翌朝。
甚兵衛が藤吉の店へ着いた時、店先には見慣れない籠がいくつも並んでいた。
朝の光を受けた籠の中には、縄や布、小さな器、乾物、それから甚兵衛にはまだ名前の分からない道具まで、雑多な品が詰め込まれている。縄でまとめられた荷もあり、店先には普段より少しだけ慌ただしい空気があった。
「おはよう」
荷を整理していた弥助が振り返る。
「おう」
甚兵衛は挨拶を返すなり、一番近くの籠を覗き込んだ。
「何これ」
「売り物」
「それは見れば分かる」
「じゃあ聞くな」
「何の売り物か聞いてんの!」
弥助は笑いながら、籠の中を指した。
日々使う縄。
手頃な布。
小さな器。
乾物。
前に見たことのある物もあるが、初めて見る形の道具も混じっている。
甚兵衛は一つずつ眺めた。
「今日、荷が届いた?」
「朝にな」
「俺が来る前?」
「そうだ」
甚兵衛は少し不満そうに眉を寄せる。
「早く来たのに」
弥助は何でもないことのように言った。
「店はお前を待って始まるわけじゃない」
「……ですよね」
分かっている。
分かっているが、少し悔しい。
自分が寝ている間にも、人は荷を運び、店は動く。
この店の一日は、自分が来てから始まるわけではないのだ。
奥から藤吉が出てきた。
「甚兵衛」
「はい」
最近は、その名前を呼ばれても一拍遅れなくなってきた。
「今日は店に立て」
甚兵衛の顔が固まる。
「……俺が?」
「俺も弥助もいる」
「ああ」
目に見えて胸を撫で下ろした。
藤吉が眉を上げる。
「何だ、その顔」
「いきなり一人で客の相手しろって言われたら、逃げようかと思った」
弥助。
「逃げるな」
甚兵衛。
「まだ無理なもんは無理だろ!」
藤吉は怒らなかった。
「だから今日は見る」
「見る?」
「客が何を見るか」
一つ。
「何を聞くか」
二つ。
「俺たちが何を答えるか」
三つ。
甚兵衛は少し安心する。
「売らなくていい?」
「勝手に売るな」
「はい」
返事だけは早かった。
分からない値段を勝手につける怖さは、もう覚えている。
朝一番の客は、村の男だった。
店に入ってくるなり、慣れた様子で藤吉へ声をかける。
「藤吉さん、縄あるか」
「どれくらい要る」
「いつもの」
甚兵衛の耳がぴくりと動いた。
――いつもの?
客は、それしか言っていない。
どの縄かも。
長さも。
太さも。
何に使うのかも。
だが藤吉は迷わなかった。
棚から一つ取る。
男は受け取り、縄を少し確かめる。
「これだ」
代金を渡す。
藤吉が受け取る。
客はそのまま帰っていった。
甚兵衛は、戸口から男の背中が消えるのを待つこともできなかった。
「待って」
藤吉。
「何だ」
「何で分かったの?」
「何が」
「“いつもの”だけで」
藤吉は縄のあった棚へ目をやった。
「何度も来てる客だからだ」
甚兵衛は食いつく。
「種類も覚えてる?」
「ああ」
「量も?」
「大体」
「値段も?」
「それは帳面にもある」
甚兵衛は黙った。
客の顔。
何を買うか。
どれくらい買うか。
何度来たか。
値段。
約束。
そこに昨日まで覚えていた商品や数字まで加わる。
「……商人って、記憶力必要?」
藤吉。
「ある方がいい」
甚兵衛。
「俺、この前品の数忘れたんだけど」
弥助。
「知ってる」
「言うなよ!」
藤吉は帳面を軽く叩いた。
「だから帳面がある」
甚兵衛はその帳面を見る。
「結局そこに戻るな」
頭で覚える。
紙にも残す。
どちらか一つではなく、両方。
少しずつ意味が分かってきた。
次の客は老婆だった。
「この前の布、まだある?」
藤吉はすぐに棚へ手を伸ばす。
「ありますよ」
甚兵衛は横から見る。
前にも扱った種類の布だった。
老婆が布を広げ、指先で触る。
値段を聞く。
藤吉が答える。
老婆が少し顔を曇らせた。
「前より高くなったねえ」
甚兵衛の耳がまた動いた。
藤吉。
「仕入れが上がりまして」
「そうかい」
老婆はしばらく迷った。
結局、一つだけ買って帰る。
甚兵衛は今度こそ、客が店を出るまで待った。
そしてすぐ藤吉を見る。
「値段上がった?」
「ああ」
「何で?」
弥助が横から呆れた声を出す。
「お前、“何で”多いな」
甚兵衛はむっとする。
「分からんから聞いてんの!」
藤吉は慣れた様子で答えた。
「店まで運ぶにも金が要る」
「うん」
「人も要る」
「うん」
「品そのものの値も変わる」
「うん」
「途中で品が少なくなれば、値が上がることもある」
甚兵衛は少し考える。
「じゃあ、店が勝手に上げてるわけじゃない?」
藤吉。
「勝手に上げることもできる」
甚兵衛。
「できるんだ」
「できることと、やっていいことは別だ」
その言葉で。
甚兵衛の表情が少し変わった。
頭の奥。
ずっと前。
母の声。
入れることと。
入っていいことは別。
触れることと。
触っていいことも別。
「……それ、分かる」
藤吉。
「何が」
甚兵衛は首を振った。
「何でもない」
その先までは言わなかった。
昼前。
今度は、一人の男がかなりの量の商品を買っていった。
布。
乾物。
日用品。
いくつもの品がまとめて動く。
そのぶん、藤吉が受け取った金も多かった。
男が帰ったあと。
甚兵衛はすぐ店の奥へ行った。
「藤吉さん」
「何だ」
「あの人、いっぱい買ったよな」
「ああ」
「今、すげえ儲かった?」
弥助が吹き出した。
甚兵衛が睨む。
「何だよ!」
藤吉は笑わず、帳面を開いた。
「じゃあ聞く」
「うん」
「この品を手に入れるのに、いくらかかった」
甚兵衛。
「……知らない」
藤吉が金額を教える。
甚兵衛の顔が少し変わる。
「運ぶのに」
また別の額。
「運んだ者へ払う分」
また。
「店で使う分もある」
甚兵衛は指を折り始めた。
「待って、待って」
一つ。
二つ。
三つ。
「さっき入ってきた金から、それ全部引くの?」
藤吉。
「全部が同じ時に出ていくわけじゃない。だが、考えなきゃならん」
甚兵衛は、さっき受け取った金が置かれた場所を見る。
多い。
少なくとも、自分が今持っている金よりずっと多い。
でも。
「これ全部、うちの儲けじゃない?」
藤吉。
「店に入った金と、店が儲けた金は同じじゃない」
甚兵衛。
「…………」
弥助。
「顔が変だぞ」
甚兵衛は少し気まずそうに口を開く。
「俺、昨日まで」
一度、言うのをためらう。
「店って金がいっぱい入ってくるから、金持ちなんだと思ってた」
弥助が笑った。
「子供らしいな」
甚兵衛はすぐ言い返す。
「俺、子供だよ!」
「時々忘れる」
「何で!?」
藤吉は話を続ける。
「売った金から、次の品を仕入れる」
甚兵衛は黙る。
「人へ払う」
さらに。
「店を続ける」
甚兵衛は帳面を見る。
金が入った。
それだけでは終わらない。
次につなげる。
残す。
払う。
買う。
回す。
「……商いって」
藤吉。
「何だ」
甚兵衛は心底嫌そうに言った。
「面倒だなあ」
弥助。
「今さらだな」
昼。
甚兵衛は店の裏で握り飯を食べていた。
少し離れた石垣の陰に、三匹の鼠がいる。
最初の鼠。
『かね?』
甚兵衛。
「今日は金の話」
別の鼠。
『たべられない』
「それは前も聞いた」
三匹目。
『ごはん、かう』
「そう」
甚兵衛は自分の握り飯を指す。
「これ買うのにも金がいる」
『うん』
「で、売った金を全部使ったら」
鼠たちが見る。
「次の飯を買う金がなくなる」
最初の鼠。
『ためる』
「そう」
『ぜんぶたべたら、ない』
甚兵衛は止まった。
「……またお前らの方が先に分かってる感じするな」
鼠。
『ねずみ』
甚兵衛。
「それ、便利な言葉みたいに使うな」
午後。
藤吉が簡単な話を持ち出した。
帳面ではなく、甚兵衛へ考えさせるための話だった。
「ある品を十で仕入れたとする」
甚兵衛。
「うん」
「十二で売った」
甚兵衛はすぐ答える。
「二儲けた」
藤吉。
「本当に?」
甚兵衛。
「……」
嫌な予感がした。
昨日から。
藤吉の「本当に?」は大体その後がある。
「運ぶのに一かかった」
甚兵衛。
「……残り一」
「売れるまでに一つ傷んで、売れなくなった」
甚兵衛。
「待って」
「客が値を下げろと言った」
「待ってって!」
弥助が笑う。
甚兵衛は藤吉を睨んだ。
「条件追加すんなよ!」
藤吉。
「現実は追加される」
「そんな!」
「雨が降る」
「はい?」
「道が悪くなる」
「待って」
「荷が遅れる」
「だから待って!」
弥助が腹を抱えて笑い始めた。
藤吉は平然としている。
「だから最初から余裕を見る」
甚兵衛は頭を抱えた。
計算自体は難しくない。
足す。
引く。
前の人生でも知っている。
でも。
何を足すのか。
何を引くのか。
そこが分からなければ、答えは出ない。
甚兵衛は顔を上げた。
「計算できても」
「何を計算するか分かんなかったら意味ない?」
藤吉。
「そうだ」
甚兵衛は黙った。
算数。
数学。
割合。
利益。
頭の中には、知っている言葉がいくつもある。
それでも。
目の前の商いができるわけではない。
甚兵衛。
「現代……」
藤吉。
「何だ?」
「なんでもない!」
危ない。
時々。
前の人生の言葉が、口まで出る。
藤吉は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
夕方。
客足が少し落ち着いた頃。
藤吉が、小さな品を一つ甚兵衛の前へ置いた。
甚兵衛。
「何?」
「これを売ってみろ」
甚兵衛の顔が止まる。
「……俺が?」
「俺が横にいる」
「弥助も?」
「いる」
「なら……」
少し安心した。
「値段は?」
教えられる。
甚兵衛は一度復唱する。
「変えていい?」
藤吉。
「今日は変えるな」
「分かった」
「客に何か聞かれて、分からなかったら?」
甚兵衛。
「分からないって言う」
「その後は?」
「藤吉さんか弥助を呼ぶ」
「よし」
甚兵衛は商品を見る。
客の来る方を見る。
もう一度商品を見る。
「……本当に俺が?」
藤吉。
「嫌ならやめるか」
怖い。
前に立つだけなら。
客を見るだけなら。
昨日もやった。
でも。
今日は違う。
自分が値段を言う。
自分が金を受け取る。
甚兵衛は少し考えてから、商品を自分の前へ置いた。
「やる」
しばらくして。
村の女が一人やって来た。
商品をいくつか見て。
甚兵衛の前にある品へ目を止める。
「これ、いくら?」
甚兵衛の背筋が伸びた。
「えっと」
教えられた値を言う。
少し声が固い。
女は商品を見る。
「もう少し安くならない?」
来た。
甚兵衛。
「……」
値段は変えるな。
言われた。
でも。
客は自分を見ている。
返事を待っている。
逃げたい。
甚兵衛は一度息を吸った。
「今日は、この値です」
女。
「藤吉さんなら、少しくらい――」
甚兵衛。
「藤吉さん!」
即座に呼んだ。
女が笑う。
「自分で決めないのかい」
甚兵衛は真顔で答えた。
「決めていいって言われてないから」
「真面目だねえ」
甚兵衛。
「勝手に安くして後で怒られるの嫌なんです!」
藤吉。
「それを客の前で言うな」
甚兵衛は振り返る。
「じゃあ何て言えばいいんだよ!」
女が笑う。
弥助も笑う。
藤吉だけが額を押さえた。
「後で教える」
藤吉が横へ立ち、話を引き継ぐ。
少しやり取りがあったが。
結局。
品は最初の値のまま売れた。
客が帰ったあと。
甚兵衛はしばらく、空いた場所を見ていた。
「……売れた」
弥助。
「売れたな」
甚兵衛は自分を指す。
「俺が?」
藤吉。
「半分くらいは」
甚兵衛。
「何で半分」
「最後は俺が話した」
甚兵衛。
「……」
少し悔しい。
それでも。
商品を渡した。
金を受け取った。
昨日のことを思い出しながら。
一枚。
数える。
数えた分を分ける。
もう一度。
合っている。
藤吉へ渡す。
「これでいい?」
「いい」
甚兵衛。
「……」
口元が勝手に上がった。
弥助。
「嬉しいのか」
甚兵衛はすぐ顔を戻す。
「別に」
「顔」
「うるさい」
藤吉が帳面を開く。
今日の取引を書き込む。
甚兵衛は横から覗いた。
まだ全部は読めない。
それでも。
自分の名前は分かる。
甚兵衛。
その横に。
今日売った品。
数。
受け取った金。
甚兵衛は少しだけ声を落とした。
「俺の仕事?」
「ああ」
「残る?」
「残る」
なんとなく。
嬉しい。
昨日まで。
自分は「半妖の童」だった。
今は甚兵衛。
そして今日は。
その甚兵衛が、初めて店で品を一つ売った。
だが。
そこで、昼間の話を思い出す。
甚兵衛。
「これ売った金」
藤吉。
「何だ」
「全部、儲けじゃないんだよな」
藤吉が少しだけ口元を緩める。
「覚えてたか」
「忘れねえよ」
「なら上出来だ」
甚兵衛。
「……」
藤吉に褒められると、妙に落ち着かない。
嬉しい顔をしたら負けな気がする。
甚兵衛は視線を逸らした。
「明日も売っていい?」
藤吉。
「まだ勝手には売るな」
「ちぇっ」
「一つできたから、全部できると思うな」
甚兵衛は少しだけ止まる。
それも。
この数日で何度も学んだ。
甚兵衛。
「……はい」
仕事の後。
慧円のところへ行く。
甚兵衛は帳面の真似をしながら、紙に数字を書いていた。
「十」
書く。
「十二」
その横。
「一引いて……」
慧円が隣から見る。
「随分熱心だね」
甚兵衛。
「今日、売った」
「ほう」
「でも」
筆が少し止まる。
「売れた金、全部が儲けじゃなかった」
慧円は何でもないことのように言う。
「当然だろう」
甚兵衛は顔を上げた。
「みんな当然って言う!」
慧円が笑う。
「甚兵衛には、今日が初めてだったのだろう」
「……うん」
「なら、今日知った。それでよい」
甚兵衛はまた紙を見る。
少しして。
「でもさ」
「何だね」
「俺」
筆の先を見る。
「知ってること、いっぱいあると思ってたんだよな」
慧円は急かさない。
甚兵衛は続ける。
「前から知ってたことも」
「ここじゃ、そのまま使えない」
数字は分かる。
計算も。
でも。
物が違う。
金が違う。
数え方が違う。
人が違う。
約束が違う。
商いのやり方が違う。
甚兵衛。
「数字は数字なのに」
「何を数えるかで全然違う」
慧円。
「嫌になったかね」
甚兵衛。
「……」
少し考える。
それから。
首を振った。
「逆」
慧円。
「逆?」
甚兵衛は筆を持ち直す。
「知らないこと多い方が、覚えるもんいっぱいある」
慧円は静かに笑った。
「それなら、しばらく退屈せずに済みそうだ」
甚兵衛。
「退屈する暇なく働かされてるけどな!」
夜。
物置へ戻る。
戸を開ける。
「ただいま」
三匹。
『かえった』
甚兵衛は藁へ座った。
今日の賃金を出す。
一度数える。
もう一度。
間違いなし。
小さく包む。
最初の鼠が横から覗く。
『ふえた』
「少し」
『いっぱい?』
「まだ」
『ぜんぶつかう?』
甚兵衛。
「使わない」
『なぜ』
甚兵衛は昼間の店を思い出す。
仕入れ。
運ぶ人。
次の商品。
店を続けるための金。
「明日の分がいるから」
鼠。
『ためる』
「そう」
『ごはんも』
「そう」
そこで。
甚兵衛は少し考えた。
「でもさ」
三匹。
『?』
「貯めるだけでも駄目なんだよな」
最初の鼠。
『なぜ』
甚兵衛は握り飯を思い浮かべる。
「飯、いくら貯めても食わなきゃ意味ないだろ」
鼠。
『たべる』
「金も、多分一緒」
必要な時。
使う。
残す時。
残す。
全部使うのも違う。
全部抱え込むのも違う。
甚兵衛。
「使うところでは使う」
「残すところでは残す」
鼠。
『むずかしい』
甚兵衛は藁へ横になった。
「俺も今そう思ってる」
今日は初めて。
自分で客に値段を言った。
自分で品を渡した。
自分で金を受け取った。
怖かった。
でも。
少し面白かった。
最初の鼠。
『あしたも、うる?』
甚兵衛。
「藤吉さんがいいって言ったらな」
『じぶんで?』
「まだ勝手にしない」
鼠。
『なぜ』
甚兵衛は何気なく答えた。
「できることと、任されてることは別だから」
口にした後。
少しだけ止まる。
できることと。
していいことは違う。
母の顔が浮かんだ。
森。
鳥居。
祠。
勝手に入るなと言われた日。
「……母ちゃん」
鼠。
『かあちゃん?』
甚兵衛。
「うん」
『あう?』
言葉が止まった。
甚兵衛は天井を見る。
少し前なら。
その質問だけで胸の奥が強く痛んだ。
今も痛い。
ただ。
前より、その痛みの場所が分かる。
「……会えない」
鼠たちは何も言わなかった。
甚兵衛も続けない。
しばらく。
風が板壁の隙間を抜ける音だけがした。
やがて甚兵衛は目を閉じる。
「寝よう」
最初の鼠。
『あした』
甚兵衛。
「うん」
「明日も働く」
まだ。
分からないことばかりだ。
品物。
金。
帳面。
客。
信用。
商い。
人間。
鼠。
自分自身のことだって。
分からない。
だから。
明日も。
一つくらい覚えればいい。
今は、それで十分だった。