特別試験三日目の朝、私は昨日までより少しだけ複雑な気分で指定教室へ向かっていた。
龍園と椎名を相手にした二日目の試験は、結果だけを見れば私たちの勝利だった。
途中では何度も先を読まれ、椎名との直接対決では先に正解を奪われる場面まであったものの、
最後の特殊チェックポイントを清隆と二人で突破したことで、最終的には八点差をつけることができた。
試験としては、かなり良い結果だったと思う。
ただし、私にとって昨日最も強く残っているのは、得点でも順位でもなかった。
龍園の前で、私はうっかり綾小路ではなく清隆と呼んでしまった。
しかも、その後に清隆自身が私たちの関係を隠し続ける必要はないと言ったものだから、
結局そのまま人目につく場所でも腕を組んで寮まで帰った。
当然、噂にならないはずがない。
朝、寮を出た時点ですでに何人かから視線を向けられたし、
廊下ですれ違った同学年の女子がこちらを見たあと、
隣にいた友人へ小声で何かを話しているのも見えた。
別に悪いことをしているわけではない。
それでも、今まで隠していたものが急に表へ出ると落ち着かない。
自分の実力を見せることと、清隆との関係を見せること。
今回の特別試験が始まってから、私はどうやら二つの意味で陰から引っ張り出されているらしい。
そんなことを考えながら教室へ入ると、清隆はすでに席についていた。
いつも通りだった。
昨日あれだけ自然に私たちの関係を受け入れたくせに、
朝になれば何事もなかったような顔で専用端末を確認している。
私は周囲を見回した。
龍園はまだ来ていない。
一之瀬と神崎は少し離れたところで話している。
坂柳と白石もすでに着席していた。
そして椎名もいた。
私は一瞬だけ彼女と目が合った。
椎名は昨日と変わらない穏やかな笑顔で、小さく会釈してくる。
私も同じように返した。
けれど、昨日までと同じ気持ちでは見られなかった。
私は清隆の隣へ座る。
「おはよう、綾小路くん」
「おはよう」
とりあえず人前では今まで通りにしてみたものの、
昨日の帰り道で堂々と腕を組んでいたことを考えると、
今さら苗字で呼ぶ意味がどこまであるのかは自分でもよく分からない。
清隆も同じことを思ったのか、私のほうを少し見た。
「どうした?」
「いや、今さら綾小路くんって呼ぶのも変かなと思って」
「好きにすればいい」
「じゃあ清隆って呼んでいい?」
「ああ」
あまりにもあっさりしている。
私は少しだけ周囲を確認してから、小声で呼んだ。
「清隆」
「何だ?」
「呼んでみただけ」
「そうか」
いつもの返事だった。
それなのに、以前より少し嬉しかった。
今までは二人きりの時だけ許されていた呼び方を、人前でも使っていい。
それだけのことで、私たちの関係が少しだけ現実味を増したように感じる。
「松下さん」
突然声を掛けられ、私は振り返った。
一之瀬帆波だった。
いつもの明るい笑顔を浮かべている。
ただ、その視線が一度だけ私と清隆の間を往復した。
「おはよう、一之瀬さん」
「おはよう。昨日の試験すごかったみたいだね。龍園くんたちに勝ったんでしょ?」
「かなりギリギリだったけどね」
「でも勝ったんだからすごいよ。私たちも負けてられないなぁ」
そこまでは普通だった。
ところが、一之瀬は少しだけ迷うような表情を見せたあと、私のほうへ顔を寄せる。
「それで、その……松下さん」
「何?」
「綾小路くんと……付き合ってるって本当?」
やっぱり来た。
私は清隆を見る。
彼は止める様子もない。
もう隠す必要はないと言ったのは清隆なのだから、ここで否定する理由もなかった。
「うん。付き合ってるよ」
自分で言葉にすると、少しだけ恥ずかしい。
一之瀬の笑顔が僅かに固まったように見えた。
本当に一瞬だけだった。
すぐに元へ戻る。
「そ、そうなんだ。知らなかった」
「最近だからね」
「へえ……そうなんだ」
同じことを二回言った。
珍しい。
普段の一之瀬なら、もう少し自然に会話を続けると思う。
「一之瀬さん?」
「あ、ごめん。ちょっとびっくりしちゃって」
そう言って笑う。
「二人とも、お似合いだと思うよ」
「ありがとう」
私は素直に礼を言った。
けれど、その言葉を口にした時の一之瀬の表情には、ほんの少しだけ無理があるように見えた。
人を見るのは得意なほうだと思っている。
だからこそ気づく。
たぶん一之瀬も、清隆のことを何とも思っていないわけではない。
そこまで考えたところで、昨日の椎名の表情まで思い出してしまった。
一人だけじゃないのかもしれない。
私は隣にいる清隆を見る。
本人は相変わらず何も分かっていなさそうな顔をしている。
どうしてこの男はこういうところだけ鈍いのだろう。
私が少し睨んでいると、清隆がこちらを見た。
「何だ?」
「別に」
「そうか」
やっぱり分かっていない。
一之瀬が自分の席へ戻っていったあと、私は机の下で清隆の制服の袖を少し引っ張った。
「ねえ」
「何だ?」
「清隆って、自分が結構モテるって知ってる?」
「そうなのか?」
「本気で言ってる?」
「少なくとも自覚はない」
「はあ……」
私は思わずため息をついた。
本人がこれなら、周囲がどれだけ分かりやすい反応を見せても気づかないのかもしれない。
その意味では心配しなくてもいいのだろうか。
それとも、気づかないまま自然に距離を縮めるから余計に危ないのだろうか。
考えても答えは出なかった。
やがて教師が入室し、三日目の試験について説明が始まった。
しかし、この日は昨日までのような直接対戦形式ではなかった。
前日の結果をもとに各ペアへ調整日が与えられ、
午前中はいくつかの個別課題を行い、午後は自由行動時間となるらしい。
自由行動といっても完全な休みではない。
これまでの試験結果を分析し、翌日以降に備えるための時間として設定されている。
さらに午後六時までに、各ペアは学校側へ「今後警戒するペア」を一組提出しなければならない。
その回答が後日の試験へ影響する可能性があるものの、具体的な内容は公開されない。
「休みみたいで休みじゃないね」
私が小声で言うと、清隆は画面を見ながら頷いた。
「午後をどう使うかも見られている可能性はある」
「清隆って、本当に何でも疑うよね」
「この学校ではそのほうがいい」
「否定できないのが嫌だなぁ」
午前中の課題は、昨日までと比べれば難しくなかった。
個人で行う学力問題と、二人で話し合って答えを出す判断問題が中心で、
他ペアから直接妨害されることもない。
だからこそ、私はこれまでより余裕を持って周囲を見ることができた。
龍園は昨日負けたことなど気にしていないように見える。
むしろ、清隆や私の能力について新しい情報を得られたことを楽しんでいるようだった。
一之瀬は普段通りに見えるが、時々こちらへ視線を向ける。
そして椎名も、何度か清隆を見ていた。
私がそれに気づくと、自然と椎名のほうを見返してしまう。
視線が合う。
椎名は気まずそうに逸らしたりはしない。
むしろ、少しだけ困ったように笑った。
なんだろう。
その反応が逆に気になる。
昼休みになり、私たちは各自で食事を取ることになった。
清隆と一緒に座ろうと思っていたが、その前に龍園から声が掛かった。
「綾小路、ちょっと来い」
「何だ?」
「昨日の話だ。聞きてえことがある」
嫌な予感しかしない。
「何を聞くの?」
私が先に聞くと、龍園は面白そうに私を見る。
「てめえに関係ある話かもしれねえな」
「それなら私も行く」
「好きにしろ」
清隆は止めなかった。
私たちは少し離れた場所へ移動した。
龍園の隣には椎名もいた。
「で、何?」
私が尋ねる。
龍園は清隆を見る。
「昨日から気になってたんだが、てめえら本当に付き合ってんのか?」
「何で龍園に確認されなきゃいけないの?」
「面白えからに決まってんだろ」
「最低」
「褒め言葉として受け取っとくぜ」
私は呆れながら清隆を見る。
清隆は普通に答えた。
「ああ。付き合ってる」
あまりにも自然だった。
私は少しだけ驚いた。
昨日自分から言ったこととはいえ、こうして他人へはっきり口にするとは思わなかった。
龍園が楽しそうに笑う。
「やっぱりそうか。てめえが女とまともに付き合うとはな」
「珍しいことか?」
「てめえの場合はな」
龍園は今度は私を見る。
「で、松下。こいつのどこが良かったんだ?」
「何でそんなことまで答えなきゃいけないの?」
「いいじゃねえか。暇潰しだ」
「嫌」
即答した。
龍園は笑う。
椎名は、そのやり取りを静かに聞いていた。
でも、いつものように本へ目を落としたりはしない。
清隆を見ている。
私は気づいてしまう。
昨日感じたものは、やっぱり間違いではなかった。
少し胸がざわつく。
その時、椎名がゆっくり口を開いた。
「お二人は、いつ頃からお付き合いされているんですか?」
龍園の質問とは違う。
穏やかな聞き方だった。
でも私は、その質問に別の意味を感じた。
「そんなに前じゃないよ」
「そうなのですね」
椎名は小さく頷く。
「とても自然に一緒にいらっしゃるので、もう少し前からなのかと思っていました」
私は少しだけ嬉しくなった。
「そう見える?」
「はい。昨日の試験でもそうでしたが、綾小路くんと松下さんは、
お互いを信頼されているのがよく分かりました」
「ありがとう」
普通なら素直に喜べる。
でも今の私は、椎名のことを以前と同じようには見られない。
「椎名さんは清隆と仲いいよね」
私は自分でも少し直接的すぎると思いながら聞いた。
椎名は驚いたように目を瞬かせた。
「私ですか?」
「本の話とかよくするんでしょ?」
「はい。綾小路くんとは好きな本についてお話しすることがあります」
「二人で?」
「そういうこともあります」
昨日清隆から聞いた答えとほとんど同じだった。
私は少しだけ複雑な気分になる。
椎名はそんな私を見て、何かを察したらしい。
「松下さん」
「何?」
「もしかして、気にされていますか?」
見抜かれた。
しかも本人に。
私は一瞬答えに迷ったものの、ここで否定するのも格好悪い気がした。
「ちょっとだけね」
正直に言った。
龍園が吹き出す。
「ククッ、面白えな。
昨日まで頭使って殺し合いみてえな試験してた女二人が、今日は男の取り合いかよ」
「龍園くんは黙ってて」
「俺は見物してるだけだ」
本当に性格が悪い。
椎名は私を困らせるような笑い方はしなかった。
むしろ少しだけ寂しそうに目を伏せる。
「大丈夫ですよ。私は松下さんから綾小路くんを取ろうとは思っていません」
その言葉に、私はすぐ返事ができなかった。
取ろうとは思っていない。
それはつまり、好意そのものを否定したわけではない。
椎名は少し間を置いてから続けた。
「綾小路くんとお話しする時間は好きですし、一緒に本を読んだり、
おすすめの本について話したりすることも楽しいです。
ただ、それをどういう気持ちと呼べばいいのか、私自身もまだよく分かっていません」
とても椎名らしい言葉だと思った。
無理に否定もしない。
だからといって私へ敵意を向けるわけでもない。
「それでも、昨日お二人を見ていて少しだけ羨ましいとは思いました」
私は椎名を見る。
彼女は微笑んでいた。
でも、やっぱり少し寂しそうだった。
「お二人は、言葉にしなくても相手のことが分かるように見えました。
綾小路くんが誰かをあれだけ自然に頼っているところも、私はあまり見たことがありませんでしたから」
私は何と言えばいいのか迷った。
勝ったと思って喜ぶような気持ちにはなれない。
椎名が悪いわけではない。
それどころか、こうして正直に話してくれている。
「ごめん」
思わず言ってしまった。
椎名は少し驚く。
「どうして松下さんが謝るんですか?」
「いや、何となく」
「謝る必要はありませんよ」
穏やかに言う。
「松下さんが綾小路くんとお付き合いされていることは、悪いことではありませんから」
「うん」
「それに」
椎名は少しだけ笑った。
「昨日の試験では負けましたけれど、松下さんと競うのは楽しかったです。
ですから、これからも普通にお話しできたら嬉しいです」
その言葉を聞いて、私も自然と笑えた。
「私も。試験は本気で悔しかったけどね」
「次は私が勝ちたいです」
「それはこっちの台詞」
二人で少し笑う。
龍園がつまらなそうに口を挟んだ。
「何だよ。もっと修羅場になるかと思ったのによ」
「期待するほうがおかしいでしょ」
「女同士なんだから髪引っ張るくらいしろ」
「しないよ」
「残念だな」
私は本気で呆れた。
清隆はというと、ほとんど黙って聞いていた。
「清隆も何か言ってよ」
「何を言えばいい?」
「もういい」
やっぱり清隆だった。
昼休みが終わり、午後は自由行動時間になった。
私は清隆と二人で、昨日までの試験結果を整理することにした。
ケヤキモールのカフェでもよかったが、人が多い場所では落ち着かない。
そこで私たちは校舎から少し離れたベンチへ移動した。
昨日まで何度か二人で来た場所だ。
私は銀色の携帯を取り出し、学校側から送られてきた得点履歴を開く。
「明日以降に一番警戒するペア、誰にする?」
「坂柳と白石だ」
予想通りだった。
「やっぱり白石さん?」
「ああ。坂柳が強いのは最初から分かっている。問題は白石のほうだ」
「昨日も目立ってなかったよね」
「目立っていないのに順位が落ちない」
それは私も気になっていた。
白石は学力課題でも身体能力課題でも、目を疑うほど高い成績を出しているわけではない。
しかし坂柳との総合結果は常に上位。
特に二人で行う課題では安定している。
「わざと抑えてると思う?」
「可能性はある」
「私たちみたいに?」
「それも否定できない」
私は少し離れたところにいる白石を見る。
彼女は坂柳と一緒に歩いていた。
何か話している。
坂柳が話し、白石が穏やかに笑いながら頷く。
見た目だけなら、坂柳が完全に主導しているように見える。
「本当に普通に見えるんだけどなぁ」
「普通に見せるのが上手い可能性もある」
「それ言われると何も信じられなくなるんだけど」
私は苦笑する。
清隆は人間を疑いすぎる。
でも今回ばかりは、私も同じ考えだった。
「じゃあ提出は坂柳さんと白石さんでいい?」
「ああ」
「了解」
私は端末から回答を送信した。
これで試験について今日やるべきことはほとんど終わった。
急に時間が余る。
私は携帯を膝の上へ置き、少しだけ伸びをした。
「終わったね」
「ああ」
「じゃあ、ここから自由時間でいいよね?」
「構わない」
「試験の分析とか、もうない?」
「今すぐ必要なものはない」
「じゃあ決まり」
私は少しだけ清隆との距離を縮めた。
さっきまで試験のことばかり考えていたのに、自由時間と言われた途端に気が抜ける。
「清隆」
「何だ?」
「腕貸して」
「どういう意味だ?」
私は返事を待たず、清隆の腕へ自分の腕を絡ませた。
「こういう意味」
「昨日もやっていたな」
「彼女なんだからいいでしょ」
「駄目とは言ってない」
清隆がそう答えると、私はさらに少し身体を寄せた。
人前でこうするのはまだ少し恥ずかしい。
でも昨日ほどではない。
「ねえ」
「何だ?」
「さっき椎名さんの話、どう思った?」
「どうと言われてもな」
「清隆のこと気になってるみたいだったじゃん」
「そうかもしれないな」
やっと理解したらしい。
「何とも思わないの?」
「千秋と付き合っている以上、オレから何かすることはない」
「そういうところだけは安心できる」
「だけ?」
「他にもあるけど」
私は少し笑った。
本当はかなり安心した。
椎名は可愛いし、優しいし、頭もいい。
しかも清隆と趣味まで合う。
普通に考えれば、恋人として警戒するには十分すぎる相手だと思う。
でも清隆が私を選んでいる。
その事実を、本人が何でもないように口にする。
それだけでかなり安心できる。
「一之瀬さんもそうだと思うよ」
「何が?」
「清隆のこと好きなんじゃないかってこと」
「そうなのか?」
「本当に気づかないんだね」
私は呆れた。
「朝、私たちが付き合ってるって言った時、結構ショック受けてたよ」
「そうは見えなかった」
「清隆は人のこと見てるようで、こういうのだけ見てないよね」
「必要性の問題かもしれない」
「恋愛感情は必要ない情報なの?」
「今まではな」
「今は?」
少し意地悪く聞く。
清隆は私を見る。
「千秋の感情なら必要だ」
私は何も言えなくなった。
また急にこういうことを言う。
ずるい。
本当にずるい。
「……清隆」
「何だ?」
「今の、もう一回言って」
「必要ないだろ」
「何で?」
「聞こえていただろ」
「聞こえてたけど、もう一回聞きたい」
「断る」
「ケチ」
私は少しむくれながら、清隆の肩へ頭を預けた。
すると清隆が僅かに姿勢を変える。
私が寄りかかりやすいようにしたのだと気づいた。
言葉では言わない。
でもこういうところは優しい。
私はそのまましばらく黙っていた。
冬の空気は冷たい。
それでも清隆の身体に触れている部分は温かい。
試験中にはずっと頭を使っていた。
相手の行動を読み、得点を計算し、次の展開を考え続けていた。
だから、何も考えなくていい時間が心地よかった。
「清隆」
「何だ?」
「私ね、今回の試験結構楽しいかも」
「龍園と戦ったのが?」
「それもあるけど、清隆と一緒にやるのが」
私は顔を上げる。
「今まで、誰かと組むってあんまり好きじゃなかったんだよね」
「そうなのか?」
「だって、自分でできるなら自分でやったほうが早いこと多いし、相手に合わせるのって面倒じゃん」
自分でも少し嫌な言い方だと思う。
でも本音だった。
「でも清隆とは違う。私が考えてること、全部説明しなくても分かってくれるし、
私が気づかなかったところは清隆が見てくれる」
「千秋も同じだ」
「本当に?」
「ああ」
私は少しだけ嬉しくなる。
「昨日の最後の問題も、千秋が条件の解釈に気づかなければ危なかった」
「それ褒めてる?」
「褒めてる」
「最近ちゃんと褒めてくれるようになったね」
「要求されたからな」
「言われたからやってるの?」
「嫌なのか?」
「嫌じゃない」
私は笑った。
たぶん私は単純だ。
清隆に認めてもらえると嬉しい。
自分の実力を隠してきたくせに、清隆だけにはちゃんと見てほしいと思う。
他の誰にも評価されなくてもいい。
でもこの人には、私が何を考えて、どこまでできるのか知っていてほしい。
それは付き合う前から少しあった気持ちかもしれない。
「私さ」
少しだけ言いにくくなる。
「清隆の隣にいていいのかなって、昨日ちょっと思った」
「どういう意味だ?」
「試験やってると分かるから。清隆ってやっぱり私よりずっとすごいし、
判断も速いし、身体能力なんか比べるまでもないでしょ」
清隆は黙って聞いている。
「私も自分では結構できるほうだと思ってたけど、同じ問題を横でやると差が分かるんだよね」
「だから?」
「だから、彼女としてはともかく、試験のパートナーとしては足引っ張ってるのかなって少し思った」
口にすると、思っていたより情けない。
昨日は椎名に負けた場面もあった。
清隆なら解けたかもしれない。
そんなことを考えた。
「千秋」
「何?」
「オレ一人なら昨日の試験は違う結果になっていた可能性がある」
「やっぱり私いらないってこと?」
「逆だ」
私は清隆を見る。
「龍園を引きつけている間、オレは得点を取れない。千秋が動いたから差を詰められた。
最後の問題でも、オレが見落とした解釈を千秋が拾った」
清隆はいつもと同じ落ち着いた声で続ける。
「全部をオレと同じようにできる必要はない。オレができないことを千秋がやればいい」
私はすぐに返事ができなかった。
慰めで言っているようには聞こえない。
清隆はそういうことを言う人ではない。
本当にそう判断しているから言っている。
「それって……私、ちゃんと役に立ってる?」
「ああ」
「必要?」
「ああ」
「清隆に?」
「ああ」
私は思わず笑った。
「何回聞かせるつもりだ」
「嬉しいから」
素直に言った。
その瞬間、さっきまで少し残っていた不安が消えた気がした。
私には清隆ほどの能力はない。
それは認める。
でも清隆と同じになる必要はない。
私には私のやり方がある。
昨日、椎名の行動を読んだのもそうだった。
相手が何を考え、どう感じているのかを見る。
もしかしたら、そこでは私のほうが自然にできることもある。
「じゃあ清隆」
「何だ?」
「これからもっと私を頼ってね」
「必要ならそうする」
「必要じゃなくても頼って」
「それは効率が悪い」
「恋人のお願い」
「考えておく」
「そこは分かったって言ってよ」
私は笑いながら清隆の腕を少し引いた。
誰かが来る気配がする。
以前ならすぐ離れたと思う。
でも今日は離れなかった。
近づいてきたのは椎名だった。
私たちを見つけ、少しだけ足を止める。
私も一瞬だけ迷った。
腕を離すか。
でも、それは何か違う気がした。
隠す必要はない。
私はそのままにした。
椎名は私たちの前まで来ると、いつもの穏やかな笑顔を見せた。
「お二人とも、こちらにいらしたんですね」
「うん。試験の話終わったから少し休憩してたところ」
「そうでしたか」
椎名の視線が、私の腕へ向く。
清隆に絡ませたままの腕。
ほんの一瞬。
それからすぐに顔を上げる。
「仲が良いのですね」
笑っている。
でも少しだけ寂しそうに見える。
私は昼休みの会話を思い出した。
椎名が私に嘘をついていないことは分かる。
清隆を奪おうとしているわけではない。
それでも気持ちは簡単には消えないのだろう。
「うん」
私は答えた。
ここで変に遠慮するのも違う。
「付き合ってるからね」
「そうですね」
椎名は静かに頷く。
それから清隆を見る。
「綾小路くん」
「何だ?」
「また今度、おすすめの本をお持ちしてもいいですか?」
「ああ。構わない」
私は少しだけ清隆を見る。
この人、本当に普通に答える。
「松下さんも、もしよろしければ読まれますか?」
予想していなかった。
「私も?」
「はい。綾小路くんだけにお貸しすると、松下さんが気にされるかもしれませんから」
少し悪戯っぽく笑う。
さっきまでの寂しそうな表情とは違う。
私は思わず笑った。
「椎名さん、結構言うようになったね」
「昨日たくさんお話ししたので、少し慣れたのかもしれません」
「じゃあ借りようかな」
「ぜひ」
椎名は軽く頭を下げる。
「それでは、お邪魔しました」
そう言って歩いていく。
私はその背中を見送った。
嫌な子じゃない。
むしろ好きになれそうだと思う。
だから余計に複雑なのかもしれない。
「清隆」
「何だ?」
「椎名さんに優しくしすぎないでね」
「普通に接しているだけだ」
「それが問題なの」
「難しいな」
「そこは頑張って」
私は清隆の肩へもう一度頭を預けた。
この位置は私のものだ。
そんなことを考えている自分が少し子供っぽくて、自分でも笑ってしまう。
午後六時前、全ペアが警戒対象の提出を終えた。
その後、翌日の対戦カードが発表される。
私たちの相手は、一之瀬帆波と神崎隆二。
昨日の龍園と椎名とはまったく違う組み合わせだった。
龍園が相手を崩すことで勝つ人間なら、一之瀬は人を集めることで強くなる。
神崎も決して感情だけで動くタイプではない。
今回の試験で他ペアとの協力が許可されている以上、一之瀬の人望は大きな武器になる。
「次はかなり違う戦いになりそうだね」
私は画面を見ながら言った。
「ああ。龍園のようにオレだけを狙うとは限らない」
「一之瀬さんは私たちを孤立させるかな」
「可能性はある」
「じゃあ今度は、人を見るのが私の仕事?」
「そうなるかもしれない」
私は少し笑った。
さっき清隆に言われたばかりだった。
清隆と同じことをする必要はない。
私にできることをやればいい。
一之瀬は人望がある。
その周りにいる人たちは、単純な損得だけでは動かない。
友情や信頼、罪悪感や遠慮。
そういう感情まで含めて人間は行動する。
そこなら、私にもできることがある。
「分かった。明日は私もちゃんと働く」
「期待してる」
「それ、昨日も言われた気がする」
「嫌か?」
「全然」
むしろ嬉しい。
私は携帯をしまい、清隆と一緒に立ち上がった。
今日は昨日ほど激しい試験ではなかった。
けれど、私にとっては昨日とは違う意味で大きな一日だったと思う。
椎名の気持ちを知った。
一之瀬にも、もしかすると同じような感情があることに気づいた。
そして、自分自身が思っていた以上に清隆を誰かに取られたくないと思っていることも分かった。
今までの私は、もっと冷静なつもりだった。
恋愛をしたからといって、急に他の女の子へ嫉妬するような性格ではないと思っていた。
でも実際に好きな人ができて、
その人のことを同じように好きかもしれない女の子が目の前に現れると、
そんな理屈だけでは済まないらしい。
それでも、嫌な気分ばかりではなかった。
椎名に対して本気で敵意を持つこともできなかったし、
一之瀬の様子を見ても、勝ち誇りたいとは思わなかった。
ただ、清隆の隣だけは譲りたくない。
その程度のわがままなら、恋人として許されてもいいと思う。
私は隣を歩く清隆の腕へ、自然に自分の腕を絡ませた。
清隆は何も言わない。
以前なら人が来れば離れていたけれど、もうその必要もない。
周囲からどう見られるかより、自分がどうしたいかを少しだけ優先してもいい。
試験では互いに実力を隠してきた二人が、少しずつ本当の力を見せ始めた。
そして恋人としても、誰にも知られない場所に隠れていた関係を、少しずつ表へ出し始めている。
明日からは一之瀬と神崎との戦いが始まる。
龍園たちとは違い、今度は目の前にいる二人だけを見ていればいい試験にはならないだろう。
一之瀬が築いてきた人間関係そのものを相手にすることになる。
それでも、今の私は昨日までより少しだけ自信を持っていた。
清隆と同じ能力を持っていなくてもいい。
清隆には見えないものを私が見つければいい。
私が見落としたものを清隆が拾ってくれればいい。
そうして二人で一つの答えへ辿り着けるなら、それが私たちなりの強さなのだと思う。
そして試験の外では、誰が清隆へどんな気持ちを抱いていたとしても、
今この人の隣を歩いているのは私だった。
私はその事実を、以前よりずっと大切に感じるようになっていた。