「ウイ先輩。今日は三時間ほど、古書館から出ていてください」
「……お断りします」
顔を上げずに答えると、机の向こうから、シミコの小さなため息が聞こえた。
「そう言うと思いました。でも、今日は駄目です」
「私はここで静かに本を読んでいるだけです。何も問題はありません」
「あります。今日は床のワックス掛けですから」
そこでようやく、私は本から目を離した。
古書館の入口には、作業道具を抱えた人たちが待っている。見慣れない大きな機械に、モップ、いくつもの缶。それから《作業中・立入禁止》と書かれた札まで用意されていた。
「……私のいるところだけ、避けてもらうことは?」
「先輩の椅子の下も床です」
「では、作業に合わせて少しずつ移動します」
「乾く前の床を踏みますよね」
「本棚の上なら――」
「駄目です」
最後まで言わせてもらえなかった。
そもそも、私一人が残っていては作業の邪魔になるらしい。窓も開けて換気するので、いつもの静かで薄暗い古書館ではなくなるとも説明された。
そこまで言われてしまえば、抵抗を続けるだけの理由はない。
理由はないけれど、外へ出たい理由はもっとなかった。
「今日くらい、どこかで休んできてください。床が乾いたら連絡しますから」
「ここで休みたいのですが」
「ここ以外で、です」
シミコは容赦がなかった。
私はしぶしぶ、読んでいた本へ栞を挟む。古書館の外へ持ち出しても問題のない複製本だ。それを抱えて立ち上がると、栞にしていた小さなカードが、ひらりと机へ落ちた。
淡い色の紙に、小さな黒猫の絵。
パティスリー《シオン》。住所と簡単な地図が書かれている。
「それ、この前お話ししたお店のカードですね」
「……そうでしたか?」
「そうですよ。帰りに見つけたケーキ屋さんのお話をしたじゃないですか」
言われてみれば、そんな話を聞いた気がする。
薄い生地が何枚も重なっていて、その間にクリームが挟まっている。ミルクティーにもよく合う。たまには外へ出て休憩してはどうか――。
そこまでは、ぼんやりと覚えていた。
ただし、肝心のケーキの名前は、頭の中に《ミル》までしか残っていなかった。
「ちょうどいいじゃないですか。ここから歩いて行けますよ」
「歩いて行ける、という言葉は、歩くことに慣れている人の基準ではありませんか?」
「普通に歩けば、それほどかかりません」
「その《普通》が信用できないのです」
「はいはい。そろそろ作業が始まりますから、行ってらっしゃいませ」
本と店のカードを持たされ、私は古書館の外へ追い出された。
古書館の扉を出た瞬間、私は今日という日を選んだすべての人を少しだけ恨んだ。
暦の上では、とっくに真夏を過ぎている。
それなのに、空気だけが季節に取り残されていた。日差しは白く、石畳からは熱が返り、風が吹いても少しも涼しくない。いつも薄暗い古書館にいる身には、外の明るさだけでも体力を奪われる。
「……帰りたい」
振り返る。
扉にはもう、《作業中・立入禁止》の札が掛かっていた。
帰る場所を失った私は、仕方なく歩き始めた。
古書館を出た時に十あったはずの体力は、最初の交差点で半分になった。人通りの多い道を抜けたところで、残りは二。地図にある最後の角を曲がる頃には、ほとんどゼロだった。
途中で何度も、日陰へ座り込んで本を読もうと思った。
けれど、空いているベンチは日向にあり、木陰には人がいる。静かで、涼しくて、座れて、できれば飲み物まで出てくる場所など、そう都合よく――。
そこまで考えて、手の中のカードを見た。
ケーキ屋なら、店内で休めるとシミコが言っていた。
つまり、椅子がある。
飲み物もある。
そして、おそらく冷房もある。
ケーキはともかく、その三つは今の私にとって十分すぎる理由だった。
やがて、淡い色の外壁と木製の看板が見えてくる。
あそこまでたどり着けば、しばらく歩かなくて済む。
最後に残った体力を使い切り、私はパティスリー《シオン》の扉を押した。
からん、と扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ――」
そう言いかけて、私は言葉を止めた。
大きな本を胸に抱えた女の子が、半分ほど開けた扉にもたれかかっていた。乱れた息を整える余裕もないらしく、肩を上下させながら、恨めしそうに店内を見ている。
「……席」
「え?」
「入口から、いちばん近くて……日の当たらない席を、お願いします」
「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫に……見えますか……?」
「見えないです」
即答すると、その子は力なく頷いた。
私は慌てて扉を押さえ、入口から一番近い壁際の席へ案内した。彼女はほとんど倒れ込むように椅子へ座り、大事そうに抱えていた本だけは、最後まで両手で支えながらテーブルへ置く。
「お水、どうぞ」
様子に気づいたお姉ちゃんが、注文より先にグラスを持ってきた。
「……ありがとうございます」
彼女は一口、二口と水を飲み、そのまましばらくテーブルに突っ伏した。
初めて来た店でやることじゃない気もするけど、今はそれを気にする体力さえ残っていないらしい。
「本当に大丈夫ですか?」
「古書館から、ここまで歩いてきただけです……」
「そんな遠くないですよね?」
「初めての場所まで歩き、人の多い通りを抜け、季節外れの日差しまで浴びました。今日の活動限界です」
「そこまでなんだ……」
「途中で引き返すことも考えました。ですが、気づいた時には、戻るよりこちらへ来る方が近くなっていたので……」
「それ、たどり着くしかなくなっただけじゃないですか」
「結果として到着できたので、問題ありません」
「問題ない人は、初めて来た店で机と一体化しないと思うけど」
水を飲み、冷房の風に当たっているうちに、呼吸は少しずつ落ち着いてきたらしい。彼女はゆっくりと身体を起こした。
「古書館の、古関ウイです」
「杏山カズサです。こっちは姉のシオン。……その本も古書館のものですか?」
私が本へ目を向けた途端、ウイさんは急に真剣な顔になり、本を自分の側へ引き寄せた。
「持ち出して問題のあるものではありません。これは複製本ですから」
「あ、そうなんだ」
「本物を飲食店へ持ち込むなどという恐ろしいことはできません。染みの一つでもつけたら、私はその場で消えます」
「消えるんだ……」
冗談には聞こえなかった。
ウイさんは本を開くと、たった今まで疲れ果てていたのが嘘みたいに文字を追い始めた。いや、元気になったわけじゃない。身体は椅子に沈んだまま、目だけが動いている。
私は細長いメニューをテーブルへ置き、注文が決まるまで少し待つことにした。
一分。
二分。
ページだけが、ぱらりとめくられた。
「あの、ご注文は?」
「……はい?」
「注文です。何か食べに来たんですよね?」
「ああ……すみません。本を開くと、周囲の音が聞こえなくなることがありまして」
「もう十分分かりました」
ウイさんは名残惜しそうに本から顔を上げた。
「飲み物は、コーヒーをお願いします。それからケーキは……えーと……」
しばらく宙を見つめてから、困ったように首を傾げる。
「たしか、ミル……なんでしたっけ……」
「私に聞かれても知らないけど」
「薄い生地が何枚も重なっていて、クリームが挟まっているそうです。名前は《ミル》までは覚えているのですが」
私はメニューを開き、今日のケーキの欄を指した。
「今日出してるものだと、苺のミルフィーユがありますけど」
「ミルフィーユ……」
ウイさんは、その名前を確かめるように繰り返した。
「幾重にも重なった薄い生地。千枚の葉……なるほど。本のページのようなケーキなのですね」
「まあ、見た目はそんな感じです」
「では、それをお願いします」
「ちょっと待ってください」
注文票へ書きかけて、私は目の前の本を見た。
「まさか、本を読みながら食べるつもりですか?」
「そのつもりですが」
「だったら、一番向いてないですよ。パイくずは落ちるし、クリームははみ出すし、上の苺は転がるし。片手で食べるのは絶対に無理です」
「……そんなにですか?」
「ベイクドチーズケーキにしません? そっちなら崩れにくいし、フォークだけでも食べられますよ」
「ですが、私はこのケーキを食べるために、貴重な体力を費やしてここまで来たのです。今になって別のものを選んでは、今日の消耗が無意味になってしまいます」
「その理屈でいいんですか?」
「それに、そこまで言われると、どれほど読書に不向きなのか確かめたくなりました」
「途中から目的が変わってるじゃん……」
奥で話を聞いていたお姉ちゃんが、楽しそうに笑った。
「お待たせしました。苺のミルフィーユとコーヒーです」
開いた本の横へ皿を置いた途端、ウイさんは困ったように眉を寄せた。
「思っていたより……背が高いですね」
「写真も説明も見せましたよね」
「見たつもりでしたが、あまり頭に入っていなかったようです」
「注文する時くらい、本を閉じたらどうですか?」
「善処します」
たぶん、しないやつだ。
ウイさんは、ミルフィーユと本を交互に見比べた。
「フォークを横から入れるべきでしょうか。それとも、上から一層ずつ剥がすべきでしょうか」
「本みたいに一枚ずつ読むつもりですか?」
「その方が安全に思えます」
「たぶん、余計に散らかりますよ」
それでもウイさんは、本から目を離さないままフォークを持った。
左手でページを押さえ、右手のフォークをミルフィーユへ近づける。視線は文章に固定されたまま、慎重に、一番上のパイ生地へフォークの先を当てた。
ぱりっ。
小さな音とともに、生地が割れた。
粉砂糖をまとった細かなパイくずが、ぱらぱらと皿の上へ落ちる。
ウイさんの手が止まった。
「……まだ、想定の範囲内です」
「誰に言ってるんですか」
彼女はもう一度フォークに力を入れた。今度は生地が傾き、その下のカスタードクリームが、むにゅっと横から押し出される。
「あ」
慌てて反対側からフォークで支えようとして、さらに力が加わった。
苺が一つ、飛び出した。
「あっ」
ころころと皿の縁を転がった苺は、そのままテーブルへ降り、本へ向かって進んでいく。
「だ、駄目です……!」
ウイさんは、今までの気怠そうな動きが嘘みたいな速さで手を伸ばし、本の直前で苺を受け止めた。
間に合った。
けれど、その拍子に袖がミルフィーユへ当たった。
ぱさっ。
パイくずが舞った。
「…………」
幸い、本には一片も落ちていない。けれどウイさんは、古代の貴重な蔵書が目の前で燃えてしまったかのような顔をしていた。
「だから言ったのに」
「……これは、ケーキの姿をした災害です」
「ミルフィーユに失礼でしょ」
「一口食べるだけで、これほど多方面への注意を要求されるとは思いませんでした。本の内容も、まったく頭に入ってきません」
「そりゃそうですよ」
ウイさんは手の中の苺を皿へ戻し、崩れかけたミルフィーユを見つめた。
「シミコは、これを食べながらミルクティーまで飲んでいたのですね……。思っていた以上に器用な人だったようです」
「……シミコ?」
「はい。この店を教えてくれた、図書委員会の円堂シミコです」
その名前と、ミルクティーという言葉で、ようやく話が繋がった。
「ちょっと待ってください。この前来た、買い物袋をたくさん持ってた人ですよね?」
「おそらく」
「その人にケーキを出したの、私ですけど……シミコさんが食べたの、ミルフィーユじゃないですよ」
「……はい?」
「ミルクレープです」
「ミル……クレープ」
「薄いクレープ生地とクリームを重ねたやつです。今日は出してないですけど。パイくずも出ないし、苺が本へ突撃したりもしません」
「…………」
ウイさんの視線が、ミルフィーユから私へ、それから開いた本へと移る。
「そういえばシミコが、最後までその名前を説明していたような気がします」
「聞いてなかったんですか」
「ちょうど、興味深い記述を見つけたところでして……」
「話くらい、ちゃんと聞いてあげてくださいよ」
「……反省しています」
声はしおらしいけれど、たぶん半分くらいは、ケーキを間違えたことへの反省だと思う。
私は開かれた本を慎重に持ち上げ、ケーキから離れたテーブルの隅へ避難させた。
「あ……」
「食べ終わるまで、閉じておいたらどうですか」
「ですが、ちょうど興味深い箇所に差しかかったところで……」
「さっきもそれで、シミコさんの話を聞き逃したんですよね?」
「それを言われると……反論できません」
ウイさんは、未練たっぷりに本を見つめる。
そこへお姉ちゃんがやってきて、小さな栞を差し出した。店の名前と、小さな黒猫の絵が入った栞だ。
「せっかく間違えて出会ったケーキなんだから、ちゃんと味わってあげたら?」
お姉ちゃんは本へ栞を挟み、静かに表紙を閉じた。
「本もケーキも、片手間にしちゃうともったいないよ。今はケーキの時間。続きは、そのあとゆっくり読めばいいんじゃないかな」
「ケーキの、時間……」
「うん。ミルフィーユは特に、きちんと向き合わないと手強いから」
「やっぱり手強いんだ」
作った本人も認めていた。
ウイさんはしばらく閉じられた本を見ていたけれど、やがて諦めたように両手をテーブルへ置いた。
片手で皿を押さえ、もう片方の手でナイフを持つ。今度は本ではなく、正面のミルフィーユだけを見ている。
「では……改めて」
さくっ、と小気味いい音がした。
さっきよりずっときれいに切れた一口分を、ウイさんは慎重に口へ運ぶ。
「…………」
「どうです?」
「おいしいです」
短い言葉だったけれど、驚くほど素直な声だった。
香ばしいパイ生地と、お姉ちゃんが作った濃厚なカスタード。そこに甘酸っぱい苺が合わさる。ウイさんは目を細め、今度は二口目を切り分けた。
「注文を間違えたこと自体は失敗でしたが、こちらを選んだことまで失敗だったとは思いません」
「ずいぶん気に入ったみたいですね」
「ええ。これは確かに、本を読みながら食べるべきではありません。本に危険が及ぶから、という理由だけではなく……味に集中できないのは、もったいないです」
それからウイさんは、最後まで一度も本を開かなかった。
時間をかけてミルフィーユを食べ、皿に残ったパイくずまで丁寧にフォークですくう。食べ終わると、手と口元を念入りに拭き、テーブルの上に何も残っていないことを確認してから、ようやく本を開いた。
「コーヒーのおかわり、いります?」
「お願いします。そちらは読書との相性がいいので」
「こぼさないでくださいよ」
「……本から十分に離しておきます」
それから二時間ほど、ウイさんは同じ席で本を読み続けた。
途中、端末に届いた連絡へ一度だけ目を通す。
「古書館の床が乾いたようです」
そう言って立ち上がった時には、来店した時よりずっと人間らしい足取りに戻っていた。
もっとも、外の日差しを見た途端に、ひどく嫌そうな顔をしていたけれど。
数日後の朝。
「お姉ちゃん......ミルクレープってこんなに面倒なケーキだったの?」
熱くなったフライパンを前に、私は思わずそうこぼした。
今日は、最初から最後まで私がミルクレープを作ることになっていた。
生地は、卵と砂糖に薄力粉を合わせ、牛乳を少しずつ加えて伸ばしていく。溶かしたバターを混ぜ、細かなだまが残らないよう一度濾してから、冷蔵庫で休ませる。
そこまでは、他の焼き菓子と比べて特別に難しいわけではなかった。
問題は、そのあとだ。
同じ量の生地をフライパンへ流し、傾けながら薄く広げる。縁が乾き、表面の色が変わるのを待って裏返す。焼きすぎないうちに取り出し、また次の生地を流す。
一枚。
二枚。
三枚。
最初のうちは数えていた。
十枚を越えた頃には、もうやめた。
「手順は単純でしょう?」
隣でお姉ちゃんが言う。
「単純な作業を、同じ薄さで何回も繰り返すのが面倒なんだけど」
「火が強いと焼き色がつきすぎるし、弱いと水分が抜けないからね。ほら、それ少し厚いよ」
「分かってるって」
慌ててフライパンを回す。
生地は広がったけれど、端の一か所だけがわずかに厚くなった。
たった一枚なら気にならない違いでも、何枚も重ねれば、断面の歪みになる。薄すぎれば破れるし、厚すぎれば食感がそこだけ重くなる。
ミルクレープは、派手な技術を一度成功させれば終わるケーキではなかった。
同じことを、何度も、なるべく同じように成功させなければならない。
「……これ、本当に全部使うの?」
「端を揃えて、状態のいいものを使うよ。失敗した分は味見に回せばいいから」
「味見が増えるような言い方しないでよ」
ようやく必要な枚数を焼き終える頃には、ケーキを一台焼いた時とは違う疲れが腕に残っていた。
けれど、まだ終わりではない。
焼き上げたクレープを一枚ずつ広げ、完全に冷ます。少しでも温かいうちにクリームを塗れば、ゆるんで層が滑ってしまうからだ。
冷めた生地を一枚置く。
生クリームを薄く塗る。
上から、また一枚重ねる。
ずれた縁を直し、厚みが偏らないようクリームを均す。
そして、また一枚。
「焼いた回数と同じだけ、今度は重ねるんだ……」
「ミルクレープだからね」
「名前は知ってる」
単純な返事をするお姉ちゃんを横目で睨みながら、私はパレットナイフを動かした。
重ねるほど、わずかな傾きが目立ってくる。上からそっと押さえ、横から高さを確かめ、またクリームを塗る。
最後の一枚を載せた時、目の前には淡い焼き色と白いクリームが交互に並ぶ、きれいな層ができていた。
「……できた」
「うん。きれいに重なったね」
お姉ちゃんが横から層の重なりと高さを確かめ、満足そうに頷く。
「あとは冷蔵庫でしっかり休ませれば、切った時にも崩れないよ」
「作る方まで、途中で休ませてほしいんだけど」
「お疲れさま。余ったクレープ、食べる?」
「食べる」
そこだけは即答した。
冷蔵庫で休ませたミルクレープを切り分けると、朝から重ね続けた層が、断面へきれいな縞模様になって現れた。
少しくらい面倒でも、こうして形になると悪い気はしない。
午後になり、その最初の一切れをショーケースへ並べたところで、扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、大きな本を抱えたウイさんだった。
今度は扉にもたれかかることなく、自分の足で前と同じ席までたどり着く。もっとも、椅子へ座った途端に深く息を吐いていたので、余裕があるとは言い難い。
「今日は、ちゃんと歩けたんですね」
「季節外れの日差しが弱い時間を選び、途中で一度休憩しました。前回の反省を生かしています」
「それでも疲れてるじゃないですか」
「これが通常です」
それなら前回は、本当に限界だったらしい。
ウイさんはいつものように本を開いた。
けれど、私が注文を取りに行くと、すぐに黒猫の栞を挟んで表紙を閉じる。
「今日は、ミルクレープをお願いします。それから、ミルクティーを」
「今度こそ、間違ってないですか?」
「はい。シミコに三度確認しました」
ウイさんは本の間から、小さな紙を取り出して私に見せた。
そこには、几帳面な字で大きく《ミルクレープです》と書かれている。その下には、《今度こそ最後まで話を聞いてください》とも書き足されていた。
「そこまでされるんだ……」
「古書館へ戻って事情を説明したところ、こうなりました。信用を取り戻すには、しばらくかかりそうです」
「自業自得じゃないですか?」
「否定はできません」
私は注文票へ、ミルクレープとミルクティーを書き込んだ。
「ちょうどよかったです。今日のミルクレープ、私が作ったんですよ」
「杏山さんが?」
「はい。生地から、一枚ずつ焼いて重ねました。思ってたより、ずっと面倒でしたけど」
ウイさんは、閉じたばかりの本へ視線を落とす。
それから、その上へ両手を重ねた。
「では、なおさら読みながら食べるわけにはいきませんね」
「……別に、そこまで気を遣わなくても」
「本もケーキも、片手間にするのはもったいないのでしょう?」
それはこの前、お姉ちゃんが言った言葉だった。
「今度は、ちゃんと聞いてたんですね」
「はい」
ウイさんは少しだけ胸を張った。
そこまで自慢することではないと思う。
「お待たせしました。ミルクレープとミルクティーです」
白い皿を置くと、ウイさんはまず、ケーキの断面をじっと見つめた。
「本当に、何枚も重なっているのですね」
「それを焼くのが大変だったんです」
「この薄さを、一枚ずつ……」
「それから、一枚ずつクリームを塗って重ねました」
「なるほど。シミコから聞いた説明より、ずっと労力が伝わってきます」
「シミコさんの説明、ほとんど聞いてなかったんでしょ」
「それを言われると、反論できませんね」
ウイさんはフォークを手にした。
先を入れると、重なった生地が一枚ずつ小さく沈み、最後にはすべてがまとまって切れる。ミルフィーユの時のように、パイくずが舞うこともない。クリームが大きくはみ出すことも、苺が本へ向かって転がることもなかった。
一口分を口へ運ぶ。
ウイさんの目が、わずかに細くなった。
「……おいしいです」
「本当に?」
「はい。一枚だけなら頼りないほど薄い生地なのに、重なることで、やわらかい中にもきちんと食感があります。クリームの甘さも、生地の香ばしさを消していません」
そこまで言ってから、ミルクティーを一口飲む。
「シミコが勧めた理由も分かりました。よく合いますね」
「そっか」
朝から何度もフライパンを回した腕の疲れが、その一言で少しだけ軽くなった気がした。
ミルクレープなら、たぶん本を読みながらでも食べられる。
パイくずは落ちないし、片手でもどうにかなる。ウイさんが最初からこちらを頼んでいたら、本を閉じることはなかったかもしれない。
けれど彼女は最後まで一度も本を開かず、一口ずつ、きちんとケーキを見て食べた。
ミルフィーユは、本を読みながら食べるには、まったく向いていなかった。
でも、本を閉じるきっかけになるケーキとしては、案外これ以上ないほど似合っていたのかもしれない。