誤字報告ありがとうございます
セイアさんが襲撃されたという知らせを受けたとき、私は最初、その言葉の意味をうまく理解できなかった。
報告に来た生徒は確かに襲撃と言ったし、そのあとに何が起きたのかも順を追って説明していたはずなのに、耳へ入った情報が頭の中で一つにつながらない。セイアさんが何者かに襲われて重傷を負い、現在は詳しい容体さえ伏せられているうえ、助からなかった可能性が高いのだと理解したところで、胸の奥から急速に熱が引いていった。
「……もう一度、説明してください」
自分でも驚くほど平静な声が出た。
報告に来た生徒は僅かに戸惑いながらも、襲撃が起きた時刻から発見された場所、周囲の状況、救護が行われたこと、その後の情報がほとんど外へ出ていないことまで、最初から同じ内容を繰り返した。
聞き直しても、当然ながら内容は変わらなかった。
「犯人については、何か分かっていますか?」
「まだ何も。ただ、セイア様の行動をある程度把握していなければ難しい襲撃だった可能性があると考えられています」
「つまり、内部の人間が関わっている可能性も否定できないということですね」
「はい」
「分かりました。引き続き調べてください」
生徒が一礼して退室すると、閉じた扉の向こうへ足音が遠ざかり、部屋には先ほどまでとは種類の違う静けさが戻った。
私は机の上に置かれた報告書へ視線を落とした。文章は読めるし、書かれている意味も理解できるのに、その内容だけが現実から切り離されているように感じられる。
「ナギサ、大丈夫?」
姉さんの声に顔を上げ、私はほとんど反射的に「大丈夫です」と答えた。
姉さんはすぐには何も言わず、私の顔をしばらく眺めている。
「……何ですか?」
「その返事、本当なのかなと思って。疑ってるというより、私には分からないから聞いてるだけなんだけど」
姉さんらしい答えだった。
私は少しだけ息を吐き、椅子へ座り直した。
「セイアさんが襲われて、しかも内部の人間が関わっている可能性があります。そうなると、次は誰なのかを考えないわけにはいかないでしょう」
「次って、セイアさんの次に狙われる人?」
「ええ。ティーパーティーの中に裏切り者がいるなら、セイアさん一人を狙って終わるとは思えません。ミカさんかもしれないし、私かもしれない。姉さんだって、私の副官である以上、無関係とは言えないでしょう」
「私は代表じゃないから優先順位は低いと思うけど、ナギサを狙うなら先に私をどうにかした方がいいって考える人はいるかもしれないね」
「そうでしょう?」
そこまで聞いた姉さんは、少し考えるように黙った。
「ナギサ、もう誰を疑うか決め始めてる?」
「当然、犯人は探します」
「そうじゃなくて、まだ分かっていない段階で、疑う相手をもう絞り始めてるのかって聞いてる」
私は答えなかった。
その沈黙で十分だったのだろう。
「ティーパーティー内部だけではありません。セイアさんと接点があった生徒や、最近の行動に不自然な点があった生徒、外部との関係が疑われる可能性がある生徒も含めて調べています。それから――」
「ダメだよ、ナギサ」
姉さんが私の言葉を遮った。
私は顔を上げる。
姉さんの目はいつものように透き通っていて、そこにどんな感情が浮かんでいるのかは見分けられなかった。
「何が……でしょう、姉さん」
「……なんだろう。自分でも、何がダメなのかまだ分からない」
姉さんは少し困ったように眉を寄せ、自分が今どうしてそんな言葉を口にしたのか確かめるように黙り込んだ。
姉さんにしては珍しかった。
いつもなら、分からないことを口にするときでも、少なくとも何が分からないのかくらいは整理している。それなのに今は、理由より先に拒絶だけが出てきたらしい。
「何がダメなのかな」
そう呟きながら、姉さんは私の前まで歩いてくる。
「ナギサ、少し顔を見せて」
「顔ですか?」
「うん。たぶん、見れば分かる気がする」
断る理由もなくそのまま座っていると、姉さんは両手を私の頬へ伸ばした。
触覚がないから、人へ触れるときの姉さんはいつも慎重だった。指先でどれくらいの力を加えているのか自分では分からないため、私を傷つけないよう目で確かめながら、両手をそっと頬へ添える。
「姉さん、何をしているんです?」
「確認してるんだけど、まだ何を確認してるのかは分からない。ごめん、もう少しだけ」
姉さんは謝りながらも手を離さず、私の瞳を覗き込んだ。
左右を比べるように僅かに顔を動かし、眉の形や視線の向きまで確認しているらしい。
その距離で見つめられていると、幼いころに怪我をした私の傷を、姉さんが同じようにじっと確認していた光景を思い出した。
「……そうだ。分かった」
「何が分かったんです?」
「私の目だ」
「姉さんの?」
「うん。人を見るときの目が、今のナギサと似てる」
姉さんは私の顔へ触れたまま、少し困ったように笑った。
「何が必要で、何が邪魔で、どこまで切れば目的に届くのかを考えてるときの私の目。たぶん私も普段からそんなふうに見ようと思ってるわけじゃないけど、今のナギサはそれに似てる」
言葉の意味を理解するまでに少し時間がかかった。
「私は、そんなふうに人を見ているつもりはありません」
「そうだと思う。でも、ナギサは綺麗な目をしてるんだから、そんな目はダメだよ」
「綺麗な目って、何ですか」
「うまく説明できないけど、前のナギサはもっと人を見る目をしてたと思う。今は人じゃなくて、裏切り者かもしれない候補を見てる」
その言葉が胸に刺さった。
「裏切り者を探しているのですから、仕方ないでしょう。誰かがやらなければ、また同じことが起きるかもしれません」
「セイアさんのことが気になるの?」
姉さんは穏やかに尋ねた。
その言い方があまりに軽く聞こえて、一瞬腹が立った。
「気になるなんてものではありません。死んだかもしれないんですよ。それなのに、次は誰が狙われるのかさえ分からない。ミカさんかもしれないし、私かもしれないし、姉さんかもしれないんです」
自分でも、話しているうちに声が強くなっているのが分かった。
「怖いんです。また誰かがいなくなるのが怖い」
そこまで口にして、ようやく自分が何を恐れていたのかを認められた。
姉さんはすぐに慰めようとはせず、少しの間だけ私を見つめていた。どんな言葉を返せばいいのか考えているのだろう。
「それで、私みたいな目になったんだね」
「姉さんみたいな、という言い方はやめてください。姉さん自身が、それを良いことだと思っていないでしょう」
「うん。だから最初にダメだと思ったのかもしれない。ナギサまで私みたいになったら困るから」
「どうしてです?」
「私に分からないところを、ナギサが見てくれるから」
以前聞いたものと同じ言葉だった。
「もし私が間違えたら、姉さんは言ってくれますか?」
「言うよ。私が間違ってたらナギサが言ってくれるでしょう? 今だって、理由は後から分かったけど、たぶんそれと同じことをしただけなんだと思う」
「姉さんらしくないですね」
「私もそう思う」
その答えを聞くと、張りつめていた身体から少しだけ力が抜けた。
*
それでも、疑いを捨てることはできなかった。
セイアさんが襲われたという事実は変わらず、内部に裏切り者がいる可能性も消えていない。何もしないまま次の犠牲者が出ることの方が、私には耐えられなかった。
数日後、私は補習授業部の設立案を姉さんへ見せた。
「成績に問題がある生徒を集める、というのが表向きの目的?」
「ええ。本当の目的は、疑わしい生徒を一か所にまとめて監視することです。候補者はこの四人です」
姉さんは一覧へ視線を落とした。
「この四人の中に裏切り者がいる可能性があって、試験結果が基準を下回った場合は退学させる。その条件を利用して、条約締結直前まで身柄を拘束するんだね」
「そうです。どう思います?」
姉さんは資料を読み直してから、少し考えた。
「合理的だと思うよ。疑わしい人を一か所へ集めれば監視しやすいし、試験を使えば表向きの理由も作れる。条約締結直前まで身柄を拘束できるのも都合がいい」
「姉さんもそう思いますよね」
肯定されたことで、胸の奥にあった重さが僅かに軽くなった。自分の考えが正しいと証明されたような感覚さえあった。
けれど、姉さんはそこで資料から顔を上げた。
「でも、やっていいかどうかは分からない」
「……またですか。合理的だと思うなら、それでいいのではありませんか」
「合理的なことと、やっていいことは同じじゃないでしょう。前に部活動の予算を削ろうとしたとき、ナギサが私に教えてくれたことだよ」
「状況が違います」
「うん、全然違う。だから同じだとは言ってない。でも、この四人が何を失うのかは考えた方がいいと思う」
「裏切り者がいるかもしれないんですよ」
「分かってる。でも全員が違ったら、何も知らないまま疑われて、勉強させられて、失敗したら退学になるんでしょう?」
「必要なことです。姉さんなら、やるでしょう?」
私はあえて尋ねた。
姉さんは少し考えたあと、否定せずに頷いた。
「たぶん私はやるよ。必要なら、この四人を全部切ってもいいと思える。でも、私がやるからって、ナギサもやるべきとは限らないでしょう?」
「どうしてです?」
「私は人を切れるから。ナギサは、同じことをしたら後で苦しくなる」
「だったら、やめろと言っているんですか?」
「違うよ。効率だけなら賛成してる。でも、やるべきかどうかを最後に決めるのはナギサだって言ってる」
苛立ちがこみ上げた。
「姉さんは副官でしょう。だったら、もっとはっきり意見をください」
「これでもはっきり言ってるつもりだよ。効率だけなら賛成だけど、倫理的にやっていいかは私には決められない。それを決めるためにナギサがいるんでしょう?」
「それでは、自分では決めずに全部私へ返しているだけです」
「そうだね。でも、ナギサが私に決めてほしいなら、今は聞かない方がいいと思う」
「どうしてです?」
「私なら『やればいい』って言うから。ナギサは、その言葉で背中を押してほしいんじゃない?」
図星だった。
「姉さんが合理的だと言えば、少なくとも間違いではないと思えるからです。それの何が悪いんです」
「悪いとは言ってないよ。でも、その答えを使って決めたことにしたら、『姉さんが賛成したから仕方なかった』って私を免罪符にしたことを、あとでナギサは苦しむでしょう?」
姉さんはまっすぐ私を見る。
「私は何とも思わなくても、ナギサはきっと辛くなる。だから最後は、自分で決めた方がいいよ」
私は資料へ視線を落とした。
四人の名前が並んでいるが、誰が裏切り者なのかは分からないし、そもそも本当にこの中にいるのかさえ確証はない。
それでも私は、何もしないことを選べなかった。
「……やります。補習授業部を作ります」
「分かった」
「止めないんですね」
「今の私には、間違ってるって言い切れないから。ただ、あとで『仕方なかった』だけで終わらせない方がいいと思う」
「どうしてです?」
「ナギサなら、その方がいいと思うから」
また理屈の薄い答えだった。
けれど、私はもう聞き返さなかった。
*
補習授業部の活動が始まると、予想していたより早く状況が動いた。
先生が顧問として関わり、集められた生徒たちは勉強を始めた。私はその様子を報告書越しに追い、第一次試験の結果が届いたところで、想定していたよりも彼女たちの成績が伸びていることに気づいた。
「姉さん、次の試験条件を変更します」
「もっと難しくするんだね」
「はい」
姉さんはそれ以上何も言わなかった。
「何も言わないんですね」
「言ってほしいの?」
「……本当に姉さんは」
そこまで言って、続きを飲み込んだ。
姉さんは私が何をしているのか分かっている。それでも止めないからこそ、私は姉さんの判断へ逃げることができず、自分で決め続けなければならなかった。
*
夜遅くまで仕事をしていたある日、机の上へ小さな皿が置かれた。
「何です?」
「見れば分かるでしょう。スコーンです」
「今はいいです。食欲がありません」
「夕食もほとんど食べてなかったでしょう。後で食べるって言う人は、大体そのまま食べないから、今食べて」
「誰から聞いたんです?」
「経験と予測」
思わず顔を上げると、姉さんが少し得意そうに笑っていた。
「それ、便利ですね」
「便利でしょう?」
「姉さんが言うと腹が立ちます」
「理不尽だなぁ」
私はため息をつき、仕方なくスコーンを一つ手に取った。
「これでいいですか?」
「二つ食べてほしいけど、嫌なら一つ半でもいいよ」
「どうしてそこで中途半端に妥協するんです?」
「交渉を覚えたから」
「そんなところだけ学習しないでください」
思わず笑ってしまった。
その笑いが収まると、私は手の中に残ったスコーンを眺めた。
「姉さん。私、怖いんです」
口にしてから、自分でも驚いた。
姉さんは何も挟まず、続きを待っている。
「補習授業部の中に本当に裏切り者がいるのかも分からないし、いなかったら私は何も知らない人たちを疑っていることになる。でも、いたら止めないとまた誰かが傷つくかもしれません。それに、姉さんだって狙われるかもしれない」
「私が狙われるのが嫌?」
「姉さんだけではありません。ミカさんも、ほかの誰も、もう誰かがいなくなるのは嫌なんです」
姉さんの目を見る。
いつもの透き通った目だった。
姉さんは少し考えたあと、静かに口元を緩めた。
「やっぱり、今のナギサの目は嫌だな。でも、怖いならまだナギサだと思う」
「どういう意味です? 姉さんみたいだから嫌だと言ったでしょう」
「それもあるよ。でも、私ならもっと早く切ってると思うから。誰かが傷つくかもしれないって怖がって、それでも進むしかないって悩んでるなら、そこはまだ私とは違う」
「それ、慰めになってます?」
「分からない」
「でしょうね」
私はもう一つスコーンを取った。
姉さんは何も言わなかったが、少しだけ満足そうに見えた。
*
第二次試験が近づくにつれ、私は点数や出席状況、提出物の内容を細かく確認し、どの条件まで引き上げれば候補者を脱落させられるのかを考える時間が増えていった。
資料を見ているうちに、生徒の名前より数字の方が先に目へ入るようになっていた。
「ナギサ、さっきから同じページを見てるけど、何を考えてるの?」
「次の条件です」
答えたあと、私は資料から顔を上げた。
「姉さん、私、前に言いましたよね。数字だけで人の価値を決めないでくださいって」
「言われたね」
「今の私は、それと同じことをしていますか?」
姉さんはすぐには答えず、少し考えてから口を開いた。
「同じではないと思う。でも、似ているところはある」
その言葉を聞くと、胸の奥が重くなった。
「それでも、姉さんは止めないんですね」
「ナギサが止めてほしいのか、自分でも分からないなら、今は止めないよ」
「またそれですか。本当にずるいです」
「何回目だろう。ナギサが言ったことだから、結構覚えてるよ」
姉さんは少し笑った。
「でも、止めないからって一人にするつもりはない。ナギサが決めたことなら必要な仕事はするし、間違ってるって分かったらそのとき言う。分からない間は、一緒に考えるよ」
「それでいいんですか?」
「私はそうしたい」
その答えを聞くと、それ以上尋ねることはなかった。
*
翌朝、執務室へ入ると、机の端にスコーンが二つ載った小さな皿が置かれ、その下には姉さんの字で『朝ごはん。食べること』と書かれた短いメモが挟まっていた。
「子供ではないんですが」
誰もいない部屋で呟きながら椅子へ座り、一つ手に取る。
口へ運べば、何年も食べ続けてきたのと同じ味がした。
私はそのまま補習授業部の資料を開いた。
以前の私なら、成果だけで部活動を切ろうとした姉さんに、数字には表れない価値があると言えた。ところが今の私は、誰かが裏切り者かもしれないという恐怖のために、生徒たちの努力を点数や条件として見ながら、その誰かが失敗することをどこかで期待している。
もちろん理由はあるし、必要なことなのだと説明することもできる。
それでも、何度も自分へ説明し直さなければならない時点で、何かがおかしいと自分でも気づいているのかもしれない。
姉さんが言った言葉を思い出す。
何が必要で、何が邪魔で、どこまで切れば目的に届くのかを考えるときの、姉さんと同じ目。
私は机の端に置いてあった小さな鏡を手に取り、自分の顔を映した。
そこにはいつもと変わらない自分がいるようにしか見えず、姉さんが何を見つけたのかは分からない。
しばらく鏡の中の自分を見たあと、それを机へ伏せ、残っていたもう一つのスコーンを手に取った。
今の私がどんな目をしているのかは、まだ自分ではよく分からない。
それでも、姉さんが理由を探すより先に「ダメだ」と口にしたことだけは覚えていた。
自分の感情さえ一度考えてから確かめる姉さんが、珍しく理屈より先に私を止めたという事実は、思っていた以上に長く私の中へ残った。