桐藤ミオの行く末   作:蝦蟇

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絆創膏とティーカップ

 

 姉さんは、よく怪我をする。

 

 生まれつき触覚のない姉さんは、自分が物を握るときにどれくらいの力を込めているのか、手のひらが何に触れているのかを感覚だけで確かめることができない。刃物や金属の角に皮膚が触れても痛みがないため、目で確認するまで怪我そのものに気づかないことさえ珍しくなかった。

 

「姉さん、手を見せてください」

「右?」

「左です」

「こっち?」

「そうです」

 

 向かい側に座っていた姉さんが、言われるまま左手を差し出した。

 人差し指の付け根から手の甲へ向かって浅い傷が走っており、乾きかけた血が細い筋になって残っている。本人は私に指摘されるまで気づいていなかったらしく、自分の手を眺めながら少しだけ首を傾げた。

 

「あ、本当だ」

「またですか」

「倉庫で備品の確認作業をしてたんだよ」

「それで?」

「たぶん、そのときかな」

「どうして手袋をしていないんです?」

 

 私が尋ねると、姉さんは視線を少しだけ横へ逸らした。

 

「忘れてた」

「昨日も言いましたよね」

「聞いた覚えはあるよ」

「覚えていて、どうして忘れるんですか」

「それは私にも分からないなぁ」

 

 姉さんはそう言って笑った。

 私は鞄から消毒液と絆創膏を取り出し、傷口を確認する。幸い深くはなく、血もすでにほとんど止まっていた。

 

「少し動かさないでください」

「うん」

 

 消毒液をつけても、姉さんの表情は変わらない。

 染みるかどうかを尋ねる必要はなかった。

 私は傷の上へ絆創膏を貼り、剥がれないように指で押さえた。

 

「これで終わりです」

「ありがとう」

「次からは手袋をしてください」

「はい」

「本当に?」

「本当に」

「信用できません」

「そんなこと言わないでよ」

 

 姉さんは困ったように笑った。

 

 何度も繰り返してきたやり取りだった。

 

 倉庫へ行くなら手袋をすること。

 刃物を扱うときは目を離さないこと。

 風呂へ入る前には、自分でも気づいていない傷がないか確認すること。

 

 私は何年も同じことを言い続けている。

 それなのに姉さんは、ときどき手袋を忘れる。

 

 昔は、本当に忘れているのだと思っていた。

 

 けれど、今は違う。

 

 姉さんは、たぶんわざと忘れている。

 

 毎回ではないのだろうし、本人に尋ねても素直に認めるかどうかは分からない。それでも、長い時間を一緒に過ごしてきた私には、そう考えた方が自然に思える場面が何度かあった。

 

 手袋を忘れれば、怪我をするかもしれない。

 怪我をすれば、私が気づく。

 私が気づけば、傷を確認して、消毒して、こうして絆創膏を貼る。

 姉さんは、その一連の流れを知っている。

 自分が怪我をすると私が心配し、手を取り、しばらく離さなくなることまで知っている。

 

 それなら、どうしてそんな遠回りをするのかと尋ねても、きっと姉さん自身には説明できないのだろう。

 

「ナギサ」

 

 呼ばれて顔を上げる。

 

「何です?」

「もう貼り終わってるよ」

 

 言われて初めて、私はとっくに処置の終わった姉さんの指をまだ握っていることに気づいた。

 

「……そうですね」

 

 手を離そうとすると、今度は姉さんの方から指が伸びてきた。

 

「怖い顔しないで」

「誰のせいですか」

「私かな」

「分かっているなら気をつけてください」

「努力はしてるよ」

「結果が伴っていません」

 

 姉さんは少しだけ眉を下げ、それから私の頬へ手を伸ばした。

 

 触覚がないから、自分の指先がどれくらいの強さで私へ触れているのか分からない。だから姉さんは、昔から人に触れるときだけ妙に慎重だった。

 割れ物を持つように、あるいは花弁の薄い花へ触れるように、指先の動きを目で確かめながらそっと頬へ添える。

 

 その手を、私は避けなかった。

 

 

 

     *

 

 

 

 私たちの両親は、姉さんをうまく理解できなかった。

 

 今なら、責めるつもりはないと言える。

 幼いころの姉さんは、今よりずっと人間についての学習が足りていなかった。

 

 誰かが泣いていても、なぜ泣いているのか分からなければ慰めなかった。

 相手が怒っていても、その怒りの原因を理解できなければ、どうして声を荒らげているのかと尋ねた。

 

 誕生日に何かをもらえば「ありがとう」と言うけれど、それは相手から贈り物を受け取ったときには感謝を伝えるものだと教わったからであり、どうしてそうするのかと問われると、幼い姉さんは相手が納得できるような説明を返せなかった。

 

 人の行動には理由があるのだと知れば、その理由を一つずつ覚える。

 誰かが悲しんでいるときに何と言えばいいのかを教われば、次に似た場面へ遭遇したとき、その言葉を使う。

 

 両親には、それがひどく不自然に見えたのだと思う。

 

 同じ言葉を、意味を完全には理解しないまま繰り返す。

 教えられた反応を、状況に合わせて再現する。

 幼い姉さんのそうした振る舞いに、両親は次第に言葉にしづらい嫌悪と恐怖を抱くようになった。

 

 私たちは同じ日に、ほとんど同じ顔で生まれた。

 それなのに、私には分かることが姉さんには分からなかった。

 

 私が泣けば、両親は理由を尋ねる。

 姉さんが泣かなければ、どうして悲しくないのかと尋ねる。

 私が誰かへ自然に笑いかければ褒められ、姉さんが教えられた通りに笑えば、どこか不自然だと言われる。

 

 幼かった私は、それを公平ではないと思っていた。

 

 姉さんには感情がないわけではない。

 何も感じないわけでもない。

 少なくとも、私はそう信じていた。

 

 双子だから分かる、という言い方は理屈になっていないのかもしれない。それでも、姉さんが本当に何も感じない人なら、私が笑っただけで何年も同じスコーンを焼き続ける理由はないはずだった。

 

 ただ、姉さんには自分の中にあるものを、そのまま人と同じ形で外へ出すことが難しい。

 

 誰かなら自然に笑うところで、姉さんは一度考える。

 誰かなら胸が痛むところで、姉さんはまず「これは悲しい場面なのだろう」と理解する。

 

 その順序が違うだけなのだと、私はずっと思っていた。

 

 けれど、そう考えるたび、胸のどこかに小さな罪悪感も残った。

 

 これは憐憫なのだろうか。

 

 それとも、私だけが欠けることなく生まれてきたことへの贖罪なのだろうか。

 

 同じ日に、同じ母親から生まれたのに、私には当たり前に与えられたものが姉さんにはなかった。

 

 まるで二人分あったはずの何かを、私の方が多く持って生まれてしまったように思うことがあった。

 

 そんな考えに根拠などない。

 それでも子供のころの私は、姉さんに足りないものを見るたび、自分が持っていることを申し訳なく感じた。

 

「ナギサ」

 

 姉さんに呼ばれ、私は現実へ意識を戻した。

 

「また考え事?」

「少しだけです」

「私のこと?」

「どうしてそう思うんです?」

「まだ手を見てるから」

 

 絆創膏を貼った姉さんの指が、私の目の前にある。

 

「心配しすぎですよ」

「姉さんが怪我をしすぎなんです」

「それは否定できないなぁ」

「でしたら、明日から手袋をしてください」

「はい」

「約束ですよ」

「約束」

 

 姉さんは素直に頷いた。

 その返事がどこまで信用できるのかを考えながら、私はもう一度だけ絆創膏が剥がれていないことを確認した。

 

 

 

     *

 

 

 

 姉さんへ初めて自分で選んだ誕生日プレゼントを渡したのは、まだ私たちが幼かったころだった。

 

 双子なので誕生日は当然同じ日だったが、いつからか私たちは互いに一つずつ贈り物を用意するようになっていた。

 家族から一緒に祝われることとは別に、私は姉さんが生まれた日を祝いたかった。

 その年に私が選んだのは、白い磁器に淡い青色の花が描かれたティーカップだった。

 

「姉さん、これを」

「なに?」

「誕生日プレゼントです」

「私に?」

「今日は姉さんの誕生日でもあるでしょう」

「ナギサの誕生日でもあるよ」

「私も姉さんからもらうんですから、お互い様です」

「ああ、そっか」

「今さら気づいたんですか」

 

 姉さんは箱を受け取り、包装紙を破らないよう丁寧に剥がした。

 カップを取り出すと、しばらく黙って眺めている。

 

「綺麗だね」

「気に入りました?」

「うん」

「姉さん、青色が好きでしょう」

「覚えてたんだ」

「姉さんのことですから、それくらい知っています」

 

 そう答えると、姉さんは私を見た。

 

「ありがとう、ナギサ」

「どういたしまして」

 

 その日から、姉さんは何度もそのカップを使った。

 ほかにも食器はあるのに、紅茶を飲むときには自然と私が贈ったものを選んでいた。

 最初のうちは、それを見るたび嬉しかった。

 やがて見慣れてしまうと、青い花のカップを持つ姉さんの姿そのものが日常になった。

 

「姉さん、本当にそれをよく使いますね」

 

 何年か経ったある日、そう尋ねたことがある。

 

「これ?」

「ほかにもカップはあるでしょう」

「あるね」

「どうしていつもそれなんです?」

 

 姉さんは手元のカップへ視線を落とした。

 

「ナギサにもらったから?」

「また疑問形ですか」

「それ以外に思いつかない」

「色が好きだからとか、使いやすいからとかは?」

「それもあると思うけど、同じようなカップならほかにもあるでしょう?」

「確かにそうですね」

 

 姉さんはそれ以上考える様子もなく、紅茶を飲んだ。

 私も深くは尋ねなかった。

 妹からもらったものを姉が気に入って使っているというだけなら、何も不思議ではないと思っていた。

 

 

 

     *

 

 

 

 そのカップが欠けていることに気づいたのは、さらに何年か経ってからだった。

 

「姉さん、少しこちらを向いてください」

「どうしたの?」

「口を切っています」

「本当?」

 

 姉さんが顔を上げる。

 下唇の端に血がついていた。

 私は席を立ち、顔を近づけて確認する。

 

「動かないでください」

「うん」

 

 傷は小さかった。

 それでも、何もしていないのに唇が切れるはずはない。

 周囲を確認し、テーブルの上へ視線を落としたところで原因に気づいた。

 

「姉さん、このカップ」

「なに?」

「欠けています」

 

 飲み口の一部が小さく欠け、鋭い角が残っている。

 姉さんはようやく気づいたらしく、カップを顔の高さまで持ち上げた。

 

「あ、本当だ」

「またそれですか」

「いつ欠けたんだろう」

「知りませんよ」

「さっきかな」

「問題はそこではありません」

 

 私は姉さんの手からカップを受け取った。

 

「これはもう使わないでください」

「え?」

「危ないでしょう」

「でも、欠けてるのはここだけだよ」

「ここだけでも十分危険です」

「反対側から飲めば使えると思う」

「毎回向きを確認するんですか?」

「そうすれば」

「姉さんは絶対に忘れます」

「そこまで?」

「今日だって、唇を切るまで気づかなかったじゃないですか」

 

 姉さんは黙った。

 

 いつもなら、ここで納得する。

 壊れたものは捨て、新しいものを使う。

 姉さんは物への執着が強い人ではなく、役目を果たせなくなったものを残しておくこともほとんどなかった。

 

 けれど、そのときだけは違った。

 

「同じようなものを探しましょう」

「同じようなもの?」

「青い花のカップなら、ほかにもあるでしょう」

「……それじゃ駄目だと思う」

 

 姉さんは小さな声で言った。

 

「どうしてです?」

「分からない」

「分からない?」

「うん」

 

 姉さんは私の手の中にあるカップを見ていた。

 

「でも、これは捨てたくない」

「危ないことは分かっていますよね」

「分かる」

「また怪我をするかもしれません」

「うん」

「同じものを買い直すこともできます」

「それも分かってる」

「だったら、どうして」

 

 そこまで尋ねてから、私は口を閉じた。

 姉さんは答えを持っていなかった。

 表情を覚えるときのように、誰かへ聞けばすぐに答えが見つかる問題でもない。

 

「……ナギサにもらったものだから、かな」

「それなら、同じものを私がもう一度贈ればいいでしょう」

「同じじゃないと思う」

「何が違うんです?」

「それが分からない」

 

 姉さんは少し困ったように笑った。

 

「分からないけど、違うと思う」

 

 私はカップを見た。

 飲み口には鋭い欠けがあり、さっき姉さんの唇を切ったばかりだった。

 

「駄目です」

「ナギサ」

「これは捨ててください」

「でも」

「姉さんには痛みが分からないんです。また怪我をしても、自分では気づけないでしょう」

 

 少し強く言うと、姉さんは黙った。

 

「お願いですから」

 

 やがて、姉さんは小さく息を吐いた。

 

「分かった」

「本当に?」

「うん。捨てる」

「あとで使わないでくださいね」

「そこまで信用ない?」

 

 そう言って笑う姉さんへカップを返す。

 その指は、受け取った磁器の冷たさも、欠けた縁の鋭さも感じない。

 それでも、姉さんはなかなか手を離さなかった。

 

 

 

     *

 

 

 

 あのカップがどうなったのか、その後の私は確認しなかった。

 

 姉さんが捨てると言ったのだから、捨てたのだと思っていた。

 何より、あのころの私は姉さんがなぜ捨てたくなかったのかを、それほど深く考えていなかった。

 

 妹からもらったものだから惜しかった。

 それくらいに受け取っていた。

 

 今なら、もう少し違う見方をするかもしれない。

 

 姉さんは、人の気持ちを理解するために理由を求める。

 自分が何かをするときにも、できる限り理由を探す。

 

 それなのに、あのカップだけは理由を説明できないまま手放したがらなかった。

 説明できないものを、姉さんは昔から苦手としていたはずなのに。

 

「ナギサ」

 

 現在の姉さんの声で、思考が途切れた。

 

「また怖い顔してる」

「姉さんがまた怪我をするからです」

「まだその話?」

「まだです」

「もう絆創膏貼ってもらったよ」

「だから終わりではありません」

「じゃあ、どうしたら終わるの?」

「明日、ちゃんと手袋をしてください」

「それでいい?」

「まずは」

 

 姉さんは少し考え、それから頷いた。

 

「分かった」

「本当でしょうね」

「本当だよ」

 

 私はその返事を疑いながら、姉さんの手を見る。

 白い絆創膏が一枚、指の付け根に貼られている。

 

 姉さんはたぶん、私がこうして世話を焼くことを知っている。

 もしかすると、そのために手袋を忘れることさえある。

 それが姉さんなりの甘え方なのだとしたら、随分と遠回りだった。

 

「姉さん」

「なに?」

「怪我をしなくても、心配くらいしますよ」

 

 姉さんが少し目を見開いた。

 

「急にどうしたの?」

「何となくです」

「そっか」

 

 姉さんはしばらく私を見たあと、また頬へ手を伸ばした。

 触覚のない指が、どれだけ優しく触れているかを姉さん自身は知ることができない。

 それでも姉さんは、私を傷つけないように何度も目で確かめながら、壊れ物を扱うようにそっと触れてくる。

 

 私はその手を取った。

 姉さんには、握り返された感触は伝わらない。

 それでも、私が手を握っているという事実なら、目で見れば分かる。

 

「ナギサ?」

「少しだけ、このままでいてください」

「うん」

 

 姉さんは理由を尋ねなかった。

 私も、自分がどうしてそうしたかったのかを説明しなかった。

 すべての行動に明確な理由がなくてもいいのだと、少なくとも姉さんの隣にいるときくらいは、そう思いたかった。

 

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