年。
「……そうだな」
それは確かだった。
少年はいつもの場所へ座る。
「今日、信用って習った」
慧円。
「藤吉さんに?」
「うん」
「何と教わった」
少年は今日の会話を思い出す。
「……いっぱい約束守って作るもの?」
慧円。
「間違いではない」
少年。
「慧円さんなら?」
慧円は少し考えた。
筆を置く。
「私なら――」
少し間を置く。
「相手に、自分の明日を少し預けられること、とでも言うかな」
少年。
「明日?」
「この人なら、明日も約束を覚えている」
「明日も同じように話ができる」
「預けた物を勝手にしない」
「困った時には、黙って消えない」
少年は黙って聞く。
慧円。
「そういうことが積もって、信用になることもある」
少年。
「なくすのは?」
「早い時もある」
少年は嫌そうな顔をした。
「嫌だな」
「だから大切にする」
少年。
「でも、間違えたら?」
慧円は少年を見る。
「間違えない人はいない」
「じゃあ」
「間違えた時にどうするかも、見られている」
少年は少し考えた。
芋を落とした。
荷を忘れた。
字を読めなかった。
仕事で間違えた。
今のところ、大きな失敗はしていない。
でも。
いつかする。
きっとする。
少年。
「隠したら?」
慧円。
「なぜ隠す」
「怒られるから」
「それで、後でもっと困るなら?」
少年。
「……損」
慧円が笑った。
「お前さんらしい答えだ」
少年。
「でも、そうだろ」
少し前のめりになる。
「怒られる一回より、信用なくして二度と仕事もらえねえ方が損じゃん」
慧円。
「なら、覚えておきなさい」
少年は頷いた。
「うん」
難しい話だった。
でも。
自分なりの形にはなった。
夜。
物置。
少年は戸を開ける。
「ただいま」
三匹が顔を出す。
『かえった』
もう、それが当たり前になりつつある。
少年は今日もらった金を、昨日の分と一緒にする。
一枚。
二枚。
数える。
もう一度。
「……合ってる」
最初の鼠。
『いっぱい?』
少年。
「全然」
『すくない?』
「少ない」
『じゃあ、いらない?』
少年。
「いる!」
三匹が揃って首を傾げる。
少年は金を包む。
「少ないから増やすんだよ」
一匹。
『ごはんみたい』
「お前らの貯めた飯と一緒にするなよ」
『おなじ』
少年。
「……ちょっと似てるけど」
包んだ金をしまう。
その横には、母の布。
今日も別々。
最初の鼠が、いつものように膝へ乗ってくる。
『きょう、なに』
少年。
「信用」
『たべもの?』
「違う」
『かね?』
「違う」
『におい?』
「それも違う」
少年は説明しようとする。
「何回も会って」
「何回も約束守って」
「こいつなら大丈夫かなって思って」
「次も同じようにしてくれるかなって……」
途中で止まる。
難しい。
自分でも、まだうまく言葉にできない。
鼠。
『なかま?』
少年。
「……近いのかな」
『おまえ、しんよう?』
少年。
「俺?」
三匹を見る。
少し考えて。
「お前ら、俺のこと信用してる?」
一匹。
『ごはんわける』
もう一匹。
『あぶないと、にげろいう』
最初の鼠。
『かえってくる』
少年の顔が止まる。
「……それで?」
三匹。
『うん』
少年は少し笑う。
「そんなのでいいの?」
鼠。
『そんなの?』
少年。
「……」
言い方を間違えた。
食べ物を分ける。
危なければ逃げろと言う。
毎日ここへ戻ってくる。
少年にとっては、小さなことに思えていた。
でも。
鼠たちにとっては。
そうではない。
少年は首を振る。
「いや」
最初の鼠。
『おまえ、かえる』
少年。
「うん」
『あしたも?』
少年は少し考えた。
「……仕事終わったら」
『かえる』
少年の口元が緩む。
「約束な」
鼠。
『やくそく』
夜は静かだった。
少年は藁へ身体を横たえる。
明日も店へ行く。
掃除をする。
品を覚える。
字を習う。
間違えるかもしれない。
怒られるかもしれない。
でも。
今日より一つくらいは、分かることが増えるかもしれない。
少年は天井を見る。
信用。
自分には、まだ二日分しかない。
庄助にも。
藤吉にも。
弥助にも。
慧円にも。
そして。
三匹の鼠にも。
まだそれだけ。
だったら。
一日ずつ増やせばいい。
「……寝よ」
最初の鼠。
『あした』
少年は目を閉じる。
「明日」
その日は、それ以上考えなかった。