※オリジナル主人公が登場します。
スネージナヤの市場町の朝は、塩と獣脂と、焼きたての黒パンの匂いがする。
年に四度、僕はこの匂いを嗅ぎに来る。正確に言えば、毛皮と干し肉を売って、塩と小麦粉とランプの油を買いに来る。匂いはそのついでだ。けれど帰り道で思い出すのは、いつも品物の値段よりこの匂いのほうだった。
「今年の貂は毛並みがいいね、トイヴォ」
毛皮商のおかみさんは、僕の持ち込んだ束を一枚ずつめくりながら言った。指の節が太く、爪の先まで仕事の色が染みている人だ。
「秋に雨が少なかったので。野ネズミが多い年は、貂も太ります」
「そういうことを知ってるのは、今どき猟師か学者くらいのもんだよ」
笑いながら、おかみさんは帳面に数字を書きつけた。示された額は、去年より少しだけ高かった。僕は頭を下げて受け取る。値切るのも、値上げを頼むのも、僕は昔から苦手だ。おばあちゃんが生きていたころは、それはおばあちゃんの仕事だった。
市場は、いつもよりざわついていた。
声の大きさはいつもと同じなのに、そこに混じる調子が違う。同じ話が、少しずつ形を変えながら、あちこちで繰り返されている感じがした。
「劇場で、大勢倒れたんだって」
「倒れたんじゃない、死んだんだよ。いっぺんに」
「空の柱が黒く光ったのを、うちの亭主が見たって」
「よその国でも、空から落ちた釘が光りだしたらしいじゃないか」
「女皇様の兵隊が、まだ街の外を探し回ってるって話だよ」
「探すって、何を」
「さあね。言えないものなんだろ」
粉屋の前でも、油屋の前でも、似たような言葉が飛び交っていた。僕は袋に小麦粉を詰めてもらいながら、それを聞くともなく聞いていた。
「あんたのところまでは、何も来てないかい」
粉屋の主人が、秤から目を離さずに聞いた。
「何も。……何か来るようなことが、あったんですか」
主人は顔を上げて、まじまじと僕を見た。それから、呆れたように笑った。
「相変わらずだねえ、森の坊やは。世の中がひっくり返ったって、あんたは薪を割ってるんだろうよ」
「ひっくり返ったんですか」
「言葉のあやだよ」
主人は袋の口を縛り、どん、と台に置いた。
劇場というものに、僕は入ったことがない。空の柱というのも、話に聞いたことがあるだけだ。女皇様のことも、兵隊のことも、偉い人たちのことも、僕にはよく分からない。分からないまま二十年ほど生きてきて、今のところ困ったことはない。
森の中で困るのは、薪が湿っていることと、罠に獲物がかからないことと、屋根に雪が積もりすぎることくらいだ。そういうことなら、僕にもどうにかできる。
最後に、乾物屋の隅で、小さな瓶の蜂蜜を一つ買った。
予定にはなかった。値段を見て一度棚に戻し、それから、もう一度手に取った。冬の終わりまで、甘いものは口にしないつもりでいたのに。
なぜ買ったのかは、自分でもよく分からない。ただ、なんとなく——今年の冬は、何か甘いものがあったほうがいい気がした。
◇
町の南の門には、見慣れた顔の兵士が立っていた。
ファデュイの外套を着た、僕と同じくらいの歳の若い兵士だ。名前は知らない。来るたびに通行の確認をされて、そのたびに少しだけ世間話をする。それだけの間柄だった。
「もう帰るのか」
「ええ。雪が本格的になる前に」
「今日は、早く帰ったほうがいい」
兵士は、いつもよりほんの少しだけ固い声で言った。
「このあたりにも、上から人が出てる。何かを探してるらしい。……何を探してるのかは、俺みたいな下っ端には降りてこないけどな」
「さっき市場でも聞きました。劇場の話と、関係があるんですか」
「さあな」
兵士は肩をすくめ、僕の引き橇の荷を形ばかりに確かめた。
「あんたみたいに森に引っ込んでる人間には、関係のない話だよ。気をつけて帰れ」
「ありがとうございます。あなたも、お気をつけて」
兵士は一瞬きょとんとして、それから少しだけ笑った。
「兵隊に『お気をつけて』って言うやつは、あんたくらいだ」
◇
町から僕の家までは、歩いて二日かかる。
北のスネージナヤ本土から、南のナド・クライへ向かって、なだらかに下っていく道だ。一日目は街道を行き、二日目の朝に街道を外れて、針葉樹の森へ入る。そこから先に、道と呼べるものはない。僕の足と、橇の跡と、木々の並びだけが目印になる。
引き橇の綱を肩にかけて、雪を踏む。
荷は重い。小麦粉がひと袋、塩がひと袋、ランプの油が小さな樽にひとつ。針と糸と布、斧の替え刃。それから、蜂蜜の小瓶。
一人で暮らすのに必要なものは、そう多くない。多くないけれど、一人で運ぶには、いつも少しだけ重い。
一日目の夜は、街道沿いの炭焼き小屋を借りて眠った。
二日目の昼すぎ、森に入ってしばらくしたころ、空の色が変わった。
灰色の雲が、西の尾根から滑るように広がってくる。風の匂いが変わる。乾いた針葉の匂いの奥に、鉄を舐めたような冷たさが混じる。
吹雪が来る。
おばあちゃんに教わった読み方で、僕はそれを知った。空を見て、風を嗅いで、木々の揺れ方を見る。雪原で生きる人間が最初に覚えることだと、おばあちゃんは言っていた。
僕は岩陰に橇を寄せ、防水布を張って、その下にもぐり込んだ。火は起こさない。この風では、起こしてもすぐに消える。毛皮を重ねてじっとしていれば、吹雪はたいてい半日で過ぎる。
白い轟音が、森を呑み込んだ。
布の外で、世界が掻き消える音がする。風が木々の間を抜けるたびに、低い笛のような声が鳴る。
子どものころは、それが怖かった。おばあちゃんは僕を膝に抱いて、昔話をしてくれたものだ。霜月の子たちから聞いたという、古い森の話や、月の話や、冥府の話を。
どの話も、もうほとんど覚えていない。覚えているのは、おばあちゃんの声の低さと、膝の温かさだけだ。
一人になってから、吹雪の音はもう怖くない。
怖くないだけで、長いとは思う。
◇
吹雪が抜けたのは、日が傾きかけたころだった。
布をはね上げると、森はすっかり形を変えていた。倒木は雪に埋もれ、見慣れた岩は丸い塚になり、木々の幹は片側だけが白く塗り込められている。空は嘘のように晴れて、雪の表面が夕日を受け、薄い金色に光っていた。
橇を掘り出し、荷を確かめて、僕はまた歩き出した。
そして、しばらく行ったところで、それを見つけた。
雪の上に、黒いものが落ちていた。
羽根だった。
はじめは鴉のものだと思った。けれど近づいてみると、大きさがまるで違う。僕の前腕ほどもある、長い、黒い羽根。それが一枚だけではなく、点々と、雪原の向こうまで続いている。吹雪のあとなのに埋もれもせず、雪の上にそっと置かれたように。
しゃがみこんで、一枚を拾おうとした。
指先が触れたとたん、羽根は崩れた。
煤のように、灰のように、黒い粉になってさらさらと雪の上にこぼれ、それもすぐに風に散って見えなくなった。
僕はしばらく、自分の指先を見ていた。
手袋の先には何も残っていない。冷たさだけが、かすかに残っていた。雪の冷たさとは違う。もっと奥のほうまで染みてくるような冷たさだった。
見なかったことにして、家に帰ることもできた。
けれど、おばあちゃんは言っていた。雪原で見つけたものは、見なかったことにしちゃいけないよ、と。それが獣の足跡でも、人の足跡でも、落とし物でも。雪は何でも隠してしまうから、見つけたときに見ておかないと、春まで誰にも見つけてもらえない。
僕は橇の綱を握り直して、羽根の続くほうへ歩いた。
羽根の道は、森の切れ目の、小さな窪地で途切れていた。
そこに、人が倒れていた。
最初、僕はそれを人だと思わなかった。雪と同じ色の長い髪が、窪地いっぱいに広がっていたからだ。雪原の中に、もうひとつ小さな雪原があるように見えた。その真ん中に、黒い布の塊が横たわっている。
近づいて、ようやく分かった。女の人だった。
背の高い人だった。僕よりも頭ひとつぶんは高いかもしれない。見たことのない仕立ての衣は、黒と白が入り組んだ形をしていて、そのあちこちが裂け、焼け焦げたようにほつれていた。顔は、雪よりもまだ白い。まぶたは閉じられ、唇には色がない。
そして、腕が黒かった。
肘の少し上から指先まで、墨を流したように真っ黒で、その黒の上に、赤い模様がいくつも浮いていた。丸くて、細長くて——目の形に似ている、と思って、僕はすぐにその考えを追い払った。
凍傷だ、と僕は思った。
ひどい凍傷は、肌を黒く変える。猟師仲間の指がそうなるのを見たことがある。ここまでひどいものは見たことがないけれど、それはきっと、この人がそれだけ長く雪の中にいたということだ。赤い模様は、たぶん、血の巡りがおかしくなった跡だろう。
そう考えることにした。考えることにしたら、少しだけ手が動くようになった。
膝をつき、手袋を外して、その頬に触れた。
冷たかった。
雪よりも冷たかった。冷たいというより、そこに温度というものが初めからないような手触りだった。
死んでいる、と思った。
それでも、口元に耳を寄せた。
長い、長い間があった。風が一度、窪地の上を通り過ぎた。
それから——ごく、かすかに。
吐息が、僕の耳たぶに触れた。
「……生きてる」
声に出してから、僕は周りを見回した。
誰もいない。足跡もない。この人がどこから来たのか、なぜこんなところで倒れているのか、手がかりになるものは何もなかった。雪の上に続いていた黒い羽根の道も、振り返ると、いつの間にか消えていた。
ひとつだけ、妙なことに気づいた。
窪地のふちに生えている低い灌木が、この人を囲むように、ぐるりと枯れていた。冬枯れとは違う。葉の一枚一枚まで黒く縮れて、触れれば崩れそうなほど乾いていた。
でも、それはきっと、今考えることじゃない。
橇の荷を下ろした。
小麦粉の袋と、油の樽。この二つがいちばん重い。岩陰に寄せて防水布をかぶせ、目印に枝を一本立てる。明日か明後日、取りに戻ればいい。そのあいだ、パンは焼けない。それくらいのことだ。
毛皮を二枚、橇に敷いて、その上にその人を移した。
抱き上げたとき、思わず声が出そうになった。
軽かった。
背丈から考えれば、僕と同じか、それ以上に重くていいはずだった。それなのに、腕にかかる重さは、濡れた毛布を一枚持ち上げたくらいしかなかった。まるで、中身の半分がどこかに置き忘れられているみたいに。
残りの毛皮で全身を包み、髪が雪に引きずられないように、そっと胸の上にまとめた。長い髪は、指に絡むと、ひやりと冷たかった。
綱を肩にかける。
日が沈む前に、森の奥まで戻らなければならない。
◇
僕の家は、針葉樹の森の奥、小さな沢のそばにある。
おじいちゃんが建てて、おばあちゃんが守って、今は僕が一人で住んでいる。丸太を組んだ平屋で、部屋は二つ。暖炉のある広い部屋と、寝台のある小さな部屋。床下には、食料をしまう貯蔵庫がある。それで全部だ。
着いたときには、空はもう藍色だった。
扉を開けて、橇ごとその人を暖炉の前まで引き入れた。本当は外で雪を払うべきなのだけれど、そんなことを言っている場合ではなかった。
熾火を掘り起こし、焚きつけをくべて、薪を組む。火が立ち上がるまでの時間が、今日はやけに長く感じられた。
濡れた外套だけを、そっと脱がせた。その下の衣も湿っていたけれど、それ以上は手をつけなかった。代わりに乾いた毛布と、寝台から下ろしてきた羽毛の掛け布団で、何重にも包んだ。
火が大きくなる。
部屋に温もりが戻ってくる。僕の指先が、じんじんと痺れはじめる。
けれど、その人の頬は、少しも色を取り戻さなかった。
傷は、左の脇腹にあった。
衣が裂けたところから、深い傷口がのぞいていた。刃物で切られたものとも、獣に裂かれたものとも違う。まっすぐで、深くて、縁のところが——ひび割れた氷のように、黒く、細かく割れていた。
血は出ていなかった。
出ていないことが、かえって怖かった。
湯を沸かし、布を煮て、傷のまわりを拭った。おばあちゃんが遺した軟膏の壺を棚から下ろし、薄く塗って、清潔な布を当て、包帯を巻いた。僕にできるのは、猟で怪我をしたときと同じ手当てだけだ。これで足りるのかどうか、僕には分からない。
分からないけれど、手を止める理由にはならなかった。
それから、鍋を火にかけた。
貯蔵庫から、干した鹿の骨と、根菜をいくつか持ってくる。骨は一度さっと湯にくぐらせてから、水を張った鍋に沈める。玉ねぎは皮ごと半分に切り、鉄板で切り口が黒くなるまで焼いてから加える。焦げた甘みが、スープに色と香りをつけてくれる。人参、蕪、刻んだ芹の根。塩をひとつまみ。
ぐつぐつとは煮立たせない。鍋の底から、小さな泡がぽつ、ぽつと上がってくるくらいの火加減を保つ。そうすると、スープは濁らずに澄んだまま、骨の滋味だけが溶け出してくる。
おばあちゃんは、これを「起きあがりのスープ」と呼んでいた。
熱を出したときも、吹雪で凍えて帰ったときも、父さんと母さんがいなくなった冬も、おばあちゃんはこのスープを作った。飲めば起きあがれるから、起きあがりのスープ。子どものころの僕は、それを本当の魔法だと思っていた。
今は、魔法じゃないことを知っている。
ただ、温かくて、塩気があって、体に入りやすい。それだけのものだ。
それだけのものが、たぶん、いちばん効く。
スープが澄んで、骨の匂いがやわらかくなったころ、小さな器に取り分けて、その人の枕元へ運んだ。
頭の下に丸めた毛布を足して、少しだけ体を起こす。匙にすくったスープに息を吹きかけて冷まし、唇にそっと当てた。
スープは、唇の端から顎へ、つうっと流れ落ちた。
布で拭いて、もう一度。
流れ落ちる。
もう一度。
四度目で、ほんのわずかに、喉が動いた気がした。気のせいかもしれない。でも、僕はそれを、飲んだということにした。五度目、六度目と、匙を運んだ。器の半分がなくなるころには、僕の腕は妙なふうに強張っていた。
◇
夜が更けた。
暖炉の火を絶やさないように、僕は椅子を寝床のそばに寄せて、そこに座っていた。薪がはぜる音と、外の沢のせせらぎと、その人のかすかな呼吸——耳をすませないと聞こえないくらいの——だけが、部屋の中にあった。
窓辺には、おばあちゃんが株分けしてくれたタイムの鉢がある。冬のあいだは窓の内側に入れて、暖炉の熱で凍えさせないようにしている。一人で暮らすようになってから、僕が毎朝欠かさず水をやっている、たったひとつの生き物だ。
その鉢の影が、火の揺らぎにあわせて、床の上で伸び縮みしていた。
この人は、誰なんだろう。
今さらのように、そう思った。
どこから来たのか。なぜ、あんなところで倒れていたのか。あの黒い羽根は何だったのか。脇腹の、血の出ない傷は。雪よりも冷たい肌は。
市場で聞いた話が、ふと頭をよぎった。劇場で大勢が死んだ。空の柱が黒く光った。兵隊が、街の外で何かを探している——。
僕は首を振った。
関係ない。たぶん、関係ない。仮に関係があったとしても、今この人が凍えていて、傷を負っていて、僕の家の暖炉の前にいるということは変わらない。
それなら、僕がすることも変わらない。
薪を一本、くべた。
どれくらい、そうしていただろう。
うつらうつらしかけたとき、衣擦れの音がした。
顔を上げると、その人が目を開けていた。
金色の目だった。
暖炉の火を映しているせいかと思った。けれど、違った。その瞳は、それ自体が淡く光っているように見えた。そして、瞳の奥——黒目のあるべき場所に、花が咲いていた。七枚の花びらを開いた、小さな花の形が。
見間違いだと思った。思おうとした。
その目が、ゆっくりと僕を見た。
見た、というより、僕を透かして、僕の後ろにある何か——壁か、夜か、もっと遠くの何か——を見ているようだった。焦点が合っていないのか。それとも、僕というものが、その目にとっては焦点を合わせるほどのものではないのか。
色のない唇が、かすかに動いた。
「……なぜ、」
掠れた、小さな声だった。
雪の下で水が流れるような、低くて、冷たい声。
「……まだ」
それだけ言って、その人は、ゆっくりとまぶたを閉じた。
金色の光が、まつげの向こうに消える。呼吸が、また、耳をすませないと聞こえないくらいに細くなる。
僕は、しばらく動けなかった。
なぜ、まだ。
なぜ、まだ——何なのだろう。
なぜまだ、自分がここにいるのか。なぜまだ、眠っているのか。なぜ、まだ。
分からなかった。分からなかったけれど、僕は口の中で、小さく答えていた。
「……まだ、生きてるからだよ」
聞こえたかどうかは分からない。
その人の顔は、眠りの中で、少しも動かなかった。
僕は立ち上がって、器に残っていたスープを鍋に戻し、鍋をもう一度火にかけた。明日の朝、この人が目を覚ましたら、温かいものがすぐに出せるように。
それから、棚の上に置いた蜂蜜の小瓶に目をやった。
今年の冬は、何か甘いものがあったほうがいい気がした——町でそう思ったことを、思い出した。
あれは、このためだったのかもしれない。
そんなわけはないのに、なんとなく、そう思った。
暖炉の火が、ぱちりとはぜた。
窓辺のタイムの葉が、かすかに揺れた。
風もないのに。
お読みいただきありがとうございました。
次回、第2話「死の執政、粥をすする」はロノヴァ視点でお送りします。