腕時計の音が……妙に響いている。
カチ、カチ、カチと……まぁ……いいか。
「……」
何もする事が無く。
ただ天井の鏡を見つめていた。
天井に映る俺は寝転がっていて、ジッと俺を見つめている。
腕時計を確認して……そろそろ1時間か。
24時であり、まだまだ先は長い。
眠くなっている気はするが、逆に静か過ぎて目が冴えていくような気もする。
何とも変な感覚で……まぁいいか。
俺は腕時計の音を聞く。
ただ黙って、時間が経つのを待ち――――俺が笑った。
「……?」
今、確かに笑った。
錯覚かと思ったが……笑っている。
ニヤニヤとしていた。
今の俺はにやけてはいない筈だ。
そっと顔に触れてみるが……分からないな。
手を横に戻す。
そうして、鏡の中で笑っている俺を見つめる。
言葉は発しない、俺と同じように仰向けで寝ている。
天井の鏡の中の俺はずっとにやけていて……いや、違う。
アレは……“俺じゃない”。
俺の姿をしているだけだ。
全く同じ姿をしているが、確実に俺ではない。
だったらアレは何かと思考し――
『よぉ……今……ハッピーか?』
「……はい」
鏡の中の俺の姿をした何かが語り掛けて来た。
完全に俺の声で、恐ろしいまでの模倣力だと思った。
ハッピーかなんて意味不明な問いだと思った。
別に幸せでも不幸でもないが……まぁ、うん。
取り敢えずは、ルール通りに肯定しておく。
すると、鏡の中の俺は嬉しそうにしていた。
『お前はぁ……俺、だよな?』
「……はい」
本当は否定したい。
が、否定する事はルール違反だ。
だからこそ、気持ちとは違う事を言った。
すると、何かはやはり嬉しそうにしていた。
『なら、お前は……誰だ?』
「俺は……井上隆です」
『そうだ。そうだよなぁ……井上。井上隆……俺もお前だ。なぁ?』
「はい」
違う。
俺は井上隆でも、貴方は違う。
姿形だけ同じで、中身は全くの別物だ。
――が、やはり否定する事は出来ない。
否定すれば、その瞬間にルール違反となる。
違反者がどうなるのかは今まで散々見て来た。
どれだけ納得が出来ない事でも、ルールに従うのは当たり前だ。
今の俺には肯定する事しか出来ない。
だが、別に肯定し続けるだけなら別に何ともない……と、思ったが……妙、だな?
「……っ」
俺は妙に居心地が悪く感じた。
だからこそ、体を起き上がらせる。
座れば、今度は目の前の鏡の中の俺がニヤニヤとして俺を見る。
逃げ場無しであり、これはひょっとすれば……危ないかもしれない。
ジッと鏡の中の何かを見つめる。
すると、それは俺の目を見ながら語りかけて来た。
『俺はぁ……人が嫌いだ。そうだよな?』
「まぁ……えっと……はい」
『はは、人が嫌い……慣れ合うのはもっと嫌い。だな?』
「…………はい」
別にそんな事は思っていない。
どうでも良い事で、何故、そんな事を聞くのか不思議で堪らない。
俺の姿を真似た何かは言葉を続ける。
そうして、一定の事を話し終えれば、一言――尋ねて来る。
『――お前は誰だ?』
「……井上隆です」
目的が分からない。
これに何の意味があるのかも不明だ。
まるで、昔に聞いた狂気的な実験に似ている。
その実験に参加した者の末路は思い出せないが……まぁどうでもいい。
鏡に映る俺はずっと笑っていた。
何が嬉しいのか、何が面白いのか。
目を逸らそうとも、何かはずっと俺を見ている。
全ての視線が俺に向けられているようで、嘲笑われているようで――“その顔が歪んでいくような気がした”。
#
何かが言葉を発し――俺は肯定する。
思ってもいない事で、考えてもいない事でも――俺は肯定した。
肯定し、肯定し、肯定して……否定が出来ない。
男は何度も聞いてきた――“お前誰だ”、と。
最初はハッキリと答えられたその問いに、段々と間があくようになった。
無感情に肯定し続けていて問いに言葉が淀む。
鏡に映っているのは間違いなく俺の姿の筈だ。
それなのに、段々と自分が自分を認識出来なくなっている。
ぐちゃぐちゃでどろどろで。
醜くおぞましく、気持ちが悪く……吐き気がした。
強い吐き気であり、心臓がドンドンと鼓動しているようだ。
頭痛もして耳鳴りもする。
気づけば体を丸めて座っていた。
声を聞きたくない、自分の声に吐き気がする。
いや、これは本当に俺の声なのか。
分からない、何も分からない……理解したくない。
「……っ」
俺は耳を塞いだ。
強く、強く、耳を両手で覆う。
が、何かの声はハッキリと聞こえていた。
お前は誰だ――お前は誰だ――お前は誰だ――
お前は誰だ、お前は誰だ、お前は誰だ、お前は誰だ、お前は誰だ――
お前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だ――
オマエハオマエハオマエハオマエハオマエハオマエハダレダダレダダレダダレダダレダダレダダレダ――
ダレダレダレダレダレダレダレダレダレダレダレダレダレダレダレダレダレダレ――――
『オマエハ――ダレダ?』
「……っ!」
大きく目を見開く。
そうして、口元を抑えるが――盛大に吐き出す。
びちゃびちゃと胃の中のものが口から流れ出す。
止まらない、止められない。
鏡を汚していき、それでも尚、止まらない。
吐いて、吐いて、吐いて、吐いて…………止まった。
吐しゃ物で鏡の一部が見えなくなる。
これで少しは視線が消える、そう思って――吐しゃ物が消えた。
「……」
まるで、地面に水が染み込むように。
綺麗になくなって――視線が合う。
『気持ちが悪いか? 死にたいのか? 此処から早く……出たいんだろう』
「……っ」
肯定しないといけない。
だが、肯定すればルールに違反する。
俺は少し考えて……。
「……ですが、勤務時間まではいます」
『……そうか、そうか……なら、俺から視線を逸らすな』
「……は、い……」
ギリギリだった。
肯定しているようで、明確に返事はしない。
あくまでも、勤務時間までは残ると伝えた……何とかなったか。
意識が薄れかけている。
胃の中のものをぶちまけても尚、不快感が拭えない。
精神がすり減り、ヒューズが飛ぶように、今にも気絶しそうだった。
意識はそれでも、まだ何とか残っていた。
薄く開いた目で周囲を見れば……これは、煙、か?
辺りに薄く広がる煙。
白っぽい煙であり、それらが揺れて俺の体に触れていた。
髪を撫で頬を撫で、体に触れて吐息のように顔に当たる。
呼吸をし、体に吸い込む。
すると、体の中で何かが蠢いているような気がした。
まるで、何かが入って来るような……いや、違う。
俺という存在が塗り潰されてされていく。
心というキャンバスを真っ黒に塗られて行くような……おぞましい。
身の毛もよだつような感覚だった。
得体のしれない何かを感じた。
不気味で、気持ちが悪く、ぞっとして……あぁ、恐怖だ。
俺は今、今まで以上に……恐怖を感じていた。
寒くも無いのに手足が震える。
歯がガチガチと鳴っていた。
抑えようにも溢れ出して来る。
蛇口が壊れて水が噴き出すように…………危険だ。
「……っ」
どれだけの時間が経ったのか。
どれだけの言葉を肯定してしまったのか。
俺は腕時計にゆっくりと視線を向けて……え?
経過した時間は…………“たったの1時間だった”。
もう終わってもいい頃合いだと思っていた。
それなのに、経過した時間はたったの1時間。
まだまだ続く、この終わりの見えない地獄は……まだ続いている。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
呼吸が乱れる。
大粒の汗が滴り落ちて行った。
呼吸が苦しい、息がつまりそうだ。
酸素が足りない、このままでは窒息死する。
俺の膨れ上がる恐怖に比例するように煙が濃くなっていく。
煙が俺の体を包みこもうとしていた。
俺は体を両手でかき抱く。
早く……早く……この部屋から、一刻も早く――――
『――ニゲルナ――』
「……!」
声が頭に響く。
誰だ、誰が俺に――鏡の中の何かが不気味に笑った。
「お前が――殺したんだな?」
「……何、を?」
言葉の意味が分からなかった。
何を言っているのか……でも、心臓が強く鼓動した。
「お前が殺したんだ。大勢の人間を殺したんだ。救えた筈だ、生かせた筈だ。だが、お前はそれらを見捨てた……そう、お前が殺したんだ」
「それ、は」
「否定するのか? 拒絶するのか? 学び舎でも、社会に出ても、試練を受けている時でさえも――お前は自分の役目を優先したんだ」
「……!」
何かが叫ぶ。
瞬間、俺の頭に昔の記憶がフラッシュバックする。
高校で、偶々見かけたカツアゲの現場。
校舎裏でガラの悪そうなグループに絡まれた気弱そうな男。
震える手で財布を差し出していた。
男の財布を奪い、不良たちは足りないと男に平手打ちをした。
男は涙を堪えながら、遠くから見ていた俺に助けを求めるような視線を向けていた。
あの時、俺が声を掛けていれば変わっていた。
が、俺は助けを求められなかったからと判断しその場を離れた。
どうしようもなくなれば声を掛けて来るだろう。
そう思って……その男は自殺した。
名も知らない。
話した事も無い。
ただクラスが同じなだけだった。
誰とも話しておらず、俺と同じように孤独な人間だと思った。
が、彼にはあの不良の先輩たちが付きまとっていた。
彼はずっと笑っていたが、その目は周りに向けられていた。
助けてくれ、誰か手を差し伸べてくれ。
誰であろうとも気づいていた筈だ。
俺でさえもそうなんじゃないかと思っていた。
だが、周りは見て見ぬふりをして、俺自身も彼が俺に声を掛けてきてくれなかったからと……だから、彼は死を選んだ。
自室で首を吊り、ニュースでも報道されていた。
遺書によって不良たちは世間から大きくバッシングを受けた。
SNSにも晒されたと聞いた。
あの時、彼を見捨てた俺もそうなるのかと思ったが……遺書に俺の名は無かった。
彼にとって俺はどうでもいい存在だった。
助けてくれないのは当たり前で、どうしようも無い事だと理解していた。
だからこそ、遺書に俺の事を書かなかったのか――
『――違う。それはお前の勝手な妄想だ』
「……そうだ」
これは俺の妄想でしかない。
実際は俺の事を恨んでいたかもしれない。
もしも、あそこで俺が彼を助けていれば彼は今も生きる事が出来たかもしれない。
社会に出てもそうだ。
会社に面接しにやって来た新卒たちに俺は何も言わなかった。
彼らはいい大学を出ていて希望に目を輝かせていた。
まだ入る事が決まってもいないのに、廊下ですれ違った俺にも笑顔で挨拶をしてくれた。
何も知らずに微笑む彼らに対して俺は……受かると良いねと言っただけだ。
ただそれだけであり、俺は彼らを――殺した。
会社へ入った新人たちは、一月も経たずに心を壊された。
個性があり、それぞれに趣味を持っていた。
が、結局、俺たちと同じように心が死に絶えて……俺が殺したんだ。
試練でもそうだ。
助ける事が出来た筈だ。
救う事が出来た筈だ。
もっと一緒に考えれば、より大勢の人間が生還できた。
それを俺は自分の仕事を優先して――――あぁ、そうだ。
『お前が――殺した』
「俺が――殺した」
全部、全部全部全部全部全部全部全部全部全部――――“俺の罪だ”。
俺が殺した。
俺がやったんだ。
助けなかったという事は、見殺しにした事と同じだ。
行動が出来て、考える事だって出来ていた。
それでも俺は何もせず、ただ自分の事にだけ集中していた。
どうでもいい、何とかなる。
俺には関係ない、本当に困っていたら声を掛けて来る……人殺しだ。
彼らの道を消したのは間違いなく……俺だ。
殺した、殺した、殺した殺した殺した殺した殺した殺し殺し殺し殺し殺し殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺――――
『お前は憎かったんだ。こんな地獄に産み落とした親が、お前を正しく評価しない人間共が、良いように使ってぼろ雑巾のように捨てようとした社会が、そして、お前を今も利用して利益を得る存在たちが――憎くて堪らないんだろう?」
「俺は、憎い……憎いんだ……全てが、何もかもが……あぁ、憎いのか……そうだ、そうだ」
『憎くて憎くて憎くて……だから、周りの奴らも同じ目に遭えばいい……そう思ってたんだ』
「そうだ……俺は……同じ苦しみを……痛みを、分かって欲しかった……理不尽で、残酷で、醜悪な……そうだ、そうだ」
俺はゆっくりと立ち上がる。
そうして、拳をギュッと握った。
見れば、鏡の中には――俺はいない。
気色の悪い笑みを浮かべる化け物ばかりだ。
ケタケタと笑っていて無数の視線が俺を突き刺していた。
俺を嘲り、俺を蔑み、俺を笑いものにするおぞましくて醜い――怪物たちだ。
炎が見える。
パチパチと薪を燃やし、煙が充満していく。
業火の中で、怪物たちが口を大きく歪めて笑っていた。
俺を見ている。
俺をずっと見ている。
嘲って、侮辱し、見下し、馬鹿にして――笑っている。
脳内に声が響いた。
強く、強く、激しい叫び声。
これは俺の声だ。俺自身の声だった。
たった一つの答え、俺の心に満ちていく――“殺意の声だ”。
『殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!』
「殺す……殺す……全部、殺す……そうだ、殺して、やる。は、はは、ははは」
俺は笑う。
全部、消さなければならない。
此処にいる全ての怪物を殺さなければならない。
そうしなければ、俺はずっとこの世界に囚われ続ける。
この身を狂わせる不快なものも。
全部、怪物たちのせいだ。
こいつらがいるからこそ、俺は平穏を手にする事が出来ない。
楽しむ事も出来ない、笑う事も出来ない。
全部、全部全部全部全部全部――“化け物たちが悪いんだ”。
煙を纏う怪物たちが声をあげて笑いだす。
姿を持たぬ異形の怪物たちだ。
四方八方から俺を見ながら気色の悪い声で笑い続ける。
「ふぅ!!!」
俺は腕を振りあげる。
そうして、声に従うように目の前の化け物を――――瞬間、右手が勝手に動いて俺の首を絞める。
「あがぁ!?」
『殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!!!』
叫ぶ。
頭の中で殺意が叫んでいた。
俺は右手を剥がそうとした。
が、右手はギリギリと俺の首を絞め続ける。
吐き気や頭痛が混ざり合う。
空気が吸えずに、泡が出て来る。
俺は溜まらずその場に横たわって暴れた。
必死になって抵抗する。が、手は全く力を緩めない。
死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ――あ、れ――何だか――気持ちが、良く――
「――――」
意識が遠のいていく。
このままいけば、確実に死ぬ。
が、不快感や恐怖も感じない。
ただ気持ちよくなっていく。
薄れゆく意識の中で、目の前に何かが薄っすらと見えた。
白い光を放つそれは、まるで天使や女神のように見えた。
それは俺の首にそっと手を触れていて、微笑んでいるようだった。
恐ろしく整った顔立ちに、聖母のように優しく微笑んでいる。
彼女は俺の首を撫でて――
『貴方は――誰?』
清らかな声が静かに心を満たし――右手が放れた。
「……! けほ! えほ! おえぇ……はぁぁはぁ、はぁ、はぁ……は、はは」
右手がパッと離れた。
瞬間、空気を肺一杯に吸い込んだ。
消えかけていた意識が急速に戻り、吐き気や頭痛が何故か消えていた。
死にかけた事で逆に思考がクリアになっていた。
俺は自らの右手によって殺されかけた。
そして、あの光を纏った女性は恐らく……貴方は誰か。
俺は笑う。
今まで散々問いかけられた言葉だが。
あの女性の聞き方はそれらとはまるで違う。
お前は何者だ、お前は何故此処にいる。
何時までそうしているのか、さっさと起きて――思い出せ。
俺はくつくつと笑う。
面白くて、面白くて……笑ってしまう。
俺が独りで笑っていれば、何かが囁く。
『……どうした? 殺さないのか? 殺せよ。殺したいだろう?』
「……はい、殺したいです。とても」
俺はゆらゆらと立ち上がる。
そうして、手の甲で口元を拭う。
何かは俺の顔で笑っていた。
俺は不気味に笑うそれを――――無感情に見つめる。
「殺したいです――無能な自分を」
『……無能? お前が? は、はは……そうだ。お前は無能だ! だから、お前が死なせたんだ!』
何かは嘲笑う。
俺を罵り辱めて来る。
全て俺が悪く、全て俺の罪で――俺は静かに言葉を発した。
「はい、死なせました……それが何か?」
『……!』
何を当たり前の事を言っているのか。
俺が無能だから他の人間が死んだ。
それは紛れもない事実であり、否定する事じゃない。
俺が優秀であれば死ななかった。
俺がもっと柔軟に対応出来ていれば生きていた人間もいただろう。
自殺したクラスメイトも、俺から動いていれば生きていた。
面接を受けに来た子たちにも、真実を話していればその後の道は変わっていた。
試練の時も、俺から歩み寄り適切なアドバイスをしていれば……あぁ、そうだ……“そうだったかもしれない”。
しかし、それは……。
「結果論、たらればの話で……終わった事なんてどうでもいいじゃないですか」
『は、はは、ははは……あぁ、そうだ。終わった事だ。そんな事はどうでもいい。なら――未来はどうだ?』
「……!」
鏡の中の俺の姿が変わっていく。
あっという間に姿が一変し……化け物のような姿になる。
『これがお前の未来の姿だ』
「俺の未来の……あぁ、そうなんですか」
見るもおぞましい姿をしていた。
人間と呼べる部分は少ない。
完全に人語を話すだけの怪物だ。
歪で、醜悪で、不快であり……どうでもいい。
俺はその姿を見つめて――首を傾げる。
「――で? それが何か?」
『……怖くないのか? 恐れないのか? 未来のお前の、お前自身の結末に――興味がないのか?』
「興味がないというよりは……進んでいれば勝手にそうなるだけじゃないですか。それを一々考えても――仕方なくないですか?」
俺は告げる。
未来で俺が化け物になったとしても別にどうでもいい。
それは未来の話であり今の俺には関係ない。
未来で起きる事は未来の俺が考えればいい。
過去についても同じであり、過去の俺が何かを選択して今の俺になっているのであれば――それでいいじゃないか。
『お前は……自分の選択を後悔しないのか』
「はい」
『お前は、その選択で大切な存在を失っても……後悔しない』
「はい」
『ならば、それで星が滅んだとしても――お前はそれでいいのだな』
「はい」
俺は全て肯定する。
俺は自分の選択を後悔しない。
例え、その選択でマイケルや柳さん。
ルミ先輩や斎藤さんたちなど、俺にとって親しい人間が死んでも――俺は後悔しない。
「後悔する事って……無駄ですよね?」
俺は告げた。
堂々と迷いなく――ハッキリと。
『は、はは、ははは……面白い。面白い……井上隆か。これが井上隆なのか。そうなんだろう?』
「はい。俺は――井上隆です」
俺は井上隆だ。
誰でもない八咫烏の仕事をするただの人間だ。
仕事を果たす事を教えられて、自らの選択を悔いるなと信じて来た。
無能で、利用されるだけの人間で、お客様にとっては駒でしかない――
「――ただの人間ですよ」
『ハハハハハハハ!!!!!』
鏡の中の何かが一斉に笑い出す。
狂気的であり、頭が激しく痛みを発した。
聞いているだけで視界が赤くなり、耳からも何かが垂れていた。
が、俺は倒れる事も座る事もしない。
ただその場に立って、ただジッと鏡の中の――お客様を見つめた。
#
アレから、何かはずっと語り掛けて来た。
おぞましい質問に倫理的にどうかしていると思える内容。
俺という人間を塗りつぶそうとする事ばかり言ってきた。
だからこそ俺は――全て肯定した。
全てを肯定した上で、合理的な思考へと繋げた。
人を助けないのは、仕事を優先する為に。
家族や友人すらも切り捨てるのは、必ず仕事をやり遂げる為に。
裏切る事も見捨てる事もあるだろう。
が、それは相手が俺を過度に期待するからこそ生じるものだ。
否定しない。
全てを肯定し、俺自身の答えに繋げる。
お前は誰だ。俺は――井上隆だ。
俺はずっとそれを言い続けた。
何度問われて、何度、おぞましい姿を見せられようとも。
俺は俺であり、今の俺が変わる事など――ありはしない。
ただ、鏡の中の存在を見つめる。
そうして、全てに答えて――俺はいつの間にか宮殿の扉の前に立っていた。
「…………あぁ」
仕事が終わった。
そう認識した。
隣にはAさんが立っている。
その手には何も持っていない。
が、代わりに俺たちを案内してくれた女性が高そうな箱を持っていた。
彼女は俺を見つめる。
その目は輝いていた。
熱のようなものを感じる。
無言で俺をジッと見つめて、ゆっくりと箱を差し出してきた。
「井上隆様、どうぞ、此方を」
「あ、はい。どうも」
俺はそれを受け取る。
すると、女性は箱を受け取った俺の手にそっと手を重ねて来た。
「ん?」
「また、えぇ、また……次があれば、是非。主様が貴方様の事を大変……気に入られたようで……その時は、より貴方様に相応しい舞台を……いえ、仕事で無くとも。死んだとしても、我らが宮殿に貴方様の魂を」
「――それ以上はお許しを」
「…………あぁ、いたんでしたね。申し訳ありません。少々、はしたない真似を……井上様。よろしければ、此方も」
「ん?」
女性は俺に何かを差し出してきた。
見ればそれは……指輪か。
赤い宝石がはめ込まれた銀の宝石。
宝石を見れば、中で何かが揺らめいていて……炎?
まるで、中で炎が渦巻いているように見える。
不思議な指輪であり、俺はそれを取り敢えずは受け取っておいた。
「貴方を悩ます者、障害となる者がいれば……願って下さい」
「え? 何をですか?」
「……悩みが消える事、障害が焼かれて灰となる事を……ふふ」
「え、あ、はい」
「……」
俺は指輪をポケットに入れた。
まぁ使う事は無いと思うが……どうでもいいか。
「それでは、井上様、帰りは私がお送りしますので」
「あ、はい。お願いします」
「井上様。それでは、またの――再会を」
女性は深々と頭を下げる。
俺は箱をしっかりと持ち、Aさんと共に車に乗り込む。
Aさんはそのまま慣れた手つきで運転を始める。
宮殿内から出て、門を超える。
そうして、赤い砂漠の中を疾走すればまたしてもハイエナのような顔をした人型がさ迷っていた。
人間たちを喰っている者もいたが……何だ?
「「「――――」」」
「……」
急に彼らは吠え始めた。
まるで、俺たちを見送っているように感じたが……まぁいいか。
車は進み、再びトンネル内を進む。
真っ暗なトンネルであり、進んでいけばまた霜が出る。
見れば、手形と……笑っているな。
楽しそうに笑った顔をしていた。
俺はそれを一瞥し――車はトンネルから出た。
「……お?」
見れば、お日様が出ている。
空は雲が消えていて、すっかり晴れ模様だった。
あんなにも激しかった雨も風も無くなっている。
そんなに急に天気が良くなるものかと思って……。
「……ありがとうございました」
「え? 何がですか?」
「……これからも、よろしくお願いします」
「え、あぁ……此方こそ?」
Aさんが急にお礼を言ってきた。
聞いてみたが、よろしくと言われてしまった。
俺はどういう意味かと考えてみたが……うん。
「まぁ……いいか」
「……ふっ」
俺は窓の外を見つめる。
“不気味なほどに晴れた空”を見つめて……俺は小さく欠伸をした。