やはり俺の赤特(エラー)はまちがっている。 作:蚊に刺されたろう
俺俺の目の前には、時々『パワプロ』のステータス画面が浮かぶ。
別に野球をやっているわけじゃない。
甲子園を目指す熱血球児でもなければ、草野球で汗を流すオッサンでもない。
ここ総武高校という、千葉県内でもそこそこに偏差値の高い高校で、ごく普通の――そして前世の記憶を持った――男子高校生として生きている俺の視界には、どういう理屈か、人の能力がパワプロのステータス風に可視化されて見えるのだ。
最初に断っておく。
ここで表示されるステータスは、「運動能力」や「筋力」といった肉体的なスペックではない。
俺の視界に映るステータスは、学園生活における『対人関係能力』『コミュニケーション力』『事務処理能力』『メンタリティ』といった、非肉体的な社会的能力を、野球のパラメータに置き換えたものだ。
具体的には、こんな感じである。
【弾道】
発想の飛躍力・スケール感。
1=現実的・堅実。4=大風呂敷・ぶっ飛んだ発想。
【ミート】
対人対話の正確さ・相手の意図を察知する精度・事務処理の精密さ。
高いほど言葉選びや分析に隙がなく、相手の核心を的確に射抜く。
【パワー】
意思主張の強さ・存在感・発言の影響力。
高いほど、自分の意見を押し通す圧力や説得力がある。
【走力】
フットワークの軽さ・行動力・場に対する反応速度。
高いほど、どんな場面にも即座に首を突っ込める。
【肩力】
影響を及ぼす範囲・情報や感情を遠くまで伝える発信力。
高いほど、口コミや自分の影響力を広い範囲へ拡散できる。
【守備力】
対人トラブルの回避能力・他人の毒舌や悪意を受け流すスルー力。
高いほど相手からの攻撃をいなし、自分のペースを乱されない。
【捕球】
相手の言動を受け止める包容力・ポカをしない手堅さ。
高いほど他人の面倒な頼み事や感情をしっかり受け止め、うっかりミスも起こしにくい。
――まあ、そんな感じだ。
そして、これを踏まえた上で。
俺自身の能力画面は、こんな感じである。
【俺のステータス】
弾道2 / ミートC / パワーC / 走力B / 肩力D / 守備力D / 捕球E
特殊能力:『ピンチ〇』『サヨナラ男』『ムードメーカー』『逆境〇』
赤特:『エラー(無意識)』『暴投(無意識)』
一見すると、「平均的なコミュニケーション力と事務処理能力を持ち、そこそこの押し出しもあり、フットワークが軽い。土壇場では妙に頼れる男」といったところだろう。
実際、意識して集中すれば、『サヨナラ男』や『ピンチ〇』を能動的に発動させることができる。
テスト直前の一夜漬け。
突発的な人間関係のトラブル。
教師からの無茶振り。
そういった「今すぐどうにかしろ」という状況に追い込まれた時だけ、俺は妙に強い。
……ただし。
人生において真に問題となるのは、青い特殊能力ではない。
画面の一番下。
そこに禍々しい赤文字で刻まれた、二つの特殊能力だ。
油断したり。
調子に乗ったり。
あるいは、ふざけたノリに身を任せたりすると――。
俺の意思とは無関係に、『エラー』や『暴投』といった赤特が勝手に暴発する。
対人関係における『エラー』は、立ち回りの致命的なポカ。
うっかり滑って転ぶ。
余計な一言を口にする。
絶妙なタイミングで地雷を踏む。
そして『暴投』は、意図しない方向へ飛んでいく余計な一言や、過剰な行動として出力される。
つまり俺の人生は――。
「ここはカッコよく決めるか」
などと邪心を出した瞬間。
制御不能な事故によって、日々ギャグ空間へと強制上書きされているのだった。
◇
「あ、先輩~! 奇遇ですね。これって運命ですかね?」
昼休みの賑やかな廊下。
人波を掻き分けるようにして歩み寄ってきたのは、一年の後輩――一色いろはだった。
あざとい角度で首を傾げ、小動物のような上目遣いを仕掛けてくる。
その完璧に計算された所作の頭上には、今日も今日とて燦然と輝くステータス画面が表示されていた。
【一色いろは】
弾道1 / ミートB / パワーF / 走力B / 肩力E / 守備力A(あざと防衛) / 捕球C
特殊能力:『小悪魔』『内野安打(ズル賢い)』『アピール〇』
調子:普通
わかりやすいステータスだ。
パワーF――主張の強さや押しの強さは皆無。
自分から強気に出て押し通す力はないため、常に「弱者」や「守られるべき可愛い後輩」というポジションを取る。
そのくせ、ミートBと守備力A。
相手の好意を正確に狙い撃ちする言葉選び。
都合の悪い追及や批判を、
「え~、なんですかぁ?」
と可愛げでスルーする対人防衛力。
そこだけは無駄に極まっている。
「はい、ダウト。そのミートBの精度で繰り出されるあざと可愛い笑顔が出た時は、十中八九、俺にジュースを買わせようとしてる顔だ」
「なんですか、その意味不明な評価!? 違いますよ~。普通に先輩を見かけたから声をかけただけです~!」
ぷくっと頬を膨らませて抗議するいろは。
中学校からの腐れ縁である俺には、彼女の計算尽くしの可愛さなんて、いまさら何の効果も持たない。
そして、それが通用しないと分かっているからこそ、いろはも俺の前では割とあっさり素の毒を吐き出してくる。
「ほんと先輩って、昔から変なノリですよね。せっかく可愛い後輩が愛想振りまいてあげてるのに、少しは感動するとか、『何か買ってあげようか?』って気にならないんですか?」
「お前のは愛想じゃなくて、『内野安打』狙いのセーフティバントだろ。隙を見せたら一瞬でジュースを奢らされる。ほら、150円は出さんぞ」
「ちぇっ、ケチ。昔はもうちょっと騙されてくれたのに。最近はガードが堅くて可愛くないです」
いろはは小さく舌打ちすると、あざとい笑顔を綺麗に引っ込め、面倒くさそうに溜息をついた。
「……あ、じゃあついでに教えちゃいますけど、生徒会関係の先輩たちがなんかピリピリしててウザいんですよね~」
「生徒会?」
「そうそう。なんか揉めてるっぽいです。次期役員選挙がどうとか、仕事の引き継ぎがどうとか。詳しいことは知りませんけど、あの重苦しい雰囲気のせいで生徒会室の近くを通るだけでも胃が痛いんですよ」
「まあ、生徒会もいろいろ大変なんだろ。役員選挙とか始まると面倒くさそうだしな」
いろはがぶつぶつと愚痴をこぼし始めた。
その時だった。
(……あ、やば)
俺の意識が、ほんの一瞬だけ完全に「ふざけたノリ」へと傾いた。
「お前が生徒会長に立候補して、持ち前のあざとさで生徒会室を明るくしてやれば?」
――そんな軽いからかいの言葉が喉まで出かかった瞬間。
脳内で――。
カキン!
金属バットで痛打したような嫌な音が響き渡った。
《赤特:『エラー』が発動しました》
「――ぶっ!?」
何もない。
ワックスが綺麗に塗られた、平坦な廊下だった。
にもかかわらず。
俺の両足が、盛大に絡まり合った。
「お、おおおおおっ!?」
視界が急速に傾く。
前方へと投げ出される俺の身体。
制御の利かない足。
勢い余って前傾姿勢のまま廊下を低空滑空し――。
ドゴォン!!
廊下の角に設置されていた大型のステンレス製ゴミ箱へ、頭から突っ込んだ。
ガシャン!!
ガラガラガラッ!!
空き缶とペットボトルが盛大に宙を舞う。
「……」
「……」
静寂。
俺はゴミ箱を深々と頭に被った姿勢のまま固まっていた。
「っ……ふふっ……」
いろはの肩が震える。
「……あはははははは!」
静寂を破り、いろはが腹を抱えて爆笑し始めた。
「何やってるんですか先輩!! 意味分かんない! あははは! お腹痛い!!」
「……笑うな。俺だって好きでゴミ箱と熱烈なキスをしたわけじゃない」
俺はゴミ箱の暗闇の中で、心の中で涙を流した。
だから言っただろ。
俺の赤特は――。
制御不能なんだって!
◇
「――で? ゴミ箱と熱烈なキスをしてきたお前が、何をしにここへ来たんだ?」
放課後。
指導室の窓際で、平塚静先生が呆れたように煙草の煙を吐き出した。
どうやら昼休みに頭からゴミ箱を被った惨劇は、瞬く間に教職員の間へ広まったらしい。
ちなみに、平塚先生のステータスは画面を開くまでもなく想像できる。
パワーA。
肩力A。
弾道4。
圧倒的なカリスマと、言論の重戦車。
教師としての説得力と存在感は、間違いなく教職員の中でもトップクラスだ。
……まあ、本人に言ったら絶対に調子に乗るので黙っている。
「いやー、廊下のトラップに足を取られまして。それで、平塚先生。お呼び出しの件は?」
俺が頭を掻きながら尋ねると、平塚先生は組み替えていた長い脚を戻し、煙草を灰皿へ押し付けた。
その表情からは、いつもの不敵な笑みが消えていた。
代わりに浮かんでいたのは、どこか柔らかく、教え子を案じる教師らしい温かみだった。
「特別棟の三階。一番奥の部室へ行け」
「特別棟の……あぁ、奉仕部でしたっけ? 噂には聞いてますけど」
「そうだ。捻くれ者、氷の女王、そして心優しいギャル……なんというか、歪だが絶妙なバランスで成り立っている部活だ」
平塚先生は腕を組み、静かに窓の外を見つめた。
「あの部活にはな、不器用で、自分の傷つけ方しか知らない連中が集まっている」
「……」
「特に、あの『捻くれ者』――比企谷八幡は、何か問題が起きた時、自分一人で泥をかぶって解決しようとする危うさがある」
「……なるほどね」
前世の記憶がある俺には、その言葉の意味が嫌というほど理解できた。
八幡の自己犠牲。
自分が悪者になれば誰も傷つかない。
そんな、歪で悲しい解決策。
だが、平塚先生はそこで言葉を切った。
「だがな、私が言いたいのは『あいつらを救ってやってくれ』とか、そんな大層なことじゃない」
平塚先生が振り返る。
その視線が、真っ直ぐに俺を射抜いた。
「お前もだ」
「……え?」
「お前は調子よく周囲と上手くやっているように見える。だが、その突拍子もないポカ癖や不確定要素のせいで、どこか本気で人と深く関わることを避けている節があるだろう?」
「…………」
図星だった。
「八幡も、お前も、根っこのところでは似たような不器用さを抱えているのさ」
平塚先生は苦笑する。
「だからこそ、お前があの部室に行けばいい。あいつらの歪みを矯正しろなんて言わん。ただ一緒に過ごして、くだらないことで笑って、時にはぶつかって――お互いに少しずつ影響を与え合えばいい」
「……先生」
「青春なんて、そういうものだろう?」
その言葉には、教師としての説教臭さなんて少しもなかった。
ただ、教え子たちが少しでもまともに青春を送れるように。
そんな願いだけが、真っ直ぐに込められていた。
平塚先生の真摯な眼差しに、俺は少し気恥ずかしくなって鼻の頭を掻いた。
「……まったく。先生は買い被りすぎですよ。俺なんか、ただの『エラー』持ちの事故物件なんですから」
「ふっ。自覚があるなら良し」
平塚先生はニヤリと笑う。
「さあ、行った行った。お前のそのくだらないバカさで、あいつらと新しい青春でも作ってこい」
「……はぁ。分かりましたよ」
俺は肩をすくめ、指導室を後にした。
◇
特別棟三階。
一番奥の部室。
ドア越しにも伝わってくる、どこか張り詰めた独特の空気。
俺は小さく息を吐き出した。
そして――。
ノックもなしに、勢いよく扉を開け放った。
「ちわーっす! 噂の奉仕部って、ここですかー!?」
「…………」
「…………」
「…………」
静寂。
部室にいた三人の視線が、一斉に俺へと注がれた。
死んだ魚の目をした男――比企谷八幡。
息を呑むほど美しい黒髪の少女――雪ノ下雪乃。
華やかな雰囲気を纏ったギャル――由比ヶ浜結衣。
そして。
彼らの頭上に浮かび上がる、三つのステータス画面。
(……うわ)
俺は思わず息を呑んだ。
(対人・事務ステータスの偏りがエグいな……!)
能力値の意味を当てはめると、三人の異質さが嫌というほど浮き彫りになる。
まずは――。
【比企谷八幡】
弾道1 / ミートD / パワーG / 走力D / 肩力E / 守備力A / 捕球S
特殊能力:『自己犠牲(極)』『観察眼』『孤高』『バント職人』
赤特:《他人に頼れない》《自分だけで解決しようとする》《本音を言えない》《青春アンチ》《ぼっち(永続)》
「…………」
衝撃のパワーG。
押し出し、存在感、自己主張――すべてが壊滅的だ。
自分から人に歩み寄る対話力も、決して高くない。
だが。
守備力A。
捕球S。
ここだけは異常だった。
他人の悪意や面倒な頼み事、ドロドロした人間関係の感情を、すべて自分一人で受け止める。
そして、自分が傷つくことで他人への被害を最小限に抑える。
まさに――。
「自分からは誰も傷つけない代わりに、どんな泥水でも一人で飲み干す自己犠牲型防衛スペック……」
俺が思わず呟く。
続いて、隣の少女へ視線を移す。
【雪ノ下雪乃】
弾道3 / ミートS / パワーD / 走力A / 肩力C / 守備力S / 捕球A
特殊能力:『アベレージヒッター』『完璧主義』『高嶺の花』『鋭利な毒舌』
赤特:《ガラスのメンタル》《姉比較》《不器用(生き方)》
圧巻のミートS。
守備力S。
そして走力A。
論理的思考。
言葉の精密さ。
事務処理能力。
相手の矛盾を見抜き、的確に突く能力。
そこに一切の隙がない。
守備力Sという数値も納得だ。
相手から飛んでくる毒舌や悪意を、完璧な論理で切り返してしまう。
ただし。
パワーはD。
そして――。
《ガラスのメンタル》。
外側から見る限り完璧。
だが、一度内側へ踏み込まれれば、その防御は意外なほど脆い。
そして最後。
【由比ヶ浜結衣】
弾道2 / ミートC / パワーD / 走力B / 肩力C / 守備力E / 捕球D
特殊能力:『愛され上手』『場の空気読み』『ムード〇(潜在)』
赤特:《過剰配慮》《自己主張×》《本音隠し》
気遣いや場への反応速度は高い。
走力B。
ミートC。
人の感情を察知する能力も決して低くない。
ただし――。
守備力E。
鋭い言葉。
ギスギスした空気。
人間関係の衝突。
そういったものに対する防御力が低い。
受け流せず、真正面からダメージを受けてしまうタイプだ。
(……押しゼロで泥を呑む捕球Sのモヤシぼっちに、論理とスルー力最大のミートS完璧超人に、ガード力低めの気遣いギャルか)
見事なまでに噛み合っていない。
なのに。
なぜか、この三人で一つの部室が成立している。
そんな不思議なバランスだった。
俺が内心でステータスの差に感心していると――。
ずっと死んだ魚の目を向けていた比企谷八幡が、ボソッと呟いた。
「……おい、お前」
「ん?」
「昼休みに廊下でゴミ箱に頭から突っ込んで、一色に爆笑されてた奴だろ」
「うぐっ……!」
俺は思わず呻いた。
「なんでぼっちのお前がそんな噂知ってるんだよ!?」
八幡は鼻で笑うように、フンと息を漏らした。
「ぼっちを舐めるな」
「?」
「俺に直接話しかけてくる奴なんて、この学校に一人もいない」
「自慢げに言うな」
「だが、だからこそ俺は常に教室や廊下の『壁の花』として、周囲の会話を盗み聞きしている」
「悲しい情報収集能力だな……」
「カースト上位の女子グループが、『ねえ聞いた? 一年の廊下でゴミ箱にダイブしたバカがいるらしいよー』って爆笑しているのが、嫌でも俺の耳に届いたんだよ」
「悲しい情報収集能力の発揮の仕方すんな!!」
八幡の《ぼっち(永続)》と《観察眼》が、見事なまでに無駄な方向へ噛み合っていた。
自分から発言するパワーはG。
だが、誰とも喋らず周囲の噂話や人間関係のノイズだけを拾い集める能力は、妙に高いらしい。
「え、えっと……ゴミ箱の人……?」
由比ヶ浜が、おそるおそる口を開く。
「ううん。平塚先生の紹介なら、何か依頼かな?」
彼女の《過剰配慮》が絶賛稼働中だ。
「まあ、依頼というか……平塚先生に『お前らと仲良くしてこい』って言われてな」
俺が素直に答える。
すると、本を閉じた雪ノ下雪乃が冷ややかな視線を向けてきた。
ミートSの鋭い眼光。
言葉の精度が高すぎて、視線だけで射殺されそうである。
「……仲良く、ね。あの方は相変わらず余計なお世話が好きのようね」
雪ノ下は小さく息を吐いた。
「私たちは別に、誰かと仲良くするためにここにいるわけではないのだけれど」
「そう言い切るなよ、雪ノ下」
八幡が口を挟む。
「俺だって誰とも仲良くなりたくないが、平塚先生の命令を無視すると、あの人の説教と圧力が飛んでくるんだぞ」
(パワーGのくせに、平塚先生相手だと露骨に押されてるな……)
俺がそんなことを考えていると、八幡がこちらを睨んだ。
「お前、なんか失礼なこと考えてないか?」
「気のせいだ」
「そうか?」
「そうだ」
八幡は怪訝そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
「まあまあ、そうカリカリしないでさ!」
結衣が二人の間に入る。
「せっかくの縁なんだから!」
「そうそう」
俺も便乗する。
「まあ、これも何かの縁だ。せっかくだし――」
俺は場を和ませようと、爽やかに微笑んだ。
そして。
八幡へ手を差し出す。
「とりあえず、よろしくな」
握手を求めるつもりだった。
(よし。ここは先輩らしく、爽やかに決めるか)
そう思った。
その瞬間――。
脳内で。
カキン!
《赤特:『暴投』が発動しました》
「――あ」
腕が、勝手に動いた。
握手を求めるはずだった右手が、なぜか八幡とは正反対の方向へ跳ね上がる。
「ちょっ――」
俺の手が、机の端に置かれていた雪ノ下のティーカップへ向かう。
いや。
向かったというより――。
当たった。
ゴツン!
「え?」
カチャン!
ソーサーが跳ねる。
その衝撃で、ティーカップの中に残っていた紅茶が大きく傾いた。
そして。
「あっ――」
俺と雪ノ下の視線が、宙を舞う紅茶を追う。
放物線の先にいたのは――。
八幡だった。
バシャッ!!
「…………」
比企谷八幡の顔面に、紅茶が直撃した。
「…………」
部室が静まり返る。
八幡は瞬きすらしない。
顔から紅茶を滴らせたまま、ただ俺を見ている。
「……おい」
「……はい」
「お前、俺に何の恨みがあるんだ?」
「ない」
「じゃあ何なんだ、これは」
「……暴投」
「説明になってねえよ!!」
八幡が叫んだ。
「握手しようとして、なんで俺の顔に紅茶が飛んでくるんだよ!?」
「俺にも分からん!」
「お前の意思でやってんじゃねえのかよ!?」
「違う! 赤特だ!」
「知らねえよ、どういうことだよ!」
「俺だって好きで発動させてるわけじゃないんだよ!」
「だったらなおさら怖ぇよ!」
横では、結衣が慌ててティッシュを探している。
「ひ、ヒッキー、大丈夫!? はい、これ!」
「……由比ヶ浜」
「な、何?」
「ありがとう……」
八幡がティッシュを受け取る。
一方、雪ノ下は呆然とした顔で俺を見ていた。
「……貴方」
「はい」
「もしかして、私の紅茶を狙ったの?」
「狙ってない!」
「では、比企谷君を?」
「もっと狙ってない!」
「……」
雪ノ下が目を細める。
「では、何を狙ったの?」
「……友情?」
「最も遠いところに着弾したわね」
「うるせえ!」
俺は頭を抱えた。
(やっぱりこうなったかー!!)
これが俺の赤特。
『暴投』。
決めようとすればするほど、なぜか狙った場所からズレていく。
しかも今回は、よりにもよって――。
初対面の八幡の顔面に紅茶をぶち込んだ。
最悪のスタートである。
……ただ。
ふと、八幡の頭上へ視線を向ける。
そこに浮かぶステータス画面。
『自己犠牲(極)』
『他人に頼れない』
『自分だけで解決しようとする』
重苦しい赤文字の数々。
その中で、ほんの一瞬だけ。
『自己犠牲(極)』の表示が薄れたように見えた。
代わりに浮かんだのは――。
……いや。
そんな特殊能力は表示されていない。
ただ。
さっきまで死んだ魚のようだった八幡の目に、ほんの少しだけ生気が戻っていた。
「……なんなんだよ、お前」
八幡が、ティッシュで顔を拭きながら呟く。
「今日初対面なのに、俺に紅茶ぶっかけてくる奴なんて初めて見たぞ」
「俺だって初対面の相手に紅茶ぶっかけるのは初めてだよ」
「じゃあ二度とやるな」
「善処する」
「その返事、絶対またやる奴のやつだろ」
「…………」
否定できなかった。
「ふふっ……」
そのやり取りを見ていた結衣が、とうとう吹き出した。
「……あはは。なんか、変な人が来たね」
「由比ヶ浜さん?」
雪ノ下が呆れたように言う。
「笑っている場合ではないでしょう。私の紅茶が犠牲になっているのよ」
「あ、ご、ごめん!」
「いや、謝るのは俺だろ」
「……そうね」
雪ノ下は小さく溜息を吐いた。
それでも。
ほんの少しだけ。
部室の空気が、さっきまでより軽くなった気がした。
俺はそれを感じながら、苦笑する。
平塚先生の言った通り、最初から上手く仲良くなれるかなんて分からない。
俺の『エラー』や『暴投』が、この連中にとって良い影響を与える保証もない。
けれど。
少なくとも――。
「よろしくな」
今度こそ普通に言った。
八幡は面倒くさそうに顔をしかめる。
雪ノ下は小さく息を吐く。
結衣は笑った。
「……まあ、よろしく」
その日。
奉仕部に、俺の居場所が一つ増えた。