ようこそ恋愛至上主義の教室へ ―綾小路清隆 IF Routes 作:ムール貝
第一話 昨日までと同じ二人
堀北鈴音と付き合うことになった。
その事実を改めて頭の中で確認したのは、翌朝、教室の扉を開けた時だった。
別に忘れていたわけではない。昨日の出来事なのだから当然だ。ただ、恋人という関係になったことで何か劇的な変化が起こるのではないかと、多少なりとも予想していたらしい。
教室の窓際では、いつも通り堀北が本を読んでいた。
俺が近づくと、視線だけがこちらを向く。
「おはよう、綾小路君」
「おはよう、堀北」
それだけだった。
俺は自分の席に座った。
堀北は本へ視線を戻す。
昨日までと何も変わっていない。
もしかすると、ここで何らかの追加行動が必要なのだろうか。
恋人同士なら朝の挨拶に何か付け加えるものなのかもしれない。しかし、俺の知る限り、恋人専用の挨拶というものは存在しない。
少なくとも、「おはよう」の後に何か決められた言葉が続くという話は聞いたことがなかった。
「何?」
本から顔を上げないまま、堀北が言った。
「何がだ?」
「さっきからこちらを見ているでしょう」
気づいていたらしい。
「少し考えていた」
「あなたが考え事をするのは珍しくないでしょう」
「恋人になった場合、朝の挨拶に変化が必要なのかと思ってな」
堀北の手が止まった。
数秒して、ゆっくりと本が閉じられる。
「……あなた、昨日の話をもう一度やり直したいの?」
「そういうわけじゃない」
「だったら、その発言は何なのかしら」
「確認だ」
「何を?」
「俺たちが本当に付き合っているのか」
堀北は無言で俺を見た。
どうやら言葉を選んでいるようだった。
「昨日、あれだけ話しておいて、翌朝になったら自信がなくなったということ?」
「事実関係に疑いはない」
「それなら何も問題ないじゃない」
確かにそうだ。
問題はない。
しかし、違和感はあった。
付き合う前と付き合った後で、目に見える変化が一つもない。
恋人というものは、もっと分かりやすいものだと思っていた。
「おはよう、堀北さん。綾小路君」
教室に入ってきた平田が、いつもと変わらない笑顔で声をかけてくる。
「ああ、おはよう」
「おはよう」
俺と堀北も同じように返す。
当然、平田が俺たちの関係に気づく様子はない。
これが正しい。
交際については、当面の間、周囲には知らせないことで意見が一致していた。クラスの人間関係に余計な影響を与える必要はないし、堀北自身も公表するメリットはないと判断している。
俺も同意見だった。
つまり、表面上は昨日までと同じであるべきなのだ。
そう考えると、今の状況は極めて合理的と言える。
にもかかわらず、何かが足りない気がした。
その正体について考えているうちに、ホームルームが始まった。
結局、午前中は何も起こらなかった。
授業を受け、休み時間には必要な話をして、昼休みにはクラスについての相談を受けた。
堀北から見せられたのは、クラスメイトの最近の成績をまとめた資料だった。
「須藤君については、もう少し英語を重点的に見た方がいいと思うの」
「以前に比べればかなり改善している」
「だからといって、ここで手を抜けば元に戻る可能性もあるわ」
「お前は相変わらず厳しいな」
「必要なことを言っているだけよ」
その会話も、これまで何度となく繰り返してきたものと大差ない。
俺たちは恋人になったはずだ。
それなのに、話している内容は須藤の英語だった。
一般的な恋人が昼休みに何を話しているのかは知らないが、少なくとも須藤の英語力について議論している割合はそれほど高くないだろう。
だが、それを堀北に指摘する必要もない。
本人も同じことを考えているのか、資料を閉じた後、一瞬だけ俺を見た。
何か言いたそうにも見えたが、結局何も言わなかった。
そのまま放課後になる。
俺が帰り支度をしていると、堀北が席の横に立った。
「綾小路君」
「どうした?」
「少し時間ある?」
「ある」
「そう」
堀北は教室を見回した。
まだ何人か残っている。
「……外で話しましょう」
俺たちは少し時間をずらして教室を出た。
向かった先は、人気の少ない校舎の端だった。
窓の外では、運動部の生徒たちがグラウンドを走っている。
堀北はしばらく黙っていた。
こちらから切り出すべきなのか判断していると、彼女が口を開いた。
「確認したいことがあるのだけれど」
「何だ?」
一拍置いて、堀北が言う。
「私たち、付き合っているのよね?」
朝の俺とほぼ同じ質問だった。
「その認識で間違いない」
「そう」
「どうした?」
「別に」
明らかに別に、という様子ではない。
俺が黙っていると、堀北がわずかに眉を寄せた。
「……何か言いたいなら言ったら?」
「俺も朝、同じことを考えていた」
「でしょうね。わざわざ本人に確認してきたもの」
「今日一日を振り返っても、昨日までとの違いがほとんどなかった」
「ええ」
堀北は否定しなかった。
「朝の挨拶も同じ。授業中も同じ。昼休みに話した内容も須藤の英語についてだ」
「須藤君の英語は重要でしょう」
「重要性の話はしていない」
「分かっているわよ」
少しだけ声が強くなる。
「だから私も……少しおかしいと思ったの」
「おかしい?」
「おかしいという表現が正しいかは分からないけれど」
珍しく堀北が言葉を濁す。
「付き合うことになったのに、何も変わらないというのも妙でしょう」
「では、何を変える?」
「それを私に聞くの?」
「俺にも分からない」
堀北が呆れたように息を吐いた。
「あなた、こういう時だけ急に役に立たなくなるわね」
「経験がないからな」
「私だってないわよ」
「なら条件は同じだ」
「そこで安心しないでくれる?」
別に安心したつもりはなかった。
だが、確かにこれは簡単な問題ではない。
恋人という関係が成立した場合、一般的にはどのような行動が追加されるのか。
「一緒に帰る」
「それは以前にもあったでしょう」
「二人で食事に行く」
「それもあるわね」
「休日に出かける」
「それも状況によってはあったわ」
「プレゼントを渡す」
「必要もないのに?」
「身体的接触」
「待ちなさい」
堀北の声が低くなった。
「何だ?」
「あなたは恋愛を何だと思っているの?」
「一般的に恋人同士が行うと考えられる行動を列挙しただけだ」
「資料でも作るつもり?」
「必要なら作れる」
「必要ないわよ」
即答された。
どうやら、この問題に対して網羅的な一覧を作成する方法は適切ではないらしい。
「とりあえず」
堀北が言う。
「今日は一緒に帰りましょう」
「分かった」
「……返事が軽いわね」
「一緒に帰ることに反対する理由はない」
「そういうところよ」
「何がだ?」
「もういいわ」
また呆れられた。
俺たちは並んで校舎を出た。
寮へ向かう道を歩く。
しかし、五分ほど歩いたところで新たな問題に気づく。
一緒に帰っている。
確かに恋人らしい行動なのかもしれない。
だが、俺たちはこれまでも何度かこうして並んで歩いている。
以前との違いがない。
隣を見る。
堀北も同じことを感じているのか、いつもより若干口数が少ない。
「堀北」
「何?」
「寄り道するか?」
足が止まった。
「あなたから?」
「そんなに意外か?」
「ええ。かなり」
そこまで言われるとは思わなかった。
「どこへ行くの?」
「特に決めていない」
「計画もなく誘ったの?」
「ああ」
堀北は何かを考えた後、小さく笑った。
「それなら、少しくらい付き合ってあげてもいいわ」
なぜか上からだった。
だが、断られなかった以上、問題はない。
近くの喫茶店に入る。
向かい合って座り、飲み物を注文する。
窓から差し込む夕方の光が、テーブルの端を照らしていた。
「それで」
堀北がカップに触れながら言う。
「何を話すの?」
「何でもいいんじゃないか?」
「それができるなら苦労しないわ」
確かに。
結局、俺たちが話したのは、次の特別試験についての予測と、クラス内の人間関係、それから今後伸びる可能性のある生徒についてだった。
三十分ほど経った頃だった。
堀北が突然、カップを置く。
「結局、いつもと同じじゃない」
その声には、ほんの少しだけ不満が含まれているように聞こえた。
「悪いことなのか?」
「……分からないわ」
堀北は窓の外を見る。
「ただ、これなら付き合う前と何も変わらないでしょう?」
「変える必要があるのか?」
「だから、それが分からないと言っているの」
いつもの彼女なら、もっと明確な答えを求める。
だが、この問題についてだけは、正解を持っていないらしい。
俺も同じだった。
店を出る。
空はすでに赤みを帯びていた。
寮へ戻ろうとしたところで、前から一人の男子生徒が歩いてくる。
顔に見覚えがある。
別クラスの生徒だ。
「堀北さん」
呼び止められた堀北が足を止める。
「何かしら?」
「この前の話なんだけど、ちょっと聞きたいことがあってさ」
内容は大したものではなかった。
特別試験に関係する情報の確認。
警戒する必要もない。
俺が口を挟む理由もない。
だから少し離れた場所で待つ。
一分。
二分。
二人はまだ話している。
俺は無意識に時計を見る。
急いでいるわけではない。
それなのに、会話がいつ終わるのかを気にしている。
男子生徒が何かを言い、堀北が答える。
それだけだ。
問題はない。
それでも、視線を外す気にならなかった。
やがて話が終わり、男子生徒は去っていく。
堀北がこちらへ戻ってきた。
「待たせたわね」
「いや」
俺たちは再び歩き始める。
少しして、堀北が俺を見る。
「何?」
「何がだ?」
「さっきから妙に静かでしょう」
「元から静かな方だと思うが」
「そういう意味じゃないわ」
よく見ている。
「一つ気になっていることがある」
「言ってみたら?」
「さっき、お前があいつと話している間、会話が終わるまで気になっていた」
堀北が瞬きをした。
「内容が?」
「いや。会話そのものがだ」
「それって」
何かに気づいたように、堀北の口元がわずかに緩む。
「嫉妬じゃないの?」
「そう判断するにはデータが足りない」
「本当にあなたらしい答えね」
「他の人間でも同じ反応になる可能性がある」
「なら試してみれば?」
「どうやって?」
「私が他の男子と話すたびに観察するとか」
「効率が悪いな」
「恋愛に効率を求めるのをやめなさい」
もっともな意見かもしれない。
しばらく歩く。
夕方の風が少し冷たくなっていた。
隣を歩く堀北の手が視界に入る。
そこでふと、放課後に列挙した項目を思い出した。
身体的接触。
俺は自分の手を伸ばした。
堀北の指に触れる。
彼女の肩がわずかに揺れた。
「……何をしているの?」
「手をつないでみようと思った」
「見れば分かるわよ」
離されるかと思ったが、そうはならなかった。
俺はそのまま彼女の手を握る。
手のひらから、微かな温度が伝わってくる。
これまで堀北に触れたことがないわけではない。
だが、今までとは明らかに違った。
目的がない。
助けるためでも、止めるためでもない。
ただ、手をつなぐために手を取った。
「恋人なら、この程度はするらしい」
俺がそう言うと、堀北は前を向いたまま答えた。
「そういう理由なの?」
「最初はな」
「最初は?」
俺は少し考えた。
手を離す理由はない。
むしろ今は、このまま歩いていたいと思っている。
「今は、そうでもないかもしれない」
堀北は何も言わなかった。
ただ、手は離れなかった。
そのまま寮へ向かう。
歩く速度はいつもより少し遅かった。
分かれ道まで来たところで、ようやく手を離す。
堀北が自分の手を一度見てから、こちらを見る。
「綾小路君」
「何だ?」
「明日も一緒に帰る?」
「必要なら」
そう答えた瞬間、堀北の目が細くなった。
「必要だからではなくて」
少しだけ間がある。
「あなたがどうしたいかを聞いているの」
どうしたいか。
目的や必要性ではなく、自分の希望。
簡単な質問のように聞こえる。
だが、俺にとっては意外と難しい。
考える。
今日のように一緒に歩くことに、何か合理的な価値があるわけではない。
クラスに利益が出るわけでもない。
能力を伸ばせるわけでもない。
それでも。
「一緒に帰ろう」
俺が答える。
堀北は少しだけ目を見開いた後、いつもの表情に戻った。
「そう」
それだけ言って背を向ける。
「じゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
離れていく後ろ姿を見送る。
昨日と今日で、俺たちの関係が劇的に変わったわけではない。
明日になっても、おそらく大して変わらないだろう。
教室ではいつも通り話し、必要ならクラスについて議論し、場合によっては意見もぶつかる。
それでも今日、一つだけ昨日までとは違うことがあった。
明日の放課後を、少しだけ楽しみにしている自分がいる。
それが恋人という関係によるものなのか。
それとも、堀北鈴音という一人の人間に対して抱いている何かなのか。
俺にはまだ、判断できなかった。