氷上に舞う暗殺者(アサシン)   作:瀬良

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プロローグ

椚ヶ丘中学校の本校舎は、真冬のスケートリンクよりも底冷えがする。

二年生の三学期。放課後の静まり返った廊下を、小野寺雲雀は肩に食い込むほど重い巨大なスケートバッグを提げて歩いていた。すれ違う生徒たちの視線が、無遠慮に彼女の背中に突き刺さる。

 

「また早退だってさ。……あんな点数で、よく平気な顔して学校に来られるよな」

「いくらテレビに出てるメダリストか知らないけど、うちらの学校じゃただの落ちこぼれでしょ。平均点の邪魔なんだよね」

 

ひそひそと交わされる嘲笑を、雲雀は無表情のまま通り過ぎた。 先ほど立ち寄った職員室でも、担任から

 

「スケートにかまけてこの成績では、来年は間違いなくE組だぞ」

 

と吐き捨てるように言われたばかりだった。テストの点数という絶対的な数値で人間の価値が決まるこの本校舎において、世界大会のメダルなど「くだらない遊びの延長」に過ぎない。

それでいい、と雲雀は冷たい息を吐いた。 成績も、同級生との会話も、普通の十代が謳歌する青春も、すべてはノイズだ。自分にはスケートしかない。いや、スケート以外のすべてを削ぎ落とし、自らの生命そのものを薪として焚べなければ、あの人が立つ狂気的で美しい氷の頂には絶対に手が届かない。 夜鷹純。幼い頃に見た彼の、命を削るような滑りだけが、雲雀の世界のすべてだった。

 

「あら、小野寺さん! 今日もこれからリンク?」

 

足早に昇降口へ向かおうとした雲雀を引き止める、場違いなほど明るい声があった。 振り返ると、白衣を羽織った女性教師が小走りで近づいてくる。白衣の下から覗いているのは、真冬だというのに『冷やし中華始めました』とデカデカとプリントされたダサいTシャツだ。

三年E組の担任、雪村あぐり。本校舎のエリート教師たちの中で浮きまくっている彼女は、なぜか雲雀を見かけるといつも気さくに声をかけてくる。

 

「……はい。これからクラブの練習がありますので。失礼します」

 

深く関わるのは無駄だと思い、短く会釈をして立ち去ろうとした。本校舎の教師が自分に声をかける理由など、嫌味か、あるいは説教のどちらかしかないのだから。

 

「待って待って、引き止めちゃってごめんなさい。でもね、どうしても言いたくて」

 

雪村先生は雲雀の前に回り込むと、冷え切っていた雲雀の両手を、自身の温かい両手でふわりと包み込んだ。

 

「先月のグランプリファイナル、テレビで観たよ。すっごく、すっごく綺麗だった」

 

雲雀はわずかに目を見張った。この学校の教師の口から、自分のスケートに対する言葉が出るとは思わなかったからだ。

 

「マグカップ片手に観てたんだけど、息をするのも忘れちゃった。小野寺さんのジャンプもステップも、指の先まで全部がキラキラしてて……あんなに美しいものを滑るために、毎日どれだけ転んで、どれだけ氷の上に立ち続けてきたんだろうって思ったら、なんだか泣けちゃって」

 

あぐり先生の瞳は、お世辞でも皮肉でもなく、真っ直ぐな称賛と優しさに満ちていた。手足の絶えない痣も、早朝から深夜まで続く孤独な練習も、すべてを「点数にならない無駄な努力」と切り捨てられてきた雲雀にとって、その言葉はあまりにも予想外だった。

だが、あぐり先生は雲雀の手を握ったまま、少しだけ困ったように眉尻を下げる。

 

「でもね……先生、とっても感動したのと同じくらい、少しだけ怖くなっちゃった」

「……怖い?」

「うん。小野寺さんが氷の上で、自分自身の命を燃やして滑っているみたいに見えたから。あまりに美しくて……このまま燃え尽きて、煙になって消えちゃうんじゃないかって、心配になっちゃったの」

 

心臓が、大きく跳ねた。 誰も気づかなかった。世界中の解説者も、コーチたちでさえも、雲雀の技術と表現力を絶賛するだけで、その奥にある自傷的なまでの危うさに気づく大人など一人もいなかったのだ。

 

「スケートに人生のすべてを懸ける小野寺さんは、とっても格好いいよ。でもね、小野寺さん自身のことも、どうか大切にしてあげてね。あなたは、氷の上にいなくても、とっても素敵で大切な女の子なんだから」

 

そう言って笑うあぐり先生の手は、どこまでも温かかった。

 

「来年、もしE組に来ることになっても、絶対に下を向いちゃ駄目だからね。私はいつだって、小野寺さんの味方だから」

 

凍てついていた雲雀の胸の奥で、カチリと音を立てて何かが溶け落ちた。 誰にも理解されないと諦め、自ら分厚い氷の壁に閉じこもっていた自分を、このダサいTシャツを着た先生だけは、たった一言でいとも容易く溶かしてしまったのだ。

 

「……ありがとうございます、雪村先生」

 

気づけば、ずっと強張っていた雲雀の唇から、ほんの小さな、けれど確かな微笑みがこぼれていた。

それが、小野寺雲雀が雪村あぐりと交わした、最初で最後の真っ当な会話だった。

 

 

数ヶ月後。三年生に進級し、予定通りE組のオンボロ校舎へと追放された雲雀を待っていたのは、彼女の遺志を継いでやってきた、マッハ20で動く巨大な黄色いタコだった。

 

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