「はぁ……」
日もすっかり暮れた正義実現委員会の執務室に、羽川ハスミのため息が落ちた。
机の上には、今夜の巡回報告書と始末書、それから修繕費の見積書が重なっている。割れた窓ガラスが十二枚。壊れた壁が二面。街灯が三本。走行不能になった車両が一台。消費した弾薬については、数える途中で一度ペンを置いた。
「はぁ……」
二度目のため息は、少しだけ長かった。
最近、トリニティの近隣では小さな騒動が続いている。騒動そのものは珍しくないし、委員長である剣先ツルギの働きに不満があるわけでもない。彼女が出れば、どんな事件も驚くほど早く片づく。そこだけを見れば、これ以上頼もしい委員長はいないだろう。
問題は、事件と一緒にその周辺まで片づいてしまうことだった。
「はぁぁぁぁ……」
三度目ともなると、もはやため息というより、身体の奥に溜まっていた疲労そのものだった。
ツルギの実力『は』認めている。疑いようもなく認めている。けれど、壁を突き破らなくても正面の扉は開いていたし、逃走車両を止めるために別の車両を投げつける必要が本当にあったのかは、明日の会議で確認しなければならない。
そう考えただけで、こめかみのすぐそばがずきりと痛んだ。
時計の針は、間もなく午後8時を指そうとしている。ハスミは最後の書類に署名し、きっちりと端を揃えてから立ち上がった。
「……そろそろ、行っておきますか」
もちろん、夜間巡回の続きである。
少なくともハスミは、そういうことにしていた。
羽織った外套の襟を高くし、通りに人影がないことを確かめる。頭上の輪も、背中に広がる大きな黒い翼も隠せてはいなかったが、本人が変装のつもりならば、それはきっと変装なのだろう。
同じころ、午後七時半。
《パティスリー・シオン》には予約の客もなく、閉店時間が八時ということもあって、私はそろそろ閉店準備を始めようと思っていた。
「お姉ちゃん、そろそろレジ閉めていいー?」
「んー? あ、今日はちょっと待って。あと一人来ると思うから」
あと一人? 予約なんてあったっけ。
そう思ってレジ横の予約リストを見ても、そこに新しい名前はない。今日の予約分は、すでに五時に受け取りに来たお客さんでおしまいのはずだった。
「来ると思うって、予約じゃないの?」
「予約じゃないよ。でも、今日は木曜日だから」
「何それ」
お姉ちゃんはそれ以上説明せず、厨房の奥で何かを確認し始めた。
時計の針が進み、閉店まであと五分。
さすがに今日は来ないんじゃないか。そんなふうに油断していた、そのときだった。
扉のベルがカランと小さく鳴った。
店の外を何度も気にしながら、一人のお客さんがそっと入ってくる。大きな外套に、隠しきれていない黒い翼。その人は急いで扉を閉めると、ようやく息をついた。
「いらっしゃいませ。《パティスリー・シオン》へようこそー」
「あ、あの。まだカフェのほうは大丈夫ですか……?」
凛とした見た目とは反対に、少し落ち着かない様子だ。
私はとりあえず、厨房にいるお姉ちゃんを見る。お姉ちゃんは親指と人差し指で、オーケーの丸を作っていた。
「大丈夫です。お好きな席へどうぞ」
「ありがとうございます。閉店間際に申し訳ありません」
その人が外套を脱ぐ。そこでようやく見えた整った横顔に、私は何度か瞬きをした。
「……羽川ハスミ先輩?」
正義実現委員会の副委員長。トリニティの生徒なら、本人と話したことがなくても顔くらいは知っている。知らないふりをするほうが難しいくらい、いろいろな意味で目立つ人だ。
ハスミ先輩も私の顔を見て目を見開き、それから人差し指を口元へ立てた。
「静かにお願いします、杏山カズサさん」
「あ、はい。……私のこと知ってるんですね」
「同じトリニティの生徒ですから。それに店長さんから話は聞いていましたので」
「あぁなるほど……」
そこまで答えたところで、お姉ちゃんが厨房から顔を出した。
「いらっしゃい、ハスミちゃん。やっぱり来たね」
「店長さん。なぜ私が来ると分かったのですか?」
「木曜日は、このくらいの時間に来ることが多いから」
ハスミ先輩は何か言い返そうとして、やめた。反論できるほど来店回数が少なくないらしい。
私はお姉ちゃんとハスミ先輩を交互に見た。
「……もしかして、常連?」
「カズサさん」
ハスミ先輩の声が一段低くなり、私は反射的に背筋を伸ばした。
「はい」
「このことは、どうか内密に」
「はい」
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。ここでは、ただの甘いもの好きなお客さんだから」
「店長さん」
「はいはい。正義実現委員会の副委員長でもある、甘いもの好きのお客さんね」
ほとんど訂正されていなかった。
ハスミ先輩は諦めたように息をつき、店のいちばん奥、外から見えにくい席へ向かう。その足取りに迷いはない。いつも座る場所まで決まっているようだった。
私は入口の札を「CLOSED」へ返してから、ハスミ先輩の前へ水とメニューを運んだ。
「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」
「もう決まっています。シフォンケーキと紅茶をお願いします。それから、できれば……」
ハスミ先輩の視線が、厨房の冷蔵庫へ吸い寄せられる。
「生クリームは、いつもより多めで」
「苺も付ける?」
お姉ちゃんが奥の厨房から尋ねた。
「……お願いします」
細かいところまで、完全にいつもの注文らしい。
私はショーケースからシフォンケーキを取り出した。焼き色のついた表面にナイフを入れると、ふわりと沈んだ生地がすぐに元へ戻る。切り分けた一切れを皿に載せ、砂糖を控えめにした生クリームを横へ絞る。多め、と言われたので普段よりひと回り大きく。それから苺を三つ、半分に切って添えた。
「カズサ、もう少し」
お姉ちゃんが横から言った。
「え?」
「生クリーム。ハスミちゃんの『いつもより多め』は、もう少し」
「店長さん。余計な情報を教えないでください」
「でも、注文は正確に受けないと」
仕方なく、私はもう一度絞り袋を構えた。白いクリームの山が一段高くなる。今度はお姉ちゃんが満足そうに頷き、ハスミ先輩は気まずそうに目を逸らした。
なるほど。かなりの常連だ。
紅茶と一緒に皿を運ぼうとすると、お姉ちゃんが小さな皿を差し出した。
載っているのは、いつものシフォンより少しだけ濃い色をした、細めの一切れだった。断面には細かな紅茶の葉が見える。
「これも一緒にお願い。紅茶味のシフォン、今日試作したの」
「注文には入ってないけど」
「サービス。いつも来てくれてるお礼と、味の感想を聞かせてもらいたくて」
注文したシフォンも、試作の紅茶味も、今日焼いたのはお姉ちゃんだ。型から外したとき、どちらもきれいに膨らんだと本人も満足そうにしていた。
私は二枚の皿と紅茶をトレーへ載せ、ハスミ先輩の席へ運んだ。
「お待たせしました。こちらがご注文のシフォンケーキです。それと、店長から試作の紅茶味をサービスで」
「よろしいのですか?」
「はい。よければ、率直な感想を聞かせてください」
ハスミ先輩は小皿を見て、それから厨房のお姉ちゃんへ目を向けた。
「ありがとうございます。では、遠慮なくいただきます」
ハスミ先輩は背筋を伸ばしたままフォークを取り、まず普通のシフォンの先端を小さく切った。そこへ生クリームを載せ、苺を少しだけ添える。動作の一つひとつは、見本にしたくなるくらい上品だ。
けれど、それを口へ運んだ瞬間だけは違った。
黒い翼が、ふわりとほどけるように広がった。
「……おいしい」
小さな声だったけれど、すぐそばにいた私にはよく聞こえた。
「今日の生地、いつも以上に軽いですね」
ハスミ先輩は二口目を切りながら、ひどく真剣な顔で言った。
「ありがとう。今日は焼き上がりがうまくいったの」
お姉ちゃんが厨房から答える。
「さすが店長さんです。生地のきめも細かいですし、甘さもクリームの邪魔をしていません」
「じゃあ、試作のほうも遠慮なく見てね」
ハスミ先輩は少し照れたように視線を落とし、今度は試作の紅茶シフォンへフォークを入れた。
最初の一口には、生クリームも苺も添えない。味を見るためなのか、生地だけを小さく切って口へ運ぶ。
「……こちらも、おいしいです」
「本当? 香り、弱くない?」
「いいえ。強すぎないので、生地の卵の風味も残っています。紅茶と一緒にいただいても、くどくありません」
「じゃあ、もう少しだけ茶葉を増やしても大丈夫そうかな」
「その場合は生クリームを少し控えめにしたほうが合うかもしれません……私はこのままのほうが好きですね」
お姉ちゃんは嬉しそうに頷いた。ハスミ先輩は試食を頼まれただけなのに、まるで報告書をまとめるときのような真剣さで、もう一口確かめている。
「参考になったよ。ありがとう、ハスミちゃん」
「こちらこそ。サービスでいただいたものですから」
そう言いながら、ハスミ先輩は試作のシフォンをもう一口切った。ゆっくり食べているように見えるのに、二枚の皿は驚くほど早く空になっていく。一口ごとに翼の力が抜けて、最初はぴんと張っていた羽根が、いつの間にか椅子の背へ柔らかく沿っている。
「今日は、ずいぶん疲れてるみたいだね」
お姉ちゃんがティーポットへ湯を足しながら言った。
「顔に出ていましたか?」
「顔には出てないよ。入ってきたとき、翼がいつもより固かったから」
ハスミ先輩は自分の翼を振り返り、眉を寄せた。自覚はなかったらしい。
「近頃、委員長が少々張り切りすぎていまして。事件の処理自体は早いのですが、その後の書類が……」
「ああ、それで今日は『いつもより多め』なんだ」
「それとこれとは別です」
「そう?」
「……まったく無関係とは言いませんが」
認めるんだ。
お姉ちゃんは笑いながら、空いた小皿を下げた。
「ここにいる間くらい、副委員長じゃなくていいんじゃない? 閉店後だから、もうほかのお客さんも来ないし」
「そういうわけには……」
ハスミ先輩は反射的に言いかけて、それから、残っていた苺を見た。
「……いえ。今だけは、お言葉に甘えます」
その顔は、入ってきたときよりずっと穏やかになっていた。
私は新しい紅茶を注いでから、カウンターの端に置かれていた小さなカードに気づいた。
猫の肉球が並んだ、《パティスリー・シオン》のポイントカード。空いている欄は、あと一つだけだった。
「お姉ちゃん、これ」
「ああ、そうだった。今日でいっぱいだね」
その言葉に、ハスミ先輩がはっと顔を上げた。
「本当ですか?」
声が少し弾んでいた。
私と目が合うと、ハスミ先輩は咳払いを一つして、すぐにいつもの落ち着いた表情へ戻る。
「いえ。店の制度は正確に把握しておくべきだと思っただけです」
「そういうことにしておきます」
私はスタンプをお姉ちゃんへ渡した。お姉ちゃんが最後の欄へ足跡を一つ増やすと、カードは端から端まで小さな猫が歩いた跡で埋まった。
その裏面には、満了時の特典が書かれている。
――お好きなケーキを、ワンホールと交換。
ハスミ先輩の視線が、文章の上でぴたりと止まった。
「それじゃあ、どれにする?」
お姉ちゃんが尋ねる。
ハスミ先輩はすぐには答えなかった。目を閉じ、まるで作戦を組み立てるときのように考え込む。苺のショートケーキ。チョコレートケーキ。チーズケーキ。それから、さっき食べたばかりの試作の紅茶シフォン。今まで食べたものを、一つずつ思い出しているのかもしれない。
やがて、その目がさっきまで普通のシフォンが載っていた皿へ落ちた。
「……シフォンケーキをお願いします」
「やっぱり?」
「紅茶味じゃなくていいの?」
「試作もとてもおいしかったですが、今夜はいつものシフォンがいいです。生クリームと苺も合いますから」
「なるほど」
お姉ちゃんは待ってましたとばかりに笑うと、厨房の奥から白い箱を持ってきた。どう見ても、今から用意したものじゃない。
「用意してたの?」
「ポイント、あと一個だったでしょ。今日は来ると思って、ひとつ取っておいたの」
「店長さん。私はまだ選ぶ前でしたが」
「違うのがよければ、これは明日店に出すよ」
そう言われたハスミ先輩は、箱とお姉ちゃんを見比べた。箱の小窓からは、きれいな焼き色のついた丸いシフォンが見えている。
迷いは、三秒も続かなかった。
「……こちらでお願いします」
「はい、毎度ありがとうございます」
お姉ちゃんが箱を開け、形が崩れていないかを見せる。中央に丸い穴のあいた、背の高いシフォンケーキ。飾りは何もないけれど、だからこそ、ふわふわした生地の柔らかさがよく分かる。
ハスミ先輩は嬉しそうに眺めていたが、何か足りないことに気づいたらしい。
お姉ちゃんはそれを見逃さなかった。
「生クリームは別添えにしておくね。苺も入れておくから」
「いえ、特典でそこまでしていただくわけには」
「じゃあ、いらない?」
「……量は?」
「たっぷり」
「お願いします」
返事が早い。
私は思わず笑いそうになって、慌てて箱を留めるふりをした。
お姉ちゃんが用意した生クリームの容器は、別添えという言葉から想像する大きさの二倍はあった。苺も一パック近く入っている。ハスミ先輩は少し気にしていたけれど、シフォンケーキは軽いので問題ありません、と誰に聞かれたわけでもない説明を口にしていた。
軽いのは持ったときの話で、たぶんそういう問題じゃない。
でも、今日のハスミ先輩がどれだけ疲れていたかは、さっきの話で分かっている。私は余計なことを言わず、箱を紙袋へ入れた。
「フォークは何本お付けしますか?」
「一本で」
「即答ですね」
「これは私のポイントカードで交換したものですから」
それはそうだけど、羽根を少し逆立ててまで主張することだろうか。
お姉ちゃんは笑いながら紙袋を渡した。それから、手を離す前に念を押す。
「ハスミちゃん。一度に食べるのは三分の一までね」
「分かっています」
「生クリームも三分の一」
「……分かっています」
「今日一切れ食べたから、持ち帰った分は明日から」
「店長さん」
「冗談だよ」
たぶん半分くらいは本気だったと思う。
すべての片づけが終わるころ、ハスミ先輩は大きな紙袋を両腕で大事そうに抱え、もう一度外套を羽織った。
「それでは、失礼します。カズサさんも、今夜見たことは……」
「誰にも言いませんよ。私だって、学校でバイトのことを言いふらされたくないし」
「そうでしたね。では、お互いに秘密ということで」
ハスミ先輩はほっとしたように微笑んだ。
「いつものシフォンも、試作の紅茶味も、本当においしかったです。また来ます」
「ありがとうございます」
扉が閉まり、鍵をかける。すぐに足音は遠ざかっていった。
「……あれで隠れてるつもりなのかな」
「本人が隠れてるつもりなら、見なかったことにするのが優しさだよ」
お姉ちゃんはそう言って、ハスミ先輩が使っていたカップを片づけ始めた。
私は最後のトレーを棚へ戻しながら、黒い翼と大きな紙袋が夜道を歩いていく姿を想像した。
たぶん、誰にも見つからないほうが難しい。
ハスミは来たときよりも軽い足取りで、正義実現委員会の宿舎へ戻っていた。
腕の中には、シフォンケーキがワンホール。別添えの生クリームと苺もある。これを三等分し、明日から三日かけて食べる。今日はもう店で一切れ食べたのだから、箱を開けるのは明日の朝だ。
完璧な計画だった。
問題があるとすれば、紙袋から漂う甘い香りが、先ほどから何度もその計画を揺さぶっていることくらいだ。
宿舎の門が見えてくる。あと少し。部屋へ着いたら冷蔵庫へ入れて、顔を洗い、すぐに眠ろう。明日はいつもより少し早く起きればいい。朝食としてなら、シフォンケーキを食べても何もおかしくはない。
そこまで考えたところで、門柱の影から人影が現れた。
乱れた長い黒髪。見慣れた制服。夜闇の中でも妙に鋭く光って見える赤い目。
ハスミの足が止まった。
「……ツルギ。まだ起きていたのですか」
「巡回」
ツルギは短く答え、ハスミの顔をじっと見た。
その視線が、両腕で抱えた大きな紙袋へ落ちる。
甘い香りに気づいたのか、ツルギがわずかに首を傾げた。
「ハスミ」
「……何でしょう」
「何食べてる?」
その夜四度目のため息は、最初の三回よりもずっと深かった。