特別試験四日目の朝、私はいつもより少しだけ早く指定教室へ向かっていた。
昨日までとは違い、今日から対戦相手になるのは一之瀬帆波と神崎隆二だった。
龍園と椎名のペアとは、戦い方そのものが大きく異なる。
龍園は相手の動きを読み、時にはわざと不快感を与えながら判断を狂わせ、
自分にとって有利な盤面を作ろうとする。
椎名はその横で静かに状況を観察し、龍園が見落としそうな部分を補う。
あの二人は、それぞれの強みが分かりやすかった。
しかし一之瀬と神崎の場合、単純に二人だけを見ていればいいとは思えない。
特に一之瀬が厄介だった。
学力や運動能力だけを比較するなら、彼女より上の生徒はいくらでもいる。
それでも一之瀬には、他の誰にも簡単には真似できない強みがある。
人から信用される。
言葉にすると簡単だが、それを本当の意味で実現できる人間は少ない。
一之瀬が困っていれば助けたいと思う人間がいる。
一之瀬から頼まれれば、多少自分が損をしてでも応じようとする人間がいる。
そして一之瀬自身も、相手を使い捨てるような真似を簡単にはしない。
それを二年間積み重ねてきたからこそ、人間関係そのものが彼女の武器になっている。
今回の特別試験は、他ペアとの協力や情報交換を認めている。
その時点で、一之瀬の得意分野に学校側がわざわざ舞台を用意しているようなものだった。
寮を出る前、私は銀色の携帯で今日のルール説明をもう一度確認していた。
まだ詳細は公開されていない。
ただ、学校側から送られてきた予告には、昨日までとは違う一文が追加されていた。
『本日の試験では、他ペアとの協力関係が結果へ大きく影響する可能性があります』
私はその文章を見た時点で、かなり嫌な予感がしていた。
清隆にも同じメッセージが届いているはずだった。
だから指定教室へ入って彼の姿を見つけた時、私は席へ着くなり小声で尋ねた。
「今日の予告、見た?」
「ああ」
「やっぱり一之瀬向きだと思う?」
「そうなる可能性が高い」
「だよね」
清隆は端末から視線を上げる。
「昨日話した通り、今日はこちらから無理に動かないほうがいいかもしれない」
「一之瀬が何を作るか先に見る?」
「ああ。龍園ならこちらを潰すために直接仕掛けてくる。
一之瀬の場合、本人が何も仕掛けていなくても周囲が動く可能性がある」
私もそこが気になっていた。
一之瀬には、誰かを支配しようとするような強引さはない。
だからこそ厄介なのだと思う。
命令されたから協力するのではない。
本人のためなら手を貸したいと思う人間が、勝手に集まってくる。
龍園を中心にした集団なら、龍園という核を崩せば動揺させられるかもしれない。
一之瀬の場合は違う。
一人ひとりが自分の意思で彼女を支えている。
そういう集団は、外から力を加えても簡単には壊れない。
「朝から随分真剣だね」
聞き慣れた明るい声がして、私は顔を上げた。
一之瀬がこちらへ歩いてきていた。
その隣には神崎もいる。
「今日の相手だからね。さすがに何も考えずに来るわけにはいかないよ」
私は笑って答えた。
一之瀬も笑う。
「私たちも同じだよ。昨日の試験結果、神崎くんと一緒に見直してたんだ」
「綾小路たちは龍園たちをかなり上手く誘導していた」
神崎が口を挟んだ。
私は少し意外に思った。
「そこまで分かるんだ?」
「結果とポイント使用履歴を見れば、おおよその流れは予測できる。
龍園は綾小路への情報照会にかなりのポイントを使っていたはずだ」
清隆が神崎を見る。
「正確な使用量までは分からないはずだ」
「ああ。ただし最終的な保有ポイントと妨害回数を照合すれば、範囲は絞れる」
神崎は淡々と答える。
やはり現実的だ。
一之瀬の人望だけを警戒していればいいわけではない。
神崎は一之瀬が作る人間関係を、試験で利用できる具体的な戦術へ変える役割を担うのだろう。
そう考えると、昨日の龍園とひよりに負けず劣らず面倒な組み合わせだった。
「ところで松下さん」
一之瀬が少し言いにくそうに私へ話しかけてきた。
「何?」
「昨日聞いたことなんだけど……本当に、綾小路くんと付き合ってるんだよね?」
またその話かと思った。
ただ、一之瀬の表情を見ると、興味本位で聞いているわけではなさそうだった。
「うん」
私は隠さず答える。
「本当に付き合ってるよ」
「そっか」
一之瀬は笑った。
いつもの笑顔だった。
でも、やっぱりほんの少しだけ違う。
本人は上手く隠しているつもりなのかもしれない。
それでも私には分かる。
清隆のことを何とも思っていない人間の反応ではない。
昨日もそう感じた。
今日改めて確認して、さらに確信に近づいた。
ただ、一之瀬はひよりとも違う。
ひよりは自分の気持ちを完全には理解していなくても、それを無理に否定しようとはしていなかった。
一之瀬の場合、もっと強く自分の中へ押し込めようとしているように見える。
「どうしたの?」
私が聞くと、一之瀬は慌てて首を振った。
「ううん、何でもないよ。ただ、ちょっと意外だっただけ」
「私と清隆が?」
「あ……」
一之瀬の表情がまた少し変わった。
しまったと思った。
私はもう人前でも普通に清隆と呼ぶようになっている。
昨日からそうしているのだから不自然ではない。
それでも、一之瀬にとってはこの呼び方そのものが、
私たちの距離を突きつけるものになっているのかもしれない。
「名前で呼んでるんだね」
「うん。付き合ってるし」
「そうだよね」
一之瀬は笑った。
その笑顔を見ていると、なぜか少しだけ胸が痛くなる。
私は清隆の彼女だ。
そのことを遠慮する必要はない。
一之瀬へ申し訳なく思う必要だって、本来はない。
でも、誰かが傷ついているのを見て嬉しいとは思えなかった。
そんな私たちのやり取りを、神崎は黙って見ていた。
やがて一之瀬が自分たちの席へ戻ったあと、神崎も続こうとしたが、その前に一度だけ足を止めた。
「松下」
「何?」
「試験中に一之瀬の様子が変わったとしても、手加減は必要ない」
思いがけない言葉だった。
「どういう意味?」
「そのままの意味だ」
神崎は一之瀬の背中を見る。
「本人がどう考えるかは本人の問題だ。試験へ私情を持ち込むようなら、こちらで対処する」
それだけ言うと、神崎も席へ戻っていった。
私は少し呆気に取られた。
「気づいてるんだ」
「神崎は一之瀬をよく見ている」
清隆が答える。
「清隆より?」
「何の比較だ?」
「恋愛方面の察しの良さ」
「それなら神崎のほうが上かもしれない」
「自覚あるんだ」
私は少し笑った。
やがて教師が入室し、四日目の試験説明が始まった。
前方のモニターへ、昨日までとは異なる大きな図が表示される。
中心に四つの主要ペア。
その周囲に、別の参加ペアの名前が並んでいる。
「本日の試験は『共同利益選択試験』とする。
各主要ペアは、制限時間三時間以内に他ペアとの協力関係を構築し、最終的な総合ポイントを競ってもらう」
予想通りだった。
一之瀬向きの内容。
私は説明へ集中する。
「参加する補助ペアは計十二組。主要ペアは各補助ペアへ協力を要請することができる。
ただし、一つの補助ペアが同時に協力できる主要ペアは一組までとする」
画面に詳しいルールが表示される。
補助ペアには、それぞれ異なる『資源』が与えられている。
学力問題を解く権利。
運動課題へ参加する権利。
情報カード。
ポイント。
特定のルートを開放する鍵。
そのどれもが、最終得点へ影響する。
主要ペアだけでは、すべての課題を攻略することができない。
他ペアから協力してもらう必要がある。
しかし当然、協力は無償とは限らない。
ポイントを渡す。
情報を共有する。
別の課題で助ける。
そうやって条件を交渉する。
さらに厄介なのは、補助ペアの側に協力先を選ぶ権利があるという点だった。
つまり、いくら有利な条件を提示しても、相手が一之瀬と組みたいと思えばこちらには来ない。
「最悪」
私は思わず小声で呟いた。
清隆も否定しなかった。
「予想以上に一之瀬向きだ」
「これ、人望そのものが得点になるじゃん」
「そうだな」
説明はさらに続く。
「各補助ペアには、主要ペアから提示された条件を比較するための十分間の交渉時間を設ける。
なお、主要ペア同士が補助ペアへ直接的な圧力をかけたり、
虚偽の条件を提示したりすることは禁止する。
約束した条件は学校側が記録し、違反した場合は大幅な減点とする」
つまり騙して味方につけることもできない。
真正面から信頼と条件で勝負しなければならない。
私は少し離れたところにいる一之瀬を見る。
彼女は真剣な表情でルールを読んでいる。
でも、焦っているようには見えない。
当然かもしれない。
この試験なら、最初から大きなアドバンテージを持っている。
試験開始と同時に、私たちは最初の補助ペアとの交渉へ向かった。
相手は別クラスの男女二人。
特別親しいわけではないが、顔と名前くらいは知っている。
相手が持っている資源は、価値六の情報カード。
かなり重要だった。
「条件は?」
相手の男子が聞く。
清隆が答える。
「こちらが持っている二十ポイントを渡す。その代わり、情報カードをこちらへ提供してほしい」
決して悪い条件ではない。
むしろ数字だけ見ればかなり良い。
男子は少し考える。
女子も端末を見る。
「他のペアの条件も聞いてから決めていい?」
「もちろん」
私は答えた。
当然の権利だ。
十分後。
結果通知が届く。
協力先、一之瀬・神崎ペア。
私は思わず息を吐いた。
「条件負け?」
「確認する」
学校側から公開された成立条件を見る。
一之瀬たちが提示したのは十五ポイント。
私たちより五ポイント少ない。
「え?」
私は画面を見直した。
間違いではない。
「私たちのほうが条件いいよね?」
「ああ」
「なのに一之瀬?」
「理由を聞くか」
補助ペア本人へ質問することは許可されている。
私は少し離れた場所にいた女子へ声を掛けた。
「ちょっといい?」
「うん」
「どうして一之瀬さんたちを選んだの?責めるつもりじゃなくて、今後の参考にしたいだけ」
女子は少し申し訳なさそうに笑った。
「松下さんたちの条件もすごく良かったんだけど、一之瀬さんには前に助けてもらったことがあって」
予想していたような答えだった。
「それだけ?」
「それと、神崎くんが別の課題でもこっちを手伝うって言ってくれたから。
正式な条件には入ってないけど、できる範囲で協力するって」
学校側が記録する契約条件とは別に、人間関係による善意が存在している。
違反ではない。
強制でもない。
私は礼を言って戻った。
「これ、厄介すぎない?」
「ああ」
二組目。
私たちは今度はポイントだけでなく、後半の課題で利用できる情報共有まで条件に含めた。
かなり有利な提示だと思う。
しかし結果はまた一之瀬。
三組目も同じ。
四組目でようやく私たちが協力を獲得した。
開始から四十分。
一之瀬・神崎ペアにはすでに三組。
私たちは一組。
「ちょっと待って」
私は端末を見ながら立ち止まった。
「このまま正面から条件競争したら負ける」
「そうだな」
「分かってた?」
「可能性は高いと思っていた」
「じゃあ先に言ってよ」
「確認する必要があった」
清隆はいつもの調子だった。
腹は立たない。
私も同じことを考えていたからだ。
実際に数字で確認しなければ、どれだけ人望が影響するのか分からなかった。
今は分かる。
想像以上だった。
「どうする?」
私は聞く。
「一之瀬さんより良い条件を出し続ける?」
「それではポイントが持たない」
「だよね」
「一之瀬が作った連合そのものを見る必要がある」
私は一瞬黙った。
「壊すの?」
「必要なら」
清隆は平然と答えた。
その言葉に少し引っかかる。
一之瀬の連合を崩す。
理屈としては正しい。
相手の最大の武器が人間関係なら、そこへ手を入れなければ勝てない。
でも単純に条件を引き上げたり、個々の利益を提示しただけでは動かない。
それはすでに分かっている。
「清隆ならどうする?」
「まず全員の利害を整理する」
「十二組全部?」
「ああ。過去の関係、現在のポイント、必要資源、誰が誰を信用しているかを分類する」
正しい。
でも私は少し違和感を覚えた。
「それだけじゃ足りないと思う」
清隆が私を見る。
「理由は?」
「人間って、利害だけで動かないから」
「それは把握している」
「分かってる。でも清隆が今言った整理って、結局は行動を数字に置き換えるってことでしょ?」
私は端末に表示された補助ペアの一覧を見る。
「一之瀬さんを選んだ人の中には、得だから選んだ人もいると思う。
でも、そうじゃない人もいる。前に助けてもらったからとか、
一之瀬さんなら裏切らないと思ってるとか、単純にあの子を負けさせたくないとか」
清隆は黙って聞いている。
「そういう気持ちは、ポイントだけじゃひっくり返せない」
「ならどうする?」
「そこを私が見る」
私は答えた。
「清隆は誰が何を持ってるかを整理して。
私は、誰がどういう気持ちで一之瀬のところにいるのかを見る」
清隆は少しだけ考えた。
「できるか?」
「やってみる」
「分かった」
それだけだった。
反対しない。
細かく方法を聞いてこない。
私がやると言ったことを任せる。
昨日までなら、それだけで嬉しいと思った。
今はもう少し違う。
頼られているという感覚が、私自身の自信へ変わり始めていた。
私は一之瀬の連合に加わった補助ペアを一組ずつ観察することにした。
最初の二人は分かりやすかった。
一之瀬と元々親しい。
会話の距離も近い。
ここを無理に切り崩す必要はない。
次のペア。
男子は一之瀬とよく話すが、女子はそれほどでもない。
交渉中、女子は何度かこちらの条件を見直していた。
一之瀬の側へ行くことに完全に納得しているわけではない。
別のペア。
こちらは神崎の提案へ強く反応している。
一之瀬への情ではなく、神崎の現実的な条件を評価している。
さらに別のペア。
二人のうち片方は一之瀬を信頼しているが、もう片方は単純に相方へ合わせているだけに見える。
同じ連合の中でも理由が違う。
そのことに気づくと、見え方が変わった。
一之瀬を中心にした巨大な一枚岩だと思っていた。
でも実際には違う。
同じ場所に集まっているだけで、そこへ来た理由は一人ずつ違う。
私はその違いを清隆へ伝えた。
「三組目は動かせると思う」
「根拠は?」
「女子のほうが一之瀬側の条件に納得してない。たぶん男子に合わせただけ」
「五組目は?」
「神崎の条件を評価してるだけだから、もっと良い条件なら動く可能性がある。
ただしポイントを上げるだけだと警戒されると思う」
「なぜ?」
「急に高くすると、私たちが焦ってるのが分かるから」
清隆は少し考える。
「なら情報カードを組み合わせる」
「それがいいと思う」
私たちはすぐに動いた。
三組目には、二人別々に使える条件を提示する。
片方だけが得をする形ではなく、二人とも自分の目的へ近づける内容にする。
交渉の途中、私は女子のほうへ重点的に話した。
「一之瀬を裏切ってって言ってるわけじゃないよ。
今日の試験で一度協力先を変えたからって、普段の関係まで変わるわけじゃないでしょ?」
女子は少し迷った。
「でも一之瀬さんに悪い気がして」
「そう思うのは分かる。でも、一之瀬だってあなたが自分の利益を考えて決めたからって怒らないと思う」
その言葉で反応が変わった。
私は続ける。
「むしろ、無理して一之瀬さんのために損するほうが、あの子は嫌がるんじゃない?」
女子は黙った。
たぶん当たっている。
一之瀬は、自分のために誰かが大きく損をすることを望むタイプではない。
だからこそ、その善意そのものが逆に弱点になる。
十分後。
協力先が変更された。
綾小路・松下ペア。
私は思わず小さく笑った。
「取れた」
「予想通りだな」
清隆が言う。
「もうちょっと褒めてくれてもいいんだけど」
「まだ一組だ」
「そういうところ龍園くんみたいになってきてない?」
「それは困るな」
珍しく少しだけ冗談らしい返しが来た。
私はそのまま次へ向かう。
今度は神崎の条件で一之瀬側についていたペア。
こちらには感情へ訴えても意味がない。
だから清隆が中心になって、相手の必要資源を具体的に分析し、
最終得点でどちらが有利になるかを数字で示した。
相手は迷った末、こちらへ移る。
私が感情を見る。
清隆が条件を組む。
少しずつ役割がはっきりしてきた。
開始から一時間半。
一之瀬側四組。
私たち三組。
差が縮まった。
その間にも別の主要ペアが補助ペアを奪い合っているため、
十二組すべてが私たち二組のどちらかへ来るわけではない。
それでも、一之瀬が最初に作った包囲網は確実に崩れ始めている。
その変化に、一之瀬本人も気づいた。
次の交渉場所へ向かう途中で、正面から一之瀬と神崎が歩いてくる。
私たちは自然と足を止めた。
「すごいね、松下さん」
一之瀬は笑っていた。
でも目は真剣だった。
「何が?」
「さっきから、私たちのところにいたペアがどんどんそっちへ行ってる」
「みんな自分で選んだだけだよ」
「うん。それがすごいんだと思う」
一之瀬は私を見る。
「無理に引き抜いてる感じがしないんだよね」
私は少し驚いた。
「そう見える?」
「松下さん、相手が何で迷ってるのかをちゃんと見てるから」
その言葉に少しだけ嬉しさを感じた。
敵から評価されるのも悪くない。
でも同時に、一之瀬の表情が少しだけ曇る。
「私、みんなが協力してくれるのが当たり前だって思ってたのかもしれない」
「そんなことないでしょ」
「どうかな」
一之瀬は自嘲するようには笑わなかった。
本当に考えている。
「みんなが自分で選んでくれたと思ってた。
でも、松下さんが話したら別の選択肢を考え始めた人もいた。
だったら私、知らないうちに気を遣わせてたのかなって」
私は少し言葉を選んだ。
「それは違うと思う」
「どうして?」
「一之瀬を選んだ人が、全部嫌々ついてきたわけじゃないから」
私は一之瀬の連合を観察していて分かったことをそのまま話した。
「本当に一之瀬さんを信頼してる人もいるし、前に助けてもらったから恩返ししたい人もいる。
神崎くんの条件が良かったから来た人もいるし、相方に合わせただけの人もいる。理由は一人ずつ違うよ」
一之瀬は静かに聞いている。
「だから、みんなの気持ちを一つにまとめて考えないほうがいいと思う。
私が動かせた人がいたからって、一之瀬さんの人望が偽物ってことにはならない」
言ってから、自分でも少し不思議だった。
対戦相手を励ましている。
普通なら余計なことかもしれない。
でも私は、勝つために一之瀬の人間関係を観察して、
その結果として彼女がどれだけ信頼されているのかも見てしまった。
それを否定するのは違うと思った。
一之瀬は少しだけ目を丸くした。
それから笑う。
「ありがとう、松下さん」
「敵にお礼言ってどうするの」
「でも嬉しかったから」
その時だった。
一之瀬の視線が私の隣へ移る。
清隆を見る。
ほんの一瞬だった。
私はそれを見逃さなかった。
昨日までなら、ただ見たとしか思わなかったかもしれない。
でも今は分かる。
一之瀬の表情が少しだけ変わった。
私と話している時とは違う。
柔らかい。
そして少し苦しそうだった。
「綾小路くんも、松下さんのことすごく信頼してるんだね」
突然そう言った。
私は少し驚く。
「そう見える?」
「うん」
一之瀬は笑う。
「松下さんが話してる時、綾小路くんほとんど口を出さないから」
「任せてるだけだ」
清隆が答える。
一之瀬はその言葉を聞いたあと、少しだけ視線を下げた。
「そっか」
声は明るかった。
でも完全には隠せていない。
私はまた気づいてしまう。
一之瀬は清隆が好きなのだと思う。
少なくとも、ただのクラスメイトを見る気持ちではない。
私は何となく清隆の制服の袖へ手を伸ばし、軽くつまんだ。
人前で腕を組むほどではない。
ただ、少しだけ触れていたかった。
一之瀬がそれに気づいた。
一瞬だけ私の指を見る。
それからすぐに笑顔へ戻る。
その反応を見て、胸の奥が少し痛んだ。
私は勝ちたい。
試験でも。
清隆の隣という場所でも。
でも一之瀬に傷ついてほしいわけではない。
恋愛って面倒だと思った。
誰かを好きになるだけなら簡単なのに、その相手を別の誰かも好きだった瞬間、
誰も悪くないのに勝ち負けのようなものが生まれてしまう。
「一之瀬」
神崎が静かに声を掛けた。
「そろそろ次の交渉へ行くぞ」
「あ、うん」
一之瀬は頷いた。
それから私へ笑いかける。
「まだ負けないからね」
「こっちも」
「次は私たちが取り返すよ」
「やってみて」
私たちはそこで別れた。
歩き始めて少し経ったところで、私は清隆を見る。
「ねえ」
「何だ?」
「今の分かった?」
「何が?」
私は思わず額を押さえたくなった。
「一之瀬さんのこと」
「連合の話か?」
「違う」
「なら何だ?」
「もういい」
本当に分かっていない。
人の策略はあれだけ簡単に見抜くのに、どうして恋愛になるとここまで鈍いのだろう。
ただ、今はその鈍さが少しだけありがたかった。
残り一時間。
試験はさらに激しく動いた。
神崎がこちらの切り崩し方を分析し、
今度は補助ペア同士のつながりまで利用して再編成を始める。
一之瀬自身も、一度離れた相手へ無理に戻るよう頼むことはせず、
まだ協力先を決めていないペアへ丁寧に話をする。
こちらが三組取れば向こうも一組増やす。
差が縮まっても、完全には逆転できない。
残り三十分の時点で、一之瀬・神崎側が四組。
私たちも四組。
補助ペア数では並んだ。
しかし保有資源の価値では、向こうが僅かに上だった。
「あと六点差」
私は端末を見る。
「最後の二組が鍵だ」
清隆が答える。
まだ協力先を確定していない補助ペアが二組残っている。
一組は価値八の情報カード。
もう一組は、最終課題で得点倍率を上げる権利。
どちらも大きい。
「分かれる?」
「そうする」
清隆は情報カードのほうへ向かう。
私は倍率権利を持つペアを担当する。
相手は男女二人。
女子とは以前少し話したことがある。
男子とはほとんどない。
私が交渉場所へ着いた時、すでに一之瀬も来ていた。
予想していた。
こちらは直接対決になる。
「また一緒だね」
一之瀬が笑う。
「今度は負けないよ」
「私も」
補助ペアの二人が条件提示を求める。
私は学校側の端末へ、自分たちが出せる条件を入力した。
十五ポイント。
さらに、明日の試験でこちらが獲得する情報の一部を共有。
かなり良い条件だと思う。
一之瀬も入力する。
提示内容が公開される。
十ポイント。
こちらより低い。
それでも私は安心しなかった。
一之瀬には条件以上のものがある。
案の定、女子が一之瀬を見る。
「一之瀬さんには前に助けてもらったし……」
やっぱり。
私は焦らない。
ここまでずっと見てきた。
この女子は一之瀬を好きだ。
でも同時に、相方の男子へかなり気を遣っている。
そして男子は、ポイントを欲しがっている。
「二人とも」
私は声を掛けた。
「一之瀬を選びたい気持ちは分かる。
でも、二人で参加してる試験だから、二人とも納得して決めたほうがいいと思う」
女子が男子を見る。
男子は少し困った顔をしている。
私は続ける。
「あなたは一之瀬さんに恩返ししたい。でも相方はポイントが必要。
それならどっちかが我慢して決めたら、あとで嫌な気持ちが残るでしょ?」
一之瀬も黙って聞いている。
私は彼女を見る。
「一之瀬さんだって、そう思わない?」
少し意地悪な聞き方だったかもしれない。
でも答えは分かっていた。
一之瀬は迷わず頷く。
「うん。二人でちゃんと話して決めたほうがいいと思う」
やっぱり。
この子はそう答える。
自分が不利になっても。
それが一之瀬の強さであり、同時に弱点でもある。
二人は改めて相談した。
結果が出るまでの数分が長く感じた。
私は無意識に銀色の携帯を握る。
やがて通知が届く。
協力先、綾小路・松下ペア。
私は小さく息を吐いた。
「取れた」
一之瀬は少し悔しそうに笑った。
「負けちゃった」
「まだ試験終わってないでしょ」
「そうだね」
その時、別の通知が届く。
清隆も最後の補助ペアとの交渉に成功した。
これで資源価値が逆転した。
残り時間は十分。
一之瀬たちが再逆転するには、すでに成立している協力関係をどこか一つ動かす必要がある。
しかし時間が足りない。
神崎もそれを理解したらしい。
遠くからこちらへ歩いてくる彼の表情には、すでに結果を計算した者の落ち着きがあった。
「一之瀬、今回は厳しい」
「うん」
一之瀬は頷く。
悔しそうではある。
でも取り乱さない。
「松下さん、本当にすごいね」
「私だけじゃないよ」
「でも今日の後半、ほとんど松下さんが動かしたんでしょ?」
「清隆が条件を作ってくれたから」
私は自然に答えた。
「私だけじゃ無理だったよ」
一之瀬がまた少しだけ笑う。
「本当に仲いいね」
その言い方には、今度こそ少しだけ寂しさが混ざっていた。
私は何と返すべきか迷った。
結局、変に誤魔化すことはしなかった。
「うん」
私は答えた。
「仲いいよ」
その直後、試験終了を知らせる通知が全端末へ届いた。
最終結果。
綾小路・松下ペア。
総合資源価値六十八。
一之瀬・神崎ペア。
総合資源価値六十一。
七点差で私たちの勝利だった。
数字だけを見れば、昨日の龍園たちとの試験と同じくらいの差になる。
でも内容はまったく違った。
昨日は相手の策を読み合い、最後の一問を競った。
今日は人間関係そのものを相手にした。
そして私は今日、自分の得意なことが少しだけはっきり見えた気がする。
人は数字だけでは動かない。
同じ条件を提示されても、相手によって選ぶ答えは変わる。
誰を信用しているか。
誰に恩を感じているか。
誰へ遠慮しているか。
何を失いたくないと思っているか。
そういうものを一つずつ見ていけば、清隆とは違う形で盤面を動かすことができる。
試験終了後、参加者たちは順番に指定教室へ戻ることになった。
私は清隆と少し離れて歩いていたが、廊下の途中で一之瀬に呼び止められた。
「松下さん」
「何?」
一之瀬は少し迷ったあと、私と清隆を見比べる。
「今日、ちょっとだけ松下さんと二人で話してもいい?」
私は清隆を見る。
清隆は特に気にした様子もなく頷いた。
「先に行ってる」
「うん」
清隆が離れていく。
私は一之瀬と二人になった。
何を言われるのか、大体想像はついていた。
でも私からは聞かない。
一之瀬が話すまで待つ。
しばらく沈黙したあと、一之瀬が口を開いた。
「松下さんって、綾小路くんのこと好きなんだよね」
思っていたより直接的だった。
「うん」
私は迷わず答える。
「好きだよ」
一之瀬は少しだけ笑う。
「そっか」
「一之瀬さんも?」
今度は私が聞いた。
一之瀬の表情が止まった。
「え?」
「清隆のこと」
一之瀬はすぐには答えなかった。
誤魔化そうと思えば誤魔化せる。
私は追及しない。
しばらくすると、一之瀬はゆっくり息を吐いた。
「……分からない」
「分からない?」
「ううん、本当はたぶん分かってる」
一之瀬は少し困ったように笑った。
「でも、松下さんたちが付き合ってるって知ったあとに言うの、ずるい気がして」
私は何も言わず聞く。
「綾小路くんには何度も助けてもらったし、
話してると落ち着くし、もっと一緒にいたいって思ったこともある。
でも、それがどういう意味なのか、ちゃんと考えないようにしてたのかもしれない」
一之瀬の声はいつもより少し小さかった。
「松下さんと一緒にいる綾小路くんを見た時、思ってたより苦しくて。
それでやっと、自分がどう思ってたのか分かった気がする」
私は胸の奥が少し痛くなった。
予想していた。
それでも本人から聞くと違う。
「ごめん」
また謝りそうになった。
でも昨日ひよりに言われたことを思い出す。
私が謝ることではない。
だから言葉を変えた。
「一之瀬さん」
「うん?」
「私、清隆のこと譲る気ないよ」
一之瀬は少し驚いた。
私は続ける。
「嫌な言い方だったらごめん。でも、変に遠慮して言わないほうがもっと嫌だから」
「ううん」
一之瀬は首を振る。
「それでいいと思う」
「一之瀬さんが清隆を好きでも、私は怒らない」
自分でも少し意外だった。
でも本当だった。
「ただ、私が彼女だから」
はっきり言った。
「そこだけは譲れない」
一之瀬は私を見る。
やがて少し笑った。
「松下さん、強いね」
「そうかな」
「うん。私だったら、同じ立場でそこまで言えるか分からない」
「私だって結構嫉妬してるよ」
「え?」
「椎名さんにもしたし、一之瀬さんにもしてる」
一之瀬が驚いたあと、少しだけ笑った。
「そうなんだ」
「するよ。普通に」
「なんだかちょっと安心した」
「何で?」
「松下さんって、もっと余裕なのかと思ってたから」
「全然余裕じゃない」
私は苦笑した。
「清隆、本人は何にも気づいてないし」
「あ、それは分かるかも」
二人で少しだけ笑った。
不思議な感じだった。
同じ男を好きな女子同士。
本来ならもっと険悪になってもおかしくない。
でも一之瀬を嫌いにはなれない。
むしろ、こうして話してみると少し安心する。
「私、何かするつもりはないよ」
一之瀬が言った。
「松下さんから綾小路くんを取ろうとか、二人を別れさせようとか、そういうことは考えてない」
「うん」
「ただ、すぐに何とも思わなくなるのは無理かもしれない」
「それでいいんじゃない?」
私は答えた。
「気持ちなんて、消そうと思って消せるものじゃないでしょ」
一之瀬は少しだけ驚いたように私を見る。
「ありがとう」
「だからって試験は手加減しないけどね」
「もちろん。次は私たちが勝つよ」
「負けないから」
今度は自然に笑えた。
一之瀬と別れたあと、私は清隆へ連絡した。
『どこ?』
すぐに返信が来る。
『校舎脇』
私はそこへ向かった。
いつもの場所に清隆がいた。
私が近づくと、清隆が顔を上げる。
「話は終わったか?」
「うん」
「何の話だった?」
「聞きたい?」
「千秋が話したいなら」
私は少し考えた。
全部言ってもいい。
でも一之瀬が自分の気持ちを話してくれたことを、勝手にそのまま伝えるのも違う気がした。
「女の子同士の話」
「そうか」
「それで終わり?」
「話したくないなら聞かない」
本当に清隆らしい。
私は彼の隣へ座る。
少し間を空けたあと、自分から距離を縮めた。
清隆の腕へ自分の腕を絡ませる。
「今日、私結構頑張ったよね」
「ああ」
「昨日より?」
「役割は今日のほうが大きかった」
「じゃあ褒めて」
「補助ペアの心理を読むのはオレより上手かった」
私は思わず清隆を見る。
予想していたより具体的だった。
「本当に?」
「ああ。オレなら条件を最適化することはできても、
相手がどこで罪悪感を持つかまでは千秋ほど自然には拾えない」
嬉しかった。
かなり。
私は自分が清隆と同じようにできないことを少し気にしていた。
でも昨日言われた。
同じになる必要はない。
今日はそれを自分で証明できたような気がする。
「清隆」
「何だ?」
「私、役に立ってるね」
「ああ」
「必要?」
「昨日も聞かなかったか?」
「今日も聞きたい」
「必要だ」
私は笑った。
「じゃあいいや」
そのまま肩へ頭を預ける。
少しして、清隆が口を開いた。
「一之瀬の話か?」
私は思わず顔を上げた。
「何で分かったの?」
「今日の途中から、千秋が一之瀬を見る回数が増えていた」
「そういうところは気づくんだ」
「何がだ?」
「何でもない」
私は少し迷ったあと、聞いてみた。
「清隆は、一之瀬さんのことどう思ってる?」
「優秀な生徒だと思っている」
「そうじゃなくて」
「友人としては好意的だ」
「恋愛としては?」
清隆は少し考えた。
「そういう感情はない」
私は自分でも分かるくらい安心した。
「そっか」
「なぜ聞く?」
「彼女だから気になるの」
「そういうものか」
「そういうもの」
私は腕に少し力を入れる。
「あと一之瀬さんも可愛いし」
「そうだな」
反射的に身体を起こした。
「ちょっと」
「何だ?」
「そこ同意する?」
「事実だと思うが」
「清隆」
「何だ?」
「今ちょっと彼女を怒らせたよ」
「そうなのか?」
「そうなの」
私は睨んでみた。
清隆は本気で理由が分かっていない顔をしている。
しばらく見つめているうちに、馬鹿らしくなって笑ってしまった。
「もういい」
「いいのか?」
「清隆らしいから」
私はもう一度肩へ寄りかかった。
今日の試験で、一之瀬が築いてきた人間関係の強さを嫌というほど思い知らされた。
条件で勝っていても人が集まらない。
誰かへ与えた親切が、何か月もあとになって試験の助けになる。
それは簡単に真似できるものではない。
同時に、どれほど強い集団でも、そこにいる全員が同じ理由で動いているわけではないことも分かった。
人の集まりを一つの塊として見るのではなく、その中にいる一人ひとりを見れば、違う答えが見えてくる。
それが私のやり方なのかもしれない。
清隆が盤面全体を見て最も効率的な道を探すなら、私はその盤面に置かれた人間の感情を見る。
私が感じた小さな違和感を清隆が戦術へ変え、清隆が作った選択肢を私が相手へ届ける。
二人でやれば、一人では動かせないものまで動かすことができる。
そして試験の外でも、少しずつ状況が変わっていた。
ひよりが清隆へ向けている気持ちに気づき、一之瀬自身の口からも似た感情を聞いた。
以前の私なら、そんなことにここまで心を動かされるとは思わなかった。
でも実際には嫉妬する。
不安にもなる。
それでも、清隆が私を必要だと言ってくれるだけで安心できる。
人間関係を読むことを得意だと思っている私自身が、
恋愛となればこんなにも単純になることが少し可笑しかった。
私は清隆の腕へ自分の腕を絡ませたまま、しばらくその場所で過ごした。
試験四日目は私たちの勝利で終わった。
けれど七日間の特別試験は、いよいよ後半へ入る。
龍園とひよりの策略を破り、一之瀬と神崎が築いた人間関係の包囲網も突破した。
次に待つ相手が誰になるのかを考えれば、ここまでの勝利を素直に喜んでばかりもいられない。
坂柳有栖と白石飛鳥。
特に白石については、いまだに能力の全体像が見えていない。
私たちが警戒対象として提出したことを学校側がどう利用するのかも分からない。
それでも、今の私は特別試験が始まった時よりも自分の力を信じられるようになっていた。
清隆と同じことができなくてもいい。
私には私にしか見えないものがある。
そして私が見落としたものは、清隆が拾ってくれる。
そうやって二人で一つの答えへ辿り着けるのなら、私は清隆の後ろではなく、隣に立つことができる。
恋人としても、試験のパートナーとしても、その場所だけは誰にも譲りたくない。
私はそんなことを考えながら、隣にいる清隆の肩へ少しだけ深く身体を預けた。