ようこそ恋愛至上主義の教室へ ―綾小路清隆 IF Routes 作:ムール貝
堀北と付き合い始めてから、少しずつ変わったことが増えていた。
一緒に帰ること。
休日に二人で出かけること。
手をつなぐこと。
それから、自分でも予想していなかった感情を知ったこと。
変化として数えようと思えば、いくつも挙げられる。
ただ、変わっていないものもある。
そのことに最初に触れたのは、堀北だった。
「そういえば」
放課後、二人で寮へ戻る途中だった。
「何だ?」
「私たち、付き合い始めてからいろいろ変わったでしょう」
「そうだな」
「なのに、変わっていないところもあるわね」
「例えば?」
堀北が少しだけこちらを見る。
「呼び方」
俺は一瞬考えた。
「呼び方?」
「あなたは今でも私のことを『堀北』と呼ぶでしょう」
「ああ」
「私はあなたを『綾小路君』と呼んでいる」
「それがどうかしたのか?」
堀北がわずかに眉を寄せる。
「別に、不都合があるわけではないけれど」
「なら問題ないんじゃないか?」
「そういうことを言っているんじゃないわ」
最近、似たような返答をされることが増えた気がする。
どうやら俺は、恋愛に関する話題で問題の有無だけを基準にすると、堀北の意図からずれることが多いらしい。
「恋人同士なら、下の名前で呼ぶ人も多いでしょう」
「そうだな」
「だから、その……」
言葉が止まる。
「名前で呼んでみるか?」
俺が言うと、堀北の足がわずかに遅くなった。
「……今?」
「後日にする理由があるのか?」
「そういう問題じゃないでしょう」
「名前を呼ぶだけだ」
「それなら、あなたからやってみなさい」
なぜか少し強い口調になった。
「分かった」
そう答えたものの、すぐには言葉が出なかった。
堀北。
普段なら何の迷いもなく出てくる呼び方だ。
では、その代わりに何と呼ぶか。
答えは分かっている。
鈴音。
名前そのものは以前から知っている。
書類でも見たことがあるし、他人が口にするのを聞いたこともある。
ただ、本人に向かって呼んだことはない。
「……鈴音」
実際に声に出した瞬間、想像していたより感覚が違った。
名前が変わっただけだ。
相手も同じ。
距離も変わっていない。
それなのに、「堀北」と呼ぶ時よりも、わずかに近い場所へ踏み込んだように感じた。
堀北――いや、鈴音は数秒黙っていた。
「何だ?」
「……何でもないわ」
「呼べと言ったのはお前だろう」
「分かっているわよ」
返事がいつもより少し早い。
いや、逆か。
反応を隠すために早く返したようにも聞こえる。
「次はお前の番だな」
「分かっている」
鈴音が前を向く。
しばらく歩く。
だが、何も言わない。
「まだか?」
「急かさないで」
「名前を呼ぶだけだぞ」
「さっき少し間があった人に言われたくないわね」
見られていたらしい。
さらに数秒。
鈴音がこちらを見る。
「……清隆君」
今度は、俺の方が少しだけ反応に遅れた。
自分の名前を呼ばれること自体は珍しくない。
だが、「清隆君」という呼び方を鈴音の声で聞いたことはなかった。
それだけで、妙に耳に残る。
「君は残るんだな」
「私は普段からそういう呼び方でしょう」
「そうだな」
「何か問題でもある?」
「いや」
一度考えてから答える。
「お前らしいと思っただけだ」
「そう」
それで話は終わるかと思ったが、鈴音は一度こちらを見た。
「それと」
「何だ?」
「名前で呼ぶなら、『お前』という言い方も少しどうかと思うのだけれど」
「今さらか?」
「今だからでしょう」
確かに、鈴音と呼んだ直後に「お前」と続けるのは、少し不自然な気もする。
「善処する」
「便利な言葉ね」
「変えるとは言っていない」
「だから便利なのよ」
いつもの調子に戻った。
ただし、一度名前を呼んだことで、それ以前と完全に同じとは思えなかった。
その後も歩き続ける。
話題は特別試験のことへ移った。
そこまではよかった。
問題は、その途中で起きた。
「堀――」
口に出しかけて止まる。
鈴音がこちらを見る。
「何?」
「いや」
「今、堀北と言おうとしたでしょう」
「長く使っていたからな」
「まあ、それはそうでしょうね」
「お前も同じだろう」
「私は大丈夫よ」
そう言った直後だった。
「綾小路――」
今度は鈴音が止まった。
俺は黙って見る。
「……何よ」
「大丈夫じゃなかったな」
「仕方ないでしょう」
「そうだな」
「笑わないで」
「笑ってない」
「そういう顔をしているわ」
自覚はなかった。
ただ、少し面白いとは思った。
名前で呼ぶ。
それだけのことが、これほど意識しないとできないとは思わなかった。
「無理に変える必要はなかったんじゃない?」
鈴音が言う。
「言い出したのは鈴音だろう」
呼んだ直後、彼女の目がわずかに動いた。
まだ慣れていないらしい。
俺も同じだった。
「私は提案しただけよ」
「撤回するか?」
鈴音は少し黙った。
「……それは嫌」
返事は思ったより早かった。
「そうか」
「何、その反応」
「いや」
「何か言いなさい」
「なら続ければいい」
俺も撤回したいとは思わなかった。
慣れない。
少し言いづらい。
呼ぶ度に意識する。
それでも、以前の呼び方へ戻したいとは思わない。
自分でも理由は分かっている。
「一つ問題があるな」
「何?」
「学校ではどうする?」
鈴音が少し考える。
俺たちは交際を公表していない。
これまで「堀北」「綾小路君」だった二人が突然「鈴音」「清隆君」と呼び始めれば、気づく人間はいるだろう。
少なくとも、何らかの変化を疑われる可能性は高い。
「学校では今まで通りでいいんじゃない?」
「二人の時だけ変えるのか」
「そうなるわね」
「使い分ける方が面倒そうだな」
「そのくらい覚えられるでしょう」
「覚えられるかどうかの問題じゃない」
「じゃあ何?」
少し考える。
本来なら、呼び方は一つの方が楽だ。
場面によって変える合理的な理由は薄い。
それでも。
「いや。別にいい」
「そう」
二人だけの時だけ使う呼び方。
そのこと自体には、悪い印象はなかった。
むしろ。
他の誰かの前では使わない。
二人だけが知っている。
そう考えると、名前そのものよりも、その使い分けの方に意味があるようにも思えた。
翌朝。
教室へ入ると、鈴音はすでに席についていた。
目が合う。
「おはよう、綾小路君」
「おはよう、堀北」
昨日までと変わらない。
周囲にも何の違和感も与えない。
ただ、俺には少し違って聞こえた。
今まで、「綾小路君」は鈴音が俺を呼ぶ唯一の言葉だった。
今は違う。
二人だけになれば、別の呼び方がある。
清隆君。
昨日一度聞いただけなのに、思った以上に記憶に残っている。
午前中。
授業が終わる。
休み時間になり、鈴音が俺の席まで来た。
「綾小路君」
「何だ?」
「昨日話していた件だけれど」
いつも通りの会話。
いつも通りの呼び方。
だが、以前と同じではない。
不思議な感覚だった。
呼び方そのものは変わっていない。
それでも、その裏側にもう一つの呼び方が存在している。
それを意識しているのは、おそらく俺たちだけだ。
昼休みも、放課後までも特に変化はなかった。
そして、授業が終わる。
俺たちは時間を少しずらして教室を出た。
人気の少ない廊下まで来る。
鈴音がこちらを見る。
「……清隆君」
昨日よりも少しだけ自然だった。
「何だ?」
「呼んでみただけ」
「そうか」
「あなたは?」
「何が?」
「分かっているでしょう」
「鈴音」
呼ぶ。
昨日よりは間が短い。
「……何だ?」
「今のはずるくない?」
「何が?」
「何でもないわ」
またそれか。
二人で歩く。
今日も一緒に寮へ戻る。
手をつなぐ。
呼び方が変わったからといって、何か特別なことをするわけではない。
ただ、会話の中で何度か互いの名前を使った。
最初ほど意識しない。
それでも、完全に自然というほどではない。
「ねえ、清隆君」
「何だ?」
「少し慣れた?」
「最初よりは」
「そう」
「鈴音は?」
「同じくらいよ」
「なら、そのうち普通になるな」
そう言うと、鈴音は少し黙った。
「何だ?」
「別に」
「何かあるだろう」
「……少しだけ」
「何が?」
鈴音は前を向いたまま言った。
「普通になるのも、少しもったいない気がしただけ」
その言葉には少し驚いた。
俺も、似たようなことを考えていたからだ。
「俺もだ」
今度は鈴音がこちらを見る。
「同じことを考えていたの?」
「ああ」
「珍しいわね」
「そうか?」
「あなたは早く慣れた方がいい、と言いそうでしょう」
確かに、効率だけを考えるならそうかもしれない。
違和感がなくなる方が楽だ。
意識せず使える方が自然だ。
だが、今はそう思わなかった。
「慣れない方がいいとは思わない」
「ええ」
「ただ」
言葉を選ぶ。
「今だけしか感じないものなら、急いでなくす必要もないんじゃないか」
鈴音は少しだけ笑った。
「本当に変わったわね」
「そうか?」
「少しだけ」
寮が見えてくる。
いつもの分かれ道。
ここで手を離す。
「じゃあ」
鈴音が一度前へ進む。
数歩歩いたところで、振り返った。
「また明日、清隆君」
今度はほとんど間がなかった。
自然だった。
それでも、耳に残る。
「ああ」
俺も答える。
「また明日、鈴音」
鈴音は小さく笑って、そのまま歩いていった。
名前が変わっただけだ。
それで俺たちの関係そのものが変わったわけではない。
明日になれば教室で、俺はまた彼女を堀北と呼ぶだろう。
彼女も俺を綾小路君と呼ぶ。
それでも、二人だけになれば違う。
鈴音。
口にしてみれば、まだ少しだけ違和感がある。
だが、その違和感がなくなってしまうことを惜しいと思っている自分もいる。
いずれは自然になるのだろう。
それまでは、この感覚も悪くないと思った。