杏山カズサの放課後スイーツ店日記   作:はるのん

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第四話 桐藤ナギサとロールケーキ

 午後のお茶に間に合うよう、私はいつものケーキ屋へ向かっていました。

 生地は少し軽めで、クリームは甘すぎず、普段淹れている紅茶にもよく合う。今日もいつものロールケーキを一本お願いして、そのまま帰るつもりでした。

 ところが、角を曲がったところで、いつもと違う匂いがしました。

 卵やバターの、甘い香りではありません。何かが焦げたような匂いに、思わず足を緩めます。顔を上げると、見慣れた看板の向こうから、薄い煙が立ち上っていました。

 

 「……はい?」

 

 店の前まで来て、私は足を止めました。

 看板は斜めに傾き、窓ガラスはなくなっています。入口だった場所には扉の片側だけが残り、その前で店長さんが、箒を持って途方に暮れていました。

 つい先日まで、何も変わらず営業していたはずなのですが。

 

 「ああ、ナギサ様……申し訳ありません。今日は、ちょっと」

 

 「こちらは、いったい……」

 

 「美食研究会です」

 

 短い答えで、事情の大半が分かってしまいました。

 

 「……ゲヘナの?」

 

 「はい。季節限定の新作が売り切れていたのが、お気に召さなかったようで。少し前に、店を爆破されまして」

 

 店長さんは箒を持ったまま、通りの向こうを見ました。

 

 「こちらが気づいた時には、もう逃げていましたよ。足の速いこと、速いこと……」

 

 私もそちらへ目を向けましたが、それらしい生徒の姿は、どこにもありません。

 ゲヘナの美食研究会。行動についての報告には覚えがあります。できれば、馴染みのお店で、その被害を確かめることにはなりたくなかったのですが。

 

 「皆さん、お怪我は?」

 

 「それは大丈夫です。ただ、今日お出しするはずだったケーキは……」

 

 店長さんの視線が、店の中へ向きました。私もつられて見てから、今日のロールケーキについて尋ねるのをやめました。

 

 「……そうでしたか」

 

 「本当に、申し訳ありません」

 

 「いえ。どうぞお気になさらず」

 

 せめてお茶の時間には間に合うようにと、私は時計を確認しました。あまり余裕はありません。いつもと違うものにすることも考えましたが、ロールケーキを食べるつもりでここまで来たせいか、ほかのお菓子がうまく思い浮かびませんでした。

 

 「仕方ありませんね……とりあえず、近くのケーキ屋を」

 

 店長さんに会釈して、来た道を少し戻ります。煙の上がる通りから一本外れたところに、小さな看板がありました。

 パティスリー《シオン》。扉の脇の黒板には、今日のケーキと飲み物が並んでいます。ガラス越しに見える店内には、二人掛けのテーブルがいくつか置かれていました。

 ここに、ロールケーキがあるといいのですが。

 私は看板をもう一度見上げてから、扉へ向かいました。

 

 

     

 ロールケーキの端を切り落とす時、お姉ちゃんはいつも、ためらわずに包丁を入れる。

 商品として出すためには、断面を綺麗に揃えた方がいい。それは分かる。分かるけど、焼き色のついた生地と白いクリームがくるりと巻かれているのを見ると、もう少しだけ残してもいいんじゃないかと思ってしまう。

 

 「カズサ。そんなに見てるなら、食べていいよ」

 

 「別に、そういうつもりじゃないけど」

 

 「じゃあ、私が食べようかな」

 

 「……食べる」

 

 差し出された小皿を受け取り、フォークで端の一切れをすくう。口に入れると、ふんわりした生地がクリームと一緒にほどけた。冷蔵庫から出したばかりなのに生地は固くなくて、飲み込んだ後には、卵とミルクの香りが少し残る。

 

 「どう?」

 

 「おいしい」

 

 「もう少し、作ってる人が喜びそうな感想は?」

 

 「もう一個食べたい」

 

 「それは喜んでいいのかなあ」

 

 お姉ちゃんは笑いながら、残った端の一切れを私の皿に載せた。

 平日の午後。学校帰りに店へ入って、エプロンを着けて、最初の仕事がこれだった。正確には仕事でも何でもないけれど、味を確かめるのも必要なことだと思う。

 ちょうど最後の一口を飲み込んだところで、店の扉についたベルが鳴った。

 

 「いらっしゃいませ」

 

 皿を作業台へ置き、厨房から顔を出す。

 入口に立っていた人を見て、私はそのまま足を止めた。

 明るい金髪に、白を基調とした上品な服。背中の羽を少し畳んで扉をくぐる仕草まで、どこかの式典で見た時と同じように、きちんとしている。

 ティーパーティーの、桐藤ナギサさんだった。

 

 「……いらっしゃいませ」

 

 二度目の挨拶が出た。

 

 「こんにちは。こちら、店内でもいただけるのでしょうか」

 

 「はい。大丈夫です」

 

 声がいつもより少し高くなった気がした。学校で見かけることはあっても、こうして目の前で話すのは初めてだ。しかも、私の着けているエプロンには、さっき味見したクリームがついているかもしれない。

 さりげなく胸元を確認してから、窓際の二人掛けのテーブルへ案内した。

 

 「こちら、どうぞ。お水とメニュー、持ってきます」

 

 「ありがとうございます」

 

 ナギサさんは椅子へ腰掛けると、小さな鞄を膝の上へ置いた。店内をゆっくり見回して、それから、厨房の方へ目を向ける。

 私はその視線から逃げるように、厨房へ戻った。

 

 「お姉ちゃん」

 

 「うん?」

 

 「ティーパーティーの人、来てる」

 

 「見えたよ」

 

 「……普通に言うね」

 

 「ケーキを食べに来てくれたんでしょう?」

 

 お姉ちゃんは、切り分けたロールケーキを冷蔵庫へしまいながら答えた。

 

 「ほら、お水」

 

 グラスを渡される。確かに、お客さんを待たせてまで厨房で相談することじゃない。私はメニューを一冊取り、ナギサさんの席へ戻った。

 

 「お待たせしました。注文が決まったら、呼んでください」

 

 「あの、その前に一つ伺っても?」

 

 「はい」

 

 「ロールケーキはございますか」

 

 私は開いたメニューの中央を指した。

 

 「あります。プレーンと、果物の入ったもの。それから、今日は紅茶のロールケーキも出してます」

 

 ナギサさんの視線が、私の指先を追った。ひと通り説明を読んでから、プレーンのところで止まる。

 

 「果物の入っていない、生クリームのものをお願いします。紅茶は、ダージリンをストレートで」

 

 「プレーンのロールケーキと、ダージリンですね」

 

 「それから、気に入ったら一本、持ち帰らせていただきたいのですが」

 

 「一本でも売ってます。今、姉が仕上げたところなので」

 

 「そうですか。よかった……」

 

 最後の言葉だけ、少し小さかった。

 注文票へ書き込みながら、私は何となく、その顔を見た。姿勢も話し方も変わらないのに、店へ入ってきた時より、少しだけ肩が下がっている。

 

 「ロールケーキ、探してたんですか?」

 

 聞いてから、余計なことだったかもしれないと思った。けれど、ナギサさんは嫌な顔をせずに頷いた。

 

 「いつもお願いしているお店が、営業できなくなってしまったんです。今日のお茶に用意するつもりだったものですから」

 

 「急なお休みですか?」

 

 「伺ったら、すでに爆破された後でした」

 

 「……え?」

 

 注文票へ向けていたペンが止まった。

 ナギサさんは、ごく普通にお店の都合を説明するような顔で続ける。

 

 「ゲヘナの美食研究会だそうです。季節限定の商品が売り切れていたとか。私が着いた時には、もう逃げてしまっていたそうで」

 

 「それ、お店休むっていうか……」

 

 「ええ。当面は、難しいでしょうね」

 

 そこでようやく、小さなため息が聞こえた。

 

 「あの、怪我とかは?」

 

 「私は大丈夫です。ただ、ロールケーキは買えませんでした」

 

 「それで、うちに?」

 

 「はい。近くで買えるところを探していて、こちらの看板を見かけました」

 

 ナギサさんはメニューへ目を落とし、指先で端を整えた。

 

 「急なことで、少し困ってしまって。……食べ慣れたものがあると、つい、同じものを選んでしまいますね」

 

 「それは、分かります」

 

 思わず答えていた。

 新しい店へ入るのは好きだけど、いつもの店で、いつものものを頼むのだって好きだ。今日はあれを食べようと思っていたのに売り切れていると、ほかにおいしそうなものがあっても、すぐには決められない。

 目の前の人も、そういうことはあるらしい。

 

 「私も、買うつもりだったものがないと、しばらくメニュー見直します」

 

 「ええ。違うものを選べば済む話なのに、なかなか」

 

 「もう、口がそれになってるから」

 

 ナギサさんは一度瞬きをして、それから、少しだけ笑った。

 

 「……まさに、そういう感じです」

 

 私は注文票を閉じた。

 

 「じゃあ、持ってきます。うちのが気に入るかは、食べてから決めてください」

 

 「はい。楽しみにしています」

 

 そう言ってもらえたのに、厨房へ戻る足取りは、さっきより少し慎重になっていた。

 

 

    

 「一本でのお持ち帰りも、考えてるって」

 

 注文を伝えると、お姉ちゃんは頷いて、白い皿を取り出した。

 

 「じゃあ、まず一切れね」

 

 「いつも買ってるお店があるんだって。今日は美食研究会に爆破されて、それで来たらしい」

 

 「……あら。あの人は大丈夫なの?」

 

 「怪我はないって。ケーキが買えなくなっただけで」

 

 言ってから、それだけで済ませていい話なのか、少し分からなくなった。ただ、ナギサさんが探しているのは、本当にロールケーキらしい。

 

 「あっちの味と違ったら、どうするの」

 

 お姉ちゃんは包丁を持ったまま、私を見た。

 

 「違うでしょうね。うちで作ってるんだから」

 

 「……それは、そうだけど」

 

 「食べてみて、好きだと思ってもらえたら嬉しいよ」

 

 あまりに普通の答えだったので、私はそれ以上、何も言えなくなった。

 お姉ちゃんは包丁を温めて、水気を拭き取る。生地を押し潰さないように刃を動かすと、厚めに切られた一切れが静かに離れた。クリームの渦が、さっき私の食べた端より、ずっと綺麗に見える。

 皿には、余計な飾りを載せなかった。果物もソースもない。淡い焼き色の生地と、白いクリームだけ。

 さっきは何も考えずに二切れ食べたのに、運ぶ前になって、私はそのケーキをじっと見てしまった。

 

 「カズサ」

 

 「何?」

 

 「おいしかったんでしょう?」

 

 「……うん」

 

 「じゃあ、紅茶が冷めないうちに」

 

 私はトレーに皿とティーポットを載せた。

 ティーパーティーの人に紅茶を出す、というのも、考え始めると落ち着かない。でも、茶葉の量も、お湯の温度も、蒸らす時間も、いつも教わっているとおりにした。ここから心配しても、濃くなったり薄くなったりするだけだ。

 

 「お待たせしました。プレーンのロールケーキと、ダージリンです」

 

 皿を置くと、ナギサさんは小さく会釈してから、断面を眺めた。

 

 「綺麗に巻かれていますね」

 

 「姉が作ってるので」

 

 「杏山さんのお姉様が?」

 

 名前を呼ばれて、私は少し驚いた。ナギサさんの視線を追ってみると、エプロンにつけた名札を見ていたらしい。

 

 「あ、はい。杏山カズサです。姉はシオン。店の名前も、姉の名前から取ってます」

 

 「そうでしたか。桐藤ナギサと申します」

 

 「……知ってます」

 

 つい正直に言ってしまうと、ナギサさんは困ったように微笑んだ。

 

 「それでも、ご挨拶はしておきませんと」

 

 そう言ってから、フォークを手に取った。

 私は一歩下がり、空いたトレーを抱えたまま、すぐには席を離れなかった。見ていれば食べにくいだろうと思ったけれど、最初の一口だけ、気になってしまった。

 フォークが、淡い色の生地へ入る。クリームの渦を少し含んだ一口が切り取られ、ナギサさんの口へ運ばれた。

 静かに噛んで、飲み込んで。それから、もう一度、皿へ目を落とす。

 

 「……生地が、おいしいですね」

 

 聞こえた声に、私は思わず顔を上げた。

 

 「クリームもいいんですけれど、この生地……思っていたより、しっとりしています」

 

 「冷えてても、固くなりにくいように作ってるんだって」

 

 お姉ちゃんから聞いたことを、そのまま答えた。

 ナギサさんは、今度は外側の生地を少し多めに切り取った。

 

 「なるほど。ふわっとしているのに、口の中で乾かないんですね。卵の香りも、ちゃんと残っていて」

 

 もう一口食べた後、カップを持ち上げる。紅茶を飲むと、少し考えるように視線を窓へ向け、それから、またケーキに戻した。

 

 「甘さもちょうどいいです。紅茶の香りを邪魔しませんし、クリームの後に生地の風味が残るので、次の一口をいただきたくなります」

 

 「……そんなに分かるんだ」

 

 口に出してから、私は慌てて言い直した。

 

 「いや、変な意味じゃなくて。私、さっき食べたけど、おいしいとしか言わなかったので」

 

 ナギサさんはカップを置き、口元を緩めた。

 

 「私も、普段はそこまで考えていませんよ。ただ、よくいただくものですから」

 

 「ロールケーキ、好きなんですね」

 

 「ええ。……かなり」

 

 最後の言葉だけ、少し照れたように付け足す。

 私はようやく、トレーを抱え直した。

 

 「じゃあ、ごゆっくり」

 

 「ありがとうございます」

 

 厨房へ戻ると、お姉ちゃんがこちらを見た。

 

 「どうだった?」

 

 「生地がおいしいって。クリームも」

 

 「よかった」

 

 「あと、紅茶の香りを邪魔しなくて、次の一口を食べたくなるって」

 

 「カズサより、ずっと詳しく教えてくれるね」

 

 「……だから、私の感想は、おかわりしたいって言ったでしょ」

 

 お姉ちゃんが笑う。その声を聞きながら窓際へ目を向けると、ナギサさんはまた、一口分を丁寧に切り取っていた。

 店へ来た時より、フォークを動かす間隔が少し短くなっている。カップを持ち上げる手も、最初ほどかしこまっていなかった。

 私はそれを見て、やっと、ほかのテーブルを片づける気になれた。

 

 

    

 ナギサさんに声をかけられたのは、それから少ししてだった。

 皿は綺麗に空いている。ティーポットには、まだ紅茶が残っていた。

 

 「お持ち帰り、一本にしますか?」

 

 「はい。お願いします。それから……」

 

 ナギサさんはメニューへ視線を落とし、もう一度、私を見た。

 

 「店内で、もう一切れいただいても?」

 

 「同じので?」

 

 「同じもので」

 

 即答だった。

 私が注文票へ書いている間、ナギサさんはなぜか、少しだけ説明を付け足した。

 

 「紅茶がまだ残っていますし。一本でお願いする前に、もう少し、味を確かめておきたくて」

 

 「もう一本、頼んでますけど」

 

 「……そうでしたね」

 

 目が合った。

 ナギサさんが先に、小さく笑う。

 

 「では、単純に、もう一切れ食べたいということで」

 

 「はい。分かりました」

 

 私も少しだけ笑って、注文票を閉じた。

 二切れ目を運ぶ時には、お姉ちゃんも一緒に席へ出てきた。

 

 「シオンです。気に入っていただけたみたいで、嬉しいです」

 

 「こちらこそ。急に伺ったのに、ありがとうございます」

 

 ナギサさんは姿勢を正したけれど、今度は、フォークを置いたまま固くなることはなかった。

 

 「いつものお店とは、少し違う味でした。でも、こちらのロールケーキも、とても好きです」

 

 「よかった。一本のものは、お持ち帰りになる時間に合わせて箱へ入れますね」

 

 「ありがとうございます。……こちら、生地は何か特別なものを?」

 

 「特別な材料というほどではないですよ。巻いて、冷やして、それでも柔らかく食べられるように、配合と焼き加減を調整してます」

 

 「冷たいクリームと一緒にいただいた時に、ちょうどよくなるんですね」

 

 「そうなんです。焼けた時においしくても、その後、店で食べてもらうまで時間がありますから」

 

 お姉ちゃんの話を、ナギサさんは真剣に聞いていた。厨房で私が聞いている時より、話す方も楽しそうだ。

 私は空になった最初の皿を片づけながら、二人の話に耳を傾けた。

 生地を巻く時の温度。クリームの柔らかさ。巻き終えてから、形が落ち着くまで冷やすこと。普段なら、それを聞いた後で実際にやってみて、私が失敗するところまでがひと続きになっている。

 今日は、ナギサさんが「なるほど」と頷くたびに、お姉ちゃんが少し嬉しそうな顔をした。

 

 「カズサも、この前、一本巻いてみたんですよ」

 

 「ちょっと、お姉ちゃん」

 

 「そうなのですか?」

 

 「……練習で。売ってるのは、姉のですから」

 

 念のため、そこははっきりさせておいた。

 

 「綺麗に巻けました?」

 

 「横から見たら、ちょっと潰れてました」

 

 「ちょっとだけ?」

 

 お姉ちゃんが余計なことを言う。

 

 「……だいぶ。でも、味は同じだったし」

 

 「ええ。形が違っても、おいしいものはおいしいですものね」

 

 ナギサさんはそう言ってから、目の前の一切れを見た。

 

 「でも、こうして綺麗な渦になっていると、いただく前から嬉しくなります」

 

 私は皿を持ったまま、断面へ目を落とした。

 お姉ちゃんが端を切り揃える理由は、さっきも分かっていた。分かっていたけど、いま聞いた言葉の方が、ずっと覚えていられそうだった。

 

 「……次は、もうちょっと綺麗に巻きます」

 

 「はい。楽しみにしていますね」

 

 簡単に言われてしまって、私は少し困った。ティーパーティーの人に食べてもらう予定までできたら、練習の時から落ち着かなくなりそうだ。

 お姉ちゃんは、そんな私を見て笑いながら厨房へ戻っていった。

 

 

    

 一本のロールケーキを箱へ入れて、保冷剤を添える。蓋を閉じる前に、私は切り揃えられた両端を確認した。

 さっきまでナギサさんの皿に載っていたのと同じ、綺麗な渦が見える。

 紙袋を渡すと、ナギサさんは両手で受け取った。

 

 「冷蔵庫へ入れて、今日中に食べてください。切る時は、包丁を少し温めて、水気を拭いてからだと綺麗に切れます」

 

 「分かりました。お茶の時間が楽しみです」

 

 ナギサさんは紙袋へ目を落とした。

 

 「綺麗に切り分けてみます。せっかく、こんなに綺麗に巻いてくださったので」

 

 ナギサさんは財布を鞄へ戻してから、店のカードを一枚、手に取った。

 

 「一本でお願いする場合は、事前にご連絡した方がよろしいでしょうか」

 

 「そうですね。売り切れることもあるので、前の日までに言ってもらえたら、取っておけます」

 

 「では、次からはそうします」

 

 私は少しだけ、手を止めた。

 次、と、自然に言ってくれた。

 

 「……はい。お待ちしてます」

 

 扉を開けると、外の風が店内へ入ってきた。ナギサさんはカードを鞄へしまい、紙袋を持ち直す。

 

 「ごちそうさまでした。お姉様にも、よろしくお伝えください」

 

 「ありがとうございます」

 

 頭を下げて見送った後、私は扉を閉めた。

 窓の向こうを、白い姿が通り過ぎていく。来た時より少し軽い足取りに見えたのは、紙袋を持っているからかもしれない。

 

 「カズサ」

 

 厨房から、お姉ちゃんが呼んだ。

 

 「うん?」

 

 「明日、巻く練習してみる?」

 

 「……見てたんでしょ、さっきの」

 

 「聞こえただけだよ」

 

 私はエプロンの紐を結び直した。

 

 「する。綺麗にできたら、私が食べるから」

 

 「綺麗にできなかったら?」

 

 「それも食べる」

 

 「練習の目的、合ってる?」

 

 私は答えずに、洗い終わったグラスを拭き始めた。お姉ちゃんはそれ以上追及しなかったけど、しばらく、楽しそうに笑っていた。

 

 

   

 持ち帰った箱を開けると、綺麗なクリームの渦が見えました。

 教わったとおりに包丁を温め、水気を拭いてから切り分けます。生地が潰れずに切れると、それだけで、少し嬉しくなりました。

 お皿へ一切れずつ載せ、淹れたての紅茶と一緒にテーブルへ運びます。

 

 「お待たせしました」

 

 「……またロールケーキ!?」

 

 お皿を見たミカさんが、背もたれへ身体を預けました。大きなため息までついて、こちらを見上げてきます。

 

 「ナギちゃん、昨日もロールケーキだったよね? その前も」

 

 「昨日は紅茶のロールケーキでした」

 

 「味の話じゃなくて、毎回巻いてあるって話!」

 

 隣でセイアが、静かにカップを持ち上げました。

 

 「少なくとも、今日はいつもと違うもののようだね」

 

 「ええ。今日は別のお店で買ってきました」

 

 「違うお店なら、違うケーキを買うって選択肢もあったんじゃないかなあ……」

 

 ミカさんはもう一度、やれやれという顔でため息をつきました。それでもフォークは手に取って、目の前の一切れへ先を入れます。

 

 「まあ、食べるけど。せっかく買ってきたんだし」

 

 その言葉には、あまり期待していない響きがありました。

 私は自分の席へ腰掛け、紅茶を一口飲みます。ミカさんが最初の一口を食べたのは、ちょうどその時でした。

 

 「……ん?」

 

 フォークが、口元で止まります。

 お皿を見て、もう一度、生地を切り取る。今度はクリームを少し多めに含ませ、口へ運びました。

 

 「これ……」

 

 「どうかしましたか?」

 

 「いや、何でもないけど」

 

 そう言いながら、もう一口。

 さっきまで椅子へ預けていた背中が、少し前へ起きました。フォークの先が生地に入るたび、白いクリームが柔らかく沈みます。ミカさんはそれを崩さないようにすくって、口へ運んでいました。

 私はカップを持ったまま、しばらく、その様子を眺めてしまいました。

 

 「……何?」

 

 視線に気づいたミカさんが、顔を上げます。

 

 「いえ。どうですか?」

 

 「どうって……」

 

 ミカさんはお皿を見下ろしました。もう、最初の半分ほどになっています。

 

 「いつものと、違うね」

 

 「ええ。それで、お味は?」

 

 「……おいしい」

 

 声が、急に小さくなりました。

 私は答えを聞いてから、少し遅れて頷きます。

 

 「そうですか。よかったです」

 

 「ナギちゃん、何でそんなに嬉しそうなの?」

 

 「嬉しいからですが」

 

 「……もう」

 

 ミカさんがこちらから目を逸らしたところで、セイアさんがカップを置きました。自分のお皿から一口、ゆっくり食べて、それから、まだ照れているミカさんへ視線を向けます。

 

 「すまないね、ミカ。もう少し、はっきり言ってくれないかな」

 

 「聞こえてたでしょ、今の!」

 

 「最初の『またロールケーキ』は、よく聞こえたのだけれど」

 

 セイアさんの口元に、薄く笑みが浮かびます。

 ミカさんは少し頬を赤くし、フォークを持ったまま、私たちを交互に見ました。

 

 「……おいしいです。このロールケーキ、おいしい。これでいい?」

 

 「ええ。ありがとうございます」

 

 「ナギサが嬉しそうにしている理由も、よく分かったよ。いいものを見つけたね」

 

 セイアさんまでそう言ってくれたので、私はますます、顔を整えるのが難しくなりました。

 

 「二人とも、からかわないでください」

 

 「先にからかったのはセイアちゃんだからね?」

 

 ミカさんはそう言いながら、残った生地を食べます。セイアさんもまた、一口分を切り取って、ゆっくり味わっていました。

 紅茶を注ぎ足す頃には、ミカさんのお皿が空になっていました。

 箱の中には、まだロールケーキが残っています。私がそちらへ目を向けると、ミカさんもつられて見て、それから、わざとらしく窓の方へ顔を向けました。

 

 「おかわり、いかがですか?」

 

 「……薄く切ってくれるなら」

 

 「もう飽きてしまったのでは?」

 

 今度は私まで、つい、言ってしまいました。

 ミカさんが振り返ります。

 

 「いつものには、だよ。今日のは、まだ飽きてないの!」

 

 セイアさんが声を立てずに笑いました。私も笑いを抑えながら立ち上がり、包丁を温め直します。

 今朝出かけた時には、いつものものを買って帰るつもりでした。あの店のロールケーキは好きですし、買えなくなったことは、やはり残念です。

 それでも、今日の一切れを見つけられたことは、帰り道からずっと、嬉しいままでした。

 

 「ナギちゃん。それ、薄すぎない?」

 

 切り分けたお皿を差し出すと、ミカさんが不満そうに眉を寄せました。

 

 「薄く、とおっしゃいましたから」

 

 「限度があるでしょ、限度が!」

 

 私はもう一切れ、少しだけ薄く切って、隣へ並べました。

 

 

   

 二度目にナギサさんが来たのは、三日後だった。

 入口で私を見ると、先に小さく会釈してくれた。案内したのは、この前と同じ窓際の席だ。

 

 「この前のロールケーキ、好評でした」

 

 「よかった。姉にも言っときます」

 

 「はい。今日は一本、持ち帰りを。それから、こちらでも一切れお願いします」

 

 メニューを開く前に注文が決まっていて、私は少しだけ笑ってしまった。

 

 「紅茶も、前と同じので?」

 

 「ええ。それでお願いします」

 

 厨房へ伝えると、お姉ちゃんはすぐに皿を出した。私はティーポットを温めながら、窓際を見た。ナギサさんは今日は、鞄を隣の椅子に置いていた。

 その次は、電話で一本の取り置きを頼まれた。

 来店した時には少し急いでいる様子だったので、そのまま渡そうとしたら、ナギサさんは席の方へ目を向けた。

 

 「……一切れいただく時間は、ありそうですね」

 

 「紅茶、すぐに淹れます」

 

 「お願いします」

 

 結局、その日も窓際の席に座って、ロールケーキを食べてから帰っていった。

 さらに次に来た時は、雨が降っていた。

 濡れた傘を閉じるのに少し手間取っていたので、タオルを持って入口へ行く。ナギサさんは礼を言って受け取り、羽の先についた水滴をそっと押さえた。

 

 「今日は、紅茶のロールケーキを試してみたいのですが」

 

 「プレーンじゃなくて?」

 

 「……プレーンも、いただきたいですね」

 

 「じゃあ、両方?」

 

 ナギサさんは少し迷ってから、頷いた。

 

 「お願いします」

 

 二枚のお皿を運んだ時、お姉ちゃんは、紅茶の方も気に入ってもらえるかしら、と厨房から気にしていた。しばらくして、窓際から「こちらもおいしいですね」と声が聞こえると、ほっとしたように笑った。

 そのうち私は、扉の向こうに金髪が見えると、窓際の席が空いているか、先に確かめるようになった。

 

 

     

 「いつものお店、再開されたんですよ」

 

 ナギサさんがそう教えてくれたのは、何度か来てもらった後のことだった。

 私は水のグラスを置きながら、顔を上げる。

 

 「直ったんですか?」

 

 「ええ。少し前に。ご挨拶に伺って、ロールケーキも買ってきました」

 

 「じゃあ、今日は……」

 

 言いかけると、ナギサさんはいつものようにメニューを開いた。

 

 「今日は、こちらのものをいただきたくて」

 

 「……はい」

 

 私は注文票を持ち直した。

 

 「プレーン、一切れですか?」

 

 「それと、持ち帰りをお願いします。あと、ご相談なのですが」

 

 ナギサさんは鞄から店のカードを出した。何度も取り出したらしく、角が少し丸くなっている。

 

 「毎週金曜日に、プレーンのロールケーキを二本、お願いできますか。三時半頃に受け取りに伺いたいのです」

 

 「毎週、取っておくんですね」

 

 「はい。予定が変わる時は、前もってご連絡します」

 

 「姉に聞いてきます」

 

 厨房へ戻ると、お姉ちゃんは話を聞き終わるより先に、注文帳へ手を伸ばした。

 

 「金曜日、三時半。プレーンを二本ね。大丈夫だよ」

 

 「いつものお店、再開したって」

 

 「ああ、よかったね」

 

 「それでも、うちのが食べたいって。それで、毎週」

 

 お姉ちゃんはペンを止め、窓際の方を見た。

 

 「嬉しいね」

 

 「……うん」

 

 席へ戻って返事を伝えると、ナギサさんは安心したように微笑んだ。

 

 「では、よろしくお願いします」

 

 「こちらこそ。予定が変わる時は、前の日までに連絡をください」

 

 「分かりました」

 

 私は今日の注文を書き、紅茶の種類を確認してから厨房へ戻った。

 注文帳には、さっきまでなかった一行が増えている。

 桐藤ナギサ様。毎週金曜日、十五時三十分。プレーンロール、二本。

 お姉ちゃんが冷蔵庫から出したロールケーキへ、温めた包丁を入れた。綺麗に揃った渦が、白いお皿へ載せられる。

 

 「カズサ、今日の端はどうする?」

 

 「食べるけど」

 

 「感想も、お願いするわね」

 

 私は小皿を受け取って、一口食べた。

 ふんわりした生地と、冷たいクリーム。何度食べても、やっぱり、もう一口ほしくなる。

 

 「……おいしい」

 

 「うん」

 

 「これ、毎週食べたいの、分かる」

 

 お姉ちゃんは少し目を丸くしてから、嬉しそうに笑った。

 私は残った一口を食べ、ナギサさんの分をトレーへ載せた。窓際の席では、もうメニューが閉じられている。

 

 「お待たせしました」

 

 皿を置くと、ナギサさんはいつもの渦を見て、穏やかに目を細めた。

 

 「はい。今日も、楽しみにしていました」

 

 カップへ紅茶を注ぐと、湯気と一緒に、慣れた茶葉の香りが立ち上がった。ポットを皿の横へ置き、私は一歩下がる。

 ナギサさんはフォークを手に取り、最初の一口をゆっくり切り取った。

     

 帰り際、紙袋を受け取ったナギサさんは、鞄の中へ店のカードを戻した。それから、もう一度だけ窓際の席へ目を向ける。

 

 「では、また金曜日に」

 

 「はい。いつもの、用意しときます」

 

 そう答えると、ナギサさんは少し目を細めた。

 

 「よろしくお願いします」

 

 扉のベルが、軽く鳴った。紙袋を提げた後ろ姿を見送ってから、私は窓際の席へ戻る。

 空のお皿とカップをトレーに載せた。カップには、まだ少しだけ温かさが残っていた。

 片づけたテーブルには、窓からのやわらかい光が差している。私は椅子の位置を整え、メニューをいつもの場所へ戻した。

 来週は、三時半になる少し前に、ここへお水を置いておこうと思った。

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ブラック企業で過労死…でもなく。▼夜道で不幸にも暴走トラックに轢かれた…訳でもなく。▼大好きなパンケーキを自宅でたらふく食べていたら喉に詰まって窒息死したアホな現代女性。▼転生したのはキャラクターとシナリオが人気、しかし鬼畜な世界観が目立つ作品、ブルーアーカイブの世界だった。▼ただの生徒ではなく、牛牧ジュリの生み出す怪物『パンちゃん』の突然変異体、人型パンち…


総合評価:730/評価:8.76/連載:9話/更新日時:2026年10月05日(月) 10:43 小説情報

元宮チアキではなく、“元”チアキ(作者:元宮チアキ以外の誰か)(原作:ブルーアーカイブ)

あなたは、元宮チアキをご存じだろうか▼私は、知らない▼けれど、許してほしい▼ここに居るのは元宮チアキではない▼中身が違うのに、彼女のことを何も知らないのに、成り代わろうとする▼ああ、なんて烏滸がましいことだろうか▼曇らせとか、そういうのではなく、愛しているが故に苦しむ誰かの話▼【注意】▼本作品には薬物使用を想起させる描写がありますが、作劇上の演出であり、薬物…


総合評価:10478/評価:9.01/連載:39話/更新日時:2026年09月22日(火) 21:03 小説情報


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