古聖堂で意識を失ったあと、私が次に目を覚ましたのは病院だった。
最初に白い天井が視界へ入り、少し遅れて機械の規則的な作動音が聞こえてきた。身体を起こそうとすると脇腹に鈍い痛みが走り、その刺激をきっかけに、崩れ落ちる古聖堂の天井と、私を突き飛ばした姉さんの姿が一度に蘇った。
「姉さんは?」
そばにいた看護担当の生徒へ尋ねた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「ミオ様のことでしょうか」
「姉さんはどこですか。無事なんですか?」
相手が一瞬だけ答えに詰まったことで、胸の奥が急速に冷えていく。
「生きています。ただ、頭部に大きな損傷があり、現在も意識は戻っていません」
生きているという言葉だけで、張りつめていたものが僅かに緩んだ。
「会えますか?」
「ナギサ様も安静が必要ですので、今は――」
「会えますか?」
もう一度尋ねると、相手は困ったように私を見た。
結局、その日のうちに姉さんへ会うことはできなかった。
*
姉さんが眠る病室へ入ることを許されたのは、それから二日後だった。
頭には包帯が巻かれ、身体にはいくつもの機器がつながっていたが、顔だけを見れば、いつものように静かに眠っているようにも見えた。
「姉さん」
ベッド脇の椅子へ座って呼びかけても、返事はない。
「今日は、条約の後処理について話してきました。色々ありましたけど、先生たちも動いてくださっていますし、ゲヘナ側とも連絡は取れています」
何を話せばいいのか分からなかったので、結局いつものように仕事の話をした。
「ミカさんのことも、まだ全部決まったわけではありません。セイアさんも心配していましたよ」
眠っている姉さんへ話しかけることに意味があるのかは分からなかったが、何も言わずに座り続けることには耐えられなかった。
布団の上に出ている姉さんの手へ視線を落とす。
生まれつき触覚がなく、子供のころから何度も怪我をして、そのたびに私が絆創膏を貼ってきた手だった。古聖堂へ向かう朝にも小さな傷へ最後の一枚を貼ったはずだが、治療のために外されたのか、もうどこにも残っていない。
「姉さん」
私はその手をそっと取った。
姉さんの手には、きちんと体温があった。
私にはその温度が分かるのに、姉さんには今も、私がこうして握っている感触さえ伝わらない。
「起きてください。約束したでしょう」
条約が終わったら、みんなでお茶をする。
そんな、つい数日前まで当たり前に訪れると思っていた未来を思い出した。
「まだ何も終わっていませんよ」
口にしてから、少しおかしいと思った。
条約そのものは、もう終わっている。
古聖堂で起きたことによって、私たちが思い描いていた形とはまるで違うものになったけれど、それでも時間だけは私たちを置いて先へ進んでいた。
姉さんだけが、この病室に取り残されている。
「姉さんが起きれば、また戻れますから」
何に戻るのか、自分でもうまく説明できなかった。
それでも私は、姉さんが目を覚ましさえすれば、いずれ以前の日常へ戻ることができるのだと信じたかった。
*
姉さんが目を覚ましたという連絡を受けたのは、それからさらに数日後だった。
そのとき私はティーパーティーの会議へ出ていたが、報告を最後まで聞くより先に席を立った。廊下を急ぎながら、姉さんが生きていて、目を覚まし、また話ができるのなら、それだけで十分だと何度も自分へ言い聞かせた。
病室へ着いて扉を開ける。
「姉さん」
ベッドの上にいた姉さんがこちらを向き、目が合った。
「ナギサ」
名前を呼ばれた瞬間、私はその場で足を止めた。
姉さんの頬を、涙が流れていた。
「……姉さん?」
「よかった。ナギサが無事で、本当によかった」
泣きながら笑う姉さんを見た途端、何も考えられなくなった。
私はベッドへ近づき、そのまま姉さんの手を握った。
「姉さんこそ、本当に何をしているんですか」
「ごめん」
「謝らないでください。生きていてくれたなら、それでいいです」
姉さんはまた涙をこぼしながら、小さく頷いた。
その顔を見て、私は心から安心した。
姉さんが帰ってきたのだと、そのときは本気でそう思っていた。
*
最初の違和感は、姉さんが目を覚ましてから数日が経ったころに現れた。
それは、疑わなければ見過ごしてしまう程度の小さな違いだった。
「ナギサ、これ見て」
病室へ入ると、姉さんが窓の外を指差した。
「何です?」
「さっきから、あそこに鳥がいるの。かわいいでしょう?」
窓の外を見ると、小さな鳥が手すりへ止まっていた。
「ええ。よく見つけましたね」
「近くで見たいな」
姉さんはそう言って、ごく自然に笑った。
私は返事をしながら、胸の奥に僅かな引っかかりを覚えた。
以前の姉さんも、鳥を見て「かわいい」と言うことはあっただろう。ただ、その言葉を選ぶ前には、目の前にあるものと過去の経験を照らし合わせ、これは人が「かわいい」と呼ぶものなのだと確かめる、ごく短い時間があったように思う。
今の姉さんには、その間がない。
鳥を見て、かわいいと感じ、それを口にするまでが一続きになっている。
「ナギサ?」
「いえ、何でもありません」
「そう?」
姉さんは不思議そうに首を傾げた。
その表情にも、以前ならどこかにあったはずの確認の跡がなかった。
あまりにも自然だった。
*
姉さんの身体的な回復は順調だった。
頭部の負傷は重かったものの、記憶や言語能力に目立った障害はなく、過去の出来事もほとんど覚えている。
私の名前も、ミカさんやセイアさんのことも、ティーパーティーでしてきた仕事も、サクラコさんへ相談していたことも、スコーンの作り方も、私へ髪留めを贈った日のことも残っていた。
だから最初は、何も失われていないのだと思った。
「ナギサ、最近ちゃんと寝てる?」
退院へ向けた準備が始まったころ、姉さんが私の顔を見ながら尋ねた。
「寝ていますよ」
「嘘。目の下が少し暗いよ」
「姉さんに顔を読まれると、何となく複雑ですね」
「仕事が忙しいの?」
「することはありますけど、大丈夫です」
いつものように答えたつもりだった。
その瞬間、姉さんがベッドから身体を起こし、私を抱き寄せた。
「……姉さん?」
「少し休んで」
突然のことに身体が固くなる。
「どうしたんですか」
「疲れてそうだったから」
「それで抱きしめたんですか?」
「うん。そうしたかったから」
あまりにも簡単に返されて、息が詰まりそうになった。
「したかったから?」
「変だった?」
姉さんは少し照れたように笑う。
「……いえ、変ではありません」
以前の姉さんなら、私が疲れていることに気づけばスコーンを持ってきたり、休んだ方がいいと声を掛けたりしただろう。私の方から肩へ頭を預ければ、離れるまでそのまま動かずにいてくれた。
けれど、自分から抱きしめることはほとんどなかった。
私がそうされることを望んでいるのか、自分には判断できないからだった。
今の姉さんは、疲れている妹を見て抱きしめたいと思い、その感情に従って迷わず行動した。
「姉さん、今、何を考えています?」
「ナギサが少しでも楽になればいいなって思ってるよ」
「それだけですか?」
「それだけって、どういう意味?」
本当に分からないという顔で尋ねられ、私は目を伏せた。
「いえ、何でもありません」
抱きしめられた身体には、姉さんの体温が伝わってくる。
もちろん、姉さん自身はその温度を感じていない。
触覚だけは、事故のあとも戻らなかった。
そこだけは、以前と同じだった。
*
退院してからしばらく経ったある日、姉さんは初めて古聖堂でのことを自分から話した。
「死ぬかもしれないって思ったとき、すごく怖かったんだよね」
「覚えているんですか?」
「全部じゃないけど、ナギサが倒れてたことは覚えてる。息をしてるのが見えて、本当に安心した」
姉さんは自分の手を見ながら、少しだけ笑った。
「私、あのとき初めてちゃんと分かった気がする」
「何をです?」
「ナギサに死んでほしくないってこと」
胸の奥に、説明しづらい痛みが生まれた。
「前から、そう思っていたでしょう」
「思ってたとは思うよ。でも、今みたいには分からなかった」
姉さんは胸元へ手を置いた。
「今は、ナギサが悲しそうなら私も苦しくなるし、嬉しそうなら私も嬉しい。前にミネさんへ言ったこと、覚えてる?」
「普通になれたら楽そうだ、と言っていたことですか?」
「うん。本当だった」
姉さんの声が僅かに弾んだ。
「……そうですか」
「ナギサ、嬉しくない?」
そう尋ねられて、返事が僅かに遅れた。
「嬉しいですよ。姉さんがずっと望んでいたことでしょう」
「うん。ずっと、こうなりたかったから」
姉さんは迷いなく頷いた。
私は笑ってみせた。
「よかったですね、姉さん」
その言葉を口にした瞬間、誰かを裏切ったような感覚が胸に残った。
誰を裏切ったのか、そのときの私には分からなかった。
*
退院後、姉さんは一度サクラコさんのところへ挨拶に行った。
私も別件でシスターフッドを訪れていたため、その場に居合わせることになった。
「ミオさん、退院おめでとうございます」
「ありがとう。色々心配をかけたね」
「お気になさらないでください」
姉さんは以前より柔らかく笑ったあと、少し嬉しそうに続けた。
「そうだ。私、普通になれたみたいなんだよね」
サクラコさんの表情が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……そう感じているのですね」
「うん。今は、人の気持ちが前より分かる。前は考えないと分からなかったことが、そのまま入ってくる感じで」
「それは、ミオさんにとって嬉しいことですか?」
「嬉しいよ」
迷いのない答えだった。
サクラコさんは静かに微笑んだものの、その笑顔にはどこか慎重なものが混じっていた。
「でしたら、そのお気持ちは大切にしてください」
「はい」
一度そこで会話が終わりかけたが、サクラコさんは少し考えたあと、姉さんを呼び止めた。
「ただ、ミオさん。以前のあなたを、私が治すべきものだと思っていたわけではありません」
姉さんは少し驚いたようだった。
「分かってるよ。サクラコさんは、ずっと付き合ってくれたからね」
「そうですか」
「昔の私、いっぱい変なことを聞いてたね」
「私は変だとは思っていませんでしたよ」
「でも、今なら自然に分かることが多くて、嬉しい」
姉さんは笑った。
サクラコさんは、それ以上何も言わなかった。
その沈黙の意味を、私は何となく理解できる気がした。
*
「経過は良好です。運動機能にも大きな問題はありませんが、しばらく無理はしないでください」
ミネさんは診察結果を確認しながらそう告げた。
「分かったよ」
「触覚については、事故前と変化なしですね。痛みも分かりませんか?」
「うん。そこは以前のままみたい」
姉さんは少しだけ残念そうに答えたあと、自分の頭を指差した。
「でも、こっちは変ったよ。治ったみたい」
以前にも見たことのある仕草だった。
ミネさんの言葉が止まる。
「……治った、とは?」
「前に聞いたでしょう。こっちは治せないのかって。今は、人と同じように感じられる」
姉さんは笑っていたが、ミネさんはすぐには頷かなかった。
「ミオさん、これは治癒とは言えません」
「どうして?」
「以前の状態を、私は病気や負傷だと診断していません」
「でも、今の方が普通でしょう?」
「普通であることと、健康であることは同じではありません」
「じゃあ、今の私は何なのかな?」
ミネさんは答えようとして、わずかに言葉を詰まらせた。
「少なくとも、私は今のあなたを病気だとも言えません」
「……難しい、ね」
「ええ」
姉さんは少し考えたあと、やがて静かに笑った。
「私は、今の方が楽。それなら、それでいいよね?」
ミネさんは僅かに目を伏せた。
「あなたがそう感じていることまで、否定するつもりはありません」
それ以上の答えを、誰も出すことはできなかった。
*
ミカさんが姉さんと再会したとき、最初は普段よりも少し静かだった。
「ミオちゃん、もう大丈夫なの?」
「うん。ほとんど元通りだよ」
「そっか」
ミカさんは笑ったが、その笑顔はどこか硬かった。
以前の姉さんなら、気づかなかったかもしれない。
「ミカさん、無理して笑ってる?」
ミカさんの顔が固まった。
「……え?」
「何か気になることがあるでしょう」
「どうして分かったの?」
「見れば分かるよ」
姉さんは当たり前のように答えた。
ミカさんはしばらく何も言えず、わずかに後ずさるように姿勢を変えた。
「ミオちゃん、なんか……普通になったね」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が固くなったように感じた。
「ミカさん」
私が声を掛けるより先に、姉さんは笑った。
「うん。私もそう思うし、嬉しいよ」
「……そっか」
ミカさんの顔から笑みが消えた。
「ごめんなさい」
「何が?」
「前に言ったこと。欠けてるって」
「ああ、それなら気にしなくていいよ。ミカさんが言ったから事故に遭ったわけじゃないでしょう?」
「それは分かってるけど」
「なら大丈夫だよ」
姉さんは自然にそう答えた。
ミカさんは何も返せなかった。
その横顔を見ながら、私はミカさんの言葉を思い出していた。
人としてどこか欠けている。
今の姉さんは、少なくともミカさんがあのとき欠けていると感じた部分を持っている。それなのに、ミカさんの顔には安堵も喜びも浮かばず、むしろ以前より苦しそうに見えた。
*
姉さんが昔使っていたノートを見つけたのは、退院してからしばらく経ったころだった。
「これ、何だっけ」
机の引き出しから薄いノートを取り出した姉さんを見て、私はすぐに思い出した。
「サクラコさんのところへ行く前に、相談したいことを忘れないよう書いていたノートではありませんか?」
「そんなことまでしてたんだ」
「覚えていないんですか?」
「書いたこと自体は覚えてるけど、最近は開いてなかったから」
姉さんは少し笑いながらページを開き、私も隣から覗き込んだ。
『人が大切にしているものを理解できないとき、理解したふりをするのは嘘になるのか』
『慰めるとき、相手が欲しい言葉が分かっているなら、自分が同じ気持ちでなくても言っていいのか』
『ナギサがスコーンを食べて笑うと、もう一度作ろうと思う。これは何に分類するのか』
最後の一文を読んだところで、姉さんが思わずというように笑った。
「私、こんなことまで考えてたんだね」
「笑うところですか?」
「だって、今なら普通に分かるから」
「何がです?」
「ナギサが喜ぶと、私も嬉しかったんでしょう?」
私は姉さんを見た。
「……そう思います?」
「うん。今なら、それ以外に思いつかないかな」
「昔の姉さんには、分からなかったのに」
「そうみたいだね」
姉さんはページをめくりながら、どこか他人の記録でも読むような穏やかな表情をしていた。
「昔の私、ずいぶん悩んでたんだなぁ」
「覚えているんでしょう?」
自分でも少し強い言い方になった。
姉さんが顔を上げる。
「覚えてるよ」
「だったら、昔の自分がどう感じていたかも分かるんじゃないですか?」
姉さんはしばらく考えた。
「記憶としては分かるよ。サクラコさんに聞きに行ったことも、鏡で表情を練習していたことも、自分が何を考えていたのかも覚えてる」
「では――」
「でも、今の私には、どうして分からなかったのかが分からない」
胸の奥が冷えた。
「どういう意味です?」
「例えば、これ」
姉さんはスコーンについて書かれた一文を指差した。
「今なら、ナギサが笑ったから私も嬉しくて、また作りたくなったんだってすぐ分かる。でも昔の私は、それを一つずつ考えないと分からなかったんでしょう?」
「……そうです」
「その感覚が、今はうまく分からないんだよね」
姉さんは困ったように笑った。
「変な感じだね。自分のことなのに」
私は何も言えなかった。
姉さんは覚えている。
最初のスコーンを作ったことも、それを食べた私が笑ったことも、そのあと何度も焼いたことも覚えている。
鏡の前で笑い方を練習した夜も、サクラコさんへ相談した日も、ミネさんへ「治せないか」と尋ねたことも、記憶としては何一つ消えていない。
それでも、今の姉さんは、その記憶を見ている場所が違う。
昔の姉さんが何時間もかけて考え、失敗しながら答えを探していたことへ、今の姉さんは一瞬で答えを出すことができる。
そこにある記憶は同じなのに、その記憶を生きていた人の感覚だけが、もう届かない場所へ移ってしまったように思えた。
「ナギサ?」
姉さんの声で顔を上げる。
「何です?」
「怖い顔してるよ。何かあった?」
「……いえ、何でもありません」
「本当に?」
「本当です」
以前の姉さんなら、その返事を受け取ったあと、私がそれ以上話したがっているかを判断できず、そのまま引いたかもしれない。
今の姉さんは違った。
私の顔を見ただけで、言葉とは別の場所に何かがあると察し、まだ心配そうにこちらを見ている。
その変化を、私は嬉しいと思うべきなのだろう。
実際、姉さん自身は以前よりずっと幸せそうだった。
人が悲しめば自然に胸が痛み、誰かが嬉しければ自分も嬉しくなる。鏡の前で表情を練習する必要も、サクラコさんへ答えを聞きに行く必要も、経験と予測を重ねて一つずつ確かめる必要もない。
姉さんの世界から、厚い瓶底が取り払われたのかもしれない。
以前よりも澄んだ世界の中で、人の表情も感情も、そのままの形で見えるようになった。
それなら、喜ぶべきことのはずだった。
姉さんは生きている。
記憶も残っているし、私のことも覚えている。
好きだったものも、得意な料理も、言葉の癖も変わっていない。
古聖堂から、ちゃんと帰ってきたはずだった。
それなのに私は、姉さんが目を覚ましたあの日からずっと、何か大切なものを失ったような感覚を抱え続けていた。
何を失ったのか、その正体だけがまだ分からなかった。
*
姉さんが自分の部屋へ戻れるようになってから、私は何度か片づけを手伝った。
長く留守にしていたせいで、机の上には古い書類や読みかけの本が残り、棚の奥にはもう使わないものまで押し込まれていた。姉さん自身は体調もかなり戻っていたけれど、まだ無理をさせるわけにはいかなかったので、私が要るものと要らないものを確認しながら箱へ分けていった。
「これは残します?」
「うん。それは使うと思う」
「では、こちらは?」
「もう要らないかな」
姉さんは迷いなく答えていく。
昔から物への執着が強い人ではなかったので、その点だけを見れば以前とほとんど変わらない。
それでも、棚や引き出しを一つずつ開けていくたび、私はそこに残されたものへ目を止めてしまった。
昔使っていたノート。
ティーパーティーの資料。
何度も書き直されたスコーンの分量。
鏡のそばに置かれていた、小さなメモ。
どれも姉さんのものだった。
けれど、それらを見ていると、荷物を整理しているというより、もう会えない誰かの思い出を一つずつ数えているような気がした。
「ナギサ?」
「何です?」
「さっきから手が止まってるよ」
「少し考え事をしていただけです」
「疲れたなら休もうか?」
「大丈夫です。もう少しだけやりましょう」
姉さんは心配そうに私を見たものの、それ以上は何も言わなかった。
棚の一番奥へ手を伸ばすと、小さな箱が指先に触れた。
「こんなところにもありますね」
「何が?」
「箱です」
取り出して蓋を開ける。
中に入っていたものを見た瞬間、呼吸が止まりそうになった。
飲み口の一部が欠けている、白い磁器に、淡い青色の花が描かれたカップだった。
幼いころ、私が姉さんへ誕生日プレゼントとして贈ったものだった。
姉さんは何年もそのカップを使い続け、ある日、欠けた縁で唇を切った。
危ないから捨ててほしいと頼んだとき、いつもなら必要のなくなったものへ執着しない姉さんが、あのときだけは珍しく渋った。
どうして捨てたくないのか本人にも分からないまま、それでも手放したくないと言っていた。
最後には私の頼みを聞き入れ、捨てると約束したはずだった。
「あ」
隣から姉さんの声がした。
「いけない。捨てるの忘れちゃってたね」
姉さんが何でもないことのように手を伸ばした。
気づけば、私はその手をはねのけていた。
「わっ、どうしたの?」
姉さんが驚いて目を見開いた。
その表情は、何の準備もなく、心の奥からそのまま浮かび上がったものだった。
あの人は、そんな顔を何も考えずには作れなかった。
夜の鏡の前で、驚いたときにはどれくらい目を開けば自然に見えるのか、眉をどう動かせばいいのかを確かめながら、何度も表情を練習していたことを私は知っている。
「……ダメです」
「え?」
「これは……ダメだから」
自分でも何を言っているのか、うまく説明できなかった。
姉さんが捨て忘れていたというだけなら、何もおかしくないはずだった。
危険なカップを捨てることも、今の姉さんなら当然の判断だった。
それでも、その手がカップへ伸びた瞬間、どうしても触れさせてはいけないと思った。
視界が滲み、頬を涙が伝った。
「ナギサ?」
姉さんは一瞬だけ困ったような顔をしたあと、すぐに私へ近づいた。
「ん~? しょうがないなぁ、ナギサは」
そう言って、姉さんは何の迷いもなく私を抱きしめた。
私は何も言えなかった。
昔の姉さんなら、泣いている私を見て、どうすればいいのかを考えたかもしれない。
慰めるべきなのか、そばにいるだけでいいのか、それとも触れてもいいのかを、自分の中で一つずつ確かめようとしたかもしれない。
今の姉さんは、そんなことを何も考えず、ただ私が泣いているから抱きしめてくれた。
あの人がずっと、考えなくてもできるようになりたいと願っていたことを、今の姉さんは当たり前のようにしている。
その腕の中で、私はようやく分かった。
記憶は残っている。
私のことも、スコーンのことも、鏡の前で表情を練習したことも覚えている。
それでも、あの時間をあの人なりのやり方で生き、分からないものを分からないまま抱えながら、それでも人を理解しようとして歩いていた人は、もうここにはいない。
今の姉さんが偽物なのではない。
今ここで私を抱きしめ、心配してくれている気持ちも、本物なのだと思う。
それでも、私が知っていたあの人は、古聖堂から帰ってこなかった。
ああ、桐藤ミオは死んだのだ。
読んでいただき、ありがとうございました。