セーフハウスへ移ってから、時間の感覚が少しずつ曖昧になっていた。
窓の外を見れば朝か夜かくらいは分かるし、時計も動いている。それでも、いつ誰が襲ってくるか分からないという緊張の中で、同じ部屋に長く閉じ込められていると、一日ごとの境目が妙に薄くなっていった。
机の上には、補習授業部の試験結果とエデン条約関係の資料が積まれている。
姉さんは少し離れたところで、警備配置の報告書を読んでいた。
「姉さん」
「はい」
「そちら、何か変わったところはありますか?」
「今のところは特にないよ。昨日と同じ配置で、外周に四人、中に二人」
「そうですか」
「ナギサの方は?」
「補習授業部の次回試験についてです」
「また難しくする?」
「必要なら」
答えると、姉さんは一度だけこちらを見た。
何か言いたいのかと思ったが、すぐに資料へ視線を戻す。
「何ですか?」
「何でもないよ」
「本当に?」
「うん。今はまだ」
その言い方が少し引っかかったものの、追及する前に外から小さな音が聞こえた。
何かが倒れたような大きな音ではなく、廊下の向こうで硬いものが床へ落ちた程度の音だった。それでも、警備を厳重にしているこの場所では、その小さな異常だけで十分に警戒する理由になる。
私は机の横に置いていた銃へ手を伸ばした。
姉さんも同時に顔を上げる。
「聞こえました?」
「うん」
簡易通信機を取り、警備担当へ連絡する。
返答はない。
「外周、応答なしです」
「中も確認して」
別の回線へ切り替える。
やはり返事はなかった。
「全員同時に?」
「事故ではないでしょうね」
姉さんは立ち上がり、扉から少し離れた位置へ移動した。
「ナギサは後ろにいて」
「それはこちらの台詞です」
「私は副官で、ナギサはホストでしょう」
「それでも姉さんを前に出す理由にはなりません」
「今、言い合うところ?」
「姉さんが言い始めたんでしょう」
こんな状況でも、いつもの調子で返してくる。
そのことに少しだけ息が整った。
扉の向こうから足音が近づく。
一人ではない。
私は銃を構え、姉さんは私の斜め後ろへ下がった。
数秒後、扉がゆっくりと開いた。
最初に見えたのは白洲アズサさんだった。
銃を持っているが、こちらへ向けてはいない。
その後ろから浦和ハナコさんが姿を見せた。
「こんばんは、ナギサ様」
ハナコさんは普段と大きく変わらない声で挨拶した。
「どういうつもりですか」
「説明いたします。その前に、可能であれば銃を下ろしていただけると助かるのですが」
「警備の皆さんを無力化しておいて、随分と都合のいいお願いですね」
「皆さん無事です。アズサちゃんには手加減してもらいました」
アズサさんは短く頷く。
「目的は?」
「ナギサ様とミオさんを、ここから移動させることです」
「誰から守るために?」
ハナコさんが一瞬だけ黙った。
先生も何も言わない。
その沈黙だけで、嫌な予感がした。
「ミカさんです」
胸の奥が冷える。
「……何を言っているのですか」
「今回の一連の騒動に、ミカさんが深く関わっています」
「あり得ません」
考えるより先に否定していた。
「ミカさんがセイアさんを襲う理由がどこにあるのです」
「理由についても説明します」
「ここでしてください」
「この場所に留まり続けること自体が危険です」
「その根拠が、ミカさんだと?」
「はい」
私は銃を下ろさなかった。
ミカさんとは幼いころから一緒だった。
セイアさんも含めて、何度も同じ時間を過ごしてきた。
意見が合わないこともあったし、喧嘩したこともある。それでも最後には同じ場所へ戻るものだと、どこかで当然のように思っていた。
「姉さん」
呼びかける。
「どう思います?」
姉さんはアズサさんの姿を見たあと、扉の外へも一度視線を向けた。
「この二人が私たちを殺しに来たとは思わない」
「どうして?」
「警備を突破してここまで来られたなら、扉が開いた瞬間に撃てたでしょう。説明する必要もないし、こちらが構える時間を待つ理由もない」
アズサさんが淡々と続ける。
「殺すつもりなら、もう終わっている」
「アズサちゃん、もう少し柔らかく言えませんか?」
「事実だ」
姉さんは私を見る。
「ミカさんの話が本当かどうかは、まだ分からない。でも、少なくとも今ここで撃ち合う必要はないと思う」
「……」
「話を聞こう、ナギサ」
私はしばらく銃を構えたまま考えた。
やがて、ゆっくりと銃口を下げる。
「分かりました。ただし、まだ信用したわけではありません」
「もちろんです」
ハナコさんは小さく頭を下げた。
*
移動している間、私はほとんど話さなかった。
ミカさんが裏切った。
その言葉を否定するための材料を頭の中で探し続けたが、何も見つからない。
むしろ、セイアさんの襲撃から現在までの出来事を一つずつ並べるほど、自分が意識的に見ようとしなかった可能性ばかりが浮かんできた。
「ナギサ」
横を歩いていた姉さんが小さく呼んだ。
「何でしょう」
「大丈夫?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「今は、それしか答えようがありません」
「そっか」
それ以上、姉さんは何も言わなかった。
私の手を取ることも、無理に慰めることもしない。
今はその距離がありがたかった。
*
ミカさんと対面したとき、最後まで何かの間違いであってほしいという気持ちは残っていた。
「久しぶり、ナギちゃん」
ミカさんは笑っていた。
いつもの呼び方だった。
けれど、その笑顔には普段より少しだけ力が入りすぎているように見えた。
「ミカさん」
「そんな怖い顔しないでよ」
「ハナコさんから話を聞きました」
「そっか」
「否定しないんですか?」
「何を?」
「今回の件に、あなたが関わっているという話をです」
「ああ」
ミカさんは軽く息を吐いた。
「関わってるよ」
胸の奥に残っていた最後の期待が、音もなく崩れた。
「どうしてですか」
「色々あったんだよ」
「そんな説明で納得できると思っていますか?」
「思ってないよ」
「では、説明してください」
ミカさんは少しだけ首を傾げた。
「ナギちゃんって、本当に昔から変わらないね」
「今は私の話をしているのではありません」
「してるよ」
笑っている。
けれど、その笑い方は妙だった。
私を苛立たせるために、わざと軽く振る舞っているようにも見えた。
「全部私がやったって言えば、ナギちゃんは安心する?」
「ふざけないでください」
「ふざけてないよ」
「セイアさんが襲われたんですよ」
「知ってる」
「エデン条約だって、どれだけの人が準備してきたと思っているんですか」
「それも知ってる」
「なら、どうして」
「壊したかったからじゃない?」
ミカさんは肩をすくめた。
先生が表情を曇らせる。
「ミカ」
「先生は黙っててよ。これは私とナギちゃんの話だから」
「でも――」
「大丈夫」
ミカさんは笑ったまま、今度は私の隣へ視線を移した。
「ねえ、ミオちゃん」
「なに?」
「ミオちゃんはどう思ってるの?」
姉さんは少し考えた。
「何について?」
「私が裏切ったってこと」
「事実なら、対応が必要だと思ってる」
「それだけ?」
「今聞かれた範囲では」
ミカさんの口元が僅かに歪んだ。
「相変わらずだね」
「そう?」
「ナギちゃんはこんなにショック受けてるのに、ミオちゃんは本当に変わらない」
「ミカさん」
私が呼んでも、ミカさんはこちらを見なかった。
「昔からそうだったよね」
嫌な予感がした。
「ナギちゃんが怪我して泣いてたときも、ミオちゃんだけ何にも思ってないみたいな顔してた」
「ミカさん、やめてください」
「だって本当じゃん」
「今は関係ありません」
「あるよ」
ミカさんの声が少しだけ強くなる。
ハナコさんが一歩前へ出た。
「ミカさん、その話はもう――」
「私、ずっと怖かったんだよね」
ミカさんは止まらなかった。
「ナギちゃんと同じ顔なのに、ミオちゃんだけ全然違うものを見てるみたいでさ。何考えてるか分かんないし、何が起きても平気そうで」
「ミカさん」
「今だってそうでしょう?」
姉さんを見る。
「私がこんなことしたって分かっても、何にも感じてないみたい」
姉さんは何も言わなかった。
その目はいつものように透き通っていて、呼吸も乱れていない。
瞳孔も、表情も、声も普段と変わらない。
外から見れば、ミカさんの言う通りなのかもしれない。
「やっぱりミオちゃん……人としてどこか欠けてるんだよ」
ハナコさんが息を呑んだ。
「ミカさん、それ以上は」
先生も制止しようとした。
「ミカ、それは――」
「そう、かな」
姉さんが静かに答えた。
私が顔を向ける。
「……そうだね」
その声には怒りも悲しみもなかった。
瞳孔も正常。
息遣いも変わらない。
何も感じていないように見える。
けれど、私は見た。
姉さんの右手が、ほんの少しだけ握り込まれていた。
爪が掌へ食い込むほど強くはない。
注意して見なければ分からない程度の、本当に僅かな変化だった。
それでも、私には分かった。
姉さんは傷ついている。
瞬間、周囲から音が消えたような感覚に襲われた。
「訂正を」
自分の声が聞こえた。
「ナギサ様」
ハナコさんが何か言ったが、耳にはほとんど入らなかった。
「訂正してください、ミカさん」
私は前へ出た。
先生が腕を伸ばす。
「ナギサ、落ち着いて」
「私は落ち着いています」
「ナギちゃん?」
ミカさんの笑みが少しだけ薄くなる。
「どうしちゃったの? ……もしかして怒ってる?」
まだ軽い声だった。
おそらく、私が怒ることそのものは想定していたのだろう。
むしろ怒らせようとしているようにさえ見えた。
「訂正を」
「……何を訂正――」
「それ以上、姉さんを侮辱しないでください」
私は銃を抜いた。
「ナギサ様!」
「ナギサ!」
ハナコさんと先生の声が重なる。
アズサさんも僅かに身構えた。
それでも、私は銃口を下ろさなかった。
目の前にいるのは、幼いころから知っている人だった。
一緒に遊び、笑い、喧嘩をして、それでも最後には同じ場所へ戻ってきた親友だった。
それでも今だけは、その事実に意味を感じなかった。
「誰にも否定させません」
自分の声が震えていることには気づいていた。
怒りなのか、悲しみなのかは分からない。
「姉さんが人と同じように悲しめないことも、嬉しいことをすぐに嬉しいと分からないことも、私は知っています」
「ナギちゃん」
「姉さん自身が、それを誰より嫌っていることも知っています」
鏡の前で表情を練習する姉さん。
サクラコさんへ人の気持ちを尋ねる姉さん。
分からないものを、分からないまま切り捨てないために、一つずつ答えを探してきた姉さん。
「昔は、人がどうして泣くのかも、どう慰めればいいのかも、今よりずっと分からなかった。それでも姉さんは、分からないから諦めたことなんて一度もありません」
ミカさんの顔から、少しずつ笑みが消えていく。
「人がどんなふうに笑うのか、どんな言葉を掛ければ安心するのか、何を大切にしているのか、姉さんは一つずつ覚えてきたんです」
「……」
「自分には理解できないものにも価値があると覚えて、間違えたら直して、また覚えて、それを何年も続けてきたんです」
胸の奥が熱い。
「それをあなたの一言で、『欠けている人』にしないでください」
「そんなつもりじゃ――」
「では何のつもりですか!」
ミカさんの肩が僅かに揺れた。
「昔から怖かったからですか? 姉さんがあなたと同じ顔をしなかったから? あなたに分かりやすい反応をしなかったから?」
「ナギちゃん、私は」
「欠けていることくらい、私が一番知っています!」
室内が静まり返った。
姉さんまで少し目を見開いている。
「姉さんに足りないものがないなんて言っていません。姉さん自身が、自分には何かが足りないと思って苦しんできたことも知っています」
銃を握る手に力が入る。
「だからこそ許せないんです」
ミカさんを真っ直ぐ見る。
「誰にも、誰にも否定させません。あの人の歩みを、あの人の苦しみを」
ミカさんは何も言わなかった。
「姉さんが人と違うことを、姉さんが人ではない理由にしないでください」
声が少し掠れた。
「私の姉を、あなたの都合のいい言葉一つで決めないでください」
しばらく誰も動かなかった。
やがて先生が静かに口を開く。
「ナギサ、銃を下ろそう」
その声を聞いて、ようやく自分が銃を向けたままだったことを思い出した。
ゆっくりと銃口を下げる。
「……ごめん」
ミカさんが小さく言った。
その声は、今までの挑発的な調子とはまるで違っていた。
「何がですか」
「言っちゃ駄目なことだった」
私は返事をしなかった。
ミカさんは俯いたまま、しばらく黙っていた。
その横顔からは、さっきまでの自棄になったような笑みが消えていた。
「ナギサ」
姉さんが呼ぶ。
「何です」
「手」
「え?」
姉さんが自分の右手を見せた。
さっきまで少し握り込まれていた指が、今は開いている。
「もう大丈夫」
「……そうですか」
「うん」
「それなら、よかったです」
姉さんは一瞬だけ私を見たあと、少しだけ口元を緩めた。
「ありがとう」
私は返事をしなかった。
返せば、今度こそ声が震えそうだった。
*
そこから先の出来事は、後になって思い返しても、きれいな順序では記憶に残っていない。
各所で戦闘が起こり、シスターフッドや補習授業部の皆さんが動く中で、ミカさんの計画は少しずつ崩れていった。私は後方で次々と届く報告を聞きながら、それでも頭の片隅では、先ほどのミカさんの言動について何度も考えていた。
本当に、最初からすべてを壊すつもりだったのだろうか。
必要以上にこちらを挑発する態度や、私を怒らせるためとしか思えない言葉の選び方、それに自分と私たちの間へわざと深い線を引こうとするような振る舞いを思い返すほど、単純な憎しみだけでは説明しきれないものがあるように感じられた。
もちろん、確証はない。
それでも、あれほど長く一緒にいた人が、何もかもを憎んだ末にあんなことをしたのだとは、どうしても思えなかった。
ただ、その理由を考えるだけの余裕は、今の私には残っていなかった。
*
クーデターが鎮圧されたあと、私はもう一つの事実を知らされた。
「セイアさんは生きています」
そう告げたハナコさんの言葉を、私はすぐには理解できなかった。
「……もう一度、お願いします」
「セイアさんは生存しています。襲撃後に保護されていましたが、安全上の理由から、生存そのものが伏せられていたんです」
「本当に……生きているんですか?」
「はい」
その返事を聞いた瞬間、身体を支えていた力が一気に抜けた。
「生きてる……」
視界が滲み、胸の奥へ押し込めていたものが一度に込み上げてくる。
セイアさんが生きていたことへの喜びと安堵がある一方で、死んだと思い込んだまま、自分が補習授業部の皆さんへ何をしてきたのかという後悔まで押し寄せてきたため、感情の整理がまるで追いつかなかった。
「ナギサ」
すぐ近くから姉さんの声が聞こえる。
「姉さん……セイアさん、生きてるって」
「聞こえたよ」
「本当に、生きてるって」
「うん」
頬を涙が伝った。
人前で泣くことはなるべく避けてきたつもりだったが、そのときだけは止めようとも思えなかった。
「よかった……」
姉さんは私の隣で、同じ知らせを聞いていた。
大きく笑うこともなければ、涙を流すこともなく、声にもほとんど変化はない。
「……良かった」
口にしたのは、それだけだった。
それでも、私には分かった。
ほんの僅かに息が緩んだことも、最後の一音だけがいつもより柔らかくなったことも、何年も姉さんの隣にいた私には聞き取れた。
「姉さんも嬉しいんですね」
「うん。本当に嬉しいよ」
「そうですか。なら、よかったです」
「何が?」
「姉さんも嬉しいんだって、ちゃんと分かったので」
姉さんは少し不思議そうな顔をした。
「それくらい分かるでしょう?」
「分かりますよ。姉さんのことですから」
ほかの誰かには分からなくても、私には分かる。
この人が本当に傷ついたときには、ほんの少しだけ手を握ることも、本当に安心したときには声の終わりが僅かに柔らかくなることも知っている。
何年も隣を歩いてきたからこそ覚えた、ごく小さな違いだった。
それを自分だけが読み取れることが、このときばかりは妙に誇らしかった。
*
拘束されたミカさんと姉さんが話したのは、その日の夜だった。
「少し二人で話してくる」
姉さんはそれだけ言って出ていき、私は止めなかった。
戻ってきたあとで何を話したのか尋ねると、姉さんは特に隠そうともせず、いつもの調子で話し始めた。
「最初に、怒ってるかって聞かれたよ」
「それで、姉さんは何と?」
「怒ってないって答えた」
「……少しくらい怒ってください」
「怒ってないのに?」
「そういうところです」
「ミカさんにも同じこと言われたよ。『そういうところなんだってば』って」
「何て返したんです?」
「どういうところか聞いた」
思わずため息が出た。
「姉さんらしいですね」
「それから、昔から怖かったって言われた。ナギサが怪我したときの顔をずっと覚えてたんだって」
「姉さんは、それを聞いて何て?」
「怖かったなら仕方ないって答えたよ。怖い人から距離を取りたくなるのは普通でしょう?」
「理屈としてはそうですけど、そこで納得できるんですね」
「駄目?」
「駄目ではありませんが……」
姉さんは少し考えてから、話を続けた。
「あと、ナギサがすごく怒ってたって言われて、私がどう思ったのかも聞かれた」
「それには何と答えたんです?」
今度は少し長く考えている。
自分の中にあるものへ、合う名前を探しているのだろう。
「嬉しかった、で合ってると思う」
「……私が怒ったことが?」
「うん。私のことで、あんなに怒ってくれたから」
姉さんはそう言いながら、自分の右手へ視線を落とした。
「ミカさんに言われたことより、ナギサがあそこまで怒ってくれたことの方が残ってる。それなら、嬉しいで合ってるでしょう?」
「たぶん、そうだと思います」
「ナギサでも、たぶんなんだ」
「姉さんの気持ちですから。私が決めるものではないでしょう」
「そうだね」
姉さんは少し笑った。
「ミカさんにも、ナギサのことが好きなんだって言われたよ」
「姉さんは?」
「好きだと思うって答えた」
「そこも『思う』なんですね」
「自分のことだから、間違ってたら嫌でしょう?」
言葉の続きが見つからず、私は小さく息を吐いた。
「それで、ミカさんはどうでした?」
「最後は少し笑ってたよ。泣いてたけど」
「本人には言わないでくださいね」
「言わないよ」
「今、私には言っていますけど」
「ナギサだから」
姉さんは、それが理由として十分であるかのように答えた。
私も、それ以上は何も言わなかった。
*
その日の終わり、私たちは久しぶりに同じ部屋でゆっくり紅茶を飲んだ。
姉さんが淹れたものではなく、用意されていた簡単なものだったが、それでも今は十分だった。
「姉さん、私が銃を向けたとき、止めませんでしたね」
「先生たちが止めてたから」
「そういう意味ではありません。怒っている私を、姉さん自身が止めようとはしなかったでしょう?」
姉さんは少しだけ首を傾げた。
「止めた方がよかった?」
「分かりません」
「なら、分からないままでもいいんじゃない?」
「姉さんらしくないですね」
「最近、分からないままでもいいことがあるって覚えたから」
「誰からです?」
「ナギサと、サクラコさん」
「……そうですか」
私は紅茶を一口飲んだ。
少し温くなっていた。
「姉さん」
「なに?」
「ミカさんに言われたとき、本当は傷ついていましたよね」
姉さんはすぐには答えなかった。
「分からない」
「手を握っていました」
「そうだった?」
「ええ。ほんの少しだけですけど」
「じゃあ、そうだったのかも」
「他人事みたいですね」
「自分でも分からなかったから」
姉さんは少しだけ笑った。
「でも、ナギサには分かったんだね」
「姉さんのことですから」
「そっか」
それ以上、姉さんは自分の気持ちを確かめようとはしなかった。
私も、無理に答えを求める必要はないと思った。
理解できない感情でも、名前をつけられない思いでも、そこに存在しないことにはならない。
幼いころから、姉さんはずっとそうだった。
「セイアさんが戻ってきたら、またみんなでお茶をしましょう」
「ミカさんも?」
「すぐには無理かもしれません。でも、いつかは」
「先生も呼ぶ?」
「呼びましょう。補習授業部の皆さんも、できれば」
「人数、多くなりそうだね」
「姉さんがスコーンを焼けばいいでしょう」
「私?」
「得意料理でしょう?」
「唯一の、って言うつもり?」
「言いませんよ」
「今、言おうとした顔だった」
「姉さんに人の表情を読まれるとは思いませんでした」
「ナギサは見てきた回数が多いから」
「便利ですね、それ」
「でしょう?」
姉さんが笑ったので、私もつられて少し笑った。
ミカさんとの関係が元に戻るかは分からないし、セイアさんと三人で以前と同じように席を囲めるかも分からない。
それでも、姉さんが隣にいるなら、分からないことは少しずつ考えていけばいいと思えた。
姉さんには私に見えないものがあり、私には姉さんに見えないものがある。それでも互いに足りないところを補いながら、私たちはこれまでずっと一緒に歩いてきた。
これから先も同じように歩いていけるのだと、そのときの私は疑っていなかった。