「モモフレンズ……ですか」
「そう。人気なんだってね」
向かいに座る修道服姿の少女が、顎へ指を添えながら少し首を傾げた。
眉はわずかに寄っていて、視線が一度だけ上へ動き、口もほんの少し開いている。
困惑している表情だと思う。
これまで見てきた人の反応と照らし合わせれば、たぶん間違っていない。
でも、何に困っているのだろう。
私はまだ「モモフレンズとは何か」としか言っていないから、どうして急にそんな話を始めたのか分からないのかもしれない。
「説明が足りなかった?」
「え?」
「今、困ってるように見えたから」
「ああ」
少女――歌住サクラコさんは一瞬だけ目を見開いたあと、今度は口元を少し緩めた。
驚いたあとに笑った。
今のは、理解したという反応と、たぶん何かを面白がっている反応が続いたのだと思う。
特別に面白いことを言ったつもりはないので、理由までは分からない。
「申し訳ありません。困っていたというより、どういうお話なのだろうと思っていただけです」
「やっぱり説明不足だったんだね」
「そういうことになりますね」
「じゃあ、最初から話す」
「お願いします」
私は一度頭の中で順番を整理した。
「ヒフミさんっていう子がいるんだ」
「阿慈谷ヒフミさんですね」
「知ってる?」
「お名前は」
「ナギサのお友達で、一つ下の学年なんだけど、その子がモモフレンズのことをすごく好きなんだって」
「はい」
「それで、この前ナギサから聞いたんだけど」
そのときの会話を思い出す。
ヒフミさんがモモフレンズについて長く話していたこと。
ナギサが少し呆れながらも、楽しそうにその話を聞いていたこと。
「モモフレンズを知らないと、人生の半分を損してるくらいらしいよ」
「……なるほど」
サクラコさんはまた少し笑った。
目尻が緩み、眉から力が抜けている。
今度も好意的な笑い方だと思う。
「今の、面白かった?」
「少しだけ」
「どこが?」
サクラコさんは一瞬だけ黙った。
また困らせたのかもしれない。
「ミオさんが、とても真剣に受け取っていらっしゃるところでしょうか」
「真剣に受け取ったら変?」
「変ではありませんよ」
「でも笑ったでしょう?」
「そうですね」
サクラコさんは少し考えた。
「ヒフミさんの言葉は、厳密に人生の価値を半分に分けているという意味ではないと思います」
「比喩なのは分かるよ」
「でしたら」
「でも、それくらい大事ってことなんでしょう?」
「ええ。おそらくは」
そこまでは分かる。
それほど大切なものだということを、大げさな表現で伝えている。
「じゃあ、モモフレンズを知らない私は、人生を半分損していることになるのかな?」
サクラコさんが、今度ははっきりと目を丸くした。
驚き。
そのあと、また笑う。
「ならないと思います」
「どうして?」
「ミオさんにとって、モモフレンズはそこまで大切なものではないからです」
「でも、ヒフミさんにとっては大切なんでしょう?」
「はい」
「同じものなのに?」
「同じものでも、人によって価値は違います」
「それは分かる」
分かるけれど、私が知りたいのはそこではない。
「じゃあ、私はヒフミさんと同じくらいモモフレンズを好きにならないと、その価値を理解できない?」
「いいえ」
サクラコさんは、今度はすぐに答えた。
「同じように感じる必要はありません」
「では、どうすればいい?」
「ヒフミさんにとって、それほど大切なのだと知っていればよいのだと思います」
「知っているだけで?」
「ええ」
サクラコさんは穏やかに頷いた。
「ミオさん自身がモモフレンズを好きではなくても、ヒフミさんが失えば悲しむものだと知っていれば、それを軽く扱わずに済むでしょう?」
それなら分かる。
私が好きになる必要はない。
同じだけ嬉しくなったり、失って悲しくなったりする必要もない。
ヒフミさんにとっては大切だと覚えておけばいい。
「例えば」
私は少し考えた。
「もしモモフレンズのグッズを処分する必要が出たときに、ただの人形だから捨ててもいいって言わないようにする?」
「そうですね」
「本人に確認する?」
「それがよいと思います」
「分かった」
自分の中に一つ、使えそうな答えが増えた。
私はモモフレンズを理解できなくてもいい。
理解できないものにも価値があると覚えておけばいい。
「サクラコさん」
「はい」
「ありがとう」
「どういたしまして」
サクラコさんは微笑んだ。
その表情が好意的なものだということは、もう迷わず分かる。
どうして人は「ありがとう」と言われると嬉しそうな顔をするのか、その理由までは完全には分からない。
でも、今はそこまで分からなくてもいいのだと思う。
*
サクラコさんのところから戻った翌日、私は次年度の部活動予算案をナギサへ提出した。
「こちらです」
「ありがとうございます、ミオさん」
仕事中のナギサは、私を姉さんとは呼ばない。
昔からそう決めたわけではないけれど、人前では自然とそうなった。
私も同じように、ナギサ様と呼ぶ。
周囲にいる生徒たちにとって、その方が分かりやすいからだ。
「昨年度の実績、部員数、外部大会への参加状況、それから設備維持費を基準に再配分しました」
「かなり細かくまとめましたね」
「数字が残っているものは全部使ったよ」
「助かります」
ナギサが資料へ目を通していく。
最初の数ページでは表情に大きな変化はなかった。
眉も動かない。
口元も普段通り。
問題はないらしい。
少し進んだところで、眉がわずかに寄った。
視線が一度止まり、そのまま同じ行を読み直す。
不満か、疑問。
「ミオさん」
「はい」
「文芸部の予算ですが」
「七割減らしました」
周囲にいた生徒のうち、二人ほどがこちらを見た。
表情は少し硬い。
今の返答に何か問題があったのかもしれない。
「理由を聞いても?」
「昨年度の受賞歴はありません。外部への発表もなく、部員数も減っています」
「天文部も六割削減ですね」
「同じです。観測会は学内だけで、外部成果もありません」
「手芸部も?」
「はい」
ナギサの眉がさっきより少しだけ寄った。
やっぱり不満がある。
でも、どこが問題なのかはまだ分からない。
「ミオさんは、部活動というものをどう考えていますか?」
「共通の目的を持った生徒が集まって活動する団体です」
「定義を聞いているのではありません」
答えを間違えてしまったみたいだ。
「では、どういう意味なの?」
少しだけ周囲の空気が変わった。
仕事中に「どういう意味ですか」と言った方がよかったのかもしれない。
でも、ナギサはそこを気にした様子もなく、資料へ視線を落とした。
「例えば、文芸部の生徒が賞を取っていなくても、同じ趣味を持つ友人と過ごす時間を大切にしているかもしれません」
「はい」
「天文部の生徒も、何かを発表するためではなく、みんなで星を見ること自体を楽しんでいるかもしれない」
「それも分かるよ」
「でしたら」
「でも」
私は資料を見た。
「それは予算を出す理由になる?」
周囲が静かになった。
今度は分かった。
今の質問は、あまり良い聞き方ではなかったらしい。
でも、他の聞き方が思いつかない。
「なると思います」
ナギサだけは普通に答えた。
「どうして?」
「結果を残すことだけが、部活動の価値ではないからです」
「でも、その価値は数字にできないよ」
「数字にできないからといって、ないわけではありません」
その言葉を聞いて、昨日のサクラコさんを思い出した。
私にとって大切ではないものでも、誰かにとっては大切。
同じように感じなくても、価値があることは知っておけばいい。
「友達と過ごすことも?」
「ええ」
「学校へ来る理由になることも?」
「もちろんです」
「それなら」
私は一度資料へ視線を落とした。
私には、それがどれくらい大切なのか実感できない。
けれど、ナギサには分かるらしい。
ナギサは、そこに予算を出すだけの価値があると判断している。
「分かった」
鉛筆を取り、削減率を書いた欄へ線を引く。
「この案は無しにするね」
ナギサが顔を上げた。
目が少し大きくなっている。
驚いたらしい。
「ずいぶん簡単に引くんですね」
「ナギサ様が、私に見えていない価値があると言うなら」
「完全には理解していないんですよね?」
「うん」
周囲に人がいるので、すぐに言い直す。
「はい。完全には理解していません」
「それでも?」
「私に分からない価値を判断するために、ナギサ様がいるのでしょう?」
何人かの生徒が少し驚いたように私たちを見た。
今の発言にも、何か別の意味があったのかもしれない。
ナギサは一瞬だけ黙ったあと、小さく息を吐いた。
「では、基礎予算は維持してください。その上で、実績のある部活動には追加支援を出す形にしましょう」
「分かった」
「お願いします」
「はい」
私は資料へ修正内容を書き込んだ。
サクラコさんの答えは、思っていたより早く役に立った。
*
会議が終わって部屋に二人だけになると、ナギサは椅子の背へ身体を預けた。
「姉さん」
「なに?」
「さっきの予算案、本当に問題ないと思っていたんですか?」
「思ってたよ」
「迷いもなく?」
「うん」
「そうですか」
ナギサは少しだけ困ったような顔をした。
眉尻が下がっている。
怒ってはいない。
「何?」
「いえ。姉さんらしいなと思っただけです」
「それ、褒めてる?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「もう少し人の気持ちを考えてください」
「考えた結果、分からなかったから聞いたんだけど」
「そういうところですよ」
今のは、たぶん呆れている。
でも機嫌が悪いわけではない。
「ナギサ」
「はい」
「一つ聞いていい?」
「どうぞ」
「ナギサなら、私より上手く判断できる?」
「何の話です?」
「さっきみたいなこと」
「部活動の予算?」
「それだけじゃなくて」
私は少し言葉を探した。
「誰かを切るかどうかを決めるとき」
ナギサの表情が変わった。
「どうして急にそんな話を?」
「前から思ってたから」
「何をです?」
「私は、必要なら人を切れると思う」
ナギサは黙った。
私は続ける。
「百人を守るために十人を切ればいいって分かっていて、他に方法がないなら、たぶん私は十人を切る」
「……」
「その十人が嫌だって言っても、必要ならやると思う」
「それは、状況によっては誰かがしなければならない判断です」
「うん」
「決断できること自体は、悪い能力ではありません」
「でも、トップに向いているとは思わない」
「どうして?」
ナギサが聞き返す。
「痛いって言われても、その人が痛いことと、必要な判断は別にできるから」
「それは冷静さでしょう」
「そうかもしれない」
「なら」
「ナギサは違うでしょう?」
ナギサが少しだけ眉を寄せた。
「私も必要なら決断します」
「知ってるよ」
「では」
「でも、ナギサは十人のことを考える」
「……」
「切った後も、その十人がどうなるか考えるでしょう?」
ナギサは答えなかった。
たぶん肯定だと思う。
「私は、その部分が弱い」
「姉さんは、だから私の副官でいるんですか?」
「うん」
迷いはない。
「私がトップになった方が、たぶん早く決められることはあると思う」
「ええ」
「でも、早く正しい答えを出せることと、人を率いる資格があることは別でしょう?」
ナギサが、今度は少し驚いたような顔をした。
「誰かに言われたんですか?」
「自分で考えた」
「姉さんが?」
「失礼だなぁ」
「いえ、そういう意味では」
ナギサが少し笑った。
私も笑う。
今の笑い方はたぶん合っている。
「だから、ナギサが決めて」
「全部?」
「全部ではないよ」
「私に投げないでください」
「私に分からないところだけ」
「その範囲が広いんですよ」
「じゃあ、少しずつ狭くする」
「本当に?」
「そのためにサクラコさんのところへ行ってるんだし」
「そうでしたね」
ナギサは少しだけ目元を緩めた。
「姉さんは……いえ、この話は以前にしましたね」
ナギサは何の話をしようとしたのだろう。
以前に話したことがあって、さっきの会話は強く関連している?
私がサクラコさんのところに通っているのは、感情を理解するため。
普通になるため。
「なれるなら、なってみたいよ」
会話の文脈というものを無視した言葉だったが、ナギサは私が何を言いたいのか理解したようだった。
「……普通に、ですか」
「今より簡単そうだから」
「簡単?」
「人が悲しいときに、そのまま私も悲しかったら、何を言えばいいか考えなくていいでしょう?」
「……そうですね」
そういうとナギサは目を少し伏せ、眉根を若干寄せる。
今の会話に、何か不満があったのだろうか。
普通の、感情が分かる人たちにしか理解できない感覚があるのか。
考えてもわからない、今のナギサは何を感じているのだろう。
「嬉しいときも、同じように嬉しかったら分かりやすいなって」
「……姉さんは今、自分が不幸だと感じているんですか?」
「そういう意味じゃないよ」
「では?」
「……面倒なんだと思う」
言ってから、少し考える。
違うかもしれない。
「たぶん」
「また、たぶんですか」
「自分のことでも分からないものはあるよ」
「知っています」
ナギサはそう言って、少し笑った。
*
その数日後、私は救護騎士団の診療室にいた。
「また負傷ですか」
ミネさんが私の腕を見ながら、呆れたように言った。
「小さいよ」
「大小の問題ではありません」
「ナギサにも同じこと言われる」
「ナギサ様が正しいのです」
傷は浅い。
何かに擦ったらしいけれど、いつできたのかは覚えていない。
「手袋は?」
「してたと思う」
「思う?」
「今回は手だったかどうかも分からないから」
「なおさら困ります」
ミネさんは傷を洗い、消毒した。
いつものように何も感じない。
「痛みはありませんか?」
「ないよ」
「聞くまでもありませんでしたね」
「うん」
処置が終わり、包帯が巻かれる。
私はその白い布を見てから、ミネさんを見た。
「ミネさん」
「何でしょう」
「一つ聞いていい?」
「どうぞ」
私は自分の頭を指差した。
「こっちは治せない?」
ミネさんの動きが止まった。
眉が寄る。
困惑ではない。
もっと強い、警戒かもしれない。
「何を指しているのか、分かっています」
「なら話が早いね」
「治療はできません」
「できない?」
「正確には、治療の対象ではありません」
「どうして?」
「それは傷ではないからです」
少し変な答えだと思った。
「でも、困ってるよ」
「理解しています」
「困っていて、普通の人と違っても、傷じゃないの?」
「違いがあることと、傷があることは同じではありません」
「難しいね」
「ええ」
私は自分の胸元を見た。
「相手が悲しかったら、私もそのまま悲しい」
「はい」
「嬉しかったら、考えなくても嬉しいって分かる」
「はい」
「そうなったら、今より楽だと思う」
ミネさんはすぐには答えなかった。
表情を見る。
眉が少し下がり、口元は硬い。
悲しんでいるようにも見えるけれど、どうしてここで悲しくなるのかは分からない。
「私は治ったら嬉しいんだけどな」
そう言うと、ミネさんの目がわずかに動いた。
「その願い自体を否定するつもりはありません」
「でも治療はしない?」
「はい」
「どうして?」
「ミオさん自身を、傷として扱うことはできないからです」
そこまで言われて、少しだけ分かった。
私が困っている。
だから助ける。
でも、私そのものを直すべきものだとは考えない。
「サクラコさんと似たこと言うね」
「そうなのですか?」
「少しだけ」
私が笑うと、ミネさんもほんの少し表情を緩めた。
今のは安心したのかもしれない。
「では、今日はこれで終わりです」
「ありがとう」
「次からは、もう少し怪我をしないようにしてください」
「努力します」
「その返答も、ナギサ様に怒られているのでは?」
「よく分かったね」
「予測できます」
私は少し笑った。
「経験と予測?」
「ええ」
「同じだ」
「何がです?」
「ううん。何でもない」
診療室を出たあと、私はしばらく廊下を歩きながら考えた。
人は、思っていたより多くのことを経験から予測している。
表情も。
言葉も。
誰かの好みも。
たぶん私だけが特別にそうしているわけではない。
違うのは、私の場合、その作業を意識しないといけない場面が多いことだけなのかもしれない。
サクラコさんの困惑。
ナギサの不満。
ミネさんの心配。
どれも、少し考えれば分かるようになった。
昔よりはずっと楽になっている。
それでも、ときどき思う。
考えなくても分かる人たちには、この世界がどんなふうに見えているのだろう。
ナギサが昔、瓶の底から世界を覗いていたことを私は覚えている。
あのとき、歪んで見えると言っていた。
私は一度借りて覗いたけれど、ガラスの厚みで光が曲がっているだけだと思った。
不思議だとは感じなかった。
理由が分かれば、それで終わりだった。
でも、人の心にはそういう答えがないことがある。
ヒフミさんがモモフレンズを大切にする理由を、私は同じようには感じられない。
ナギサが、成果の出ていない部活にも価値があると言う理由も、完全には分からない。
私がナギサの笑顔を見ると、またスコーンを焼こうと思う理由も、まだよく分からない。
それでも、分からないから存在しないとは思わなくなった。
私の答えが全部ではない。
そう考えられるようになっただけでも、昔よりは少し普通に近づいているのかもしれない。
私はそんなことを考えながら、ナギサのいる部屋へ向かった。
今日の予算案を直したことを報告すれば、たぶんナギサは少し安心した顔をする。
その顔が見たいと思った理由については、今はまだ考えなくてもいい気がした。