ようこそ恋愛至上主義の教室へ ―綾小路清隆 IF Routes 作:ムール貝
堀北と付き合い始めてから、二週間ほどが経った。
関係に慣れたかと聞かれれば、まだ判断は難しい。
一緒に帰ることは増えた。休日に二人で出かけることも一度経験した。手をつなぐことにも、最初ほど意識を向けなくなっている。
それでも学校では、以前と大きく変わらない。
少なくとも周囲から見れば、そうだろう。
俺たちが交際していることを知る人間はいない。
その状態が不都合だと思ったこともなかった。
昼休み。
教室の後方で、堀北が一人の男子生徒と話していた。
相手は別のクラスの生徒だった。
話の内容は、おそらく次の特別試験に関係するものだろう。
少なくとも、遠目に見える様子からはそれ以外の意図は感じられない。
堀北も普段通りだった。
必要なことだけを話し、相手の説明を聞いている。
何も問題はない。
俺はそう結論づけて、自分の手元へ視線を戻した。
「綾小路君」
数秒後。
隣から声をかけられた。
見ると、平田が立っていた。
「少しいいかな?」
「ああ」
「次の試験についてなんだけど――」
平田の話を聞く。
それ自体は重要な内容だった。
俺も必要な範囲で答える。
だが、途中で一度だけ、教室の後方へ視線が向いた。
まだ話している。
男子生徒が何かを言い、堀北が答えた。
平田へ意識を戻す。
「……どう思う?」
「ああ。その方針で問題ないと思う」
「そっか。ありがとう」
平田は特に気にした様子もなく、自分の席へ戻っていった。
俺は再び前を向く。
少しして、堀北との話を終えた男子生徒が教室を出ていった。
何を話していたのか。
聞こうと思えば聞ける。
ただ、それを確認する理由がない。
クラスに関係する重要な情報なら、必要に応じて堀北から共有されるだろう。
そうでないなら、なおさら俺が知る必要はない。
それだけの話だった。
「何?」
いつの間にか、堀北が目の前に立っていた。
「何がだ?」
「さっきからこっちを見ていたでしょう」
「そうだったか?」
「二回」
正確に数えていたらしい。
「よく見ているな」
「あなたに言われたくないわね」
堀北は自分の席に戻ろうとする。
俺は少し迷った後、声をかけた。
「さっきのは何の話だったんだ?」
堀北の足が止まる。
「次の特別試験についてよ」
予想通りだった。
「そうか」
「それだけ?」
「ああ」
堀北がこちらを見る。
「なら、どうして聞いたの?」
「少し気になった」
「試験の内容が?」
そこで答えが止まった。
試験の内容。
そう答えてしまえば簡単だ。
だが、それでは正確ではない。
「いや」
「じゃあ何?」
「お前があいつと何を話しているのかが」
堀北はしばらく黙った。
そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「そう」
「何だ?」
「別に」
「何か言いたそうだな」
「何も?」
その顔は、明らかに何かを考えている。
ただ、追及するほどのことでもない。
「そうか」
俺がそれ以上聞かないと分かると、堀北は少しつまらなそうな顔をして席へ戻った。
午後。
授業が終わり、休み時間になったところで、今度は俺が呼び止められた。
「綾小路君」
声の主は一之瀬だった。
「少しいいかな?」
「ああ」
廊下へ出る。
用件は、以前の試験に関する確認だった。
特別な内容ではない。
一之瀬らしく、言葉を選びながら話している。
「ごめんね。急に呼び止めちゃって」
「気にする必要はない」
「でも、最近いろいろ忙しそうだったから」
「そう見えるか?」
「うん。なんとなくだけど」
一之瀬は笑う。
俺も特に深く考えず話を続けた。
数分ほどして用件は終わる。
「ありがとう、綾小路君」
「ああ」
一之瀬と別れ、教室へ戻る。
扉を開けると、堀北が席についていた。
本を開いている。
いつも通りだ。
俺も自分の席に戻る。
「ずいぶん長かったわね」
本から目を離さないまま、堀北が言った。
「そうか?」
「五分以上は話していたでしょう」
「数えていたのか?」
「時計を見れば分かるわ」
なるほど。
「何の話?」
今度は俺が聞かれる番らしい。
「試験についてだ」
「そう」
それだけ言って、ページをめくる。
ただ、その動作が普段より少しだけ強い。
「気になるのか?」
「何が?」
「一之瀬と何を話していたのか」
「確認しただけよ」
「俺も昼休みに同じことをした」
「だから?」
「似ていると思った」
堀北の視線が本から上がる。
「何が言いたいの?」
「別に」
「その返し方、腹が立つわね」
昼休みに自分がしたことは忘れているらしい。
俺はそれ以上言わなかった。
放課後。
今日は一緒に帰る予定だった。
教室を出てしばらく歩いたところで、堀北が口を開いた。
「一之瀬さんとは、普段からああいうふうに話すの?」
「どういうふうに?」
「普通に」
「質問の意味が分からないな」
「私も言ってからそう思ったわ」
珍しく堀北自身が認めた。
「必要があれば話す」
「そう」
「お前だって、他クラスの男子と話すだろう」
「私はクラスのためよ」
「俺も似たようなものだ」
「一之瀬さんとあなたの場合は、以前から個人的に話すこともあるでしょう」
歩きながら俺は堀北を見る。
「詳しいな」
「見ていれば分かるわ」
「見ているのか?」
堀北の表情が一瞬止まった。
「……教室にいれば視界に入ることもあるでしょう」
「そういうことにしておこう」
「何、その言い方」
「特に意味はない」
「絶対にあるでしょう」
否定しても納得しそうにないので黙った。
俺たちは並んで歩く。
しばらく会話が途切れた。
妙な沈黙だった。
怒っているわけではない。
ただ、お互いに何かを言いかけて、そのまま止めている。
「綾小路君」
「何だ?」
「昼休みのことだけど」
堀北から話を戻してきた。
「相手は前にも話したことのある生徒よ。今回の試験について、お互いのクラスの考えを確認しただけ」
「分かっている」
「そう」
「俺も一之瀬とは試験について話しただけだ」
「聞いてないけれど」
「そうだな」
だが、言っておいた方がいい気がした。
堀北も、それ以上否定はしなかった。
しばらく歩いた後、俺は口を開く。
「嫉妬かもしれないな」
堀北が足を止めた。
俺も止まる。
「……誰が?」
「俺が」
「あなたが?」
「ああ」
予想以上に驚かれた。
「随分あっさり認めるのね」
「あっさりというほどでもない。前にも似たことはあった」
付き合い始めた翌日。
堀北が別の男子と話していた時、俺はその会話が終わるまで気にしていた。
当時は、判断材料が足りないと考えた。
だが今回も同じ反応だった。
偶然と処理する必要はもうないだろう。
「お前が他の男子と話していること自体に問題があるとは思わない」
「ええ」
「止める理由もない」
「当然でしょう」
「ただ、気になる」
堀北は黙って聞いている。
「誰と話しているのか。何を話しているのか。普段より長いのか」
そこまで言ってから、自分の言葉を考える。
「おそらく、そういうのを嫉妬と呼ぶんだろう」
堀北は少しの間、何も言わなかった。
「……そう」
反応はそれだけだった。
「何だ?」
「別に」
「それは今日二回目だな」
「数えないで」
再び歩き始める。
俺も隣へ並ぶ。
少しして、堀北が小さく息を吐いた。
「私も」
「何が?」
「少しだけよ」
「何が少しなんだ?」
「分かっているでしょう」
「言葉にしてもらわないと正確には分からない」
「こういう時だけ正確さを求めないでくれる?」
声には明らかな苛立ちがあった。
だが、いつものそれとは少し種類が違う。
堀北は前を向いたまま言った。
「あなたが一之瀬さんと話しているのを見て、少し気になった」
「そうか」
「それだけよ」
「嫉妬か?」
「断定はしていないわ」
「俺より慎重だな」
「あなたに言われたくない」
確かにそうだった。
「でも」
堀北が続ける。
「少なくとも、以前なら気にしなかったと思う」
俺も同じだ。
付き合う以前なら、堀北が誰と話していようと必要以上に関心を持つことはなかった。
もちろん、相手の意図やクラスへの影響を考えることはある。
だが、それは今感じているものとは違う。
「不思議ね」
堀北が言った。
「何が?」
「相手を信頼しているかどうかとは、別の話なのね」
その言葉は興味深かった。
俺は堀北が、俺に黙って何か問題のあることをするとは思っていない。
逆もそうなのだろう。
それでも気になる。
「理屈に合わないな」
「恋愛に理屈を求めるのはやめたんじゃなかった?」
「完全にやめた覚えはない」
「でしょうね」
少しだけ笑われた。
しばらくして、俺は堀北の手に触れた。
そのまま指を絡める。
堀北も抵抗しない。
「一つ聞いていい?」
「何だ?」
「もし私が他の男子と二人で出かけると言ったら、どうする?」
想像する。
理由にもよる。
クラスのためなら必要な場合もある。
止める権利もない。
そう答えるのが自然だ。
だが、それだけではない。
「理由を聞く」
「それから?」
「必要なことなら止めない」
「そう」
「ただ」
俺は少し考えた。
「多分、嫌だとは思う」
隣で歩いていた堀北の足が、ほんの少し遅くなる。
「……そういうことは、普通に言えるのね」
「聞かれたから答えただけだ」
「あなたらしいわ」
「お前ならどうする?」
「何が?」
「俺が他の女子と二人で出かけると言ったら」
今度は堀北が黙る。
少し長い。
「理由によるわ」
「俺と同じだな」
「ただし」
堀北がこちらを見る。
「必要もないのに行くなら、一度くらいは理由を説明してもらう」
「一度で済むのか?」
「内容によっては済まないかもしれないわね」
「怖いな」
「自業自得でしょう」
まだ何もしていない。
だが、その程度のやり取りが妙に心地よかった。
「でも」
堀北が少しだけ声を落とす。
「今のところは、あなたを信じているから」
一瞬、返答が遅れた。
それは恋人らしい言葉だったから、というだけではない。
堀北がそういうことを口にするのが珍しかった。
「そうか」
「何?」
「いや」
「何かあるなら言いなさい」
「嬉しいと思っただけだ」
今度は堀北が黙った。
「……最近、少し素直になったんじゃない?」
「俺が?」
「ええ」
「そうかもしれない」
以前なら、今の感情をわざわざ言葉にする必要はないと考えていたかもしれない。
だが、堀北には伝えた方がいい。
そう思うことが増えていた。
寮が見えてくる。
つないでいた手は、そのままだった。
今日分かったことが一つある。
嫉妬という感情は、相手を疑うこととは違うらしい。
堀北が何をするのかを疑っているわけではない。
それでも、他の誰かが自分より近い場所にいるように見えれば気になる。
その理由は、おそらく単純だ。
俺は以前より、堀北との距離を自分にとって特別なものだと考え始めている。
だから、その位置に別の人間が入る可能性を意識する。
合理的ではない。
だが、不快というほどでもなかった。
少なくとも、堀北も同じような違和感を覚えていると知った今は。
「綾小路君」
「何だ?」
「明日は?」
「一緒に帰るか?」
「……ええ」
「分かった」
堀北の手に、少しだけ力が入る。
俺も握り返す。
一緒に帰ることは、もう珍しいことではない。
それでも、明日もそうしたいと思う。
今は、それだけで十分だった。