先生と〇〇   作:幻獣ハンター(ケモナー)

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第二話 先生×患者

 

 医者をやっていると、患者の回復を素直に喜べない瞬間がある。

 

 もちろん、治ってほしくないわけではない。

 

 治療がうまくいけば嬉しい。昨日できなかったことが今日できるようになれば、多少は自分の腕を褒めたくもなる。

 

 ただし、患者が元気になるにつれて、別の問題が発生することがある。

 

 たとえば、寝台から勝手に降りる。

 

 たとえば、安静の指示を無視する。

 

 たとえば、担当医が自分の腹を診ている最中に、その首へ爪を伸ばす。

 

 最後の例は、一般的な病院ではあまり聞かない。

 

 少なくとも、俺が勤めていた病院ではなかった。

 

     

 

 

 

 

 最初の数日は、患者というより、警戒心の強い野生動物を預かっている気分だった。

 

 いや、野生動物の方がまだ分かりやすい。

 

 腹が減れば食べるし、眠ければ眠る。少なくとも、自分の名前を忘れたことに腹を立てたりはしない。

 

 それに比べて目の前の患者は……

 

「お前」

 

「何だ」

 

「それ、何?」

 

 患者が指さしていたのは、俺の手にある体温計だった。

 

「ん?体温計」

 

「何するもの?」

 

「熱があるか確かめる」

 

「触れば分かるでしょ」

 

「感覚と実数値では情報としての精度が違う」

 

 俺は体温計を差し出した。

 

 患者は受け取らなかった。

 

「……何でボクに渡すの?」

 

「測るからだ」

 

 患者は少し考えた。

 

「……じゃあ、お前がやって」

 

「やり方がわからないならそう言え。動くなよ」

 

 体温計を近づける。

 

 患者の耳が伏せられた。身体が強張り、右手の爪が、わずかに伸びる。

 

「待て。これは凶器じゃない」

 

「分かってる」

 

「分かってる奴の爪じゃないんだよ」

 

 患者は不服そうに俺を睨んだ。それでも、爪は引っ込めた。冷や汗をかきながら、体温を測った。表示された数字を記録する。

 

「……ふむ」

 

「何さ?」

 

「お前の平熱が分からんから、これだけじゃ判断できん」

 

「じゃあ、何で測ったの?」

 

「今日の数字を覚えておくためだ。明日と比べる」

 

「明日もやるの?」

 

「明後日もな」

 

 患者は露骨に嫌そうな顔をした。

 

「……面倒くさい」

 

「生き返ったばかりの奴が贅沢を言うな」

 

     

 

 

 

 

 翌朝、患者は自分で包帯を外していた。

 

「……何をしている」

 

「見てた」

 

「何を?」

 

「ボクの傷」

 

「なぜだ?」

 

「昨日より、小さくなってる」

 

 俺は手術台へ近づいた。腹部を横切る縫合痕は、昨日より明らかに細くなっていた。

 

 裂けていた皮膚の縁が寄り、赤く腫れていた部分も引いている。縫い合わせた箇所には、まだ生々しい赤みが残っていたが、傷の周囲はすでに新しい皮膚で覆われ始めていた。

 

 俺は手袋をつけ、患部に触れた。

 

「痛むか?」

 

「別に」

 

「押しても?」

 

「ん~くすぐったい?」

 

 俺は指を離した。昨日は、触れるだけで尾が跳ね上がった箇所だ。結構な殺意を向けられたのを覚えている。

 

「……早いな」

 

「何が?」

 

「治るのが」

 

「お前が直したんでしょ」

 

「治療したのは、死なないところまでだ」

 

「そうなの?」

 

「そこから先は、お前の身体の仕事だ」

 

 患者は、自分の腹を見下ろした。

 

「ボク、頑張ってるんだ」

 

「そういうことになるな」

 

 耳が、少し立った。

 

 俺は傷の周囲をもう一度確かめた。この回復力はキメラアントだからだろうか。

 

 人間とほぼ同じ構造をしているように見えて、回復の速度が違う。念能力者であることも関係しているのかもしれない。

 

 そもそも、こいつの種族について、俺はろくに知らない。

 

 人間なら、まだ安静にしていてほしい時期だ。だが、目の前の患者は、もう手術台から降りる隙を窺っている。

 

 傷が早く塞がるのはありがたい。

 

 だが、早く塞がることと、正しく治ることは違う。

 

 仮初の部品(テセウス)が補っている組織を、本人の細胞がどれだけ置き換えたのか。そこを見誤れば、俺が離れた途端に身体の一部が失われる。

 

「包帯を巻き直す」

 

「もう塞がってるのに?」

 

「中身がまだだ」

 

「お前、心配性だね」

 

「患者が勝手に包帯を外すからな」

 

「見ただけだよ」

 

「医者の許可なく外すな」

 

 患者は不服そうに尾を動かした。俺は包帯を巻き直した。昨日より、少しだけ薄くして。

 

     

 

 

 

 三日目には、患者は手術台の上で身体を起こしていた。

 

「……寝てろと言ったはずだが」

 

「寝てたよ」

 

「今は?」

 

「んー起きてる?」

 

「見れば分かる」

 

「じゃあ、何で聞くの」

 

 俺は返事をしなかった。患者は少しだけ得意そうだった。俺が近づくと、耳が伏せられる。

 

 まだ、触れられるのは嫌らしい。

 

「身体を倒せ」

 

「やだ」

 

「診察だ」

 

「昨日もした」

 

「今日もする」

 

「……明日も?」

 

「生きていればな」

 

 患者は黙った。言い方を間違えたか、と思ったときだった。

 

「……じゃあ、明日もする」

 

 俺は患者を見た。赤い眼が、こちらを見ている。

 

「明日も、ボクは生きてるから」

 

 それだけ言うと、患者は身体を倒した。

 

「……そうか」

 

 手袋をつける。

 

「なら、明日の分も記録用紙を用意しておく」

 

「うん」

 

 腹部の包帯を外す。傷は、また少し塞がっていた。こちらの予定より、ずいぶん早く。

 

     

 

 

 

 俺への呼び方が変わったのは、五日目だった。

 

「お前」

 

「何だ」

 

「これ、何?」

 

「鉗子」

 

「何に使うの?」

 

「組織をつかむ」

 

「これは?」

 

「剪刀」

 

「これは?」

 

「……お前、眠くないのか?」

 

「眠くない」

 

「俺は眠い」

 

「お前」

 

「何だ」

 

「これは?」

 

「寝ろ」

 

 患者は不服そうに耳を伏せた。そして思い立ったかのように尋ねてくる。

 

「お前って、名前ないの?」

 

「ある」

 

「教えて?」

 

「教えてどうする」

 

「呼ぶ」

 

「今も呼んでるだろうが」

 

「お前って?」

 

「そうだ」

 

 患者は少し考えた。

 

「……変なの」

 

「お互い様だ」

 

「ボクの名前は聞くくせに」

 

「医者だからな」

 

「じゃあ、ボクも医者なら聞いていいの?」

 

「医者になるのか?」

 

「……分からない」

 

 患者は手元の鉗子を見た。

 

「でも、これ興味ある」

 

「触るなよ。先が尖ってる」

 

「えー」

 

 鉗子を取り上げると、患者は尾で寝台を叩いた。

 

「お前、意地悪だね」

 

「先生と呼べ」

 

 言ってから、少し後悔した。別に、そう呼ばせたかったわけではない。

 

 患者は眼を丸くした。

 

「先生?」

 

「……医者のことを、そう呼ぶ場合もある」

 

「お前が?」

 

「俺が」

 

「んー……先生」

 

 試すように、患者が言った。

 

「何だ?」

 

「先生」

 

「何だ?」

 

「先生」

 

「……用件を言ってくれ」

 

 患者は笑った。初めて見た気がした。いや、単に俺が見落としていただけかもしれない。

 

「先生」

 

「だから何だ?」

 

「これ、何?」

 

 また周辺のものを拾っては興味深そうに眺めている。

 

「……寝ろ」

 

 患者は、今度は声を立てて笑った。

 

 それからも、しばらくは「お前」と「先生」が混ざっていた。

 

 診察中は「お前」。

 

 食事のときも「お前」。

 

 何かを尋ねるときだけ、ときどき「先生」。

 

 そして、いつの間にか、後者の方が多くなった。

 

 理由を聞いたことはない。

 

 聞けば、また面倒な質問が返ってきそうだったからだ。

 

     

 

 

 

 

 

 

「先生」

 

「何だ」

 

「もう、これ要らないんじゃない?」

 

 白い指が、腹部の包帯をつまんでいた。

 

「要る」

 

「傷、塞がってるよ」

 

「せっかく塞がった傷を、お前が今から開かなければな」

 

「……ボクが?」

 

「前科がある」

 

 患者は不服そうに耳を伏せた。俺は記録用紙に日付を書き込む。この患者を拾ってから、二週間と少しが経っていた。

 

 名前は不明。

 

 年齢も不明。

 

 既往歴も不明。

 

 本人に聞いても当然分からない。

 

 医者にとって、分からないことだらけの患者は珍しくない。意識のない患者もいれば、身元を証明するものを持っていない患者もいる。

 

 ただ、目の前の患者の場合、本人が自分の名前を知らないくせに、担当医の手際には注文をつけるという問題があった。

 

「動かしてみろ」

 

 患者はブンッと右腕を上げた。

 

「違う。ゆっくり」

 

「ゆっくりって、どのくらい?」

 

「俺が見失わないくらい」

 

 白い腕が、今度はゆっくりと持ち上がる。

 

 肘を曲げる。

 

 指を開く。

 

 閉じる。

 

 俺は関節の動きと、筋肉の反応を確かめた。

 

「痛みは?」

 

「ない」

 

「痺れは?」

 

「ない」

 

「違和感は?」

 

「ないってば……毎回これ聞くね」

 

 退屈そうに身体を揺らし、耳を伏せる。

 

「毎回答えが変わるかもしれんからな」

 

「変わらなかったら?」

 

「俺が安心する」

 

「先生が?」

 

「患者も安心しろ」

 

 患者は俺を見た。それから、自分の指を一本ずつ曲げた。動きに問題はない。外から見れば、もう健康な身体だった。

 

 少なくとも、二週間前に見つけた死体と同じものだとは、誰も思わないだろう。

 

 あのとき、四肢はひどく損なわれていた。

 

 胸部にも腹部にも、致命的な損傷があった。

 

 死後の念は、欠けた脳と心臓を修復しようとしていた。俺が仮初の部品(テセウス)で不足分を補うと、あの人形は血液を巡らせ、心臓を動かした。

 

 そのあと、残りの処置を引き継いだのが俺だった。

 

 最初は、頭部と内臓の欠損を補い、辛うじて繋がっていた右腕を使える形に整えるだけで精一杯だった。

 

 左腕や脚に本格的に手をつけられたのは、命に関わる部位の回復が進み、オーラの余裕ができてからだ。

 

 今は傷も塞がり、歩くこともできる。

 

 だが、失われた組織が、すべて本人のものに戻ったわけではない。

 

 正常な細胞を基に具現化した代替組織が、欠けた身体を補っている。その間に、患者自身の細胞が少しずつ増え、借り物を置き換えていく。

 

 便利な能力だ。

 

 ただし、便利と速いは同じ意味ではない。

 

 吹き飛んだ部位を一から再生するには、相応の時間がかかる。俺の念が代わりを務めているからといって、患者自身の細胞が急に働き者になるわけではないのだ。

 

 昨日より今日。今日より明日。

 

 確かに回復している。それでも、脳にも、心臓にも、まだ仮初の部品(テセウス)が残っていた。

 

 四肢の欠損を補っている組織も、完全には置き換わっていない。俺が離れすぎれば、借り物は消える。

 

 手足が動かなくなるだけでは済まない。脳や心臓に残った欠損が、そのまま現れる。

 

 退院できることと、俺から離れて生きられることは、まだ別の話だった。

 

 

 

 

「ボクの手なのに……」

 

 ふと患者が呟いた。

 

「何だ」

 

「ちゃんと動く。でも、ボクのじゃないみたい」

 

「感覚が鈍いか?」

 

「そうじゃない」

 

「なら、どういう意味だ?」

 

 患者は指を開いたまま、しばらく黙っていた。

 

「先生が直したんでしょ?」

 

「そうだ」

 

「前は、どうだったんだろう」

 

「……前?」

 

「ボクの身体」

 

 患者は自分の腕を見た。

 

「元々こんなふうだったのかな?」

 

「さあな」

 

「先生、知らないの?」

 

「拾ったときには、もうなかったからな」

 

 患者の耳が伏せられた。俺は、少し言い方を間違えたと思った。

 

「……悪い」

 

「別に……」

 

 患者は腕を下ろした。

 

「ボクが死んでたのは、知ってる」

 

「そうか」

 

「先生が、何回も言った」

 

「必要な説明だったからな」

 

「先生って、嫌なことも言うんだね」

 

「医者だからな」

 

「医者って、そういうもの?」

 

「嫌なことを言わない医者は、だいたい患者に嘘をついてる」

 

 患者は少し考えた。

 

「じゃあ、先生は嘘つかない?」

 

 俺は記録用紙へ眼を戻した。

 

「……必要なことは説明する」

 

「それ、答えになってないよ」

 

 尾が、手術台の端を数度叩いた。

 

 

 

     

 

 手術室での生活は、静かだった。窓のない部屋に、患者が一人。医者が一人。必要な医療機材と、食料と、水。

 

 それ以外は、ほとんどない。

 

 『生死未定の手術室(シュレディンガー)』。

 

 患者が死ぬか、手術室を離れて問題ないと俺が正しく診断できるまで、俺はここから出られない。

 

 患者が退屈するのは分かる。俺も退屈だった。退屈だが、油断はできない。

 

 患者は長い時間を眠って過ごした。起きているときは、室内を見回したり、俺を観察したりしていた。

 

 最初のうちは、隙を探しているのだと思っていた。実際、そういうところもあっただろう。俺が背を向けると、呼吸が変わる。

 

 距離を詰めれば、尾が止まる。手を伸ばす前には、必ず声をかけた。

 

「腹を診るぞ」

 

「……うん」

 

「腕」

 

「分かってる」

 

「急に動くなよ」

 

「先生、しつこい」

 

「お前には前科がある」

 

「そればっかり」

 

 患者は唇を尖らせた。爪は出ていない。俺はそれを確認してから、診察を続けた。

 

 互いに信用していない。だが、信用していなくても、治療はできる。

 

 むしろ医者という仕事は、患者に信用してもらう前から始まることの方が多い。もっとも、ここまで露骨に警戒される経験は、俺にもあまりなかった。

 

 患者は、俺の手元をよく見ていた。

 

 器具を洗うとき。記録をつけるとき。傷の状態を確かめるとき。包帯を替えるとき。

 

 白い耳がこちらを向き、赤い眼が指の動きを追ってくる。

 

 

 

 ある日、傷の処置をしていると、患者が言った。

 

「先生、そこ、先に繋ぐの?」

 

「どこだ」

 

「そっち」

 

 指先が、処置している箇所を示した。

 

「この組織を先に修復したら、こっちの組織が圧迫されない?」

 

 俺は念能力を発動しかけた手を止めた。言われた箇所を見る。人間の身体なら、まず気にしない位置だった。

 

 だが、目の前の患者は人間ではない。

 

 実際に動かしてみると、周囲の組織にわずかな緊張が生じた。

 

「……よく見てるな」

 

「そう?先生は気づかなかったの?」

 

「気づかなかったな」

 

 患者は、少しだけ眼を丸くした。

 

「怒らないんだ」

 

「何に」

 

「ボクが口を出したこと」

 

「患者が違和感を教えてくれるのは助かる」

 

「違和感じゃないよ」

 

「じゃあ、何だ」

 

 患者は考え込んだ。

 

 尾が、寝具の上で左右に動く。

 

「んー?……そうした方が、直しやすい気がした」

 

「直しやすい?」

 

「うん、先生のやり方を見てると、たまに変な感じがする」

 

「……どんな風に?」

 

「ボクなら、違うふうにできるのにって」

 

「ほう」

 

「……正しいかどうかは、知らないけど」

 

 そう言って、患者は顔を背けた。耳が少し倒れている。

 

 この患者は、自分のことを何も覚えていないくせに、俺の仕事には注文をつけるらしい。

 

 困ったことに、注文が的外れとも限らなかった。

 

「昔、医者だったのかもな」

 

 俺が言うと、患者は振り返った。

 

「ボクが?」

 

「手つきに覚えがあるなら、そういう可能性もある」

 

「……医者」

 

 患者は自分の手を見た。

 

 しばらく指を動かしていたが、やがて首を傾げた。

 

「分からない」

 

「まあ、そうだろうな」

 

「先生は、どうして医者になったの?」

 

「成績がよかったからだ」

 

「……それだけ?」

 

「親が喜んだから」

 

「それだけ?」

 

「金になると思ったから」

 

「先生」

 

「何だ?」

 

「ちゃんと答えてよ」

 

 俺は処置を終え、器具を片づけた。手袋を外し、頭をかく。

 

「……人を助けたかったからだよ」

 

 患者は、少し黙った。

 

「最初からそう言えばいいのに」

 

「最初からそれだけ言うと、格好つけてるみたいだろ」

 

「……変なの」

 

「よく言われる」

 

 患者は、また自分の手を見た。何かを思い出そうとしているようだった。だが、何も出てこなかったらしい。耳が伏せられた。

 

     

 

 

 

「先生」

 

「何だ?」

 

「ボク、何を探してるんだろう」

 

 その質問は、診察中ではなく、食事のあとに出た。患者は手術台に腰掛け、空になった皿を見ていた。

 

「物をなくしたのか?」

 

「分からない」

 

「なら、探しているかどうかも分からんだろう」

 

「でも、探さなきゃいけないんだ」

 

 尾が動かなくなった。

 

「何か……足りないんだ」

 

「腹か?」

 

「さっき食べたよ」

 

「記憶か?」

 

「……それも、そうだけど」

 

 患者は胸元を押さえた。

 

「ここが、ずっと変なんだ」

 

「痛いのか」

 

「違う」

 

「息苦しい?」

 

「違うってば」

 

「医者に胸を押さえて訴えるな。診察したくなる」

 

 患者は俺を睨んだ。俺は肩をすくめた。

 

「何かをしなきゃいけない。誰かのところへ行かなきゃいけない。そんな感じだろう?」

 

 患者の耳が立った。

 

「……そう」

 

「誰のところへ?」

 

「分からない」

 

「何をしに?」

 

「分からないってば」

 

「難儀だな」

 

「先生に言われたくない」

 

「俺は自分が何をしてるかくらい分かってるぞ」

 

「じゃあ、何でボクを助けたの?」

 

 俺は皿を重ねた。

 

「患者だったからだ」

 

「ボクが?」

 

「ほかに誰がいる」

 

「先生、ボクが怖いんでしょ?」

 

 皿を持つ手が止まった。患者はジッと俺を見ていた。

 

「ずっと、ボクが動くのを見てる。寝てるときも、たまに起きて確かめに来る」

 

「……術後管理だ」

 

「ボクが先生を殺すと思ってる?」

 

「一度、首を狙われたからな」

 

「あれは……」

 

 患者は口を閉じた。俺は続きを待った。だが、言葉は出てこなかった。

 

「何だ」

 

「……分からない」

 

 また、それだった。

 

 本人が一番腹を立てているのかもしれない。

 

 自分の行動に、自分で理由をつけられないことに。

 

「俺も分からん」

 

 俺は皿を片づけた。

 

「だから、しばらくは互いに気をつけよう」

 

「いつまで?」

 

「完治するまで」

 

「……それ、いつ?」

 

 俺は患者を見た。白い髪。伏せられた耳。こちらを窺う眼。そのすべてがたった数日で回復している。

 

 もう、寝台の上で命が消えかけていた患者の姿ではなかった。この部屋から出られるのも、そう遠くない。

 

「近いうちだ」

 

 そう答えると、患者は少し黙った。

 

「……ふうん」

 

 尾の先が、一度だけ動いた。

 

     

 

 

 

 その三日後、俺はカルテを閉じた。

 

「退院だ」

 

 患者は顔を上げた。

 

「何?」

 

「退院。この部屋から出ていいってことだ」

 

 患者の耳が立つ。

 

「外に?」

 

「そうだ」

 

「先生も?」

 

「俺はお前が出てくれないと出られない」

 

「何で?」

 

「そういう能力だからだ」

 

 患者はしばらく考えていた。

 

「……ボクが外に出たら、先生はどうするの?」

 

「次の患者を探す」

 

「ボクは?」

 

「知らん」

 

 赤い眼が細くなった。

 

「知らない?」

 

「身体の管理は続ける。だが、手術室で寝かせておく必要はなくなった」

 

「じゃあ、ボクは自由?」

 

「ある程度はな」

 

「……ある程度」

 

 患者は、その言葉を繰り返した。

 

 俺は立ち上がり、扉へ向かった。

 

 生死未定の手術室(シュレディンガー)は、俺が患者を死なせるか、安全に外へ出せると診断するまで、俺はここから出られない。

 

 今なら、扉を開けられる。

 

 それは、この患者を完治させたという意味ではない。

 

 少なくとも、手術室の設備に頼らず生きられる状態になったということだ。

 

 俺は扉に手をかけた。

 

「来い」

 

 患者は寝台から降りた。

 

 足音がしない。

 

 俺は振り返らずに言った。

 

「後ろから飛びかかるなよ」

 

「……まだ何もしてない」

 

「先に言っておくんだ」

 

 扉を開ける。

 

 外の空気が流れ込んだ。

 

 土の匂い。

 

 木々の匂い。

 

 遠くで鳥が鳴いていた。

 

 患者は立ち止まった。

 

 耳が、左右へ大きく動く。

 

「……外だ」

 

「そうだな」

 

「本当に?」

 

「見れば分かるだろう」

 

 患者は一歩踏み出した。

 

 もう一歩。

 

 足元の土を踏み、風を嗅ぎ、頭上を見上げる。尾がゆっくり持ち上がった。

 

 俺は最後に手術室を振り返った。白い照明が、いつもどおり灯っている。扉を閉めた。手術室は、静かに消えた。

 

「さて」

 

 俺は荷物を持ち直した。

 

「行くか」

 

「先生」

 

「何だ」

 

「ボクを外に出して、いいの?」

 

 声の位置が変わった。こいつの腕の間合いに既に入っている。爪が伸びていた。耳が伏せられ、尾が高く持ち上がる。

 

 俺が何かするより先に、首を裂けるだろう。

 

 だが、攻撃はこなかった。赤い眼が、じっと俺を見ている。

 

「……退院祝いに担当医を殺すのは勘弁してくれ。お前の身体には、まだ俺の作った細胞が残ってるんだ」

 

 患者の動きが止まった。

 

「……何?」

 

「俺が死ぬか、離れすぎれば、仮初めの部品(テセウス)は消える」

 

「……消える?」

 

「手足だけじゃない。脳にも心臓も、まだ俺の念が補っている」

 

 患者は自分の胸に手を当てた。

 

「じゃあ、先生がいなくなったら」

 

「今は、死ぬ可能性が高い」

 

 爪が、ゆっくり引っ込んだ。

 

「……最初に言ってよ」

 

「言う前に首を狙う奴があるか」

 

「狙っただけだよ」

 

「俺の首は、狙うだけなら無料というわけじゃない」

 

 患者は、ふいと顔を背けた。尾が不機嫌そうに揺れている。

 

「どこまで離れていいの」

 

「そこそこの距離だ」

 

「そこそこって?」

 

「俺の姿が見えなくなったからといって、いきなり死ぬわけじゃない。だが、勝手に遠くへ行くな」

 

「どのくらい?」

 

 俺は周囲を見渡した。少し離れたところに、大きな木があった。

 

「あの木より先へ行くなら、先に言え」

 

「……先生も、そこまで来るの?」

 

「必要ならな」

 

 患者は木を見た。それから俺を見る。それもかなり疑いの目で。

 

「先生は、本当にボクを自由にしたいの?」

 

「治療が終われば、自由だ。ある程度と言っただろう」

 

 患者は何か言いかけて、やめた。俺も、それ以上は説明しなかった。

 

 

 

 

 

     

 

 モラウに電話をかけたのは、患者が木の根元にしゃがみ込んでからだった。

 

 あいつは虫を捕まえていた。翅のある、小さな虫だ。

 

 指先でつまみ上げ、角度を変えながら眺めている。翅が震えるたびに眼を細め、脚の動きを確かめるように指の位置を変えていた。

 

 潰すつもりはないらしい。逃がすつもりも、なさそうだった。

 

「おい」

 

 患者の耳がこちらを向いた。

 

「少し電話をする。あの木から動くなよ」

 

「誰と?」

 

「知り合いだ」

 

「……ボクのこと?」

 

「ただの状況報告だ」

 

「ボクのこと分かったら教えてくれる?」

 

「分かればな」

 

 俺は返事をせず、小川の方へ歩いた。

 

 少し離れたところに、水が岩にぶつかる場所がある。流れの音が絶えず響き、木々も重なって、向こうからはこちらが見えにくい。

 

 電話をするには、悪くない場所だった。

 

 患者の聴力がどれほどのものかは知らない。

 

 ただ、人間より優れた感覚を持っていても、おかしくはなかった。

 

 何より、あいつは自分の名前さえ思い出せない。

 

 聞き慣れない地名。誰かの名前。過去の出来事。

 

 何がきっかけで記憶が戻るのか、俺にも分からない。記憶が戻ること自体を、悪いことだとは思わない。

 

 だが、戻るなら、せめて完治してからにしてほしかった。今、蟻としての記憶が戻れば、ここに新しい二体の死体が落ちるだけだ。

 

 俺は患者の姿が見える位置で足を止め、携帯電話を取り出した。

 

 水音に紛れるよう、声を落とす。電話が繋がった。

 

『……おう、モラウだ』

 

「俺だ」

 

『……は?』

 

 短い沈黙があった。

 

『お前か!? 生きてたのかよ!』

 

「第一声がそれか」

 

『当たり前だろうが! 二週間以上も音沙汰なしで、どこで何してやがった!』

 

「仕事だ」

 

『仕事ぉ?』

 

「患者を診てた」

 

『連絡くらい寄越せ! こっちは会長のこともあって――』

 

 モラウが言葉を切った。

 

『……いや。無事ならいい』

 

「そっちは?」

 

『何とか生きてる。傷もずいぶん塞がった』

 

「そうか」

 

 受話口の向こうで、長い息が吐かれた。

 

『で? わざわざ電話してきたってことは、何かあんだろ』

 

「ああ。妙な患者を診た。確認したいことがある」

 

『何だ』

 

「キメラアントだ」

 

 沈黙。

 

『……何だって?』

 

「白い髪で、猫みたいな耳と尾がある。眼は赤い。念人形を使う」

 

 向こうで、何かがぶつかる音がした。

 

『待て』

 

「何だ」

 

『そいつ、今どこにいる』

 

「俺の近く」

 

『生きてるのか』

 

「患者だからな」

 

『……お前』

 

 モラウの声が低くなった。

 

『そいつを、どこで見つけた』

 

 俺は場所を説明した。会長が死んだ場所とは別の戦闘現場。ひどく損傷した死体。その上で動いていた、死後の念。

 

 欠けた脳と心臓を、死後の念が修復しようとしていたこと。俺が不足分を補うと、あの念人形が血液を巡らせ、心臓を動かしたこと。

 

 残りの処置を俺が引き継いだこと。話し終えるまで、モラウは一度も口を挟まなかった。

 

『……ネフェルピトーだ』

 

「何だって?」

 

『そいつの名前だ。ネフェルピトー』

 

 俺は遠くの患者を見た。白い髪が、風に揺れている。

 

 あいつは捕まえた虫を掌へ移し、翅の付け根を覗き込んでいた。

 

『王直属護衛軍の一体だ』

 

「……王?」

 

『キメラアントの王だ。そいつは、その王を守るためにいた』

 

 俺は黙った。モラウは続けた。討伐作戦のこと。王直属護衛軍のこと。ピトーが、どれほど危険な個体だったかということ。

 

 そして。

 

『カイトってハンターを殺したのも、そいつだ』

 

 俺は息を止めた。名前を知っていた。

 

 ゴンのことを診る前に受け取った資料にも、その名があった。

 

『ゴンがああなった理由も、そこにある』

 

 目の前に、あの少年の姿が浮かんだ。診察台の上で、ひどく損なわれた身体。銀髪の少年が、俺を見ていた眼。

 

 治せないのか、と聞いた声。

 

「……そうか」

 

 それしか出なかった。

 

『お前、そいつを助けたのか』

 

「そうだ」

 

『……何でだ』

 

「患者だったからだ」

 

『ふざけるな!』

 

 耳元で怒声が弾けた。俺は反射的に携帯電話を耳から離した。

 

『ゴンがどんな思いでそいつと戦ったと思ってやがる! カイトを殺されて、取り返しのつかねえところまで自分を追い込んで、それでようやく倒した相手だぞ!』

 

「……分かってる」

 

『分かってねえよ! お前はあのガキを診たんだろうが!』

 

 俺は答えなかった。

 

『治せなかったんだろ。お前の能力でも、どうにもならなかったんだろうが!』

 

「……ああ」

 

『それで、何でそいつを生かしてんだよ!』

 

 俺は眼を閉じた。川の音が、やけに大きかった。

 

「……知らなかった」

 

『知らなかったら、何をしてもいいってのか!』

 

「そうは言ってない」

 

『だったら――』

 

「助けたときには、何者か知らなかった。今、あんたから聞いた」

 

 モラウが息を呑む音がした。

 

「だが、知っていたとしても、俺があの場で手を止められたかは分からん」

 

『……お前』

 

「目の前で、死にかけていたんだ」

 

 俺は患者を見た。虫の脚が、白い指の上で動いている。記憶を失ってから初めての外の景色を、好奇心のままに見て聞いている。

 

「生きようとしていた。俺には、そう見えた」

 

『……それで済む話じゃねえぞ』

 

「分かってる」

 

 今度は、軽々しく言ったつもりはなかった。

 

「だから、電話した」

 

 長い沈黙があった。モラウが息を吐いた。

 

『……クソッ』

 

 それきり、しばらく声がしなかった。

 

『今すぐそいつから離れろ』

 

「無理だな」

 

『何でだ』

 

「身体の一部を、俺の念で補ってる。離れすぎれば消える」

 

『……どこをだ』

 

「手足。それから、脳と心臓にもまだ残ってる」

 

 向こうが黙った。

 

『……だったら、離れろ』

 

「何?」

 

『お前が離れりゃ、そいつは死ぬんだな』

 

「その可能性が高い」

 

『なら、話は早えじゃねえか。お前はもう十分やった。そいつから離れて、帰ってこい』

 

「断る」

 

『……お前、今の話を聞いてたか?』

 

「聞いてた」

 

『そいつは王直属護衛軍だぞ。ゴンが自分を犠牲にして、ようやく倒した相手だ。お前が傍にいる限り、そいつは生き延びる。分かってんのか!』

 

「分かってる」

 

『だったら――』

 

「今、離れれば死ぬと分かってる患者を置いていけってことだろ」

 

『……そうだ』

 

 モラウは否定しなかった。俺も、黙った。

 

『お前を責めてるんじゃねえ。知らずに助けちまったことは、もうどうにもならねえ。だが、今は知ってるだろうが』

 

「……ああ」

 

『そいつが何をしたか。何ができるか。生きてりゃ、また何をするか分からねえってこともな』

 

「そうだな」

 

『だったら』

 

 俺は眼を閉じた。

 

 川の音が、絶えず耳に届いていた。

 

「もう選んだからな」

 

『……何?』

 

「患者を殺すなんてのはごめんだ」

 

『考え直せ!』

 

「考え直しても、治療を途中でやめる理由にはならん」

 

『……お前な』

 

「こいつが何をしたかは、なかったことにしない。今後、誰かを傷つけるなら止める。俺にできることはする」

 

 言葉を切った。

 

「だが、俺の念で生かしておいて、都合が悪くなったから死なせるのは違う」

 

『……それで誰かが死んだら、どうする』

 

「そのときは、俺にも責任がある」

 

『責任で済む話じゃねえぞ!』

 

「分かってる」

 

 モラウの荒い息が聞こえた。

 

『……クソッ』

 

 俺は何も言わなかった。しばらくして、モラウが口を開いた。

 

『お前、昔からそういうところがあるよな』

 

「褒めてるのか」

 

『褒めてねえよ。心底、面倒くせえと思ってる』

 

「奇遇だな。俺もだ」

 

 向こうで、深い溜息が聞こえた。

 

「一つ、言っておく」

 

『何だ?』

 

「記憶がない」

 

『……は?』

 

「名前も、過去も、自分が何をしていたかも覚えていない。王という奴のことも、おそらくな」

 

『嘘をついてる可能性は』

 

「ある」

 

『お前は信じてるのか』

 

「診察した範囲では、記憶障害があると判断してる」

 

『医者としてか』

 

「医者としてだ」

 

 モラウが黙った。

 

「ただ、身体が覚えてるものはある。言葉も使えるし、動きも速い。俺の首を狙う程度にはな」

 

『……お前、そいつの危険性を本当に分かってんのか』

 

「今の話で、少しはな」

 

『少しじゃ足りねえんだよ』

 

 怒りは、まだ声の底に残っていた。

 

『協会には報告する。そいつが生きてるとなりゃ、黙って済む話じゃねえ』

 

「待ってくれ」

 

『何だ』

 

「少しだけ、保留にしてくれ」

 

『……理由は』

 

「今のあいつは、自分が何者か知らない」

 

『だから?』

 

「俺も、今のあいつが何をするのか分からない」

 

『それは危険だってことだろ』

 

「そうだ」

 

 俺は頷いた。電話越しでは見えないだろうが。

 

「だから、もう少し診たい」

 

『……お前、本気で言ってるのか』

 

「本気じゃなきゃ、こんな面倒な電話はしない」

 

『記憶が戻ったらどうする』

 

「……それを考えてる」

 

『答えになってねえぞ』

 

「まだ答えがないんだ」

 

 沈黙が落ちた。遠くで、患者の尾が揺れた。

 

『……長くは待てねえ』

 

「分かってる」

 

『場所は把握した。何か変わったらすぐ連絡しろ』

 

「ああ」

 

『ノヴにも話しておく。あいつも、お前がどうなったか気にしてたからな』

 

「頼む」

 

『あと、そいつの前で油断するな』

 

「気をつける」

 

『……ゴンのことも、忘れんなよ』

 

 俺は患者を見た。あいつは虫を逃がさないよう、両手で小さな隙間を作っていた。

 

「忘れてない」

 

 電話が切れた。

 

     

 

 

 

 

 俺は、しばらくその場に立っていた。

 

 ネフェルピトー。

 

 王直属護衛軍。

 

 カイトを殺した個体。

 

 ゴンが、あそこまで自分を壊してでも倒そうとした相手。

 

 名前を知れば、少しは患者のことが分かると思っていた。

 

 とんでもない。知らない方が、まだ気楽だった。

 

 患者がこちらを見た。赤い眼が細くなる。

 

 俺は電話をしまい、歩き出した。

 

「先生」

 

「何だ」

 

「誰と話してたの」

 

「知り合いだ」

 

「ボクのこと?」

 

「どうしてそう思う」

 

「先生、戻ってくるの遅かったから」

 

「長電話だったな」

 

「何か分かった?」

 

 俺は答えなかった。

 

 患者の耳が、こちらへ向く。

 

「先生?」

 

「……今は、身体を治すのが先だ」

 

「それ、答えじゃない」

 

「医者は、患者の質問に全部答えられるわけじゃない」

 

「分からないの?」

 

 俺は、患者を見た。

 

「……そういうことにしておいてくれ」

 

 患者は納得しなかった。

 

 当然だ。俺だって、納得していない。

 

 患者の過去と治療は、切り離す。それは医者として、何度も自分に言い聞かせてきたことだった。

 

 人を傷つけた患者にも、治療は必要だ。罪を犯した患者の傷が、ほかの患者より塞がりにくくなるわけではない。

 

 だが、治療することと、許すことは違う。

 

 俺はゴンを治せなかった。そして、ゴンが倒した相手を治した。

 

 それを間違いだと呼ぶべきなのか、まだ分からなかった。

 

 分からないまま、歩くしかなかった。

 

「行くぞ」

 

「どこに?」

 

「次の街だ」

 

「何しに?」

 

「食料の補給と休息。あと、患者探し」

 

「ここにいるよ」

 

「お前は退院した」

 

「まだ治ってない」

 

「よく理解しているじゃないか」

 

「先生が言ったんでしょ」

 

 俺は歩き出した。少し遅れて、気配がついてきた。

 

 ネフェルピトー。

 

 名前を知ったところで、振り返ればそこにいるのは、相変わらず俺の手元を覗き込んでくる、記憶のない患者だった。

 

 あいつが何を思い出せば、何が起こるのか。俺は考えたくなかった。

 

 だが、記憶を取り戻す方法を探してやらないのも、医者として正しいのか分からなかった。

 

 まったく。

 

 爺さんは、厄介な仕事を残してくれたものだ。

 

「先生」

 

「何だ」

 

「次の街って、遠い?」

 

「少しな」

 

「歩くの?」

 

「ああ」

 

 

 

「先生、遅いね」

 

「……お前が速いんだ」

 

 

 患者は少し考えた。それから、俺の歩幅に合わせて歩き出した。

 

 信用はしていない。たぶん、向こうも同じだ。

 

 ただ、俺たちはまだ、互いから離れられない。

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