午後のお茶に間に合うよう、私はいつものケーキ屋へ向かっていました。
生地は少し軽めで、クリームは甘すぎず、普段淹れている紅茶にもよく合う。今日もいつものロールケーキを一本お願いして、そのまま帰るつもりでした。
ところが、角を曲がったところで、いつもと違う匂いがしました。
卵やバターの、甘い香りではありません。何かが焦げたような匂いに、思わず足を緩めます。顔を上げると、見慣れた看板の向こうから、薄い煙が立ち上っていました。
「……はい?」
店の前まで来て、私は足を止めました。
看板は斜めに傾き、窓ガラスはなくなっています。入口だった場所には扉の片側だけが残り、その前で店長さんが、箒を持って途方に暮れていました。
つい先日まで、何も変わらず営業していたはずなのですが。
「ああ、ナギサ様……申し訳ありません。今日は、ちょっと」
「こちらは、いったい……」
「美食研究会です」
短い答えで、事情の大半が分かってしまいました。
「……ゲヘナの?」
「はい。季節限定の新作が売り切れていたのが、お気に召さなかったようで。少し前に、店を爆破されまして」
店長さんは箒を持ったまま、通りの向こうを見ました。
「こちらが気づいた時には、もう逃げていましたよ。足の速いこと、速いこと……」
私もそちらへ目を向けましたが、それらしい生徒の姿は、どこにもありません。
ゲヘナの美食研究会。行動についての報告には覚えがあります。できれば、馴染みのお店で、その被害を確かめることにはなりたくなかったのですが。
「皆さん、お怪我は?」
「それは大丈夫です。ただ、今日お出しするはずだったケーキは……」
店長さんの視線が、店の中へ向きました。私もつられて見てから、今日のロールケーキについて尋ねるのをやめました。
「……そうでしたか」
「本当に、申し訳ありません」
「いえ。どうぞお気になさらず」
せめてお茶の時間には間に合うようにと、私は時計を確認しました。あまり余裕はありません。いつもと違うものにすることも考えましたが、ロールケーキを食べるつもりでここまで来たせいか、ほかのお菓子がうまく思い浮かびませんでした。
「仕方ありませんね……とりあえず、近くのケーキ屋を」
店長さんに会釈して、来た道を少し戻ります。煙の上がる通りから一本外れたところに、小さな看板がありました。
パティスリー《シオン》。扉の脇の黒板には、今日のケーキと飲み物が並んでいます。ガラス越しに見える店内には、二人掛けのテーブルがいくつか置かれていました。
ここに、ロールケーキがあるといいのですが。
私は看板をもう一度見上げてから、扉へ向かいました。
ロールケーキの端を切り落とす時、お姉ちゃんはいつも、ためらわずに包丁を入れる。
商品として出すためには、断面を綺麗に揃えた方がいい。それは分かる。分かるけど、焼き色のついた生地と白いクリームがくるりと巻かれているのを見ると、もう少しだけ残してもいいんじゃないかと思ってしまう。
「カズサ。そんなに見てるなら、食べていいよ」
「別に、そういうつもりじゃないけど」
「じゃあ、私が食べようかな」
「……食べる」
差し出された小皿を受け取り、フォークで端の一切れをすくう。口に入れると、ふんわりした生地がクリームと一緒にほどけた。冷蔵庫から出したばかりなのに生地は固くなくて、飲み込んだ後には、卵とミルクの香りが少し残る。
「どう?」
「おいしい」
「もう少し、作ってる人が喜びそうな感想は?」
「もう一個食べたい」
「それは喜んでいいのかなあ」
お姉ちゃんは笑いながら、残った端の一切れを私の皿に載せた。
平日の午後。学校帰りに店へ入って、エプロンを着けて、最初の仕事がこれだった。正確には仕事でも何でもないけれど、味を確かめるのも必要なことだと思う。
ちょうど最後の一口を飲み込んだところで、店の扉についたベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
皿を作業台へ置き、厨房から顔を出す。
入口に立っていた人を見て、私はそのまま足を止めた。
明るい金髪に、白を基調とした上品な服。背中の羽を少し畳んで扉をくぐる仕草まで、どこかの式典で見た時と同じように、きちんとしている。
ティーパーティーの、桐藤ナギサさんだった。
「……いらっしゃいませ」
二度目の挨拶が出た。
「こんにちは。こちら、店内でもいただけるのでしょうか」
「はい。大丈夫です」
声がいつもより少し高くなった気がした。学校で見かけることはあっても、こうして目の前で話すのは初めてだ。しかも、私の着けているエプロンには、さっき味見したクリームがついているかもしれない。
さりげなく胸元を確認してから、窓際の二人掛けのテーブルへ案内した。
「こちら、どうぞ。お水とメニュー、持ってきます」
「ありがとうございます」
ナギサさんは椅子へ腰掛けると、小さな鞄を膝の上へ置いた。店内をゆっくり見回して、それから、厨房の方へ目を向ける。
私はその視線から逃げるように、厨房へ戻った。
「お姉ちゃん」
「うん?」
「ティーパーティーの人、来てる」
「見えたよ」
「……普通に言うね」
「ケーキを食べに来てくれたんでしょう?」
お姉ちゃんは、切り分けたロールケーキを冷蔵庫へしまいながら答えた。
「ほら、お水」
グラスを渡される。確かに、お客さんを待たせてまで厨房で相談することじゃない。私はメニューを一冊取り、ナギサさんの席へ戻った。
「お待たせしました。注文が決まったら、呼んでください」
「あの、その前に一つ伺っても?」
「はい」
「ロールケーキはございますか」
私は開いたメニューの中央を指した。
「あります。プレーンと、果物の入ったもの。それから、今日は紅茶のロールケーキも出してます」
ナギサさんの視線が、私の指先を追った。ひと通り説明を読んでから、プレーンのところで止まる。
「果物の入っていない、生クリームのものをお願いします。紅茶は、ダージリンをストレートで」
「プレーンのロールケーキと、ダージリンですね」
「それから、気に入ったら一本、持ち帰らせていただきたいのですが」
「一本でも売ってます。今、姉が仕上げたところなので」
「そうですか。よかった……」
最後の言葉だけ、少し小さかった。
注文票へ書き込みながら、私は何となく、その顔を見た。姿勢も話し方も変わらないのに、店へ入ってきた時より、少しだけ肩が下がっている。
「ロールケーキ、探してたんですか?」
聞いてから、余計なことだったかもしれないと思った。けれど、ナギサさんは嫌な顔をせずに頷いた。
「いつもお願いしているお店が、営業できなくなってしまったんです。今日のお茶に用意するつもりだったものですから」
「急なお休みですか?」
「伺ったら、すでに爆破された後でした」
「……え?」
注文票へ向けていたペンが止まった。
ナギサさんは、ごく普通にお店の都合を説明するような顔で続ける。
「ゲヘナの美食研究会だそうです。季節限定の商品が売り切れていたとか。私が着いた時には、もう逃げてしまっていたそうで」
「それ、お店休むっていうか……」
「ええ。当面は、難しいでしょうね」
そこでようやく、小さなため息が聞こえた。
「あの、怪我とかは?」
「私は大丈夫です。ただ、ロールケーキは買えませんでした」
「それで、うちに?」
「はい。近くで買えるところを探していて、こちらの看板を見かけました」
ナギサさんはメニューへ目を落とし、指先で端を整えた。
「急なことで、少し困ってしまって。……食べ慣れたものがあると、つい、同じものを選んでしまいますね」
「それは、分かります」
思わず答えていた。
新しい店へ入るのは好きだけど、いつもの店で、いつものものを頼むのだって好きだ。今日はあれを食べようと思っていたのに売り切れていると、ほかにおいしそうなものがあっても、すぐには決められない。
目の前の人も、そういうことはあるらしい。
「私も、買うつもりだったものがないと、しばらくメニュー見直します」
「ええ。違うものを選べば済む話なのに、なかなか」
「もう、口がそれになってるから」
ナギサさんは一度瞬きをして、それから、少しだけ笑った。
「……まさに、そういう感じです」
私は注文票を閉じた。
「じゃあ、持ってきます。うちのが気に入るかは、食べてから決めてください」
「はい。楽しみにしています」
そう言ってもらえたのに、厨房へ戻る足取りは、さっきより少し慎重になっていた。
「一本でのお持ち帰りも、考えてるって」
注文を伝えると、お姉ちゃんは頷いて、白い皿を取り出した。
「じゃあ、まず一切れね」
「いつも買ってるお店があるんだって。今日は美食研究会に爆破されて、それで来たらしい」
「……あら。あの人は大丈夫なの?」
「怪我はないって。ケーキが買えなくなっただけで」
言ってから、それだけで済ませていい話なのか、少し分からなくなった。ただ、ナギサさんが探しているのは、本当にロールケーキらしい。
「あっちの味と違ったら、どうするの」
お姉ちゃんは包丁を持ったまま、私を見た。
「違うでしょうね。うちで作ってるんだから」
「……それは、そうだけど」
「食べてみて、好きだと思ってもらえたら嬉しいよ」
あまりに普通の答えだったので、私はそれ以上、何も言えなくなった。
お姉ちゃんは包丁を温めて、水気を拭き取る。生地を押し潰さないように刃を動かすと、厚めに切られた一切れが静かに離れた。クリームの渦が、さっき私の食べた端より、ずっと綺麗に見える。
皿には、余計な飾りを載せなかった。果物もソースもない。淡い焼き色の生地と、白いクリームだけ。
さっきは何も考えずに二切れ食べたのに、運ぶ前になって、私はそのケーキをじっと見てしまった。
「カズサ」
「何?」
「おいしかったんでしょう?」
「……うん」
「じゃあ、紅茶が冷めないうちに」
私はトレーに皿とティーポットを載せた。
ティーパーティーの人に紅茶を出す、というのも、考え始めると落ち着かない。でも、茶葉の量も、お湯の温度も、蒸らす時間も、いつも教わっているとおりにした。ここから心配しても、濃くなったり薄くなったりするだけだ。
「お待たせしました。プレーンのロールケーキと、ダージリンです」
皿を置くと、ナギサさんは小さく会釈してから、断面を眺めた。
「綺麗に巻かれていますね」
「姉が作ってるので」
「杏山さんのお姉様が?」
名前を呼ばれて、私は少し驚いた。ナギサさんの視線を追ってみると、エプロンにつけた名札を見ていたらしい。
「あ、はい。杏山カズサです。姉はシオン。店の名前も、姉の名前から取ってます」
「そうでしたか。桐藤ナギサと申します」
「……知ってます」
つい正直に言ってしまうと、ナギサさんは困ったように微笑んだ。
「それでも、ご挨拶はしておきませんと」
そう言ってから、フォークを手に取った。
私は一歩下がり、空いたトレーを抱えたまま、すぐには席を離れなかった。見ていれば食べにくいだろうと思ったけれど、最初の一口だけ、気になってしまった。
フォークが、淡い色の生地へ入る。クリームの渦を少し含んだ一口が切り取られ、ナギサさんの口へ運ばれた。
静かに噛んで、飲み込んで。それから、もう一度、皿へ目を落とす。
「……生地が、おいしいですね」
聞こえた声に、私は思わず顔を上げた。
「クリームもいいんですけれど、この生地……思っていたより、しっとりしています」
「冷えてても、固くなりにくいように作ってるんだって」
お姉ちゃんから聞いたことを、そのまま答えた。
ナギサさんは、今度は外側の生地を少し多めに切り取った。
「なるほど。ふわっとしているのに、口の中で乾かないんですね。卵の香りも、ちゃんと残っていて」
もう一口食べた後、カップを持ち上げる。紅茶を飲むと、少し考えるように視線を窓へ向け、それから、またケーキに戻した。
「甘さもちょうどいいです。紅茶の香りを邪魔しませんし、クリームの後に生地の風味が残るので、次の一口をいただきたくなります」
「……そんなに分かるんだ」
口に出してから、私は慌てて言い直した。
「いや、変な意味じゃなくて。私、さっき食べたけど、おいしいとしか言わなかったので」
ナギサさんはカップを置き、口元を緩めた。
「私も、普段はそこまで考えていませんよ。ただ、よくいただくものですから」
「ロールケーキ、好きなんですね」
「ええ。……かなり」
最後の言葉だけ、少し照れたように付け足す。
私はようやく、トレーを抱え直した。
「じゃあ、ごゆっくり」
「ありがとうございます」
厨房へ戻ると、お姉ちゃんがこちらを見た。
「どうだった?」
「生地がおいしいって。クリームも」
「よかった」
「あと、紅茶の香りを邪魔しなくて、次の一口を食べたくなるって」
「カズサより、ずっと詳しく教えてくれるね」
「……だから、私の感想は、おかわりしたいって言ったでしょ」
お姉ちゃんが笑う。その声を聞きながら窓際へ目を向けると、ナギサさんはまた、一口分を丁寧に切り取っていた。
店へ来た時より、フォークを動かす間隔が少し短くなっている。カップを持ち上げる手も、最初ほどかしこまっていなかった。
私はそれを見て、やっと、ほかのテーブルを片づける気になれた。
ナギサさんに声をかけられたのは、それから少ししてだった。
皿は綺麗に空いている。ティーポットには、まだ紅茶が残っていた。
「お持ち帰り、一本にしますか?」
「はい。お願いします。それから……」
ナギサさんはメニューへ視線を落とし、もう一度、私を見た。
「店内で、もう一切れいただいても?」
「同じので?」
「同じもので」
即答だった。
私が注文票へ書いている間、ナギサさんはなぜか、少しだけ説明を付け足した。
「紅茶がまだ残っていますし。一本でお願いする前に、もう少し、味を確かめておきたくて」
「もう一本、頼んでますけど」
「……そうでしたね」
目が合った。
ナギサさんが先に、小さく笑う。
「では、単純に、もう一切れ食べたいということで」
「はい。分かりました」
私も少しだけ笑って、注文票を閉じた。
二切れ目を運ぶ時には、お姉ちゃんも一緒に席へ出てきた。
「シオンです。気に入っていただけたみたいで、嬉しいです」
「こちらこそ。急に伺ったのに、ありがとうございます」
ナギサさんは姿勢を正したけれど、今度は、フォークを置いたまま固くなることはなかった。
「いつものお店とは、少し違う味でした。でも、こちらのロールケーキも、とても好きです」
「よかった。一本のものは、お持ち帰りになる時間に合わせて箱へ入れますね」
「ありがとうございます。……こちら、生地は何か特別なものを?」
「特別な材料というほどではないですよ。巻いて、冷やして、それでも柔らかく食べられるように、配合と焼き加減を調整してます」
「冷たいクリームと一緒にいただいた時に、ちょうどよくなるんですね」
「そうなんです。焼けた時においしくても、その後、店で食べてもらうまで時間がありますから」
お姉ちゃんの話を、ナギサさんは真剣に聞いていた。厨房で私が聞いている時より、話す方も楽しそうだ。
私は空になった最初の皿を片づけながら、二人の話に耳を傾けた。
生地を巻く時の温度。クリームの柔らかさ。巻き終えてから、形が落ち着くまで冷やすこと。普段なら、それを聞いた後で実際にやってみて、私が失敗するところまでがひと続きになっている。
今日は、ナギサさんが「なるほど」と頷くたびに、お姉ちゃんが少し嬉しそうな顔をした。
「カズサも、この前、一本巻いてみたんですよ」
「ちょっと、お姉ちゃん」
「そうなのですか?」
「……練習で。売ってるのは、姉のですから」
念のため、そこははっきりさせておいた。
「綺麗に巻けました?」
「横から見たら、ちょっと潰れてました」
「ちょっとだけ?」
お姉ちゃんが余計なことを言う。
「……だいぶ。でも、味は同じだったし」
「ええ。形が違っても、おいしいものはおいしいですものね」
ナギサさんはそう言ってから、目の前の一切れを見た。
「でも、こうして綺麗な渦になっていると、いただく前から嬉しくなります」
私は皿を持ったまま、断面へ目を落とした。
お姉ちゃんが端を切り揃える理由は、さっきも分かっていた。分かっていたけど、いま聞いた言葉の方が、ずっと覚えていられそうだった。
「……次は、もうちょっと綺麗に巻きます」
「はい。楽しみにしていますね」
簡単に言われてしまって、私は少し困った。ティーパーティーの人に食べてもらう予定までできたら、練習の時から落ち着かなくなりそうだ。
お姉ちゃんは、そんな私を見て笑いながら厨房へ戻っていった。
一本のロールケーキを箱へ入れて、保冷剤を添える。蓋を閉じる前に、私は切り揃えられた両端を確認した。
さっきまでナギサさんの皿に載っていたのと同じ、綺麗な渦が見える。
紙袋を渡すと、ナギサさんは両手で受け取った。
「冷蔵庫へ入れて、今日中に食べてください。切る時は、包丁を少し温めて、水気を拭いてからだと綺麗に切れます」
「分かりました。お茶の時間が楽しみです」
ナギサさんは紙袋へ目を落とした。
「綺麗に切り分けてみます。せっかく、こんなに綺麗に巻いてくださったので」
ナギサさんは財布を鞄へ戻してから、店のカードを一枚、手に取った。
「一本でお願いする場合は、事前にご連絡した方がよろしいでしょうか」
「そうですね。売り切れることもあるので、前の日までに言ってもらえたら、取っておけます」
「では、次からはそうします」
私は少しだけ、手を止めた。
次、と、自然に言ってくれた。
「……はい。お待ちしてます」
扉を開けると、外の風が店内へ入ってきた。ナギサさんはカードを鞄へしまい、紙袋を持ち直す。
「ごちそうさまでした。お姉様にも、よろしくお伝えください」
「ありがとうございます」
頭を下げて見送った後、私は扉を閉めた。
窓の向こうを、白い姿が通り過ぎていく。来た時より少し軽い足取りに見えたのは、紙袋を持っているからかもしれない。
「カズサ」
厨房から、お姉ちゃんが呼んだ。
「うん?」
「明日、巻く練習してみる?」
「……見てたんでしょ、さっきの」
「聞こえただけだよ」
私はエプロンの紐を結び直した。
「する。綺麗にできたら、私が食べるから」
「綺麗にできなかったら?」
「それも食べる」
「練習の目的、合ってる?」
私は答えずに、洗い終わったグラスを拭き始めた。お姉ちゃんはそれ以上追及しなかったけど、しばらく、楽しそうに笑っていた。
持ち帰った箱を開けると、綺麗なクリームの渦が見えました。
教わったとおりに包丁を温め、水気を拭いてから切り分けます。生地が潰れずに切れると、それだけで、少し嬉しくなりました。
お皿へ一切れずつ載せ、淹れたての紅茶と一緒にテーブルへ運びます。
「お待たせしました」
「……またロールケーキ!?」
お皿を見たミカさんが、背もたれへ身体を預けました。大きなため息までついて、こちらを見上げてきます。
「ナギちゃん、昨日もロールケーキだったよね? その前も」
「昨日は紅茶のロールケーキでした」
「味の話じゃなくて、毎回巻いてあるって話!」
隣でセイアが、静かにカップを持ち上げました。
「少なくとも、今日はいつもと違うもののようだね」
「ええ。今日は別のお店で買ってきました」
「違うお店なら、違うケーキを買うって選択肢もあったんじゃないかなあ……」
ミカさんはもう一度、やれやれという顔でため息をつきました。それでもフォークは手に取って、目の前の一切れへ先を入れます。
「まあ、食べるけど。せっかく買ってきたんだし」
その言葉には、あまり期待していない響きがありました。
私は自分の席へ腰掛け、紅茶を一口飲みます。ミカさんが最初の一口を食べたのは、ちょうどその時でした。
「……ん?」
フォークが、口元で止まります。
お皿を見て、もう一度、生地を切り取る。今度はクリームを少し多めに含ませ、口へ運びました。
「これ……」
「どうかしましたか?」
「いや、何でもないけど」
そう言いながら、もう一口。
さっきまで椅子へ預けていた背中が、少し前へ起きました。フォークの先が生地に入るたび、白いクリームが柔らかく沈みます。ミカさんはそれを崩さないようにすくって、口へ運んでいました。
私はカップを持ったまま、しばらく、その様子を眺めてしまいました。
「……何?」
視線に気づいたミカさんが、顔を上げます。
「いえ。どうですか?」
「どうって……」
ミカさんはお皿を見下ろしました。もう、最初の半分ほどになっています。
「いつものと、違うね」
「ええ。それで、お味は?」
「……おいしい」
声が、急に小さくなりました。
私は答えを聞いてから、少し遅れて頷きます。
「そうですか。よかったです」
「ナギちゃん、何でそんなに嬉しそうなの?」
「嬉しいからですが」
「……もう」
ミカさんがこちらから目を逸らしたところで、セイアさんがカップを置きました。自分のお皿から一口、ゆっくり食べて、それから、まだ照れているミカさんへ視線を向けます。
「すまないね、ミカ。もう少し、はっきり言ってくれないかな」
「聞こえてたでしょ、今の!」
「最初の『またロールケーキ』は、よく聞こえたのだけれど」
セイアさんの口元に、薄く笑みが浮かびます。
ミカさんは少し頬を赤くし、フォークを持ったまま、私たちを交互に見ました。
「……おいしいです。このロールケーキ、おいしい。これでいい?」
「ええ。ありがとうございます」
「ナギサが嬉しそうにしている理由も、よく分かったよ。いいものを見つけたね」
セイアさんまでそう言ってくれたので、私はますます、顔を整えるのが難しくなりました。
「二人とも、からかわないでください」
「先にからかったのはセイアちゃんだからね?」
ミカさんはそう言いながら、残った生地を食べます。セイアさんもまた、一口分を切り取って、ゆっくり味わっていました。
紅茶を注ぎ足す頃には、ミカさんのお皿が空になっていました。
箱の中には、まだロールケーキが残っています。私がそちらへ目を向けると、ミカさんもつられて見て、それから、わざとらしく窓の方へ顔を向けました。
「おかわり、いかがですか?」
「……薄く切ってくれるなら」
「もう飽きてしまったのでは?」
今度は私まで、つい、言ってしまいました。
ミカさんが振り返ります。
「いつものには、だよ。今日のは、まだ飽きてないの!」
セイアさんが声を立てずに笑いました。私も笑いを抑えながら立ち上がり、包丁を温め直します。
今朝出かけた時には、いつものものを買って帰るつもりでした。あの店のロールケーキは好きですし、買えなくなったことは、やはり残念です。
それでも、今日の一切れを見つけられたことは、帰り道からずっと、嬉しいままでした。
「ナギちゃん。それ、薄すぎない?」
切り分けたお皿を差し出すと、ミカさんが不満そうに眉を寄せました。
「薄く、とおっしゃいましたから」
「限度があるでしょ、限度が!」
私はもう一切れ、少しだけ薄く切って、隣へ並べました。
二度目にナギサさんが来たのは、三日後だった。
入口で私を見ると、先に小さく会釈してくれた。案内したのは、この前と同じ窓際の席だ。
「この前のロールケーキ、好評でした」
「よかった。姉にも言っときます」
「はい。今日は一本、持ち帰りを。それから、こちらでも一切れお願いします」
メニューを開く前に注文が決まっていて、私は少しだけ笑ってしまった。
「紅茶も、前と同じので?」
「ええ。それでお願いします」
厨房へ伝えると、お姉ちゃんはすぐに皿を出した。私はティーポットを温めながら、窓際を見た。ナギサさんは今日は、鞄を隣の椅子に置いていた。
その次は、電話で一本の取り置きを頼まれた。
来店した時には少し急いでいる様子だったので、そのまま渡そうとしたら、ナギサさんは席の方へ目を向けた。
「……一切れいただく時間は、ありそうですね」
「紅茶、すぐに淹れます」
「お願いします」
結局、その日も窓際の席に座って、ロールケーキを食べてから帰っていった。
さらに次に来た時は、雨が降っていた。
濡れた傘を閉じるのに少し手間取っていたので、タオルを持って入口へ行く。ナギサさんは礼を言って受け取り、羽の先についた水滴をそっと押さえた。
「今日は、紅茶のロールケーキを試してみたいのですが」
「プレーンじゃなくて?」
「……プレーンも、いただきたいですね」
「じゃあ、両方?」
ナギサさんは少し迷ってから、頷いた。
「お願いします」
二枚のお皿を運んだ時、お姉ちゃんは、紅茶の方も気に入ってもらえるかしら、と厨房から気にしていた。しばらくして、窓際から「こちらもおいしいですね」と声が聞こえると、ほっとしたように笑った。
そのうち私は、扉の向こうに金髪が見えると、窓際の席が空いているか、先に確かめるようになった。
「いつものお店、再開されたんですよ」
ナギサさんがそう教えてくれたのは、何度か来てもらった後のことだった。
私は水のグラスを置きながら、顔を上げる。
「直ったんですか?」
「ええ。少し前に。ご挨拶に伺って、ロールケーキも買ってきました」
「じゃあ、今日は……」
言いかけると、ナギサさんはいつものようにメニューを開いた。
「今日は、こちらのものをいただきたくて」
「……はい」
私は注文票を持ち直した。
「プレーン、一切れですか?」
「それと、持ち帰りをお願いします。あと、ご相談なのですが」
ナギサさんは鞄から店のカードを出した。何度も取り出したらしく、角が少し丸くなっている。
「毎週金曜日に、プレーンのロールケーキを二本、お願いできますか。三時半頃に受け取りに伺いたいのです」
「毎週、取っておくんですね」
「はい。予定が変わる時は、前もってご連絡します」
「姉に聞いてきます」
厨房へ戻ると、お姉ちゃんは話を聞き終わるより先に、注文帳へ手を伸ばした。
「金曜日、三時半。プレーンを二本ね。大丈夫だよ」
「いつものお店、再開したって」
「ああ、よかったね」
「それでも、うちのが食べたいって。それで、毎週」
お姉ちゃんはペンを止め、窓際の方を見た。
「嬉しいね」
「……うん」
席へ戻って返事を伝えると、ナギサさんは安心したように微笑んだ。
「では、よろしくお願いします」
「こちらこそ。予定が変わる時は、前の日までに連絡をください」
「分かりました」
私は今日の注文を書き、紅茶の種類を確認してから厨房へ戻った。
注文帳には、さっきまでなかった一行が増えている。
桐藤ナギサ様。毎週金曜日、十五時三十分。プレーンロール、二本。
お姉ちゃんが冷蔵庫から出したロールケーキへ、温めた包丁を入れた。綺麗に揃った渦が、白いお皿へ載せられる。
「カズサ、今日の端はどうする?」
「食べるけど」
「感想も、お願いするわね」
私は小皿を受け取って、一口食べた。
ふんわりした生地と、冷たいクリーム。何度食べても、やっぱり、もう一口ほしくなる。
「……おいしい」
「うん」
「これ、毎週食べたいの、分かる」
お姉ちゃんは少し目を丸くしてから、嬉しそうに笑った。
私は残った一口を食べ、ナギサさんの分をトレーへ載せた。窓際の席では、もうメニューが閉じられている。
「お待たせしました」
皿を置くと、ナギサさんはいつもの渦を見て、穏やかに目を細めた。
「はい。今日も、楽しみにしていました」
カップへ紅茶を注ぐと、湯気と一緒に、慣れた茶葉の香りが立ち上がった。ポットを皿の横へ置き、私は一歩下がる。
ナギサさんはフォークを手に取り、最初の一口をゆっくり切り取った。
帰り際、紙袋を受け取ったナギサさんは、鞄の中へ店のカードを戻した。それから、もう一度だけ窓際の席へ目を向ける。
「では、また金曜日に」
「はい。いつもの、用意しときます」
そう答えると、ナギサさんは少し目を細めた。
「よろしくお願いします」
扉のベルが、軽く鳴った。紙袋を提げた後ろ姿を見送ってから、私は窓際の席へ戻る。
空のお皿とカップをトレーに載せた。カップには、まだ少しだけ温かさが残っていた。
片づけたテーブルには、窓からのやわらかい光が差している。私は椅子の位置を整え、メニューをいつもの場所へ戻した。
来週は、三時半になる少し前に、ここへお水を置いておこうと思った。