ようこそ恋愛至上主義の教室へ ―綾小路清隆 IF Routes 作:ムール貝
堀北と付き合い始めて、一週間ほどが経った。
この一週間で何か大きく変化したかと聞かれれば、答えはそれほど単純ではない。
教室ではこれまで通りだった。周囲に交際を明かしていない以上、必要以上に距離を縮める理由もない。授業中に話すことはないし、昼休みに相談される内容も大半がクラスに関するものだ。
ただ、放課後は以前より一緒に帰ることが増えた。
毎日というわけではない。
用事がある日は別々に戻るし、堀北がクラスの誰かと話していれば、無理に待つこともしない。
それでも以前と比べれば、明らかに多かった。
手をつなぐこともある。
最初のように、その行為についていちいち理由を説明することはなくなった。
これは進歩と言っていいのかもしれない。
そして、もう一つ。
俺たちは明日、初めて二人で出かけることになっていた。
少なくとも、今回はただ一緒に帰る途中で寄り道するわけではない。
最初から二人で過ごすことを目的としている。
一般的には、これをデートと呼ぶのだろう。
放課後、俺たちはいつものように寮へ向かっていた。
「それで、明日はどうするの?」
堀北が尋ねてきた。
「特に希望はないのか?」
「私が聞いているのだけれど」
「そうだな」
一応、候補はいくつか考えている。
映画館もある。商業施設なら食事にも困らないし、書店もある。少し離れれば別の選択肢もあるが、初めてなら無理に遠出する必要もないだろう。
「商業施設でいいんじゃないか。店も多いし、途中で行きたい場所があれば寄れる」
「ずいぶん無難ね」
「初めてのデートで奇抜さを求める必要もないだろう」
堀北がこちらを見る。
「一応、デートだという認識はあるのね」
「ないと思っていたのか?」
「あなたの場合、『二人で行動するだけだ』くらいに考えていても不思議じゃないもの」
そこまでではない。
付き合う以前にも堀北と二人で行動したことはある。
明日は、それとは違う。
その程度の認識は俺にもある。
「何か行きたい店はあるか?」
「行ってから決めればいいでしょう」
「そうか」
「……何?」
「いや。お前なら先に決めたがると思っていた」
「私だって、休日まで全部予定通りに行動しているわけじゃないわよ」
「意外だな」
「喧嘩を売っているの?」
「そんなつもりはない」
ただ、少しだけ安心した。
何をすればデートとして正解なのか。
この一週間、考えなかったわけではない。
だが、正解を作る必要そのものがないのかもしれない。
「十時でいいか?」
「ええ」
「じゃあ、寮のロビーで」
「分かったわ」
話はそれだけで決まった。
意外なほど簡単だった。
翌朝。
約束の時間より少し前にロビーへ下りると、まだ堀北の姿はなかった。
ソファに座るほど待つこともないだろう。
壁際で待っていると、間もなくエレベーターが止まった。
扉が開く。
そこから出てきた堀北を見て、俺は一瞬だけ反応が遅れた。
当然だが、制服ではない。
休日なのだから私服なのは珍しいことでもないし、これまで見たことがないわけでもない。
それでも今日は、いつもとは少し違って見えた。
服装そのものは堀北らしく落ち着いている。目立とうとするようなものでもない。
だが、なぜか目が止まった。
「何?」
堀北がこちらを見る。
「いや」
「今、見ていたでしょう」
「見ていたな」
「……否定くらいしたら?」
「事実を否定しても仕方ないだろう」
堀北の眉がわずかに寄る。
「何かおかしい?」
「そういう意味じゃない」
「なら何?」
少し考える。
わざわざ言う必要があるのかは分からない。
ただ、聞かれた以上は答えるべきだろう。
「似合っていると思った」
堀北が黙った。
ほんの数秒だったが、普段の彼女にしては長い。
「……そう」
それだけ言って視線を外す。
嫌だったわけではなさそうだ。
「行くか」
「ええ」
二人で寮を出た。
商業施設までの道は普段と変わらない。
違うのは目的だけだ。
隣には堀北がいる。
一週間前なら、それだけで特別な意味を考えることはなかった。
今は少し違う。
施設へ着くと、堀北が案内板を見る。
「どこから行く?」
「お前が見たいところでいい」
「それだと私だけが楽しむことになるでしょう」
「俺は特に欲しいものがないからな」
「それでも何かあるでしょう。本とか、服とか」
「本なら見てもいい」
「なら書店ね」
最初に向かったのは書店だった。
大型店だけあって、かなりの品揃えがある。
堀北は迷うことなく目的の棚へ向かった。
俺も近くを見る。
特に買う予定の本はなかった。
しばらく棚を眺めてから、ふと堀北を見る。
一冊を手に取って裏表紙を確認し、数ページめくっている。
棚へ戻す。
また別の本を取る。
普段、教室で本を読んでいる姿はよく見る。
だが、選んでいるところを見る機会はほとんどない。
気づけば俺は、本ではなく堀北を見ていた。
「さっきから何?」
視線だけで気づかれた。
「お前が何を選ぶのか見ていた」
「趣味でも分析しているの?」
「そこまで大げさなものじゃない」
「あなたに見られていると、何でも分析されているような気がするのよ」
「普段からそこまで他人を分析しているわけじゃない」
堀北は無言で俺を見る。
「……何だ?」
「説得力がないと思っただけよ」
否定する材料は思いつかなかった。
堀北は再び棚へ視線を戻した。
しばらくして、一冊の本を手にしたまま動かなくなる。
「それにするのか?」
「迷っているところ」
「なら買えばいいんじゃないか」
「欲しいものを全部買っていたらきりがないでしょう」
「お前はそういうところでは慎重なんだな」
「普通だと思うけれど」
結局、数分迷った末にその本を買っていた。
本屋を出てからも、特に行き先を決めることなく歩く。
堀北が気になった店があれば入る。
俺が足を止めれば、堀北も付き合う。
昼食も、近くにあった店の中から二人で選んだ。
どこか特別な店というわけではない。
話題も普段と大きく変わらなかった。
最近のクラスの様子。
成績が伸びている生徒。
次の試験がどうなるか。
いつもと同じと言われれば、その通りだ。
それなのに不思議と、学校で話している時とは違って感じる。
「ねえ」
食事を終えたところで、堀北が言った。
「何だ?」
「さっきから普通に楽しんでいるでしょう」
「そう見えるか?」
「少なくとも、退屈そうには見えないわ」
「退屈はしていない」
「そう」
堀北は水を一口飲む。
「もっと困るかと思っていた」
「何に?」
「デートに」
「俺もだ」
「自分で言うのね」
実際、もう少し難しいものだと思っていた。
恋人同士なら何をするべきか。
何を話すべきか。
どこへ行けば正解なのか。
そういうものを考える必要があると思っていた。
だが、今のところ特別なことは何もしていない。
それでも問題はなかった。
店を出た後、施設内を歩いていると、堀北が一度足を止めた。
視線の先には、小規模なゲームコーナーがある。
「入りたいのか?」
「見ただけよ」
「そうか」
俺が歩き出すと、後ろから声が飛んできた。
「待ちなさい」
振り返る。
堀北は少し不満そうだった。
「何だ?」
「普通、もう少し察するものじゃない?」
「行きたいならそう言えばいいだろう」
「そうだけれど……」
珍しく歯切れが悪い。
「入るか?」
「あなたが行きたいなら」
「俺はどちらでもいい」
「だったら――」
「ただ、お前が気になっているなら行ってみたい」
そう言うと、堀北が少し黙った。
「……なら行きましょう」
中にはクレーンゲームが何台か並んでいた。
堀北が見ていたのは、そのうちの一台だった。
中には小さな動物のぬいぐるみが入っている。
「欲しいのか?」
「だから見ていただけだと言っているでしょう」
「そうか」
しばらく中を見る。
配置そのものは難しくなさそうだ。
「取ってみるか」
「あなたが?」
「ああ」
「得意なの?」
「やったことはほとんどない」
「なのに挑戦するのね」
百円を入れる。
アームを動かし、狙いを定める。
落下する。
ぬいぐるみを掴む。
途中で落ちた。
「失敗ね」
「ああ」
「随分あっさり認めるのね」
「失敗したのは事実だからな」
もう一度試す。
今度は少し位置をずらす。
また落ちた。
横から小さな声が聞こえた。
堀北が笑っている。
「笑ったな」
「笑ってないわ」
「明らかに笑っていた」
「気のせいよ」
「そうか」
「……何よ」
「珍しいものを見たような顔をしていたからな」
堀北は少しだけ口元を緩める。
「ええ。あなたがこんなことで普通に失敗するのは、少し珍しいと思っただけ」
三回目。
今度は位置を変える。
アームが下りる。
持ち上げたぬいぐるみは、今度こそ落下口まで運ばれた。
取り出して確認する。
小さな黒猫だった。
「ほら」
堀北へ差し出す。
「私に?」
「お前が見ていたから取ったんだ」
「欲しいなんて言ってないけれど」
「なら戻すか?」
「取ったものをどうやって戻すのよ」
そう言いながら、堀北は受け取った。
手の中のぬいぐるみを見る。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「何?」
「何がだ?」
「普通に返されたから」
「ありがとうと言われたら、そう返すだろう」
「そうね」
堀北はぬいぐるみを大事そうに袋へ入れた。
その様子を見て、三百円なら悪くない結果だったと思った。
ゲームコーナーを出た頃、施設内にアナウンスが流れた。
外を見る。
雨が降っている。
しかも、それなりに強い。
「雨ね」
「ああ」
「傘は?」
「持っていない」
「私もよ」
天気予報では降水確率は低かった。
俺も確認していたが、結果として外れたらしい。
「どうする?」
堀北が聞く。
「少し待つか。長く続く雨には見えない」
「そうね」
屋根のある通路へ移動する。
二人並んで雨を見る。
予定していたわけではない。
することもない。
ただ待つだけの時間だった。
「こういうのは嫌いそうね」
突然、堀北が言った。
「何がだ?」
「目的もなく待つこと」
「そう見えるか」
「あなたなら、意味のない時間だとか考えそうでしょう」
否定する前に、自分でも考えてみる。
確かに、合理性だけで見れば何の意味もない。
雨が止むまで待っている。
それだけだ。
だが。
「そうでもないな」
「意外ね」
「俺もそう思う」
「どういうこと?」
「何もしなくても、それほど退屈じゃない」
堀北は俺を見る。
俺も見る。
すぐに彼女は視線を雨へ戻した。
「それは……」
少し間が空く。
「相手が私だから?」
問いかける声は、普段より小さかった。
考えるまでもなかった。
「多分な」
「多分、なのね」
「他の人間と同じ状況を比較したことがない」
「そこまで正確に答えなくてもいいのよ」
「そうなのか」
「そういうところは、まだ変わらないわね」
呆れたように言う。
だが、その表情は険しくなかった。
雨は十分ほどで弱くなった。
施設を出る。
帰り道では、自然に手をつないだ。
どちらからというほどでもない。
一度指先が触れ、そのままどちらも離さなかった。
しばらく歩いてから、堀北が尋ねる。
「今日、どうだった?」
「どう、とは?」
「楽しかったか聞いているの」
「楽しかった」
答えると、堀北が少し驚いた顔をした。
「即答するのね」
「考える必要があるか?」
「あなたなら、楽しいという感情を分析し始めるかと思っていたわ」
「そういう時もある」
「今日は違う?」
「違うらしい」
今日何をしたのかを振り返る。
本屋へ行った。
食事をした。
何軒か店を回った。
クレーンゲームをした。
雨が止むのを待った。
特別なことは何もない。
クラスの利益になることもなければ、自分に何か成果が残ったわけでもない。
それでも、もう一度同じように時間を過ごしたいと思っている。
「また行くか」
俺が言う。
「え?」
「次の休みにでも」
堀北が少しだけ足を緩めた。
「それは、またデートをしたいという意味?」
「ああ」
「……そう」
前を向く。
横顔を見る限り、嫌そうには見えない。
「次は私が行く場所を決めてもいい?」
「構わない」
「後悔するかもしれないわよ」
「何をするつもりだ?」
「まだ秘密」
「そうか」
聞き出す必要はないだろう。
知らないなら、その時になってから分かればいい。
一週間前の俺なら、事前に把握した方がいいと考えたかもしれない。
だが、今日一日で覚えているものを思い返せば、最初から分かっていたことばかりではない。
堀北が本を選ぶ姿。
クレーンゲームで俺が失敗した時の笑顔。
突然降ってきた雨。
何もせず二人で立っていた時間。
予定していなかったものの方が、妙に記憶に残っている。
恋人になれば、何をすべきなのか。
少し前まで、そんなことを考えていた。
一緒に帰る。
手をつなぐ。
デートをする。
そういう行為を重ねれば、恋人らしくなるのだと思っていた。
だが、おそらく逆なのだろう。
恋人だから決められたことをするのではない。
その相手と一緒にいたいと思った結果として、自然にすることが増えていく。
少なくとも今日は、そう思えた。
隣を見る。
堀北はこちらを見ずに歩いている。
ただ、つないでいる手は離れない。
次にどこへ連れていかれるのかは、まだ知らない。
知らないままでもいい。
そう思えること自体が、俺にとっては少し珍しい変化だった。