パタ、パタ、パタ……足音が静かに響く。
何も聞こえない。
誰もいない。
霧が濃くて、空気が冷たくて――不気味だった。
「…………ッ!」
口が勝手に動く。
ガチガチガチと歯が鳴っていた。
震えが止まらない、動悸も激しい。
眩暈がするほどに――恐怖を感じていた。
怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い――めっちゃ怖い!
ゴミ袋をしっかりと持つ。
そうして、何が何でも前だけを見て歩く。
前を、前を、そう、前だけを見れば、いい――そう心に念じる。
地図はしっかりと確認した。
ゴミ捨て場までは真っすぐ進めばいいだけだ。
迷う事なんて無い。
簡単であり、誰でも出来るお使いのような――悲鳴が響く。
「ひぃ!」
思わず声が出てしまう。
何処から聞こえたのかは分からない。
でも、確実に何処かの誰かが、し、しん……うぷ!
吐き気がする。
今にも胃の中のものをぶちまけそうだ。
それどころか尿意までしてきて、全てを出したい衝動にかられる。
女としての尊厳なんて気にしてられない。
それほどまでのストレスが今の私の心を苦しめる。
お金は欲しい。
すごく欲しい。
今すぐにでも欲しかった。
あとちょっとでクズ共の借金をチャラに出来るんだ。
『黒美! またな!』
『元気でねぇ!』
『え?』
あの日、小学校3年になったばかりの子供を置いて家を出て行ったクズ共。
引き取ってくれた父方の祖父母も私の事を厄介そうにしていた。
大学へは自力で行き、卒業すれば自分だけの力で生きていこうと誓った。
明るい未来が待っている……そう錯覚していた。
『柳黒美さんだねぇ?』
『え?』
突然、現れた強面の男達。
一枚の紙きれを見せてきて、その時に、クズ共が多額の借金を残していったのを知った。
当時の就職したての私では払いきれない額だった。
アイツらは私の足元を見てきて、無理な返済プランを押し付けてきて……結果、こんな危ない仕事を再び受ける事になった。
体で払うなんて真っ平だ。
マグロ漁船もカニ漁船も繊細な私には向いていない。
だからこそ、消去法で……何故か一番危ない仕事をしている。
何で、どうして……私の人生はついていないのか。
「……っ!」
憎い、憎い、憎すぎる……クズ共が、社会が、全てが!
大学を出て、教員免許を取り。
エロガキ共に毎日毎日、数学の授業をつけてやった。
アイツらの視線は何時も何時も胸に向けられていた。
あんな奴らは可愛い教え子でもなければ、可愛いお子さんでもない。
盛りのついた猿であり、ゴブリンのようなものだ。
汚らわしい欲望の権化でしかない。
しかし、卑猥な視線如きで今の仕事を失う訳にはいかない。
折角、奨学金制度までフルで利用してとった資格だ。
腐っても公務員であり、安定した収入はある。
が、それでも――足りないのよぉぉ!!
欲しい、金が欲しい。
無限に欲しい。
欲しいものは山ほどある。
怖い金貸しに借金なんて作っていなければ、今頃は旅行三昧だっただろう。
推し活にも全力であり、ライブにだって行き放題だ。
それが出来ない状況だからこそ――こんなヤバい仕事を受けてしまったんだ。
「う、うぷ! 気持ち悪い……うぷ!」
悲鳴やら背中を這う薄ら寒い何かで今にも吐きそうだ。
ストレスはマックスに近く、視界がブレている。
足取りがおぼつかないが、絶対に振り向きはしない。
振り返れば最期であり――背中にぴとりと何かが当たる。
「ひぃぃぃ!」
咄嗟に振り返りそうになった。
が、ギリギリで耐える。
背中に直接、何かが触れていた。
濡れていて、冷えていて、ケタケタと笑っていて――恐怖だ。
「ネェ、ネェ、ネェェェェ……ネェェ?」
「は、は、は、は、は、は、は……へ、へひ、ふ、ふひ」
耳元で囁く何か。
生暖かい吐息であり、体がぞくぞくとする。
子供のようで、大人のような声。
女のようで、男のような声。
老人か、動物か、全く異なる何かか。
分からない。
何も、分からない。
色々なものが混ざったかのような声だった。
声だけではまるで想像のつかない何か。
恐怖、戸惑い、混乱――違う。
恐怖もそうだが、心を満たそうとしているのは――好奇心だ。
「……っ」
ごくりと喉を鳴らす……見たい。
振り向きたい、何であるか確かめたい。
めちゃくちゃ気になる。
さっと見て安心したいと思っている。
何でかは分からない。でも、見なければストレスがどんどん増していく気がした。
私の背に触れる何かはずっと同じことを呟く。
私は重い脚を引きずりながらそれでも前へと進んでいった。
一歩、一歩、進んでいくごとに後ろの方から聞こえる声が――増えていく。
聞いた事も無い獣の声。
聞いた事も無い何かの音。
私の前から姿を消したクソ野郎共。
私が子供の時に好きだった芸人の声。
私が、私が、私が私が私が私が私私私私私私私――気が狂いそうだった。
「へ、ひ、ひぅ、ふ、ぁ、へ」
「「「ネェェェェェェェネェェェェェェ」」」
無数の音、無数の声。
後ろの方でずっと聞こえる。
耳を貸しちゃいけない、気にしてはならない。
しかし、耳を塞いでもハッキリと聞こえてくる。
気になる、気になる、気になる気になる気になる気になる気になる……あ、あぁ。
「へ、へへ、ふひ、ふ、ふき、い、一回、一回だけ、見れば、ちょっと、だけ」
「「「ネェェェネェェェェェネェェェェェ?」」」
首がゆっくりと後ろへと向いていく。
足は止まっていた。
が、ゴミを捨てに行くよりも今は後ろの何かを確認したい。
心から湧き上がる好奇心が恐怖を上回っている。
抗えない衝動が心を支配しようとしていた。
私の体はそれを受け入れている。
涙と鼻水を垂れていく。
振り返ればきっと私は終わる。
私の人生は終了だ。
頭では分かっているのに、それでも体は言う事を――
『こっちを向くんじゃねぇよ――ゲロ豚がぁ♡』
「――み、やび、様?」
私の脳内に響き渡る――超絶なるイケボ。
薄れかけた意識が覚醒していく。
振り返りかけていたが寸でのところで前に向き直った。
私は今、確実に……雅様が、私を救ってくれた。
「そうだ。私は、こんな、ところで……雅様、私に……このゲロ豚に、力をぉぉ」
「「「ネェェeeェェネェェeェェNeぃぃぃeeェェェeェェェ!!!!」」」
謎の声が強く聞こえる。
私の心臓は激しく鼓動する。
またしても、私の心が振り返るように脳に命令を下そうとしていた。
私はそれを感じながら、ポケットに大切に仕舞っているボイスレコーダーを――再生した。
《くっせぇなゲロ豚ぁぁ! おい、お前、この俺様の前で――きったねぇ面さらしやがってよぉ♡》
「「「――――e」」」
雅様の低音俺様系イケボが響き渡る。
瞬間、強い吐き気が消えてなくなり――子宮が疼く。
『生きてて恥ずかしくねぇのか? たく、だらしねぇ体だな――たっぷりと、しごいてやるよ♡』
「「「――――e」」」
雅様のボイスをマックスで再生する。
普段であれば絶対に出来ない事だが。
この状況を乗り越えるならば、これしか方法は――ないッ!
雅様の私に対する情熱的なお言葉が周りに響く。
その声が、私の脳内を甘くとろけさせるように支配していく。
他はただの環境音であり、微塵も興味はない。
私の世界……いや、私と雅様だけの甘くてとろけてぐスイートな……ふひ♡
「えへ、えへ、ぐひ、ぐひひ……み、雅様ぁぁ♡」
『気持ちの悪い声で鳴くんじゃねぇよ――雑魚がぁ♡』
「うひぃぃぃぃぃ!!!♡」
「「「――――」」」
雅様との幸せ領域を展開する。
何か変な音も聞こえるけど……どうでもいい。
私はゴミ袋を両手で抱える。
そうして、スキップをしながら脳内で勝手に雅様とのお散歩を想像する。
「私は犬で……いや、汚い豚でぇ……雅様が、ご主人様でぇぇ♡ ぐふ、ぐひ、ぐふひぃ!」
『おせぇんだよ。たく、クズでノロマで不細工で……俺様がいなけりゃどうしよもねぇんだからなぁ♡』
「おほぉぉぉぉぉぉ!!!♡」
「「「――――!!!」」」
脳汁が半端じゃない。
大音量で流しているせいで脳が――震えるぅぅぅ!!!
ドーパミンがドバドバであり、快楽物質が半端じゃない。
下着が濡れるのを感じながら、私はだらだらと鼻血を流す。
雅様となら、例えどんなに悪辣な環境だろうとも――幸せだぁぁ♡
「あぁぁしゅきぃぃぃ♡ 一生、お仕えしますぅぅぅ♡」
耳が孕んでしまう。
雅様の魔法のようなお声を聞くだけで想像妊娠も楽勝だろう。
雅様が願うのなら何だってする。
例え、この命であろうとも捧げられる。
私はそう考えて――
『黒美♡ 俺様を見てくれ♡』
「………………あぁ?」
脳内に響く、雅様の声。
甘く囁くような声で、私の名前を確かに言った。
背後に気配を感じる。
一度だけお会いした時に感じた雅様の薔薇の香りであり、後ろに立っているとでもいうのか。
心臓がドク、ドク、ドクと鼓動する。
私は足を止めた。
すると、後ろにいる何かは私の首に触れて来た。
まるで、前戯でもしているようななまめかしい触り方だ。
『黒美♡ さぁ俺様を』
「――失せろッ!!」
『……!?』
殺気を飛ばす。
本物じゃない、出来の悪い偽物だ。
私はそのまま偽物を無視して歩き出す。
すると、ゴミ捨て場が見えた。
必死に偽物が叫ぶが無視。
私はそのままゴミを――投げ捨てた。
瞬間、偽物の気配は消えてなくなった。
再び、本物の雅様のイケボが響き渡る。
私はペッと唾を吐き捨てて家に戻っていく。
「雅様が豚の名前を? ファック……解釈違いにもほどがあるだろぉボケがぁ」
忌々しい存在に心の中で中指を立てる。
今までは恐怖しか感じなかった何か。
雅様の物まねをした瞬間に恐怖は消え去った。
アレはただのにわかだ。
勝手にそう決めつけながら、私は雅様の本物の声を味わう。
愛のある罵倒で、愛のある躾だ。
痛みの中に、ほんの少しの優しさ。
雅様にしか出せない本物のドSの魔力。
声だけで豚を欲情させる魔性の存在で――
《誰の許可で、俺様以外にその汚ねぇ面を見せてんだ? はは――教育、してやるよ♡》
「おほ♡」
お気にのボイスが流れた。
そのせいで、腰が砕けそうになる。
がくがくと足を震わせながらも私は何とか歩く。
絶対に、絶対に借金を返して、私は本物の雅様に――会いに行きますぅぅ♡