翌朝。
甚兵衛が藤吉の店へ着いた時、弥助はもう店先に立っていた。
今日は箒を持っていない。荷をほどいているわけでもない。
片手に帳面。
もう片方には、小さな紙片。
昨日までの甚兵衛なら、それを見ても「何か書いてある」としか思わなかっただろう。
けれど今は、少しだけ読める。
だからこそ。
嫌な予感もする。
甚兵衛は店先で足を止めた。
「……何」
弥助が顔を上げる。
「何だ、その顔」
「今日は掃除じゃなさそう」
「よく分かったな」
「その紙持って待ってる時点で怪しい」
弥助が鼻で笑い、紙を一枚差し出した。
「読め」
甚兵衛は受け取る。
墨で書かれた文字。
人の名前。
品物。
数。
昨日までに覚えたものもある。
まだ分からないものも多い。
甚兵衛はしばらく黙った。
「…………」
弥助。
「読め」
甚兵衛が顔を上げる。
「読めるところだけ?」
「全部」
「無茶言うなよ!」
「じゃあ、読めるところまで」
「最初からそう言え!」
紙へ視線を戻す。
慧円から習った字。
店で何度も見た品名。
少しずつ拾っていく。
「……庄助」
「違う」
甚兵衛の顔が上がる。
「え」
「庄吉だ」
紙へ顔を近づける。
「似てる!」
「違う」
「一文字しか違わないじゃん!」
「その一文字が違うから別人なんだよ」
甚兵衛は眉間を押さえた。
「名前って怖えな……」
弥助。
「お前がそれ言うのか」
「今は名前あるだろ」
「昨日ついたばっかりだけどな」
弥助は紙の続きを指す。
「次」
甚兵衛。
「布……二」
「二何だ」
「……分かんない」
「反」
甚兵衛が繰り返す。
「反」
「布を数える時に使う」
「全部“個”じゃ駄目?」
「駄目」
甚兵衛は心底嫌そうな顔をした。
「人間、物の数え方多すぎない?」
「俺に言うな」
「誰が決めたんだよ」
「知らん」
「作った奴に文句言いたい」
弥助は少し考えるふりをした。
「もう死んでるかもしれんぞ」
「じゃあ我慢する」
その返事に、弥助が吹き出した。
今日の最初の仕事は、届け物だった。
相手は庄助ではない。
村の端に住んでいる庄吉。
昨日、余分に受け取った代金を返しに走った相手だ。
甚兵衛は紙と荷を交互に見る。
「庄吉」
「そう」
「庄助じゃない」
「庄吉」
「庄助じゃない」
「だから庄吉だって」
甚兵衛は自分でも不安になってきた。
「間違えそう」
弥助。
「だから確認する」
「庄吉」
「よし」
「布、二反」
「よし」
「金は?」
「受け取る」
甚兵衛の顔が引き締まる。
昨日のことを思い出したのだろう。
「いくら」
弥助が紙の数字を指す。
甚兵衛は目を細める。
「……これ?」
「そう」
「もう一回言って」
弥助が額を言う。
甚兵衛が復唱。
そしてもう一度。
弥助。
「何回確認する」
「間違えるよりいい」
「まあな」
そこで奥から藤吉の声がした。
「ただし、客の前で同じ確認を十回するなよ」
甚兵衛が振り返る。
藤吉が帳面を片手に出てくる。
「なんで?」
「不安になる」
「あ」
「店を出る前に確認する。着いたら落ち着いて話す」
弥助も頷いた。
「分からなくなったら聞けばいい。ただ、最初から何も覚えてないように見せるな」
甚兵衛。
「……なるほど」
正しいだけでは足りない。
相手に安心してもらうことも、仕事のうちらしい。
まだ慣れない。
でも。
少しずつ覚えるしかない。
甚兵衛は荷を背負った。
「じゃあ行ってくる」
藤吉。
「道は?」
「分かる」
弥助。
「相手は?」
「庄吉」
「品は?」
「布二反」
「代金」
甚兵衛は今度は止まらず答えた。
「よし」
甚兵衛。
「試験みたい」
藤吉。
「仕事だ」
甚兵衛は少しだけ顔をしかめた。
「そっちの方が怖いな」
店を出る。
朝の村はもう動き始めていた。
水を運ぶ人。
畑へ向かう人。
軒先を掃く人。
鶏が道を横切り、少し離れた家から犬の声がする。
甚兵衛は歩きながら、頭の中で仕事を繰り返す。
庄吉。
布二反。
代金。
庄吉。
布二反。
代金。
「あ」
道端。
石垣の陰。
三つの鼻。
甚兵衛。
「来たの?」
『いく』
「今日は荷あるから遊べないぞ」
『しってる』
「どこまで?」
『いく』
「答えになってねえ」
三匹は気にせず、草むらと石垣の陰を使ってついてくる。
甚兵衛はため息をついた。
「好きにしろ。ただし猫と犬には近づくなよ」
『にげる』
「それならいい」
また歩く。
「庄吉。布二反。代金――」
最初の鼠。
『しょうきち』
「そう」
別の鼠。
『しょうすけ』
甚兵衛。
「違う!」
鼠。
『ちがう?』
「お前まで混ぜるな!」
『にてる』
「俺だってそう思ってるよ!」
庄吉の家へ着く頃には、甚兵衛自身が庄吉と庄助の違いに妙な自信を持ち始めていた。
家の前で一度息を整える。
「ごめんくださーい」
少し待つ。
庄吉が出てくる。
「ああ、昨日の」
甚兵衛。
「今日はちゃんと多く受け取らないから」
庄吉。
「今日は金を渡す側だろ」
「知ってる!」
荷を下ろす。
布二反。
庄吉が中身を確認する。
問題なし。
甚兵衛も一緒に見る。
それから、手を差し出した。
「代金を」
庄吉が金を渡す。
甚兵衛は受け取る。
一度数える。
数え終えたものを少しずらす。
もう一度。
今度は数える前と後を混ぜない。
昨日の失敗を、そのまま使う。
庄吉。
「慎重だな」
甚兵衛。
「昨日の俺に言って」
「昨日も慎重そうだったぞ」
「そう見えただけ!」
金額は合っていた。
甚兵衛は小さく息を吐く。
「ありがとうございます」
一度頭を下げる。
庄吉が笑う。
「もう慣れたか?」
「全然」
「正直だな」
「慣れてるふりしてまた間違えるよりいい」
庄吉は少しだけ目を細めた。
「藤吉さんのところ、面白いの入れたな」
甚兵衛。
「みんな似たようなこと言うなあ」
店へ戻る。
藤吉が先に聞いた。
「どうだった」
「渡した」
「代金」
甚兵衛が差し出す。
弥助が数える。
一回。
二回。
今度は止まらない。
「合ってる」
甚兵衛。
「よし」
小さく拳を握る。
藤吉。
「それで喜ぶのか」
「昨日間違えたんだから喜ぶだろ!」
弥助。
「今日は一往復だったな」
甚兵衛。
「そこ重要!」
少しずつ。
本当に少しずつ。
昨日の失敗が、今日のやり方へ変わっていく。
昼前。
別の仕事。
今度は帳面と現物の確認だった。
弥助が品を指す。
「数えろ」
甚兵衛。
「また?」
「嫌か」
「嫌じゃないけど、数える仕事多くない?」
「商いで数を間違えたらどうする」
甚兵衛。
「困る」
「誰が」
「店」
「だけか?」
甚兵衛は少し考える。
「客も」
「そうだ」
甚兵衛は品を数える。
一つ。
二つ。
三つ。
数えた物を少しずつ動かす。
前に覚えたやり方。
「十六」
弥助。
「もう一回」
「はいはい」
もう一度。
「十六」
帳面。
十六。
合う。
甚兵衛。
「気持ちいいな」
弥助。
「何が」
「数と帳面がぴったり合うと」
「そのうち合わない日も来る」
甚兵衛。
「嫌なこと言うなよ!」
弥助が笑う。
昼。
握り飯。
甚兵衛は店の裏に座る。
今日は三匹が見当たらない。
甚兵衛。
「……来ないな」
弥助。
「誰が」
「独り言」
「またか」
甚兵衛は握り飯を一口食べる。
少しして。
石垣の隙間。
鼻。
一匹。
二匹。
三匹。
甚兵衛は小声になる。
「いたのかよ」
『いる』
「店の近く来るなって言ったろ」
『ちかくない』
「十分近い」
『ねこいない』
「今いないだけ」
最初の鼠。
『においない』
甚兵衛は少し黙る。
猫の気配。
犬。
人。
鼠たちの方が、自分より詳しい。
そこは認める。
「でも客来たら隠れろよ」
『わかった』
握り飯をほんの少しちぎる。
渡す。
その時。
後ろから弥助。
「お前、何やってる」
甚兵衛の身体が固まった。
振り返る。
弥助。
足元に鼠。
手には握り飯。
逃げ道なし。
「……」
弥助。
「鼠に飯やってたのか」
甚兵衛。
「……駄目?」
少し身構える。
弥助は鼠を見る。
鼠も弥助を見る。
一匹は握り飯を抱えたまま。
「店の中には入れるな」
甚兵衛。
「うん」
「商品を齧らせるな」
「うん」
「増やすなよ」
甚兵衛。
「俺が増やしてるわけじゃない!」
弥助。
「ならいい」
甚兵衛は拍子抜けした。
「……それだけ?」
「それ以上、何がある」
「追い払えとか」
弥助は肩をすくめる。
「害が出たら追い払う」
「……」
「害が出てないうちから騒いでも仕方ないだろ」
甚兵衛は少しだけ笑った。
「弥助って意外と適当だな」
「お前に言われたくない」
午後。
藤吉が甚兵衛へ小さな紙を渡した。
「これを届けろ」
甚兵衛。
「また庄吉?」
「違う」
「庄助?」
「違う」
甚兵衛。
「よかった……」
藤吉。
「何がよかった」
「名前似てる人、もう嫌なんだよ」
今度の相手は別の家。
仕事内容も少し違う。
届けるだけではない。
「向こうで、来月必要な物があるか聞いてこい」
甚兵衛。
「それだけ?」
「それだけ」
「何で?」
「聞けば分かる」
甚兵衛。
「それ嫌い」
「仕事だ」
「はい」
道中。
三匹は今日もついてくる。
甚兵衛は荷を運びながら、さっきの仕事内容を繰り返す。
相手。
品。
聞くこと。
帰って藤吉へ伝えること。
着いた家で、品を渡す。
問題なし。
そして。
「来月、必要な物ある?」
相手の男は少し考えた。
「ああ。それなら――」
品名。
数。
時期。
一つ。
二つ。
三つ。
甚兵衛は途中で顔をしかめた。
「待って」
「何だ」
「一気に言わないで」
「覚えられんか」
「覚えたつもりで間違う方が嫌」
「紙は?」
甚兵衛。
「……」
持っていない。
字だって、まだ速く書けない。
「一個ずつ言って」
男。
「仕方ないな」
一つずつ聞く。
復唱する。
もう一つ。
また復唱。
最後に全部もう一度。
甚兵衛。
「これで全部?」
「ああ」
「増える?」
「まだ分からん」
甚兵衛。
「じゃあ“今のところ”だな」
男が笑う。
「細かいなあ」
甚兵衛。
「昨日金返しに走ったんだぞ。細かくもなるわ!」
帰り道。
甚兵衛は、聞いた内容をぶつぶつ繰り返す。
品名。
数。
時期。
一つ。
二つ。
三つ。
最初の鼠。
『いっぱい』
「いっぱい」
『わすれる?』
「忘れたくない」
『におい』
甚兵衛。
「俺は匂いで品名覚えられねえの」
その時。
最初の鼠が足を止めた。
『ここ』
甚兵衛も止まる。
「何?」
鼠が鼻を動かす。
『におい、かわる』
甚兵衛も反射的に鼻を動かした。
土。
草。
人の家。
家畜。
自分には、特に変わった匂いは分からない。
「何の?」
『ひと』
甚兵衛の顔が少し引き締まる。
「誰?」
『しらない』
周囲を見る。
道の先。
誰もいない。
茂み。
畑。
低い石垣。
見える範囲では、何もない。
「危ない?」
鼠。
『しらない』
甚兵衛は少し考えた。
「じゃあ、危ないって決めつけない」
ただし。
そのまま進む必要もない。
道の端。
少し遠回りになるが、見通しのいい方。
甚兵衛はそちらへ足を向けた。
別の鼠。
『にげる?』
「まだ」
『こわい?』
「ちょっと」
『でもいく』
甚兵衛は荷を背負い直す。
「店に戻らないと仕事終わらねえからな」
最初の鼠が周囲を嗅ぐ。
少しして。
『だいじょうぶ』
甚兵衛。
「“たぶん”?」
鼠。
『たぶん』
甚兵衛。
「じゃあ油断しない」
少し遠回りする。
結局。
何も起こらなかった。
人がいたのかもしれない。
ただ通っただけかもしれない。
鼠の勘違いだったかもしれない。
分からない。
だから。
何もなかったなら、それでいい。
店へ戻る。
藤吉。
「遅かったな」
甚兵衛。
「少し遠回りした」
「なぜ」
甚兵衛は答えかける。
「鼠が――」
止まる。
藤吉。
「鼠?」
甚兵衛。
「……変な匂いがした」
「お前が?」
「いや」
「?」
甚兵衛。
「細かいことはいい!」
藤吉。
「お前が言うな」
弥助が横から口を挟む。
「それで、頼まれた物は?」
甚兵衛。
「あ」
頭を切り替える。
「まず――」
一つ。
二つ。
三つ。
順番に話す。
途中。
弥助が止めた。
「それ、数は?」
甚兵衛。
「……」
口が止まる。
「言ってた」
「いくつ」
甚兵衛は頭の中を探す。
こっち。
いや。
違う。
品名は覚えている。
時期も。
でも数が混ざった。
「……分からなくなった」
藤吉。
「聞いてこなかったのか」
甚兵衛。
「聞いた!」
「覚えられなかった?」
「……うん」
悔しい。
かなり。
あれだけ復唱した。
確認もした。
それでも忘れた。
甚兵衛はすぐ言った。
「もう一回行ってくる」
藤吉。
「待て」
「でも」
「聞き直しに行くのはいい」
甚兵衛。
「じゃあ――」
「その前に考えろ」
「何を」
藤吉は甚兵衛を見る。
「次に同じ量の話を聞いたら、また忘れるか?」
甚兵衛は口を閉じた。
少し考える。
「……忘れるかもしれない」
「なら、今聞き直すだけじゃ足りん」
甚兵衛。
「紙に書く?」
「書けるか?」
「遅い」
「他には?」
甚兵衛は考える。
指を使う。
石を使う。
結び目。
印。
品ごとに何か分ける。
でも。
混ざるかもしれない。
そこで弥助が言った。
「一人で全部考える必要ないぞ」
甚兵衛は少しだけ黙ってから、素直に言う。
「……教えて」
弥助は小さな板を一枚出した。
「まず、お前が書ける数字と印だけ使え」
甚兵衛。
「字全部読めなくても?」
「全部書こうとするから遅い」
品の頭の字。
数。
簡単な印。
順番。
甚兵衛は板を見ながら試す。
線はまだ汚い。
形も不揃い。
でも。
自分には分かる。
「これなら……」
もう少し書く。
甚兵衛。
「でも、これ俺しか読めなくない?」
藤吉。
「今はそれでもいい」
甚兵衛。
「でも俺がいなかったら?」
藤吉。
「だから、そのうち他人にも読めるように字を覚えろ」
甚兵衛はがっくりした。
「……結局勉強か」
「逃げられると思ったか」
「ちょっと」
弥助。
「残念だったな」
もう一度。
同じ家へ向かう。
男は甚兵衛を見るなり、少し驚いた。
「また来たのか」
甚兵衛。
「忘れた」
「正直だな」
「だから、もう一回教えて」
「さっき聞いたろ」
「聞いた。でも覚えきれなかった」
男は少し笑う。
「藤吉さんに怒られたか」
甚兵衛。
「怒られる前に戻ってきた」
小さな板を出す。
男。
「何だそれ」
「忘れないやつ」
「帳面?」
「そんな立派じゃない」
一つずつ。
今度は聞く。
書く。
確認する。
甚兵衛。
「これで合ってる?」
「合ってる」
「よし」
男。
「最初から持ってくればよかったな」
甚兵衛。
「それ今日覚えた!」
夕方。
藤吉が板と聞き取り内容を確認する。
「合ってる」
甚兵衛の顔が明るくなる。
「よし」
弥助。
「二往復したけどな」
甚兵衛。
「それは言うな」
藤吉。
「言う」
甚兵衛。
「なんで!」
「次から一往復で済ませるためだ」
甚兵衛。
「……はい」
藤吉は板を指す。
「今日の失敗は?」
甚兵衛。
「覚えてなかった」
「どうした」
「戻って聞いた」
「次は?」
甚兵衛は板を持ち上げる。
「書く」
「書けない字は?」
「聞く」
「それでも間に合わない時は?」
「分かる印にする」
「後で?」
「ちゃんと書き直す」
藤吉。
「よし」
甚兵衛は少し得意そうになる。
「今日、結構褒められてない?」
弥助。
「二往復したけどな」
甚兵衛。
「お前、それ気に入っただろ!」
仕事の後。
慧円のところへ行く。
甚兵衛は今日使った小さな板を、そのまま差し出した。
「これ、もっと読みやすくしたい」
慧円。
「随分急に熱心になったね」
「二往復した」
「なるほど」
「笑うなよ」
「笑ってはいない」
「顔が笑ってる!」
慧円は板を見る。
甚兵衛が実際に仕事で使った言葉を拾っていく。
布。
米。
数。
人名。
日。
受。
渡。
商いの中で、毎日のように使う字。
甚兵衛は筆を持つ。
「こういうのから覚えるの?」
「今のお前さんには、その方がよかろう」
甚兵衛は一字書く。
失敗。
もう一度。
少しまし。
「学校みたいだな」
慧円。
「学校?」
甚兵衛の筆が止まった。
「……何でもない」
危ない。
前の人生の言葉。
今では普通ではない言葉。
時々。
考えるより先に出てくる。
慧円は不思議そうにしたが、深く追及はしなかった。
「疲れたかね」
甚兵衛。
「ちょっと」
「今日はここまででもよい」
甚兵衛は板を見る。
今日、忘れた数。
もう一度聞きに行った道。
「……もう少し」
慧円。
「なぜ」
甚兵衛。
「明日また二往復したくない」
慧円は静かに笑った。
「立派な理由だ」
甚兵衛。
「格好よくはないけどな」
「覚える理由など、それで十分だよ」
夜。
物置。
甚兵衛は戸を開ける。
「ただいま」
三匹。
『かえった』
もう迷わず出る言葉になっている。
甚兵衛は藁へ座る。
今日使った板を置く。
鼠たちが寄ってくる。
『なに』
甚兵衛。
「今日の失敗」
『しっぱい』
「でも直した」
最初の鼠。
『かえった』
甚兵衛。
「何が?」
『わすれて、もどった』
「ああ」
『きいて、またいった』
「そう」
最初の鼠は、当然のことのように続けた。
『かえればいい』
甚兵衛。
「……」
別の鼠。
『わからない、かえる』
もう一匹。
『まちがえた、かえる』
三匹目。
『ごはんない、かえる』
甚兵衛。
「最後はお前だな」
三匹が鳴く。
甚兵衛も少し笑った。
間違えたら。
戻る。
聞き直す。
直す。
全部が全部、それで済むとは限らない。
戻れないことだって。
取り返せないことだって。
きっとある。
でも。
今日の失敗は、それで直せた。
それなら。
次から、同じ失敗を少し減らせばいい。
甚兵衛は板の端に、習ったばかりの自分の名前を書く。
甚。
兵。
衛。
昨日より少しだけ形が整っている。
甚兵衛。
「……昨日よりまし」
最初の鼠。
『じんべえ』
「うん」
『あしたも?』
甚兵衛。
「明日も仕事」
『いく?』
「行く」
『かえる?』
甚兵衛は藁へ身体を倒した。
少しだけ天井を見る。
借り物の物置。
自分の家ではない。
いつまでここにいられるかも、まだ分からない。
それでも。
今日も。
ここへ戻ってきた。
だから甚兵衛は、今度は迷わず答えた。
「帰るよ」
最初の鼠。
『ここに』
甚兵衛。
「うん」
明日も仕事へ行く。
失敗するかもしれない。
また聞き直すかもしれない。
それでも。
夜になれば。
今のところは。
ここへ帰ってくる。
甚兵衛は目を閉じた。
「……寝よ」
鼠。
『あした』
甚兵衛。
「明日」
今夜は、それだけで十分だった。