休日に買い物へ出ると、シミコはいつも予定より少しだけ荷物を増やして帰る。
今日も、買うつもりだったのは新しいノートとペン、それから日用品をいくつかだけだった。
けれど、腕に提げた紙袋の中には、本が三冊入っている。
「……一冊に絞るつもりだったんですけど」
誰にともなく言い訳をして、シミコは紙袋を抱え直した。
一冊目は、前から探していた本。
二冊目は、偶然見つけたそのつづき。
三冊目は、なんか気になっていた本。
つまり、どれも必要だった。
少なくとも、シミコの中ではそういうことになっている。
時計を見ると、図書館へ戻るにはまだ余裕があった。
ただ、午前中から歩き続けていたせいで足は少し重い。紙袋の持ち手も、だんだん指へ食い込んできている。
「少し、休んでいこうかな……」
そう呟いたところで、通りの向こうに小さな看板が見えた。
白い壁に、細い金色の文字。
《パティスリー・シオン》
店の存在は以前から知っていた。
前を通るたび、窓越しに見える焼き菓子やケーキを、少しだけ気にしていたのだ。
ただ、一人で入る機会がなかった。
シミコは窓から、そっと店内を覗いた。
休日の午後にしては客が少なく、店の奥には空いている席もある。大きな話し声も聞こえない。
静かな店なら、少しくらい休んでいってもいいだろう。
そう自分へ言い聞かせ、シミコは扉を開いた。
からん、と小さくベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、黒いエプロンを着けたカズサが顔を上げた。
「店内ですか?」
「はい。一人です」
「じゃあ、空いてる席へどうぞ。荷物、重そうだから気をつけて」
「あ、ありがとうございます」
言われるまで、紙袋を両腕で抱えるように持っていたことに気づかなかった。
シミコは壁際の席を選び、紙袋を足元へそっと置いた。椅子に腰を下ろした途端、思っていた以上に肩から力が抜ける。
卓上のメニューを開く。
ショートケーキ、チョコレートケーキ、果物のタルト。
どれもきれいな写真が添えられている。
ページをゆっくりめくっていくと、淡い黄色と白の縞模様が目に入った。
「ミルクレープ……」
薄いクレープ生地とクリームを、何層にも重ねたケーキ。
説明の隣にある断面は、上から下までほとんど同じ幅で揃っている。
シミコは少しだけ迷ってから、カズサを呼んだ。
「ご注文、決まりました?」
「はい。ミルクレープと、ミルクティーをお願いします」
「ミルクレープとミルクティーね。少し待ってて」
注文を終えると、シミコは紙袋から、買ったばかりの本を一冊取り出した。
まだ表紙にも折り目のない、まっさらな本だ。
開こうとして、いったん手を止める。
せっかく休憩に来たのだから、まずは何もせず休んだ方がいいのかもしれない。
そう思って、本をテーブルへ置く。
けれど一分もしないうちに、また表紙へ手が伸びた。
「……少しくらいなら」
誰に許可を求めるでもなく呟き、最初のページを開く。
数行読んだところで、カップと皿の触れ合う小さな音がした。
「お待たせしました。ミルクレープとミルクティーです」
「ありがとうございます」
運ばれてきたミルクレープは、写真で見るよりも層が細かった。
焼き色のついたクレープと白いクリームが、何枚も、何枚も重なっている。上には粉砂糖が薄くかかり、小さなクリームが添えられていた。
「……きれい」
思わず漏れた声を、カズサが拾った。
「断面?」
「はい。こんなに薄いものが、きちんと同じ幅で重なっているので」
「姉さん、そういうところは細かいから」
カズサはそう答え、空になったトレイを抱え直した。
「本を読みながら食べるの?」
「あ……はい。でも、汚さないようにします」
「まだ何も言ってないけど」
「よく心配されるので、つい」
「図書委員なのに?」
「図書委員だからこそです。本を汚すことには、人一倍気をつけています」
「なるほど」
カズサはテーブルの上を見た。
本は左側。
ケーキとミルクティーは右側。
その間には、かなり広めの空間が設けられている。
「そこまで離してるなら、大丈夫そうだね」
「はい。万全です」
「じゃあ、ごゆっくり」
カズサがショーケースの前へ戻っていく。
シミコは本へ栞を挟んで閉じると、フォークを手に取った。
せっかくのケーキを前にしてまで、本を優先するのは少し失礼な気がした。
ミルクレープの先端へ、真上からフォークを入れる。
ぷつりとはじけるような感覚のあと何度も小さな抵抗が指先へ伝わり、フォークが一番下まで沈んでいく。切り分けた一口を持ち上げると、薄い生地とクリームが崩れることなく、そのままついてきた。
口へ運ぶ。
しっとりしたクレープには、何枚も重なったことで生まれた、やわらかな弾力がある。
一枚一枚は薄いはずなのに、噛むたびに生地の存在をきちんと感じた。
クリームは甘すぎず、どこか素朴な味だった。
「……おいしい」
続けてミルクティーを飲む。
紅茶の香りはしっかり残っているのに、温めたミルクのおかげで口当たりはやさしい。
歩き疲れていた体へ、温かさがゆっくり染み込んでいくようだった。
二口目を食べてから、シミコはもう一度ケーキの断面を眺めた。
一枚だけなら、向こう側が透けそうなほど薄い。
それが何枚も重なって、一つのケーキになっている。
なんだか、本みたいだと思った。
紙も、一枚だけなら薄く、頼りない。
けれど、それが何枚も重なり、文字を載せ、綴じられることで一冊の本になる。
「……本みたいですね」
考えていたことが、そのまま声に出ていた。
「何が?」
ちょうど近くのテーブルを片づけていたカズサが、振り返る。
「このミルクレープです。一枚だけなら薄い生地なのに、何枚も重なることで、一つのケーキになるんだなって」
「それは、まあ……そういうケーキだから」
「紙も同じなんです。一枚ならただの紙ですけど、何枚も重なると一冊の本になるでしょう?」
「本?」
カズサはミルクレープと、テーブルの上にある本を見比べた。
「食べる前からそこまで考える人、初めて見た」
「す、すみません。つい」
「別に謝らなくていいけど」
カズサはわずかに口元を緩めた。
「冷めないうちに飲んだ方がいいよ」
「ケーキは冷たいですが」
「ミルクティーの方」
「あ……はい」
シミコは慌ててカップを持ち上げた。
背後で、カズサが小さく笑った気がした。
それからは、ケーキを一口食べて、本を数行読む。
ミルクティーを飲んで、またページをめくる。
店内には、食器の触れ合う小さな音と、カウンター越しに交わされる控えめな会話がある。
けれど、読書の邪魔になるような音は一つもなかった。
図書館の静けさとは少し違う。
誰かがケーキを食べ、紅茶を飲み、ときどき扉のベルが鳴る。
それでも、不思議と落ち着く。
いつの間にか、シミコは数ページのつもりだった本を、一章分読み終えていた。
「…………」
顔を上げる。
皿の上には、最後の一口だけが残っている。
本を読んでいた時間の方が長かったはずなのに、クリームはほとんど崩れていない。パイ生地のような細かな欠片も落ちず、テーブルの上はきれいなままだ。
シミコは最後の一口を食べ、残っていたミルクティーを飲み干した。
「ごちそうさまでした」
会計のためにカウンターへ向かう。
「どうでした?」
「とてもおいしかったです。それに、静かで落ち着きました」
「それならよかった」
「本を読むのにも、いいお店ですね」
「本を汚さないなら、別に好きなだけ読んでいいと思うけど」
「ふふ。図書委員ですから、そのあたりはきちんとします」
「見てれば分かる。テーブル、食べる前よりきれいだったし」
どうやら、読んでいる間にも見られていたらしい。
シミコは少し照れながら、代金をトレイへ置いた。
「それに、ミルクレープは本を読みながらでも食べやすいですね。ぼろぼろこぼれませんし」
「ケーキの褒め方としては、初めて聞いたかも」
「もちろん、味もおいしかったです」
「ならいいけど」
カズサがレジを閉じる。
その音を聞きながら、シミコはふと、図書館に残してきた先輩のことを思い出した。
「……ウイ先輩にも、教えてあげようかな」
「知り合い?」
「同じ図書委員会の先輩です。いつもずっと本を読んでいて」
「図書委員なら普通なんじゃない?」
「食事と睡眠を忘れなければ、普通なんですけど」
「忘れるんだ」
「はい。かなり頻繁に」
カズサは少し考えた。
「そういう人、店に来ても本ばかり読んでそうだけど」
「……否定できません」
「ちゃんとケーキ食べてくれるなら、こっちはいいけどね」
「では、今度勧めてみます」
シミコは紙袋を抱え直し、店を出た。
背後で扉が閉まり、からん、とベルが鳴る。
来たときと同じだけ本が入っているはずなのに、紙袋は少しだけ軽くなったように感じた。
図書館へ戻ったころには、窓から差し込む光が少し傾いていた。
休日の館内はいつも以上に静かで、その奥ではウイが分厚い本を読んでいる。
「ウイ先輩、ただいま戻りました」
「……あ、おかえりなさい、シミコ」
返事はあった。
ただし、ウイの視線は本から一ミリも動いていない。
シミコは苦笑し、買ってきたものを机へ並べた。
「そうだ、先輩。帰りに素敵なお店を見つけたんです」
「……素敵なお店……」
ぱらり、とページがめくられる。
「《パティスリー・シオン》というケーキ屋さんです。店内も静かで、本を読むのにもよさそうでしたよ」
「……静か……それは、いいですね」
少しだけ反応がよくなった。
けれど、やはり顔は上がらない。
「そこで、ミルクレープとミルクティーをいただいたんです」
「……ミル……」
「はい。ミルクレープです。薄いクレープとクリームが何層にも重なっていて、一冊の本みたいだと思いませんか?」
「何層にも……なるほど……」
ウイが小さく頷く。
ただ、その指はもう次のページをめくっていた。
「ぼろぼろこぼれませんし、読書のお供にもよかったですよ。先輩も今度、行ってみたらどうですか?」
「……そうですね。今度……」
シミコは満足そうに頷き、買ってきたものを片づけ始めた。
数分後。
一区切りついたのか、ウイがようやく本から顔を上げる。
「…………」
ケーキ屋さん。
静かで、本を読むのにもよさそうな店。
紅茶と、何層にも重なったケーキ。
そこまでは覚えている。
「……ミル……」
続きが出てこない。
ウイはしばらく考え、机の端に置かれた店のカードへ目を落とした。
「……まあ、お店に行けば分かりますよね」
そう呟くと、何事もなかったように本へ視線を戻した。