7話完結
幼いころ、空になった瓶の底から世界を覗いたことがある。
厚いガラスを通して見る庭は輪郭を崩し、真っ直ぐ伸びていた木の幹は不自然に湾曲し、少し手を動かしただけで向こう側の景色が大きく揺れた。見慣れているはずの自宅の庭さえ、自分の知っている場所とはまるで違うものに見えたことを、私は今でも覚えている。
子供だった私は、その景色を面白がるより先に少しだけ怖くなった。
普段は疑うことすらない世界の形が、薄いガラスを一枚挟んだだけで簡単に崩れてしまったからだ。
もしかすると、私がいつも見ている景色の方が正しいという保証など、どこにもないのかもしれない。
あのころの私は、そんなことをぼんやりと考えていた。
姉さんには、世界がどのように見えているのだろう。
誰かが笑えば、その理由を考える。誰かが泣けば、その場で求められている言葉を過去の経験から探し、相手が喜ぶと知っていることをすれば、自分も同じように笑う。
姉さんは、そうやって生きている。
直感や共感といった曖昧なものよりも、自分がこれまで見てきた無数の反応を積み重ね、それらを結びつけることで人間を理解してきた。
それなら、経験と予測によって世界を組み立てている姉さんの方が、むしろ私たちより明瞭な景色を見ているのかもしれない。
相手の感情を分かったつもりになりながら、実際には自分自身の感覚を重ねているだけの私たちの方こそ、瓶の底から人を覗いているのではないだろうか。
そんなことを考えるようになったのは、もう少し大きくなってからだった。
「ナギサ」
名前を呼ばれ、私は振り返った。
入学式を終えたばかりの校舎にはまだ慣れない匂いが残っており、廊下の向こうでは新入生たちが友人を探しながら行き交っている。
人の流れから少し離れたところに、姉さんが立っていた。
よく似た顔に、私より短い髪。
双子だと知らない人から見ても血縁があることくらいは分かるらしく、幼いころから私たちは何度も姉妹なのかと尋ねられてきた。
「姉さん。どうしたんですか?」
「これ」
姉さんは背中へ隠していた手を前へ出した。
小さな箱だった。
「プレゼント」
「私にですか?」
「うん。入学祝い」
姉さんは笑った。
「ナギサ、いっぱい頑張ったもんね」
その言葉には、姉が妹の努力を労うときにふさわしい優しさがあった。
どこまで意識してその言葉を選んだのかは分からない。
「開けても?」
「もちろん」
箱を受け取り、細いリボンを解く。
中に入っていたのは、淡い色の花を模した髪留めだった。
派手なものを好まない私でも使いやすいように考えたのか、装飾は小さく、落ち着いた色合いでまとめられている。
「綺麗ですね」
「でしょう?」
「姉さんが選んだんですか?」
「もちろん。結構悩んだんだから」
「それは少し意外です」
「失礼だなぁ」
姉さんは口を尖らせた。
その顔も自然に見える。
けれど、姉さんが本当に少し不満だったのか、冗談を言われたときにはこういう顔をするものだと知っているからそうしたのか、私には区別がつかない。
「つけてあげる」
「自分でできますよ」
「知ってる。でも、こういうのは渡した人がつけるものでしょう?」
「誰に聞いたんですか、それ」
「前に見たから」
姉さんは私の手から髪留めを受け取った。
私は少し身体を低くして、姉さんが手を伸ばしやすいようにする。
姉さんの指が髪へ触れた。
もっとも、姉さん自身には触れた感触がない。
自分がどれほどの力で髪を摘まんでいるのか分からないため、目で確認しながら慎重に位置を決めている。
「痛くない?」
「大丈夫です」
「本当?」
「本当ですよ」
「よかった」
少し位置を直したあと、姉さんは満足したように一歩下がった。
「うん、似合ってるね」
鏡が近くにあったので、私はそこへ顔を向けた。
鏡の中には、新しい制服を着た自分と、その後ろで微笑んでいる姉さんが映っている。
姉さんは、本当に似合っていると思っているのだろうか。
自分で選んだものを妹が身につけていることを、嬉しいと思っているのかもしれない。
あるいは、贈り物を身につけた相手には「似合っている」と伝えれば喜ばれると知っているから、そう言っただけなのかもしれない。
どちらなのかは分からない。
姉さん自身に尋ねても、きっと答えは出ないだろう。
「ありがとうございます、姉さん」
「どういたしまして」
私がお礼を言うと、姉さんはもう一度笑った。
その笑顔が本物なのかと考えることには、昔から意味がないようにも思えていた。
笑いたいと思ったから笑ったのではないとしても、私のためにその表情を選んだのは姉さん自身だからだ。
それなら、いったい何をもって本物と呼べばいいのだろう。
*
「お茶にしない?」
姉さんがそう言い出したのは、私たちが部屋へ戻ってしばらくしてからだった。
「姉さん、最初からそのつもりだったでしょう」
「どうして分かったの?」
「入学祝いを渡して終わりなら、わざわざこんな時間まで残らないと思います」
「さすが双子」
「関係ありますか?」
「ないかも」
姉さんは笑いながら席を立った。
しばらくすると紅茶の香りと一緒に、見慣れた皿が運ばれてくる。
そこには、焼き色の整ったスコーンが並んでいた。
「やっぱり」
「せっかくのお祝いだからね」
「姉さん、何かあるとすぐスコーンですね」
「得意料理だから」
「唯一の、でしょう?」
「それを言う?」
姉さんが少し眉を下げる。
私は思わず笑った。
姉さんがまともに作れる料理は、実際のところスコーンくらいだった。
触覚がないことは、料理をする上でかなり不便らしい。生地の硬さも手から伝わる熱も分からず、包丁を握れば余計な力を入れ、鍋へ触れても本人だけは気づかない。
だから、姉さんが料理をすることを周囲はあまり勧めなかった。
それでもスコーンだけは、いつの間にか人へ振る舞えるほど上手くなっていた。
最初から得意だったわけではない。
私がそれをよく知っている。
*
初めて姉さんがスコーンを焼いたのは、私たちがまだ今よりずっと幼かったころだった。
「ナギサ、これ食べてみて」
そう言って差し出された皿を見たとき、私はしばらく何も言えなかった。
スコーンらしきものが並んでいる。
しかし形は不揃いで、いくつかは端が焦げ、表面も綺麗には割れていなかった。
「姉さんが作ったんですか?」
「うん」
「一人で?」
「……途中から手伝ってもらった」
「でしょうね」
私の言葉に苦笑しながら、姉さんは私の向かい側へ座った。
「食べられるとは思う」
「思う?」
「材料は合ってるから」
「料理って、それだけでは決まらないと思いますけど」
少し不安になったものの、姉さんがわざわざ作ってくれたものを食べないという選択肢はなかった。
一つ手に取って口へ運ぶ。
少し硬く、端の方には苦みもあったが、それでもバターと小麦の香りはちゃんとしていた。
「どう?」
姉さんが尋ねる。
「おいしいですよ」
「本当?」
「少し硬いですけど」
「……じゃあ、失敗?」
「でも、おいしいです」
そう答えてから、私はもう一口食べた。
姉さんは何も言わず、じっとこちらを見ていた。
「姉さん?」
「なに?」
「そんなに見られると食べにくいんですが」
「じゃあ見ないでいるね」
姉さんは顔を横へ向けたものの、しばらくするとまたこちらを見た。
その様子がおかしくて、私は笑った。
「何ですか?」
「いえ、姉さんって変ですね」
「そう?」
「作った本人が、食べている人より緊張してどうするんですか」
「私、緊張してる?」
「しているように見えます」
「そっか」
姉さんは少し考えるように瞬きをした。
それから、私が二つ目へ手を伸ばした瞬間、すぐに皿をこちらへ寄せた。
「もう一個食べる?」
「食べます」
「まだあるよ」
「そんなに作ったんですか?」
「失敗すると思ったから多めに」
「最初から失敗する前提だったんですね」
私が笑うと、姉さんも笑った。
翌週にもスコーンが出た。
その次にも出た。
回数を重ねるたび形が整い、焼き加減も良くなり、いつの間にか姉さんがスコーンを焼くことは私たちの日常の一部になった。
ある日、私が尋ねたことがある。
「どうしてそんなに作るんですか?」
姉さんは少し考えた。
「ナギサが食べるから?」
「私が?」
「うん」
「それだけですか?」
「最初に食べたとき、笑ってたでしょう」
姉さんは、ごく当たり前のことを確認するように言った。
「それを見たら、また作ろうって思った」
「嬉しかったんですか?」
私が尋ねると、姉さんは答えるまで少し時間を置いた。
「……どうだろう」
「分からないんですか?」
「うん。でも、もう一回作りたいとは思ったよ」
その返事を聞いて、子供だった私は首を傾げた。
今でも答えは分からない。
姉さんは嬉しかったから、もう一度作ったのかもしれない。
あるいは、私が笑うという結果を好ましいものだと学び、それを再現したかっただけなのかもしれない。
けれど、何年も繰り返し作り続けるほどの理由が、その二つで本当に違うものなのかは、私にはよく分からなかった。
*
「今日のはどう?」
現在の姉さんが、昔と同じ質問をした。
「おいしいですよ」
「それだけ?」
「もう何年食べていると思ってるんですか」
「感動が薄くなってない?」
「姉さんのスコーンが普通においしいことに慣れたんです」
「それは……褒めてる?」
「ええ」
姉さんは満足したように紅茶へ口をつけた。
私もスコーンを割り、クロテッドクリームを少し乗せる。
「姉さん」
「なに?」
「今日、嬉しいですか?」
急に尋ねたので、姉さんの手が止まった。
「今日?」
「私が入学したことです」
「ああ」
姉さんは少し考えた。
考える。
やはり、そこには必ず僅かな時間がある。
「嬉しいと思うよ」
「思う?」
「ナギサが頑張ってたの知ってるし、ちゃんと入学できてよかったとは思ってる」
「それは嬉しいとは違うんですか?」
「たぶん同じなんじゃない?」
「姉さんに聞いているんですが」
「私にも分からないことはあるよ」
姉さんは困ったように笑った。
私はそれ以上尋ねなかった。
困らせたかったわけではない。
むしろ、尋ねれば答えが返ってくると思ってしまった自分の方がおかしいのだろう。
姉さんは、自分自身についてまで経験と予測で考えることがある。
他人が「嬉しい」と呼ぶ状態と、自分の中にある何かが似ているなら、それを嬉しいと呼ぶ。
名前を先に知ってから、自分の感覚へ当てはめる。
私たちとは順番が逆なのかもしれない。
*
その日の夜、喉が渇いて部屋を出た。
廊下はすでに静まり返っており、窓から差し込む月明かりと、一定間隔に置かれた照明だけが床を淡く照らしている。
姉さんの部屋の前を通りかかると、扉の隙間から光が漏れていた。
まだ起きているらしい。
ノックをしようとして手を上げたところで、中から声が聞こえた。
「……違うな」
独り言だった。
何をしているのか気になり、少しだけ開いていた扉から中を見る。
姉さんは鏡の前に座っていた。
身支度をしているわけではない。
鏡に映った自分の顔を見ながら、口元を緩めている。
数秒間その表情を保ったあと、すぐに無表情へ戻った。
次に目を少し大きく開き、眉を上げる。
「驚いたときは……」
「姉さん」
声をかけると、姉さんが鏡越しにこちらを見た。
「あ、ナギサ」
「表情の練習、まだやっているんですか?」
「まだって言わないでよ」
姉さんは椅子ごとこちらへ身体を向けた。
「これでも結構自然になったんだから」
「それは知っていますけど」
昔はもっと分かりやすかった。
誰かが嬉しいことを話しても姉さんの表情が変わらず、後になってから笑うこともあった。悲しい話を聞いたときに、自分の顔が相手にどう見えているのか分からず、困ったような笑顔を浮かべてしまったこともある。
それが嫌で、姉さんは表情を覚え始めた。
「さっきのは何ですか?」
「驚いた顔」
「少し大げさです」
「やっぱり?」
「目を開きすぎですね」
姉さんは鏡へ向き直り、今度は先ほどより少しだけ目を開いた。
「これくらい?」
「さっきよりは自然です」
「じゃあ覚えておこう」
「そこまでして覚えなくてもいいんじゃないですか?」
姉さんの動きが止まった。
「どうして?」
「姉さんが驚いていないなら、無理に驚いた顔をする必要はないでしょう」
私はベッドの端へ腰掛けた。
「笑いたくないときまで笑う必要もありません。少なくとも、私の前では」
姉さんはしばらく私を見ていた。
「私が笑いたいかどうかの話じゃないよ」
「では、何の話ですか?」
「ナギサが嬉しいことを話してるときに、私が何も返さなかったら嫌でしょう?」
「私は姉さんなら気にしません」
「ナギサはね」
姉さんは鏡へ視線を戻した。
「でも、ナギサ以外の人はそうじゃないでしょう?」
「……」
「嬉しい話をしたのに相手が無表情だったら、この人は聞いてくれてないのかなって思うかもしれない。悲しいときに何も変わらなかったら、自分のことをどうでもいいと思ってるのかなって感じる人もいるでしょう?」
「それは、そうかもしれませんが」
「私はそういうつもりじゃなくても、相手には分からないから」
姉さんは鏡に映る自分の顔を見た。
「だったら、分かるようにした方がいいと思う」
「姉さんは、それで疲れませんか?」
「別に」
「本当に?」
「たぶん」
その答え方に、私は小さく息を吐いた。
「姉さんは、普通になりたいんですか?」
何となく口から出た質問だった。
姉さんはすぐには答えなかった。
鏡の中の自分を見ながら、少し考える。
「なれるなら、なってみたいかな」
「今の姉さんでは駄目なんですか?」
「駄目とは言ってないよ」
「では、どうして?」
「その方が簡単そうだから」
姉さんは淡々と答えた。
「相手が悲しかったら自分も悲しい。嬉しかったら自分も嬉しい。それなら、どう反応すればいいのか考えなくても分かるでしょう?」
「……そうですね」
「楽だと思わない?」
「姉さんがそう思うなら」
「ナギサは違う?」
「私は」
答えかけて、少し迷った。
「私は、姉さんが姉さんなら、それでいいと思います」
姉さんは私を見た。
「そう言うと思った」
「分かっていたんですか?」
「経験と予測」
「もう」
思わず笑うと、姉さんも笑った。
今度の表情も、これまで覚えてきた笑い方の一つなのだろう。
それでも、私が笑ったから姉さんも笑ったという事実だけは残る。
その二つの間にどれほどの違いがあるのか、私はやはり分からなかった。
「姉さん」
「なに?」
「髪留め、ありがとうございました」
「昼にも聞いたよ?」
「もう一度くらい言ってもいいでしょう」
「じゃあ、どういたしまして」
姉さんは微笑んだ。
私は部屋を出る前に、もう一度鏡へ目を向けた。
そこには、花の髪留めをつけた私と、よく似た顔をした姉さんが並んで映っている。
姉さんの世界がどう見えているのか、私には分からない。
姉さんが私のことをどんなふうに大切にしているのかも、きっと完全には理解できない。
それでも、分からないものがあるからといって、存在しないことにはならない。
少なくともその頃の私は、まだそのことを言葉にできなかった。
翌朝、私は昨日もらった花の髪留めをもう一度つけた。
鏡の中では、いつもと少しだけ違う自分がこちらを見ている。
姉さんがそれを見れば、きっと笑うだろうと思った。
どんな理由で笑うのかまでは分からなくても、それで十分だと思った。