クーデターが鎮圧されても、すべてが元に戻ったわけではなかった。
ミカさんの処遇については話し合わなければならないことが残っていたし、セイアさんが生存していたことによって、ティーパーティーの内部でも改めて整理しなければならないことが山ほど生まれた。補習授業部の皆さんには、私が彼女たちを疑い、退学へ追い込もうとしていたことについて謝罪したものの、一度口にした言葉や実行した行為まで消えるわけではない。
それでも時間は待ってくれず、エデン条約の締結日は目前まで迫っていたため、ゲヘナ側との調整や警備体制の確認、式典そのものの進行についても決めなければならなかった。
「ナギサ、その書類、さっきから同じところを読んでるよ」
「読んでいるのではなく、確認しています」
「もう三回目だけど、このままだと四回目になりそうだね」
「重要な部分なので、何度確認しても問題ありません」
顔を上げると、姉さんが向かいの席からこちらを見ていた。
「姉さんは、自分の仕事をしてください」
「もう終わったよ。確認する?」
「疑っているわけではありませんから、そこまではしません」
「じゃあ信じて」
「それとこれとは別です」
姉さんが笑った。
クーデターが終わってから数日が経ち、こうした何でもない会話も少しずつ戻ってきていた。
もちろん、何もなかったころと同じではない。ミカさんのことも、セイアさんのことも、補習授業部の皆さんのことも、私たちの間には確かに残っている。それでも、姉さんが仕事の途中で私へ余計な口を出し、私がそれを咎めるというやり取りができるだけで、少しだけ日常へ戻れたような気がした。
「ナギサ、ミカさんに言われたこと、まだ気にしてる?」
書類をめくろうとしていた手が止まった。
「何の話です?」
「私が欠けてるって言われた話」
「忘れてください」
「私はそんなに気にしてないよ」
「私が気にしているんです」
「それは知ってるけど、私のことなのにナギサの方がずっと引きずってるでしょう?」
姉さんは頬杖をつきながら、少しだけ首を傾げた。
「私のことなのに、ナギサの方が怒ってるね」
「姉だからです」
「私が?」
「違います。姉さんだからです」
「同じじゃない?」
「全然違います」
姉さんは少し考えたあと、やはりよく分からないという顔で笑った。
そういうところも以前と同じだった。
「もう、この話は終わりです。それより、条約当日の確認をしてください」
「はいはい」
「返事は一回で結構です」
「はい」
姉さんが資料へ視線を戻したので、私は小さく息を吐いた。
ミカさんの言葉を忘れたわけではない。それでも、本人が目の前でいつも通りにしているのなら、私までいつまでも怒り続けているわけにはいかなかった。
*
エデン条約締結の数日前、珍しく仕事が早く片づいた。
「今日はもう終わりにしようか」
姉さんがそう言ったので時計を見ると、普段ならまだしばらく仕事を続けている時間だった。
「まだ時間がありますよ」
「だから終わりにするの。毎日遅くまで働く理由もないでしょう?」
「あります」
「じゃあ今日は例外ということで」
「勝手ですね」
「副官権限」
「そんな権限はありません」
そう返しながらも、私は机の上の書類を閉じた。
姉さんは満足そうに立ち上がると、いつの間に用意していたのか、小さな茶器の一式を取り出した。
「いつ準備したんです?」
「ナギサが三回同じ書類を読んでる間」
「まだ言いますか」
「事実だから」
紅茶が注がれ、その横にスコーンが置かれる。
「今度ヒフミさんが来るんだってね、その時はモモフレンズの形にしようかな」
「……姉さんが?」
「そんなに驚く?」
「少し」
姉さんはスコーンを一つ手に取り、形を確かめるように眺めた。
「前にサクラコさんから教えてもらったでしょう。同じように好きじゃなくても、その人にとって大事だって分かればいいって」
「覚えていたんですね」
「覚えるのは得意だから。ヒフミさんが来るなら、そういう形にした方が喜ぶかなって」
「前より分かるようになりましたね」
「そう?」
「ええ」
姉さんは少しだけ嬉しそうに笑った。
その表情が本当に嬉しいのか、それとも覚えた反応なのかを、以前の私はよく考えていた。
今は、どちらでもいいと思う。
姉さんが私の言葉を受け取り、それに対して笑おうと思ったのなら、それで十分だった。
「セイアさんも呼びましょう。ミカさんは……すぐには難しいかもしれませんが、いつかは」
「先生も?」
「もちろんです」
「補習授業部の皆さんも?」
「来てくださるなら」
「サクラコさんも呼びたいな。ミネさんとヒナタさんも。それから、ウイさんも来てくれるかな」
「どこまで増やすつもりです?」
「ナギサも招待を手伝って」
「自分で言い出したんでしょう」
「副官を助けるのもホストの仕事だと思う」
「逆です」
姉さんが笑ったので、私も少しだけ笑った。
少し前まで、同じ席へ座ることさえ想像できなかった人たちがいる。それでも、いつか本当に全員で同じテーブルを囲めたらいいと思った。
「条約が終わったら、みんなでお茶をしましょう」
「うん」
「姉さんがスコーンを焼いてください。モモフレンズの形もお願いします」
「私が全部?」
「さっき自分で言っていたでしょう」
「じゃあ練習しておく」
「失敗してもヒフミさんは喜びそうですね」
「それ、褒めてる?」
「褒めていますよ」
「怪しいなぁ」
「約束ですよ」
私がそう言うと、姉さんは少しだけ目を細めた。
「うん、約束」
*
条約締結の日の朝、私はいつもより少し早く支度を終えた。
鏡の前で制服を整え、最後に、入学した日に姉さんからもらった淡い色の花の髪留めへ手を伸ばす。普段から使っているので特別なつもりはなかったが、今日は少しだけ位置を丁寧に整えた。
「ナギサ、入っていい?」
「いいですよ」
姉さんが扉から顔を覗かせた。
「準備できた?」
「今終わりました」
姉さんは部屋へ入ると、私の顔を見てから髪へ視線を動かした。
「あ、それ、今日もつけてるんだね」
「いつもつけていますよ」
「知ってるけど、やっぱり似合ってる」
「入学式の日にも聞きました」
「言ったことは覚えてるよ。今日も似合ってるって意味」
「なら、ありがとうございます」
姉さんは満足したように頷いた。
「では行きましょうか」
「うん」
部屋を出ようとしたところで、姉さんの左手に赤いものが見えた。
「待ってください。手を見せてください」
「右?」
「左です」
いつかと同じやり取りをしながら確認すると、人差し指の近くに小さな傷があった。
「いつ怪我したんです?」
「分からない。朝の準備かな」
「手袋は?」
「今日はしてたよ」
「本当に?」
「本当。それでもどこで怪我したのか分からないから、私も困ってる」
「開き直らないでください」
鞄から絆創膏を取り出すと、残っていたのは一枚だけだった。
「これで最後ですね。帰りに買わないと」
「ナギサがいないと困るね」
「姉さんのためだけに補充しているわけではありません」
「でも、ほとんど私が使ってる気がする」
「そこは反省してください」
傷へ絆創膏を貼ると、姉さんはその様子をじっと見ていた。
「帰ったら新しいものを買いますから、今日はこれ以上怪我をしないでください」
「努力する」
「その返事は信用できません。約束してください」
「今日、約束多いね」
「破らなければ問題ありません」
「うん、分かった」
姉さんは笑った。
そのときの私は、その笑顔を特別なものだとは思わなかった。
*
古聖堂は、想像していたより静かだった。
式典を目前に控えて周囲には多くの生徒や関係者が行き交っていたが、建物そのものが持つ重さのせいなのか、内部へ入ると声や足音が少し遠く感じられた。
「ナギサ様」
姉さんが後ろから呼ぶ。
人前なので、いつもの呼び方へ戻っている。
「何でしょう、ミオさん」
「髪留めが少しずれています」
「本当ですか?」
「はい。少しだけ」
姉さんが手を伸ばし、触覚のない指で慎重に位置を直した。
「これで大丈夫です。やっぱり似合っていますよ」
「それも今朝聞きました」
「何回言ってもいいでしょう?」
「まあ、構いませんけど」
そう私が言うと、姉さんは少し笑った。
*
最初に聞こえたのは、遠くから響いてくる低い音だった。
何かがおかしいと思って顔を上げた次の瞬間、空気そのものを叩きつけられたような衝撃が走り、床が大きく揺れた。天井から破片が落ち始め、耳の奥では激しい音が鳴り続けている。
「ナギサ!」
姉さんの声が聞こえた直後、反応するより早く身体を強く押された。
視界が傾き、床へ倒れ込みながら崩れ落ちる天井を見上げたものの、何が起きているのか理解するより先に何かが視界を塞いだ。
「姉さ――」
そこから先のことを、私は覚えていない。
*
最初に戻ってきたのは音だった。
何かが崩れる音と遠くで誰かが叫ぶ声が混ざり合い、耳の奥で形のない塊になっている。次第に白く濁った視界も戻り、崩れた天井の隙間から細かな埃がゆっくり落ちているのが見えた。
身体を動かそうとしても、腕も脚も思うようには動かず、自分の身体なのにどこにあるのかさえ曖昧だった。
触覚がないこと自体は昔からなので、その感覚の欠落に戸惑うことはない。それでも、見える範囲の状態から考えて、自分がまともではないことくらいは分かった。
いつもなら、まず状況を整理する。
どこを怪我したのか、身体を動かせるのか、周囲に危険が残っているのか、何をすれば生存率を上げられるのかという順番で考えるのが、これまでの私だった。
けれど、そのとき最初に浮かんだのは自分の状態ではなかった。
ナギサの姿を探して視線を動かすと、少し離れたところに彼女が倒れているのが見えた。胸が僅かに上下していることに気づき、生きているのだと理解した瞬間、身体の奥で張りつめていたものが一気にほどけていった。
安心したのだと、考えるより先に分かった。
どうしてそう感じるのか、どんな感情に分類すればいいのかを確かめる必要もなく、ただナギサが生きていることが嬉しくて、頬を伝うものが涙だと気づいたころには、次の感情まで押し寄せてきていた。
怖かった。
このまま死ぬことも、ナギサを置いていくことも、ナギサが死ぬことも耐えられないと、理由を探すより先に理解できた。
私は死にたくなかったし、もっとナギサと一緒にいたかった。
条約が終わったら、みんなでお茶をする約束をした。
私がスコーンを焼き、ヒフミさんのためにモモフレンズの形も作って、セイアさんやミカさん、先生や補習授業部のみんなも呼ぶ。その席でナギサが紅茶を淹れるのだと、ついさっきまで当たり前の未来として考えていた。
まだ何一つ叶えていない。
あの約束を果たしたいという思いが、驚くほど強く胸の中にあった。
ナギサの髪には、朝に整えた花の髪留めがまだ残っている。
少しだけ位置がずれていた。
またずれてるよ、と言いながら、いつものように手を伸ばして直してあげたいと思ったとき、これまで何度も分からないままにしてきたものが、不意に一つの形へつながった。
私はずっと、ナギサのことが好きだった。
サクラコさんへ尋ねる必要もなければ、ミカさんに言われて「好きだと思う」と答える必要もない。ナギサが笑えばまたスコーンを焼こうと思ったことも、怪我をすれば心配されると分かっていながら手袋を忘れたことも、私のために怒るナギサを見て嬉しかったことも、花の髪留めを何年も使ってくれていることを嬉しいと思っていたことも、すべて最初から同じ場所へつながっていた。
今なら、それが分かる。
鏡の前で表情を練習しなくても、誰かの答えを借りなくても、何も考えずに分かることができる。
私はナギサが好きだった。
胸の奥が、不思議なくらい痛かった。
身体の表面では何も感じられないはずなのに、これまで知ったどんな痛みよりも強いものが、確かに自分の中にあった。
ずっと、こうなれたらいいと思っていた。
誰かが悲しければ自分も自然に悲しくなり、誰かが嬉しければ自分も嬉しくなるような、考えなくても人の心が分かる人になりたかった。
簡単になると思っていた。
けれど実際に手に入れてみると、分かるということは想像していたよりずっと苦しく、怖く、それでも不思議と嫌ではなかった。
ナギサは、私の片割れであり、私とは違う道を歩く人だ。
迷い、怖がり、それでも誰かを人として見ようとする。私なら必要だと判断すれば切り捨てられるものを、彼女は切り捨てることができずに苦しみ、それでもその苦しみごと抱えたまま進もうとする。
私にはできないことを、ナギサはずっと当たり前のようにしてきた。
私は自分のことを、どこか出来損ないだと思っていた。
同じ日に生まれたのに、ナギサには最初から分かることが私には分からず、人を愛し、人から愛され、そのことを自然に受け取る彼女を隣で見ながら、どうすれば同じようになれるのかを考え続けてきた。
けれど今は、自分がどうだったかよりも、ナギサには幸せになってほしいという思いの方が強かった。
私がそこにいなくても笑っていてほしいし、セイアさんやミカさんや、これから出会う誰かと一緒に、日の当たる場所を歩いてほしい。
その隣に私がいなくても、私たちが一緒に過ごした時間まで消えるわけではないのだと思うと、怖さの中にも僅かな安堵が生まれた。
とく、とく、とく。
頭から流れ出てくる。血と、致命的な何か。
視界が少しずつ白くなっていく。
瓶の底から覗いたときのように世界が歪むのではなく、景色そのものが薄くなり、輪郭を失っていくようだった。それでも、最後までナギサだけは見えていて、花の髪留めも、閉じた瞼も、頬についた埃も、どうしようもなく愛しく思えた。
私は、この人を誇りに思っていたのだ。
今なら、その感情にも迷わず名前をつけられる。
笑いたいと思った。
誰かに見せるためでも、安心させるためでも、正しい反応だからでもなく、ただナギサを見ていると笑いたかったので、私は何も考えずに口元を緩めた。
「……綺麗な人」