二年生の三学期が始まってから、まだそれほど日数は経っていなかった。
冬休みを終えた高度育成高等学校には、以前と変わらない日常が戻ってきている。
朝になれば生徒たちは寮から校舎へ向かい、教室では休暇中の出来事を話し合い、
放課後になればケヤキモールへ遊びに行く予定を立てる。
進級を間近に控えた二年生にとって三学期は短いが、
だからといって学校生活そのものが急激に変化するわけではない。
少なくとも、表面上はそう見えていた。
松下千秋もまた、いつものように教室の自分の席へ座り、
携帯を眺めながら周囲の会話へ適度に耳を傾けていた。
誰かの会話へ積極的に割り込むわけでもなく、完全に孤立するわけでもない。
必要なら友人たちと笑い合い、授業が始まれば真面目にノートを取り、
教師から質問されれば目立ちすぎない程度の答えを返す。
松下にとって、それは入学以来続けてきた生活だった。
本気を出さない。
正確に言えば、出す必要のないところでは出さない。
学力についても同じだった。
わざと間違った答えを書くような露骨な真似はしないが、
試験前に必要以上の勉強はせず、クラスの上位に食い込みすぎない位置を維持する。
運動についても、体育祭のように目立つ場では全力を避ける。
周囲の人間関係についても、自分が中心となって集団を動かすより、
少し離れたところから全体を見ることのほうが多かった。
能力があるなら使えばいいという考え方を、松下は必ずしも正しいとは思っていない。
能力を示せば期待される。
期待されれば仕事を押しつけられる。
結果を出せば次も同じ結果を求められる。
それなら必要になる瞬間まで手札を伏せておいたほうがいい。
松下は昔からそう考えていた。
そして、この教室には自分以上に徹底して同じことを続けている男子生徒がいる。
松下は携帯から視線を上げると、教室の斜め前方へ何気なく目を向けた。
綾小路清隆。
目立つ容姿をしていないわけではない。
しかし、本人が積極的に自己主張することは少なく、教室の中心に立つこともほとんどない。
学力も運動能力も決して低くはないが、普段の学校生活だけを見ていれば、
何か一つ飛び抜けた能力を持っているようには感じられない。
少なくとも、大半の生徒はそう思っている。
松下は違った。
以前から彼女は綾小路に違和感を抱いていた。
どう考えても普通ではない。
本人は普通の生徒として生活しているつもりなのだろうが、だからこそ不自然なところが見えてくる。
必要な場面で必要な場所にいる。
普段は意見を出さないくせに、何かを言う時には妙に核心へ近い。
体育祭などで垣間見せた身体能力もそうだったし、クラスで問題が起きた時の態度もそうだった。
何より、綾小路は周囲をよく見ている。
松下自身が他人を観察する側だからこそ、それが分かった。
人に興味がなさそうな顔をしながら、実際には誰がどこで何をしているのかを把握している。
誰かと会話している最中でも、その相手だけを見ているわけではない。
視線、声、周囲の反応、場の空気まで含めて情報として処理しているように見えることがある。
だから松下は彼を調べようとした。
最初は、それだけだった。
綾小路清隆という男子生徒が何を隠しているのか知りたかった。
しかし、人生というものは少々意地が悪いらしい。
相手の秘密を暴こうとして近づいた結果、先に自分の秘密を見抜かれた。
しかも、現在の二人の関係は、当時の松下が想像していたものとはずいぶん違うところへ着地している。
「松下さん、さっきから綾小路くんのこと見てない?」
突然隣から声を掛けられ、松下は反射的に視線を戻した。
「え?」
「いや、なんとなく」
友人の軽井沢恵から不思議そうに見られ、松下は携帯を机へ置きながら自然な笑顔を作った。
「別に見てないって。たまたまそっち向いてただけ」
「そう?」
「そうそう。それより、今日の放課後どうするの?」
話題を切り替えると、友人の関心はすぐにそちらへ移った。
松下は会話を続けながら、内心で小さく息を吐く。
危なかった。
付き合い始めてから、自分でも気づかないうちに綾小路を目で追うことが増えている。
それ自体は仕方がないのかもしれない。
問題は、誰にも知られていないことだった。
松下千秋と綾小路清隆は、付き合っている。
恋人同士になってから、それほど長い時間が経過しているわけではない。
クラスにも公表していない。
軽井沢恵をはじめとして綾小路と関わりの深い人間も多いため、
どこまで完全に隠し通せているのかは松下にも分からないが、
少なくとも表立って二人の関係を指摘してきた者はいなかった。
学校ではこれまで通り。
彼は松下と呼び、自分も綾小路と呼ぶ。
必要があれば普通に会話するが、わざわざ隣に座ったり、休み時間を二人で過ごしたりもしない。
その代わり、誰もいないところでは違う。
清隆。
千秋。
最初に名前で呼ばれた時は、自分からそうしてほしいと言ったにもかかわらず、
思っていた以上に恥ずかしかった。
表情へ出さなかったつもりだったが、おそらく彼には気づかれていたのだろう。
そういうところまで妙に鋭い男なのだから困る。
「おはよう、みんな」
教室の前方から堀北鈴音の声が聞こえた。
松下は自然に会話を切り上げ、前を向いた。
堀北が教室へ入ってきたことで、始業前の空気が少しずつ変わっていく。
二年生も残りわずか。
この学校で二年間を過ごした現在、入学当初とはクラスの状況も大きく変わった。
堀北は明確にクラスの中心となり、須藤や平田をはじめ、
それぞれの生徒が役割を持つようになっている。
しかし松下は、まだ完全には表へ出ていない。
それでいいと思っていた。
少なくとも、これまでは。
やがてチャイムが鳴り、茶柱佐枝が教室へ入ってきた。
いつもと同じようなホームルームが始まるのだろうと考えていた生徒たちだったが、
茶柱が教卓へ置いたタブレット端末を見た瞬間、教室の何人かが反応した。
この学校で二年間過ごしていれば、その程度の変化にも敏感になる。
「先生、それってもしかして……」
池が嫌そうな声を上げた。
「察しがよくなったな、池」
「いやいやいや、三学期始まったばっかりですよ?
もう少し普通に学校生活させてくれてもよくないっすか?」
「学校側に言え。私に言われても困る」
茶柱は淡々と答えると、教室全体を見渡した。
それだけで生徒たちの空気が変わる。
特別試験。
この学校に在籍する以上、避けて通ることのできないものだった。
学力だけではない。
運動能力、判断力、協調性、交渉力、
そして時には人間関係そのものまで試験材料として利用される。
これまで何度も経験してきた。
それでも慣れることはない。
むしろ経験を重ねたからこそ、学校側がどれほど容赦のない条件を提示してくるのか理解している。
「三学期最初の特別試験について説明する。
今回の試験はこれまで行われてきた試験とは少し形式が異なる。
クラス全員が同じ条件で参加するものではない」
茶柱の言葉に、堀北が僅かに眉を動かした。
「代表者を選出するということですか?」
「近いが、正確には学校側が候補者を選出する」
教室がざわめいた。
松下も僅かに姿勢を正した。
学校側による選出。
嫌な響きだった。
生徒側に選択権がないということは、学校には選出する明確な基準が存在する可能性が高い。
「今回の特別試験では、各クラスから複数の生徒が選出され、
その中から二人一組のペアを形成する。試験期間は七日間。
その間、参加者には毎日異なる課題が与えられる」
茶柱が端末を操作すると、教室前方のモニターへ概要が表示された。
学力。
運動能力。
記憶力。
情報収集。
交渉。
判断。
集団統率。
そこへ並べられた項目を見ただけでも、単一能力で突破できる試験ではないことが分かる。
「各課題にはポイントが設定されている。
ただし、単純に課題をこなして得点を競うだけではない。
他ペアとの情報交換、ポイント譲渡、一時的な協力関係の締結も認められる。
また、試験によっては相手ペアへの妨害行為が許可される場合もある」
「ずいぶん何でもありですね」
平田が苦い表情を浮かべる。
「だからこそ総合力が問われる。
なお、暴力行為や脅迫など、通常の校則に違反する行為まで認められるわけではない。
許可される妨害行為については、その都度学校側から説明される」
松下は画面を見ながら考える。
七日間。
毎日異なる課題。
そして二人一組。
個人能力だけでは足りない。
相方との相性が極めて重要になる。
片方が優秀でも、もう片方が足を引っ張れば限界がある。
反対に、それぞれの得意分野が異なる二人なら、課題によって役割を交代できる。
学校側がペアを決めるのか、それとも選出された者同士で組むのか。
松下がそこまで考えたところで、茶柱が続きを説明した。
「ペアについても学校側が指定する。拒否権はない」
やっぱり。
松下は心の中だけで呟いた。
「先生、選出基準について質問しても?」
堀北が手を挙げる。
「現時点では非公開だ」
「成績やOAAは関係していますか?」
「答えられない」
「過去の特別試験の成績は?」
「それも答えられない」
堀北の表情が僅かに険しくなった。
当然だろう。
学校側が何を基準に生徒を選んだのか分からなければ、事前の対策も難しい。
松下は何気なく綾小路を見た。
彼は普段と変わらない表情で画面を眺めている。
しかし、おそらく頭の中では自分以上の速度で条件を整理しているのだろう。
その時だった。
自分の携帯が短く震えた。
授業中ではないため問題はない。
松下が机の下で銀色の携帯を確認すると、メッセージが一件届いていた。
送信者を見て、思わず綾小路のほうを見そうになるのを堪える。
『嫌な予感がする』
たったそれだけだった。
松下は口元が緩みそうになるのを抑えながら返信した。
『奇遇だね。私も』
すぐに既読がついた。
こういう時だけは、本当に普通の高校生みたいだと思う。
もっとも、ホームルーム中に恋人同士でこっそり送り合う内容が特別試験への警戒という時点で、
一般的な高校生の恋愛からは少々外れている気もする。
「それでは選出者を発表する」
茶柱の声で、松下は携帯を伏せた。
教室の緊張が一段階上がる。
モニターが切り替わった。
名前が表示されていく。
松下は最初、それを他人事のように見ていた。
しかし数秒後、自分の名前を発見した。
松下千秋。
一瞬、見間違いかと思った。
もう一度確認する。
間違いなく自分だった。
「……え?」
思わず声が漏れた。
周囲からも視線が集まる。
「松下さん、選ばれてるじゃん!」
「マジ?」
「なんで松下?」
友人たちから驚きの声が飛んでくる。
松下自身も聞きたい。
なぜ自分なのか。
OAAだけなら、他にも候補者はいくらでもいる。
学力上位者を選ぶなら堀北や幸村がいる。運動能力なら須藤がいる。対人能力なら平田がいる。
それなのに学校は松下千秋を選んだ。
胸の奥に、小さな警戒心が生まれる。
学校側は何を見ている?
まさか、自分が能力を抑えていることまで把握されているのだろうか。
そこまで考えたところで、さらに名前が表示された。
綾小路清隆。
今度は驚かなかった。
むしろ妙な納得があった。
綾小路なら選ばれても不思議ではない。
問題はペアだった。
画面が切り替わる。
選出された生徒たちの名前が消え、新たな表示が現れた。
松下はそこに書かれた文字を見た瞬間、数秒間完全に動きを止めた。
綾小路清隆――松下千秋。
冗談でしょ。
そう思った。
よりによって。
よりによって自分たち二人を組ませるのか。
松下は反射的に綾小路を見る。
今度は彼もこちらを見ていた。
視線が重なる。
周囲から見れば、突然ペアに指定された男女が互いを確認しただけに見えるだろう。
しかし二人にとっては違った。
清隆の目が、僅かに細くなる。
松下も同じことを考えていた。
偶然なのか。
それとも学校側には何らかの意図があるのか。
先ほどのメッセージが頭をよぎる。
嫌な予感は見事に的中したらしい。
「綾小路と松下かぁ」
池がモニターを見ながら呟いた。
「なんか地味な組み合わせだな」
「ちょっと、それ失礼じゃない?」
松下が即座に返すと、教室から笑い声が上がった。
「いや、悪い意味じゃねえって!二人ともなんつーか、前に出るタイプじゃねえじゃん」
「池くんの言いたいことも分からなくはないわね」
堀北が画面を見ながら言った。
松下は堀北へ目を向ける。
「堀北さんまで?」
「能力が低いという意味ではないわ。
ただ、学校側が何を基準にその二人を組ませたのか興味があるだけよ」
その言葉に、松下は内心で苦笑した。
もし本当の理由が自分たちの想像通りなら、堀北の疑問はもっともだった。
陰にいる人間を二人まとめて引きずり出した。
学校側が意図的にそうしたのだとすれば、かなり趣味が悪い。
「他クラスの主要ペアについても発表する」
茶柱が再び画面を操作した。
松下は表示された名前を順番に確認していく。
最初に目へ入ったのは、龍園クラスだった。
龍園翔――椎名ひより。
松下は僅かに眉を上げた。
龍園の能力については説明するまでもない。
攻撃的な戦術を好み、必要なら相手の心理的な弱点まで平然と利用する。
正面からぶつかるには厄介極まりない相手だ。
一方の椎名ひよりは龍園とは正反対に見える。
物静かで、争いを好むようには見えない。
しかし松下は、彼女を単なる大人しい女子とは考えていなかった。
あの子はよく見ている。
綾小路と同じという意味ではない。
それでも、教室の隅で本を読んでいるだけの人間にしては、周囲の変化に気づくのが早い。
龍園の攻撃性と、椎名の観察力。
厄介な組み合わせだった。
次に表示されたのは一之瀬クラス。
一之瀬帆波――神崎隆二。
こちらも強い。
一之瀬の最大の武器は、単純な学力ではない。
人望だ。
あれだけ多くの生徒から信頼される人間は、この学年でも珍しい。
その一之瀬を、現実的な思考のできる神崎が支える。
今回の試験では他ペアとの協力が認められている。
そのルールだけでも、一之瀬という人間がどれほど危険か分かる。
そして最後。
坂柳クラス。
表示された一人目の名前を見ても、松下は驚かなかった。
坂柳有栖。
当然のように選ばれている。
問題は、その隣だった。
白石飛鳥。
松下は少し考えた。
名前は知っている。
坂柳クラスの女子生徒。
成績も悪くなかったはずだが、坂柳や橋本のように目立つ存在ではない。
廊下ですれ違ったことも何度かある。
いつも穏やかな雰囲気で、誰かと話す時にも丁寧な言葉を使う女子だった。
それ以上の印象が出てこない。
松下は自分の記憶を探ったが、白石飛鳥について特筆するほどの情報は持っていなかった。
なぜ坂柳の相方が白石なのだろう。
その疑問を抱いたのは、松下だけではなかったらしい。
「坂柳のところ、橋本じゃねえんだな」
須藤が呟く。
「学校側が決めたペアだ。本人たちの希望は関係ない」
茶柱が答えた。
「白石って強いのか?」
「それを私に聞くな」
教室の何人かが白石という名前について話し始める。
しかし誰からも明確な評価は出てこなかった。
松下は画面を見つめる。
綾小路と自分。
龍園と椎名。
一之瀬と神崎。
坂柳と白石。
偶然にしては、ずいぶん興味深い組み合わせだった。
その後も茶柱から細かなルール説明が続いた。
試験開始は翌日。
初日は基礎能力を測定する複数の課題が実施され、
二日目以降は前日の結果に応じて対戦形式の課題が追加される。
また、試験中に新たなルールが告知される可能性がある。
最終順位は七日間の総合ポイントによって決定されるが、
途中で一定の条件を満たしたペアには追加報酬も存在する。
説明を聞けば聞くほど、事前に完全な攻略法を組み立てることが難しい試験だと分かる。
ホームルームが終了した後、松下の周囲にはすぐに何人かのクラスメイトが集まってきた。
「松下さん、大丈夫?」
「七日間って結構長くない?」
「綾小路とちゃんと協力できそう?」
次々に質問される。
松下は笑いながら答えた。
「大丈夫でしょ。綾小路くんだって頼りないわけじゃないし、私もできる範囲では頑張るから」
できる範囲。
自分で口にしておきながら、その表現が少し可笑しかった。
今回は、おそらくその範囲を自分で決めることができない。
本気を出す必要があるかもしれない。
それも、今までクラスメイトへ見せてこなかった部分まで。
ふと視線を感じた。
綾小路だった。
彼は何も言わず、僅かに携帯を持ち上げる。
意味はすぐに理解できた。
後で連絡する。
松下も小さく頷いた。
その日の放課後。
松下は友人たちと別れた後、指定された場所へ向かった。
ケヤキモールの賑やかな場所ではない。
人通りの少ない校舎脇の通路を抜け、さらに少し離れた場所にあるベンチ。
冬の夕方ということもあり、生徒の姿はほとんどなかった。
綾小路は先に来ていた。
「待った?」
「いや、今来たところだ」
「それ、デートで男が言う定番の台詞じゃない?」
「そうなのか?」
「……清隆って、そういうところ本当に知らないよね」
松下は呆れながら彼の隣へ座った。
学校では綾小路。
二人だけなら清隆。
それだけの違いなのに、名前を呼ぶたびに自分たちの関係を改めて意識する。
「それで、どう思った?」
「試験のことか?」
「それ以外に何があるのよ」
「てっきりデートの話を続けるのかと思った」
「清隆からそんな言葉が出るとは思わなかったんだけど」
少しだけ意外だった。
付き合い始めてから、以前より冗談らしいことを口にするようになった気がする。
本人が意識しているのかは分からない。
「それは後でいいとして、まず試験。私たちがペアになったの、偶然だと思う?」
「判断材料が足りない。
ただ、学校側が何らかの基準でペアを決めている以上、完全な無作為抽選とは考えにくい」
「だよね」
松下は銀色の携帯を両手で持ちながら考える。
「学校側が清隆のことをある程度把握してるのは分かる。でも、私まで選ばれたのが気になる」
「自覚はあるんだな」
「何よ、その言い方」
「お前は自分が周囲より優秀だと思っている」
あまりにも平然と言われ、松下は一瞬言葉に詰まった。
「……否定はしないけど」
「実際、間違ってはいない」
「それ褒めてる?」
「事実を言っているだけだ」
「彼女を褒める練習くらいしたら?」
「必要か?」
「必要」
即答すると、綾小路は僅かに考え込んだ。
本当に考えることなのだろうか。
松下は可笑しくなって笑った。
こうして話していると、教室にいる時の綾小路とは少し違って見える。
もちろん根本的な性格が変わるわけではない。
感情を大きく表現することもない。
それでも、自分に対してだけは以前より言葉が増えた。
それが松下には嬉しかった。
「でもさ」
松下は少し声を落とした。
「もし今回、本気を出さなきゃ勝てないってなったら、清隆はどうする?」
「必要なら出す」
迷いのない答えだった。
「随分あっさりしてるね」
「隠すことが目的じゃない。隠す必要があるから隠しているだけだ」
その答えを聞いて、松下は納得する。
やはり自分とは少し違う。
松下は将来のために手札を温存している。
清隆の場合、能力を隠すこと自体が何らかの目的へ結びついている。
詳しい事情のすべてを聞いているわけではない。
それでも、彼が普通の環境で育った人間ではないことくらいは理解していた。
「千秋はどうする?」
逆に聞かれた。
松下は少し考えた。
これまでなら、できる限り隠すと答えていただろう。
しかし今回は七日間の総合試験。
しかも相手には龍園、一之瀬、坂柳がいる。
中途半端な態度で勝てるほど甘い相手ではない。
何より、自分の隣には綾小路清隆がいる。
自分だけがいつまでも能力を隠し、彼にすべて任せる。
そんな関係は嫌だった。
恋人だから守ってほしいという気持ちがないわけではない。
けれど、それ以上に。
隣に立ちたい。
自分も戦える人間だと示したい。
「出すよ」
松下は答えた。
「必要なら、私も本気でやる」
「そうか」
「何?意外だった?」
「いや」
綾小路は松下を見る。
「そのほうが助かる」
たったそれだけの言葉だった。
しかし松下には十分だった。
彼が誰かを頼ることは多くない。
まして自分の能力を知った上で、助かると言っている。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
松下はその感情を誤魔化すように身体を動かし、ほんの少しだけ綾小路との距離を縮めた。
肩が触れる。
綾小路は離れなかった。
「……誰もいないよね?」
「今のところは」
「じゃあ、ちょっとだけ」
松下は周囲を確認してから、彼の肩へ軽く頭を預けた。
試験の話をしていたはずなのに、こういうことをしたくなる自分が少し恥ずかしい。
それでも明日から七日間、過酷な試験が始まる。
今日くらいは許されてもいいだろう。
「清隆」
「なんだ?」
「呼んだだけ」
「そうか」
「そこはもう少し何かないの?」
「何を期待している?」
「それを私に聞く?」
松下は顔を上げて彼を見る。
綾小路はいつもの表情だった。
しかし、逃げる様子はない。
松下は小さく笑った。
「まあいいや。今回は許してあげる」
「助かる」
「そういうところだけ返事早いんだから」
しばらく二人でそのまま過ごした。
会話がなくても気まずくはない。
それも、松下が綾小路と一緒にいることを心地よく感じる理由の一つだった。
やがて空気がさらに冷たくなり始め、二人は寮へ戻ることにした。
立ち上がった松下は、ふと昼間に見たペア一覧を思い出す。
龍園翔と椎名ひより。
一之瀬帆波と神崎隆二。
坂柳有栖と白石飛鳥。
「清隆」
「なんだ?」
「一番警戒してるのって、やっぱり坂柳さん?」
綾小路は少し考えた。
「現時点ではそうなる」
「だよね」
「ただし、ペアで考える必要がある」
「白石さん?」
「ああ」
松下も気になっていた。
「正直、私もよく知らないんだよね。
成績は悪くなかったと思うけど、坂柳さんの側近って感じでもないし」
「情報が少ない」
「それが逆に気になる?」
「少しな」
松下は歩きながら携帯を取り出し、昼間保存しておいた参加者一覧を表示した。
白石飛鳥。
その名前を見つめる。
学校側が何を基準としてペアを作ったのかは分からない。
しかし、綾小路清隆の相方として松下千秋を選んだ学校が、
坂柳有栖の相方だけを何の理由もなく決めたとは考えにくかった。
「調べてみる?」
「必要はあるだろう。ただ、下手に動けば相手にもこちらが警戒していることを教える」
「じゃあ、しばらく様子見ね」
「ああ」
二人はそのまま寮へ向かった。
同じ頃。
坂柳クラスでも、翌日から始まる特別試験について話し合いが行われていた。
その中心にいるのは当然、坂柳有栖だった。
坂柳は自分のペアとして指定された女子生徒を見上げる。
「まさか白石さんと組むことになるとは思いませんでした」
「私も驚きました」
白石飛鳥は穏やかに微笑んだ。
声も柔らかい。
突然特別試験の代表に選ばれたというのに、緊張している様子はほとんどなかった。
「ご迷惑をおかけしないよう、精一杯頑張りますね」
「迷惑だなんて思っていませんよ。よろしくお願いします」
「はい。こちらこそよろしくお願いいたします」
白石は丁寧に頭を下げた。
その態度には不自然なところなど何もない。
教室の誰も、彼女を特別視していなかった。
優秀ではある。
しかし坂柳ほどではない。
そう考えている者が大半だった。
坂柳自身も、少なくとも現時点では白石のすべてを知っているわけではない。
白石は自分の席へ戻ると、携帯を開いた。
学校側から送られてきた参加者一覧。
そこには四つのペアが並んでいる。
龍園翔、椎名ひより。
一之瀬帆波、神崎隆二。
坂柳有栖、白石飛鳥。
そして。
綾小路清隆、松下千秋。
白石の指が、その二人の名前のところで止まった。
彼女はしばらく画面を見つめていた。
やがて、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべる。
「……そういう組み合わせなのですね」
誰かに聞かせるための言葉ではなかった。
それ以上の独り言も口にしない。
白石は携帯の画面を消すと、何事もなかったように鞄へしまった。
翌日から始まる特別試験について不安そうに話すクラスメイトへ声を掛けられれば、
いつものように丁寧な言葉で応じる。
坂柳から何か頼まれれば快く引き受け、自分から目立つ場所へ出ようとすることもなかった。
その姿だけを見れば、彼女はどこにでもいる穏やかな女子生徒にしか見えない。
綾小路清隆が何を隠しているのか。
松下千秋がどこまで自分の能力を伏せているのか。
そして白石飛鳥自身が何を隠しているのか。
この時点では、まだ誰もそのすべてを知らなかった。
七日間にわたる特別試験は、翌朝から始まる。
それは表舞台に立つ者たちだけが競い合う試験ではなく、
これまで目立たない場所から周囲を見続けてきた者たちを、
否応なく同じ盤面へ引きずり出す試験でもあった。
そして松下千秋にとっては、自分が長く伏せてきた実力を初めて本格的に解放すると同時に、
綾小路清隆という恋人の隣で、
守られるだけではない一人のパートナーとして戦えるのかを問われる七日間の始まりでもあった。