先生と〇〇   作:幻獣ハンター(ケモナー)

1 / 3
第一話 先生×死体

 

 医者になった理由を聞かれると、俺は少し困る。

 

 人を救いたかったからです、と答えれば済む話なのだろう。面接官も患者も、たいていはそういう答えを好む。俺だって、若いころは似たようなことを言った覚えがある。

 

 嘘ではなかった。

 

 ただ、全部でもなかった。

 

 成績がよかった。親が喜んだ。医師免許があれば食いっぱぐれないと思ったし、医者という肩書きには、どうやら他人の態度を少し丁寧にする効能があるらしかった。

 

 人間の身体について学ぶのは面白かった。手術がうまくいけば嬉しかった。誰かに感謝されれば、悪い気はしなかった。

 

 人を救いたかったのも、たぶん本当だ。

 

 こうして並べると、ずいぶん欲張りで青い若者だったと思う。

 

 そのうち、最後の一つくらい手放しておけばよかったのだが。

 

 

 

 

 

 

 

「……治せないのか?」

 

 少年は、一度そう聞いた。

 

 銀色の髪をした、小柄な少年だった。年齢の割に落ち着いた眼をしている。

 

 いや、落ち着いているというより、何かを必死に押さえつけている眼、と言った方が正しいかもしれない。医療の現場でよく見る人種の一つだ。

 

 ベッドの上に横たわる、多くの生命維持装置に繋がれる患者を見た。

 

 ゴン=フリークス。

 

 名前は聞いていた。ネテロ会長(ジジイ)が、面白い小僧がいると笑っていたことも覚えている。

 

 面白い小僧は今、面白がって済ませられる状態ではなかった。

 

 身体の損傷はひどいという言葉では表せない。

 

 だが、問題はそこだけではない。念能力者の医者として診れば、むしろ目に見える傷の方が、まだ話が簡単だった。

 

 

 この少年が何を代償にして、何を得たのか。

 

 

 その結果、何を失ったのか。

 

 

 そこに医療器具を差し込める隙間を、俺は見つけられなかった。

 

「傷を塞ぐことはできる。欠けた組織を補うことも、条件が揃えばな」

 

「じゃあ――」

 

「だが、こいつが自分に何をしたのかまでは戻せない」

 

 少年の口が閉じた。

 

 俺は、必要以上に言葉を足さないようにした。

 

 患者の家族や友人に説明するとき、医者はよく喋りすぎる。沈黙に耐えられないからだ。難しい説明しているふりをして、自分の居心地をよくしようとする。

 

 俺も昔は、よくやった。

 

「俺の能力は万能じゃない。ほかの手段を探したほうがいい。念の専門家でも、何でもいい。俺が知らない方法があるかもしれん」

 

「……わかった」

 

 意外な返事だった。正直に言うと、掴みかかられる事も想定していた。しかし、少年は俺の言葉に、ある種の覚悟を決めたようだ。

 

 

 その顔を見て、俺はひどく懐かしい気分になった。

 

 助けるためなら、何だってするという顔だ。

 

 医者になりたてのころ、鏡の中に似たような馬鹿がいた。

 

     

 

 

 

 

 

 

 ジジイが死んだと聞いたとき、最初に考えたのは、あの超人にも死ぬ順番が回ってくるのか、ということだった。

 

 次に考えたのは、これまでの請求書(ツケ)の宛先をどうするかだった。ビーンズ……は可哀想だ。モラウとノヴで折半か。

 

 

 

 

『お主、まだ医者をやる気はあるかの』

 

 初めて会ったとき、ジジイはそう言った。

 

 当時の俺は、病院を辞め、酒を飲み、翌朝になって自分がまだ生きていることに腹を立てるという、なんとも忙しい生活を送っていた。

 

『……ない』

 

『そうか』

 

『ああ』

 

『でも、その目はそうは言ってないようじゃがの〜ほっほ』

 

 あの笑い方が嫌いだった。

 

 人が真剣に人生を投げ捨てようとしているのに、爺さんはまるで、子供が池に石を投げているのを眺めるような顔をしていた。

 

『医者を辞めるのは難しそうじゃな』

 

 今でも、少し腹が立つ。

 

 反論できなかったことも含めて。

 

 

 

 

 俺はゴンの診察を終えたあと、キメラアント討伐の現場へ向かった。

 

 遺体を見に行くわけではない。

 

 爺さんの遺体が、そこにあるわけでもない。

 

 ただ、あの爺さんが最後に戦った場所を、自分の眼で見ておきたかった。

 

 医者としてではなく恩人を弔うため。

 

 

 

 討伐現場に向かうほど、濃厚な死の気配が残っていた。爆心地にはもちろん近づけない。死の薔薇が咲いた以上、遠くからその方角をただ眺めていただけだ。

 

 俺はしばらく立っていた。

 

 手を合わせることはしなかった。

 

 あの爺さんは、そんなことをしても喜ばないだろう。むしろ、後ろから肩を叩いて驚かせたあと、拝む相手を間違えとるぞ、とでも言いそうだった。

 

 

 

 

 それから俺は、討伐の痕跡を辿って別の戦闘現場へ移動した。

 

 爺さんが死んだ場所とは違う。

 

 倒木と抉れた地面が続き、周囲の木々には、何かが凄まじい速度で衝突した跡が残っていた。

 

 そこで、死体を見つけた。

 

 最初は、死体だと分からなかった。

 

 

 頭部は中身が見える程に破壊され、白い髪の間には、辛うじてネコ科の獣耳が残っていた。腰からは長い尾が伸びている。手足はちぎれており、満足に使えるものもない。辛うじて繋がっているのが右腕だけ。そしてなによりも胸部に空いた穴。ボロ雑巾と言っても表現が足りない。

 

 

 

「……キメラアントか」

 

 

 俺は足を止めた。

 

 どこの誰だかは知らない。討伐作戦の詳しい経過も、俺のところまで逐一届いていたわけではなかった。

 

 ただ、死体の周囲に残る念だけは、見過ごせなかった。

 

 いや、残っている、という言い方では足りない。

 

 動いていた。

 

 死んだ肉体の上で、異様な念の人形が手を動かしている。

 

 穴が空いた胸部に触肢を伸ばし、傷ついた組織を繋ぐ。何かに取り憑かれたように処置を続けていた。

 

 その術野に眼が吸い寄せられる。破裂した心臓。飛び散った脳。それを修復している。

 

 

「……冗談だろ」

 

 思わず、呟いた。

 

 

 死後の念。

 

 知識としては知っている。実例も見たことがある。死んでなお、肉体を動かす念なら理解できる。恨みを晴らすため。誰かを殺すため。最後の命令を果たすため。

 

 念というものは、ときどき持ち主の死さえ無視する。

 

 

 しかし、こいつは違った。

 

 

 死んだ自分を、生かそうとしている。

 

 俺は近づこうとして、やめた。

 

 相手が何者かを、思い出したからだ。

 

 キメラアント。

 

 それも、死後の念で心臓と脳を修復しようとしている異常個体。

 

 生き返った場合、俺が無事で済む保証はどこにもない。

 

 俺は爺さんの死を悼みに来たのであって、得体の知れない怪物を一匹増やしに来たわけではなかった。

 

 

「……見なかったことにしよう」

 

 

 俺は踵を返した。

 

 医者にも、患者を選ぶ権利くらいはある。少なくとも、そういうことにしておきたかった。

 

 数歩進んだところで、視界の端が暗くなった。

 

 

 立ち止まり眼を閉じる。

 

 意識を、自分の念へ向ける。

 

 

 異空間に設けた手術室。その天井に並ぶ照明の一つが、弱々しく明滅していた。

 

「……おい」

 

 明滅が続く。

 

「まだ患者ですらないだろうが」

 

 もちろん返答はない。

 

 念能力というものは、術者の都合のいい言い訳を聞いてくれない。

 

 俺の能力には、誓約がある。

 

 

 何がなんでも生きようとする患者を、見捨ててはならない。

 

 

 目の前の死体は、自分が死んだことにさえ従っていない。

 

 これを執念と呼ばずに何と呼ぶのか、俺には説明できなかった。

 

 背後で、人形が手を動かす。

 

 あの患者は、まだ諦めていない。

 

 俺は、もう一度だけ歩き出そうとした。

 

 照明が、また暗くなる。

 

「……分かったよ」

 

 振り返った。

 

「分かったから、消えるな」

 

 明滅が止まった。

 

 腹立たしいほど、素直だった。

 

 

 

 

 

 

 俺の念能力は二つある。

 

『生死未定の手術室(シュレディンガー)』。

 

 外界から隔絶された手術室を具現化する能力だ。

 

 常に清潔で、外部から干渉されず、小さな居住区画までついている。手術台も照明も人工呼吸器も、俺が構造と用途を理解している医療機材なら具現化できる。

 

 便利だろう。

 

 薬品や輸血用の血液まで用意してくれれば、なおよかった。

 

 残念ながら、そこは自腹だ。

 

 患者は一度に一人だけ。

 

 俺は、患者が死ぬか、手術室を離れて問題ないと診断できるまで、そこを出られない。

 

 しかも、念の誓約が診断の誤魔化しを許さない。帰りたくなったから治療完了、というわけにはいかないのだ。

 

 患者が死ねば、手術室の照明が一つずつ消える。

 

 最後の一灯が消えれば、能力は永久に失われる。

 

 もう一つの誓約については、先ほど実演したとおりだ。

 

 生きようとする執念を持つ患者を見捨てても、明かりは消える。

 

 俺の人生は、照明器具にずいぶん厳しく管理されている。

 

 

 

 

 二つ目は、『仮初の部品(テセウス)』。

 

 患者の正常な細胞を基に、欠損した組織の代わりとなる細胞を具現化する能力だ。

 

 代用品が身体を支えている間に、患者自身の細胞が増え、本物の組織へ置き換わっていく。

 

 俺が新しい肉体を作るわけではない。

 

 治るまでの時間を、借り物で繋ぐだけだ。

 

 正常な細胞が残っていなければ、その組織は補えない。具現化した細胞も、俺が患者から一定以上離れれば消える。

 

 同時に維持できる代替組織の総量には、限界がある。

 

 生死未定の手術室(シュレディンガー)を維持している間なら、だいたい人体の十分の一相当。

 

 それが、今の俺のオーラ量の限界だった。

 

 自分自身に使うときだけは、少し勝手が違う。

 

 自分の身体に意識を集中しておけば、損傷に応じてテセウスが自動的に欠けた部分を補う。

 

 便利な身体になった。

 

 死に損なうのが上手くなった、とも言う。

 

 もっとも、俺が医者として一番欲しかったのは、自分の傷を塞ぐ能力ではなかった。

 

 あの日、見落とした患者の異常に気づく能力だった。

 

 それなのに、俺の念が用意したのは手術室と、治るまでの時間だった。

 

 どうしてこうなったのかは、俺にもよく分からない。

 

 

 

 

     

 

 昔、一人死なせた。

 

 患者は術後、いつもより口数が少なかった。

 

 検査の数字にも、気になるところがあった。気づかなかったわけではない。

 

 

 忙しかった。

 

 ほかにも大勢患者がいた。

 

 直前の手術は長引いていたし、俺はひどく眠かった。

 

 今は、経過を見よう。安易にそう判断した。

 

 

 結果として、その患者には、経過を見ている時間が残されていなかった。

 

 

 あとから考えれば、いくらでも分かる。

 

 あの数字。

 

 あの表情。

 

 あのとき、もう一度診ていれば。

 

 あのとき、別の検査をしていれば。

 

 

 

 あのとき。

 

 

 

 俺はずっと「あのとき」の中にいた。

 

 爺さんは、その話を聞いても慰めなかった。

 

 

『では、次は見落とさんことじゃ』

 

 簡単に言いやがった。

 

 俺に、次があると思っている人間の言葉だった。

 

 だが、結局、俺は次の患者を診た。

 

 その次も。

 

 そして今も、患者の前にいる。

 

 

 

 

 

 

 

 獣混じりのキメラアントを手術室へ運び込む。心臓と脳はまだ半壊だった。

 

 できることはそう多くない。死体を治療する技術はこの世には無いはずだ。目の前の奇跡を除けば。

 

 

 奇跡のオペを邪魔することは出来なかった。なにせ念人形が人の手術室で我が物顔で施術している。保冷庫を勝手にあさり、いくつかの輸血パックを持っていく。周囲の薬品類にも多少手をつけている。

 

 

 ただ、その施術をじっと見ていた。だからこそ、異変に気づいた。人形の触肢が、何かを探しているように、施術台の周りを物色する。

 

 露わになっている心臓をのぞき込んだ。前より復元は進んでいる。ざっと七割ほど。心臓の形にはなってきた。

 

 あぁ、部品が無いのか。

 

 おそらく周囲に散らばっているはずの肉片を探しているのだろう。手術室に連れ込んだため、修理する部品がここには無いのだ。

 

 それは悪い事をした。だが、コイツで許して欲しい。

 

 手袋をつけ、右手を心臓に近づける。代わりの部品なら見世物料として出してやろう。

 

 正常な心筋細胞を俺の念が模倣し、代替部品が成長する。念人形は部品を理解したのか、また心臓というパズルを解き始めた。

 

 触肢が脳の一部を指さす。ここもやれと。

 

 

 ……たぶんこの死体の生前は欲深い奴だったに違いない。

 

 

 辛うじて残った正常な脳組織を確かめ、左手を添える。俺の念がその細胞を模倣し、欠けた部分を補い始めた。

 

 代替細胞を作ることはできる。だが、それが正しい場所に収まるかどうかまでは、俺には分からない。

 

 心臓も脳も、知識ならある。手術の経験もある。だが、粉々になったものを元の形に組み直す手術など、経験したことがない。そもそも、そんな手術は存在しない。

 

 俺が作った細胞を、念人形が迷いなく組み上げていく。腹立たしいことに、俺はその手元から眼を離せなかった。

 

 複製した細胞が、組み上がっていく。二度と経験できないであろうオペに、時間が過ぎるのを忘れ、ただ見入っていた。

 

 

 

 そしてついに脳と心臓が復元された。

 

 

 鼓動は無い。脳細胞ももちろん反応していない。

 

 

 念人形が二本の針を心臓に近づける。心臓をオーラが包み、その上から小さな放電が心臓に走る。

 

 

 ……トッ………トッ

 

 

 

 あまりにも小さい音が、手術室に響いた気がした。

 

 

「……戻った」

 

 心臓が弱々しく拍動している。

 

 死体だったものが、生きた患者になった。患者の胸がかすかに動き、気道に溜まった血が口元から溢れた。

 

 あまりの非現実的な光景に、思考が停止した。

 

 

 

 

 そして次の瞬間、念人形が消えた。

 

 

 

「は?」

 

 俺は間の抜けた声を出した。

 

 残っていた念が、霧のようにほどけていく。

 

「待て!おい!まだ終わってないぞ!」

 

 死後の念に文句を言ったところで、返事などあるはずがない。

 

 

 そして血が患者から滲み出した。心臓が動き出したことで、修復されなかった傷から血が流れ始めた。止まっていた循環が戻り、残された損傷が一斉に牙を剥く。

 

 戻った鼓動は弱く、呼吸は浅い。

 

 

「……くそっ!」

 

 

 俺は手袋を引き直した。

 

「引き継ぎくらいしろ、馬鹿野郎」

 

 今一度、患者の頭部と腹部を確認する。損傷は広い。出血も多い。ただ、脳と心臓の土台のために、周辺も修復されてはいる。頭部と首、そして胸部はあらかた修復されている。あの念人形は、最低限生きるために必要なものだけ直していった。

 

 

 

 人間の身体なら、どう処置するかは分かる。だが、こいつは人間ではない。こちらの常識をそのまま当てはめていい保証はなかった。

 

 呼吸補助器とバイタルサイン用のセンサーを取り付ける。輸血液は念人形が選別しているので、これで間違っていたら前任者が悪い。

 

 正常な組織を確かめ、能力で損傷部位を補う。借り物の細胞が、欠けた臓器の輪郭を埋めていく。その繰り返し。

 

 凝をして確認すれば、身体の中身がツギハギだらけになっているがお構いなしだ。

 

仮初の部品(テセウス)の上限が来た。頭部と内臓の欠損を補い、辛うじて繋がっていた右腕を使える形に整えたところで限界だった。全身を縫いまくっているし、左腕や脚は手つかずだ。

 

 だが、バイタルは安定した。キメラアントの生命力なのだろう。

 

 

 

 

 

 手術が終わったとき、俺はしばらく立ち上がれなかった。

 

 正確には、立ち上がりたくなかった。

 

 術後の管理が残っている。傷も、まだ治ったわけではない。仮初の部品(テセウス)で補った組織が消えれば、たちまち危険な状態へ戻るだろう。

 

 だが、ひとまず生きている。

 

 俺は椅子に座り、記録をつけた。

 

 氏名、不明。

 

 種族、キメラアントと思われる。

 

 年齢、不明。

 

 既往歴、不明。

 

 受傷機転――。

 

 そこまで書いて、ペンを止めた。

 

 どう書けばいい。

 

 詳細不明の戦闘によって死亡。死後の念によって心臓および脳、生命維持に必要な最低限の肉体が修復され、蘇生。その後、念が消失し、当院にて治療。

 

 医療記録というより、質の悪い冗談だった。

 

「……ジジイ」

 

 天井を見た。

 

「面倒な仕事を残してくれたな」

 

 返事はない。ペンを置き、少しだけ眼を閉じた。次に眼を開けたとき、患者がこちらを見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 最初に動いたのは、耳だった。白い髪の間から伸びた片方が、ぴくりと立つ。

 

 続いて尾が、寝台の端を一度叩いた。

 

 眼が動く。天井の照明。モニター。扉。そして、俺。

 

 

 その順番を、俺は黙って見ていた。

 

 

 患者は瞬きをしなかった。左右の耳が、別々の方向へ向く。

 

 瞳孔が細くなる。尾の先が、音もなく揺れた。

 

「起きたか?」

 

 声をかけると、患者の肩が跳ねた。耳が伏せられ、尾の毛が逆立った。

 

「待て。動くな」

 

 遅かった。唯一形になった白い右腕が跳ねた。

 

 俺の喉元へ、爪が伸びる。

 

 椅子ごと身体を引いた。

 

 爪先が首の前を掠め、患者の身体が寝台から崩れ落ちる。そして腹部の縫合が裂けた。

 

 赤いものが、床へ滲む。

 

「……馬鹿!」

 

 俺は反射的に怒鳴った。患者が、低く唸る。

 

 こちらを見ている。

 

 俺の首を。

 

 まだ、見ている。

 

「殺すなら、せめて抜糸が済んでからにしろ!」

 

 言ってから、少し考えた。抜糸が済んでも困る。

 

「いや、訂正だ。殺すな」

 

 患者は答えなかった。呼吸が荒い。爪を立てた手が震えている。

 

 腹から流れる血を見ても、退く気配がない。

 

 

 

 怖くないわけではない。

 

 俺は医者であって、怪物退治の専門家ではない。目の前の患者がどれほど危険な存在か、正確には知らない。

 

 だが、衰弱した身体でこれだけ動けるなら、五体満足なときのことは考えたくなかった。

 

「聞こえるか」

 

 できるだけ、声を落とした。

 

「お前は怪我をしている。今動けば、また死ぬぞ」

 

 患者の耳が、わずかに動いた。

 

「……死ぬ?」

 

「そうだ」

 

「……駄目だ」

 

 初めて、言葉が返ってきた。掠れた声だった。

 

「死ぬのは、駄目だ」

 

「だったら、落ち着け。傷を診る」

 

 患者は動かなかった。俺を見ている。何かを思い出そうとしているような顔だった。

 

 

 患者は、自分の手を見た。爪、血、腹の傷。それから、もう一度、俺を見る。

 

「ボクは……」

 

 言葉は続かなかった。

 

 

 

「名前は?」

 

「……名前?」

 

「そうだ。自分の名前」

 

 患者は、何も言わなかった。

 

「ここへ来る前、何をしていた?」

 

 沈黙。

 

「誰かと一緒だったか?」

 

 沈黙。

 

 俺は少し迷ってから、最後の質問をした。

 

「何のために生き返った?」

 

 その問いに、患者の耳が立った。

 

「……やることがある」

 

「何を?」

 

「分からない」

 

「誰のために?」

 

「……分からない」

 

 患者は、苛立ったように歯を見せた。

 

「でも、あるんだ!」

 

 尾が、床を打った。

 

「まだ、やることがある。だから死ねない」

 

 俺はしばらく、その顔を見ていた。

 

 記憶がない。自分の名前も、目的も。なのに、生きる理由だけが残っている。

 

 死んでも消えなかったものが、そこにある。

 

「……なるほど」

 

 俺は立ち上がった。

 

 床に伏す、患者の肩が強張る。

 

「安心しろ。お前が俺を嫌いなのは、よーく分かった」

 

「……」

 

「俺も、お前が好きでここにいるわけじゃない」

 

 正確には、ここは俺の手術室なのだが。

 

「ただ、今のお前は患者だ。まずは止血する。話はそれからだ」

 

 患者は、俺が差し出した手を見た。もちろんいつでも手を引けるようにしていた。

 

 患者は、残った右腕を手術台にかけた。俺が身体を支えると、抵抗こそしたものの、再び爪を伸ばすことはなかった。

 

 手術台へ横たわるまで、俺から眼を離さなかった。

 

「……ねぇ」

 

 不意に、そう呼ばれた。

 

 俺は手を止めた。

 

「何だ」

 

「ボク、死なない?」

 

「保証はしない」

 

 患者の耳が伏せられる。

 

「だが、死なせないようにはする」

 

 俺は裂けた傷を確認した。

 

「それが医者の仕事だ」

 

 

 

 

 

 

 

 再処置を終えたころには、患者は疲れ果てていた。

 

 それでも眠ろうとしない。麻酔は拒否された。状況的に痛みで気が狂いそうになっているはずだが。

 

 

 俺が動くたび、耳が追ってくる。

 

 近づけば尾が持ち上がり、背を向ければ一旦息を吐く。

 

 

 

 全くもって信用されていない。

 

 それはこちらも同じだ。

 

 ただ、患者の身体には、俺の念で補った組織が残っている。

 

 手術室から出られるようになったとしても、仮初の部品(テセウス)が不要になるまでは、一定以上離れられない。

 

 俺が死ねば、具現化した細胞も消える。

 

 こいつが俺を殺そうとしたことを思い出し、俺は少し気が遠くなった。

 

 

 

 うん、この説明はもう少し落ち着いてからにしよう。

 

 

 

 今言えば、腹の傷が三度目を迎える気がした。

 

 

 

 俺は記録用紙を引き寄せた。

 

 氏名、不明。

 

 年齢、不明。

 

 既往歴、不明。

 

 記憶障害、あり。

 

 医者に対する警戒および攻撃行動、あり。理由は本人にも不明。

 

 生存への執着、極めて強い。

 

 覚醒直後、担当医を襲撃。

 

 最後の一行を見て、俺はペンを置いた。

 

「……まったく」

 

「何?」

 

「独り言だ」

 

 天井を見た。真っ白な照明が、静かに灯っている。

 

 

 患者は納得していない顔をした。

 

 俺も、納得していなかった。

 

 爺さん。

 

 あんたが生きていたら、きっと笑っただろう。

 

 俺が正体も知らないキメラアントを拾い、手術し、挙げ句に首を狙われたと知れば、腹を抱えて笑ったに違いない。

 

「割に合わない仕事だ」

 

 

「……変なの」

 

「お前に言われたくない」

 

 患者は黙った。

 

 尾の先だけが、寝具の上をゆっくり動いていた。

 

 俺は椅子に座り直した。

 

 患者は俺を見ている。

 

 俺も患者を見ている。

 

 どちらも、相手から眼を離すつもりはなかった。

 

 手術室の照明は、消えていない。凶暴な患者の灯は消えなかった。

 

 少なくとも今夜は、それで十分だった。




……あるピトー小説をみて、なんか作ってみました。


あの小説はえっちだとワイトは思います。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。