※今回はロノヴァ視点です。
糸の少ないほうへ、歩いた。
それが、行き先の代わりだった。
人の糸が少ない。獣の糸が少ない。草の糸さえ、雪の下で細く眠っているほう。わたしが通っても、終わるものの少ないほう。
北東だった。
雪は、昼に止んだ。トイヴォの言ったとおりに。
止んだあとの雪原は、どこまでも白く、平らだった。わたしの足跡は、振り返るたびに、風に舞い残る粉雪にうっすらと埋もれていった。
それでいい、と思った。
家は、もう見えなかった。
帰る、とわたしは言った。命の終わるところへ、と。
命の終わるところなら、どこにでもある。この雪原にも、雪の下の鼠の巣にも、わたしの足もとにも。帰る場所としてそこを選ぶのなら、わたしは、どこにいても帰り着いていることになる。
そういう理屈は、立った。
立った理屈の上を歩きながら、わたしは一度も、それを帰り道だと感じなかった。
二つ目の嘘は、一つ目より、重かった。
右手の包みが、重かった。
持ち替えなかった。
歩きながら、糸を数えた。
遠ざかっていく、家の中のひとつの糸。少し太い、長い糸。
数えるのをやめようとして、やめられなかった。
日が傾くころ、それは、わたしの目の届くところから、ほどけるように消えた。距離のせいだ。糸が途切れたのではない。
分かっていた。
分かっていて、しばらく、立ち止まっていた。
◇
夜は、雪の吹き溜まりを掘って、その中で過ごした。
眠る必要はない。——そう思うことに、もう、あまり意味はなかった。脇腹の奥の冷たい線が、夜になると、鈍く疼いた。
包みを、ほどいた。
大きな結び目は、黒い指でも、すぐにほどけた。ほどけるように結んであったからだ。
中身を、ひとつずつ出した。
黒パンが、ふたつ。干し肉の包み。凍った団子が、布にくるまれて、いくつか。小さな鍋。軟膏を分けた、小さな缶。
それから、底に、小さな瓶。
やはり、蜂蜜だった。棚の、鉢の隣にあったもの。指一本ぶんの、あの金色。
あの朝、包みの中で鍋とぶつかって鳴ったのは、これだった。
瓶を、しばらく手のひらに載せていた。
黒い指のあいだで、ガラスが、雪明かりを小さく返した。
蓋に、指をかけた。
開けなかった。
開ければ、なくなる。指一本ぶんの金色は、ひと匙で終わる。終わらせることなら、わたしはいくらでもしてきた。けれど、これは、終わらせたくなかった。
瓶を、包みの底に戻した。いちばん最後に、と決めた。いつが最後なのかは、決めなかった。
パンを、ちぎった。
硬くなっていた。噛むと、酸っぱさが、ゆっくりと舌に広がった。半日をかける、あのパンだ。
「……悪くは、ない」
声に出してから、気づいた。
聞く者は、いなかった。
答える声も、なかった。
わたしは、残りのパンを、黙って食べた。
この感覚には、もう、名前がないわけではなかった。
あの家で、わたしは何度も、分類できないものに出会った。味。甘さ。目の奥の熱。そのたびに、帳面の欄を探して、見つからなかった。
今夜のこれは、欄がないのではなかった。
名前を知っていて、書かないようにしているだけだった。
——寂しくなど、なかっただろう。
あの夜の嘘が、まだ、喉にあった。
◇
翌朝、雪原のゆるい高みに出たところで、振り返った。
それが、見えた。
白い雪原に、黒い線が引かれていた。
わたしの足もとから、来た方角へ。まっすぐに、細く。雪の上に、枯れた灌木の枝先が、点々と突き出ている。わたしが通ったところだけ、草も木も、黒く縮れて。
平らな雪原では点にしか見えなかったものが、高みからは、一本の線だった。
足跡は、雪が埋めた。
線は、埋まらなかった。
わたしは、長いあいだ、それを見ていた。
隠したつもりで、わたしは、ずっと、しるしを引きながら歩いていた。窪地の輪と同じように。家の輪と同じように。わたしのいる場所を、わたしの体が、勝手に書き残していく。
この線は、家から始まっている。
辿る者がいれば、家を通り、ここへ来る。
女皇の兵は、わたしが生きていることを知った。次の者たちは、必ずこの線を見つける。——そして、線を辿る者は、ほかにも、いるかもしれない。
その考えを、わたしは、すぐに打ち消した。
来るはずがない。恐れるなら、それが正しい、とわたしは言った。あの人間は、うなずいたのだ。
北東の果てに、湖があった。
古い、凍った湖だ。糸で見れば、分かる。その一帯だけ、糸の抜けた、広い空白がある。草も、木も、獣も、雪の下の鼠さえいない。
あそこなら、わたしが通っても、何も終わらない。
わたしは、湖のほうへ、少しだけ向きを変えた。
歩きながら、一度だけ、空の果てへ意識を伸ばした。
北の遠くで、天に向かって立つものが、まだ脈打っていた。大地のあちこちで、古い釘が目を覚ましたままでいる。わたしの餞別は、わたしの手を離れて、わたしがいなくても、続いていた。
天理の影として、わたしが戻るべき場所があるのなら、あの脈の向こうだろう。戻る席が、まだあるのかどうか。わたしは、確かめなかった。
確かめれば、答えが出る。答えが出れば、わたしは、その答えのとおりに動くだろう。
今は、まだ、湖へ向かって歩いていたかった。
◇
昼、雪を小鍋に詰めて、火を起こした。
火は、干し肉の包みの中に入っていた火打ち道具で起こした。枯れた灌木なら、わたしの足もとに、いくらでもあった。わたしが枯らしたものが、よく燃えた。
雪が溶けて、湯になった。
凍った団子を、ひとつずつ落とした。
ひとつだけ、縁の開きかけたものがあった。
わたしの作ったものでは、なかった。トイヴォの手が、包んだものだ。形の揃った団子を次々に並べていく、あの手が。
わたしが包んだ団子は、十個とも形が違った。三角になったものを、わたしは自分の器に取り返した。わたしが作った、わたしが食べる、と言って。
あの日、トイヴォは、わたしのいびつな団子を嬉しそうに眺めていた。
この開きかけた縁は、あの日のわたしの指の形に、少しだけ似ていた。
——いいんだよ、形はどうでも。中身は一緒だから。
湯の中で、団子がゆっくりと浮いた。開きかけた縁から、中身が少しだけのぞいていた。刻んだ肉と、玉ねぎ。
わたしは、それを、最後に食べた。
同じ味がした。
——いや。
あの家で食べたときと、同じ味だった。それだけのことが、ひどく、遠かった。
鍋を火から下ろして、両手で包んだ。
熱が、黒い指に、しみこんできた。
わたしは、長いあいだ、そうしていた。
温かい、と思った。
死の執政は、寒さを知らない。熱も知らない。わたしの体は、そういうものに左右されないように、できていた。——できていた、はずだった。
小鍋の熱を、わたしの指は、欲しがっていた。
あの家で、わたしは、いったい何を覚えてしまったのだろう。
軟膏の缶を開けた。
薬草の匂いが、立った。
黒い指で、すくった。自分の腕に、塗ろうとした。肘の上から、指先まで。赤い模様を、避けもせず、一つずつ。
うまく、いかなかった。
長くて硬い指は、缶の縁に当たる。のばそうとすると、塊のまま、黒い肌の上を滑る。赤い模様のひとつに、べったりと残る。
毎晩、あの人間の指は、これを、あんなに薄く、あんなに丁寧に、のばしていた。
「……痛く、ならないように」
誰もいない雪原で、わたしは言った。
自分の腕に向かって。
声は、白い息になって、すぐにほどけた。
◇
三日目の夜明け前、脇腹が、ひらいた。
熱い、と思った。冷たいはずの場所が。
手を当てると、皮の下の冷たい線が、内側から裂けていた。黒いひびが、塞がっていた場所を割って、細かく、枝のように広がっていく。道化の男の目が通った跡。あのとき受けたものが、まだ、わたしの中で終わっていなかった。
血は、出なかった。
代わりに、わたしの中から、何かが漏れていった。力とも、命とも呼べない、わたしを形づくっていたもの。
衣の左の脇が、内側から黒く濡れたように見えた。
そこには、当て布があった。
包みと同じ、粗い麻。結んでから、切ってあった糸。
わたしは、当て布の上から、傷を押さえた。
押さえたまま、歩いた。
足が、遅くなった。
その日は、吹き溜まりから吹き溜まりへ、いくらも進めなかった。湖は、まだ遠かった。
三度目の夜を、雪の中で越した。
包みは、ほどかなかった。
四日目の朝、糸が、わたしの意識の端に触れた。
後ろから。
黒い線の上を、辿ってくる。
六つ。そのうち五つは、あの家を囲んだ兵たちより、ずっと硬い。迷いのない糸だ。
残るひとつが、ほかとは違った。
太く、荒く、熱い糸だった。一度、深い淵の底まで沈んで、そこから這い上がってきたような色をしている。人の糸で、これほど太いものは、めったにない。
女皇の執行官だろう、と思った。あの国で、これほどの糸を持つ者は、ほかにいない。
その糸に、小さな石が、絡みついていた。
神の目に似せて作られた、まがいものの石だ。道化の男がわたしを貫いた、あの目の、できそこないの兄弟。石は、持ち主の糸を、少しずつ喰っていた。命を削って、力に替える仕組み。持ち主は、それを知っていて、身につけているのだろう。
速い。わたしの足より、ずっと。
昼すぎには、追いつかれる。
わたしは、わたしの状態を確かめた。
力は、戻りかけて、また抜けていた。家の前で振るったぶんと、脇腹から漏れていくぶん。六つの糸を、まとめて終わらせるだけのものは、残っているだろうか。
——残っていたとして。
わたしは、それを、振るうだろうか。
あの男の胸の上で、指一本ぶんのところで止まった手を、わたしは、まだ知らなかった。止まった理由を、まだ、見つけていなかった。
見つけていないまま、次の胸の上に、手を差し伸べることができるのか。
わたしは、帳面をつけるように、並べようとした。
一、六つの糸は、わたしの死を確かめに来ている。終わらせれば、わたしは生きのびる。
二、終わらせれば、ここにまた、黒い輪ができる。輪は、線の上に残る。
三——。
三つ目が、書けなかった。
代わりに、声が浮かんだ。ありがとう、と言った声。君は、おばあちゃんを、ちゃんと受け取ってくれたんでしょう、と。
その声を、帳面のどの欄に書けばいいのか、わたしには分からなかった。
それから、もうひとつ、糸が触れた。
六つの、さらに後ろ。
ずっと遠く。わたしの目の届く、ぎりぎりの端で。
ひとつきり。
黒い線の横を、線を踏まないように、辿ってくる。雪を踏む速さは、六つより遅い。けれど、止まらない。休まない。
少し太い、長い糸だった。
それから、その糸は、線を離れた。
まっすぐに、湖のほうへ。わたしがどこへ向かっているのかを、知っているように。
わたしは、立ち止まった。
脇腹から、また何かが漏れた。
——来るな。
声には、しなかった。届くはずのない距離だった。
来るな。恐れるなら、それが正しい、と言ったはずだ。お前はうなずいたはずだ。怖いよ、と。
怖いよ。……でも。
でも、の先は、来なかった。
あのとき来なかったものが、今、雪原を、こちらへ向かってきていた。
◇
湖の岸に着いたのは、昼を過ぎたころだった。
凍った湖面が、白く、どこまでも広がっていた。空は、朝の晴れ間を失って、低い灰色の雲が西から張り出していた。風の匂いが変わった。鉄を舐めたような冷たさ。
夜には、吹雪になる。
トイヴォなら、そう言うだろう。
岸の手前で、膝が、雪についた。
包みが、手から雪に落ちた。中で、小さく硬いものが触れ合った。音は、雪に吸われて、どこへも届かなかった。
脇腹の黒いひびが、また広がった。立とうとして、立てなかった。あの家で初めて目を覚ました日、床に崩れ落ちたときと同じだった。膝が、体の重さを支えることを、放棄した。
あのときは、戸が開いて、ただいま、という声がした。
六つの糸が、木立を抜けた。
白い外套の者が五人、雪原に散った。わたしを囲むように。黒い線の終わる場所を、正確に知っている動きだった。手の中に、凍てつく刃が形づくられた。
六人目は、急がなかった。
木立の縁から、雪を踏んで、ゆっくりと歩いてきた。若い男だった。赤茶の髪に、赤い仮面を、頭の横へずらして引っかけている。
「——見つけた」
男は、そう言って、笑った。
「へえ。本当に生きてたんだ、死の執政」
軽い声だった。軽いのは声だけで、糸は、少しも軽くなかった。
「……女皇の、執行官か」
「第十一位、『公子』タルタリヤ。……まあ、覚えなくていいよ。郊外で魔物を片づけてたら、死の執政が生きてるって話が回ってきてさ。こっちのほうが、面白そうだったから」
男は、わたしの前で足を止めて、首をかしげた。
「命令はね、生死を問わず、連れて帰れ、だってさ。……でも、これじゃあね」
青い目が、膝をついたわたしを、上から下まで眺めた。
「もう、戦える体じゃないんだね。残念だな」
五つの刃が、わずかずつ間合いを詰めてきた。誰も、急がなかった。
ひとりの足もとで、雪の下の枯れ枝が、ぱきりと折れた。わたしの線の、最後の一本だった。
男の腰で、石が、紫に光った。その光のぶんだけ、男の糸が、細った。
わたしは、男を見上げた。
「……その石は、お前の糸を喰っている」
言うつもりのなかった言葉が、口から出た。
男は、一瞬だけ、目を丸くした。
それから、声を立てて笑った。
「ハハッ。知ってるよ」
笑ったまま、男の手の中に、雷をまとった槍が形づくられた。
右手が、上がりかけた。
昔から知っている形に。
わたしは、それを、止めた。
止めたのは、今度は、わたしだった。わたしが、自分で、止めた。
理由は、まだ見つけていなかった。
見つけていないまま、止めた。
男の眉が、わずかに動いた。
「……やらないの?」
わたしは、答えなかった。
五つの刃と、一本の槍が、わたしに向いた。
終わるのだろう、と思った。今度こそ。死の執政が、死ぬ。見届けられるまで終わらない死を、この者たちが見届ける。記録の上では、それで帳尻が合う。
合うはずだった。
——帳尻の合わないまま、わたしは、去った。
……春、か、と言った声に、わたしは、答えを置いてこなかった。
そのとき、音がした。
雪の向こうから。
小さく、硬いものが、触れ合う音。
こつん、と。
六つの糸は、動かなかった。聞こえたのは、わたしにだけだったのかもしれない。
「ロノヴァ!」
声が、雪原を渡った。
六つの糸が、いっせいに振り返った。
木立の縁に、ひとりの人間が立っていた。背負い袋を肩に、息を切らして、頬に赤い線の痕を残して。
少し太い、長い糸。
トイヴォが、わたしの名を呼んだのだった。
あの家で呼ばれていたのと、同じ呼び方で。あの家では一度も聞かなかった、大きな声で。
六つの糸が、揺れた。
「……民間人?」
執行官が、つぶやいた。
片手が、軽く上がった。五つの刃が、止まった。連れ帰れと言われていたのは、死の執政だ。雪原の猟師のことは、その言葉のどこにもなかったのだろう。
止まっていたのは、ひと呼吸ぶんだけだった。
なぜ、来た。
問いが、喉まで上がってきた。
いつもの形の問いだった。なぜ、まだ。なぜ、わたしを拾った。なぜ、礼を言う。なぜ、隠す。なぜ、包む。
けれど、それを口にする前に、トイヴォは、雪を蹴って走り出していた。
刃のあいだを、低く、獣のように。
ひと呼吸ぶんで、足りた。
トイヴォは、わたしの前に膝をつき、わたしの右手を、つかんだ。
止めたばかりの、黒い手を。
その手は、温かかった。
小鍋の熱とは、違った。暖炉の熱とも、違った。
生きているものの、温度だった。
「ご飯、足りてた?」
息を切らしたまま、トイヴォは言った。
こんなときに、この人間は。
わたしは、答えられなかった。
手の中の温度を、わたしは、初めて、分類しようとしなかった。
お読みいただきありがとうございました。
次回、第11話「生かす者」はトイヴォ視点でお送りします。