死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※今回はトイヴォ視点です。


第11話 生かす者

 握った手は、雪より冷たかった。

 最初の日と、同じだった。窪地で、この人の頬に触れたときの、あの冷たさ。

 ご飯、足りてた? と聞いたのに、ロノヴァは答えなかった。金色の目が、僕を見ていた。唇が、何かを言いかけて、止まった。

 あの朝の僕も、たぶん、こんな顔をしていた。でも、の先を探して、見つけられなかったときの。

 

 脇腹に、目が行った。

 衣の左の脇が、黒く濡れたように見えた。僕が当て布を縫いつけた、ちょうどそのあたりだった。血の色は、どこにもなかった。

 

「ねえ、君」

 頭の上から、声が降ってきた。

「そこ、どいてくれるかな。用があるのは、その人だけなんだ」

 顔を上げた。

 白い外套が、五つ。雪原に、輪のように散っていた。どの手にも、氷でできた刃があった。透きとおって、薄く、青い。

 声をかけてきたのは、輪の内側に立つ、もうひとりだった。

 僕とそう変わらない年の男だった。赤茶の髪に、赤い仮面を、頭の横へずらして引っかけている。手には、紫の雷をまとった槍。腰の帯に、小さな石を留めていた。石は、脈を打つように、明るくなったり暗くなったりしていた。見たことのない石だった。

 男は、笑っていた。

 笑っているのに、目の奥は、少しも笑っていなかった。冬の湖の、底のほうの色だった。

 

 離れなかった。

 離れ方が、分からなかったのかもしれない。握った手をほどく理由が、どこにも見つからなかった。

「……トイヴォ」

 ロノヴァが、かすれた声で言った。

「行け。お前だけなら、この者たちは追わない」

「うん」

 僕は、うなずいた。

 うなずいて、手は、離さなかった。

 

 風の匂いが、変わっていた。

 木立の縁に出たときから、気づいていた。西の空に、低い雲が張り出している。

 ふつうなら、吹雪は夜だ。

 でも、ここは、湖だった。

 ——湖の上じゃ、風は止まらない。雪は、雲より先に走ってくるよ。

 おばあちゃんは、そう言った。天気のことで、おばあちゃんが外したことはない。

 湖の向こう岸を見た。

 さっきまで見えていた黒い木立が、もう、なかった。空と氷の境が、白く、ぼやけて、溶けかけていた。

 赤い仮面の男も、一度だけ、西を見た。それから、何も言わずに、僕に目を戻した。

 来る。

 あと、百を数えるくらいで。

 

「聞こえてる?」

 男が言った。声の明るさは、変わらなかった。

「君に用はないんだ。民間人を斬るのは、好きじゃないしね。……でも、邪魔をするなら、話は別かな」

「……この人を、どこへ連れていくんですか」

「皇都まで。生きててもいいし、死んでてもいい、ってさ」

 男は、天気の話でもするように言った。

 この人たちは、ロノヴァが死んでいても、かまわないのだ。

 僕は、胸の中で、数を数えはじめた。一、二、三。

 

「その人が何なのか、知ってて庇ってるの?」

「知ってます」

 十。十一。

「死の執政。劇場で、大勢を死なせた人」

 言葉にすると、喉の奥が、痛んだ。

「それから、僕の家で、粥を食べてた人です」

 男が、瞬きをした。

「……粥、ね」

 男は、小さく笑った。馬鹿にした笑い方ではなかった。何かを思い出したような、笑い方だった。

 僕にも、うまく説明はできなかった。どちらかだけを言ったら、それは嘘になる気がした。

 二十。二十一。

 

 男の顔色は、よくなかった。

 腰の石が明るくなるたびに、唇から、少しずつ色が抜けていく。息が、浅い。槍を持つ手の指先が、ときどき、小さく震えていた。

 雪原を、長く歩きすぎた人の顔に、似ていた。

 おじいちゃんなら、すぐに火を焚かせただろう。

 四十。四十一。

 

 ロノヴァの指が、僕の手の中で、少しだけ動いた。

 見ると、ロノヴァは、僕ではなく、西の空を見ていた。それから、僕を見た。

 金色の目が、何かを問うていた。

 僕は、小さく、うなずいた。

「……ごめんね。最後にもう一回だけ言うよ」

 男が、槍を持ち上げた。

「どいて」

 七十。

 僕は、背負い袋を、背中から胸のほうへ回した。

 八十。

 雪の上に落ちていた包みを、引き寄せて、腕に通した。

 九十——

 

 最初に、音が来た。

 湖の向こうから、低い唸りが。

 それから、白が来た。

 白い壁が、氷の上を走ってきて、僕たちを呑みこんだ。雪が、上からではなく、横から、下から、叩きつけてきた。湖に積もっていた粉雪が、いっせいに舞い上がったのだ。

 目の前に立っていたはずの男の姿が、白の中に溶けた。

「全員、動くな! 互いの声の届くところにいろ! 俺が行く!」

 さっきの男の声だった。明るさが、消えていた。

 湖の白を、知っている人の声だった。

 

 僕は、ロノヴァを背負った。

 両腕を僕の肩に回させて、膝の裏を抱えて、立ち上がった。

 軽かった。

 最初の日、橇に移したときも、そう思った。背の高い人なのに、濡れた毛布一枚ぶんの重さしかなかった。今は、あのときよりも、さらに軽かった。

 何かが、この人から、抜けていっている。

 考えるのは、あとにした。

 

 岸には、戻らなかった。

 凍った湖は渡るな、とおじいちゃんは言った。

 それでも、湖へ、踏み出した。氷の上には、この人が枯らすものがない。黒い線は、ここで途切れる。

 ——白に呑まれたら、風を頬で持て。

 これも、おじいちゃんだ。目は役に立たない。耳もだめだ。風だけは、嘘をつかない。

 風を、右の頬の、少し前に当てた。

 白い壁が来る前に、湖の真ん中あたりに、黒い岩のかたまりが見えていた。枯れてねじれた松が、三本。チモフェイの地図にも、湖の中に小さな点が描いてあった。点の横に、四角い印がひとつ。

 あそこまで、たぶん、千歩と少し。

 風を右の頬に当てたまま、まっすぐ行けば、着く。

 着かなかったら——考えるのは、あとにした。

 

 二十歩で、後ろの声が、聞こえなくなった。

 五十歩で、前も後ろも、分からなくなった。白しかなかった。自分の足さえ、膝から下は見えなかった。

 背中で、ロノヴァが、何か言った。

 顔を、後ろへ向けた。

「……左に、ふたつ」

 耳もとで、かすれた声がした。

「糸が、ふたつ。近い。……右は、空いている」

 僕は、右に寄った。寄ってから、また、風を頬に戻した。

 左の、思っていたよりずっと近いところで、脈を打つような紫の光が、ぼうっと滲んだ。

 あの石の光だった。

 

 四百歩を数えたところで、ロノヴァの指が、僕の肩に食いこんだ。

「止まれ」

 足を止めた。

「下に、糸がある」

「……下?」

「氷の下だ。細いのが、たくさん。……ここにだけ、集まっている」

 ロノヴァは、少し間を置いて、付け足した。

「……岸からは、見えなかった。深すぎた」

 僕は、息を呑んだ。

 魚だ。

 ——冬の湖には、底から水の湧くところがある。魚は、そこに集まる。そこだけは、冬じゅう、氷が薄い。

 おじいちゃんが渡るなと言ったのは、これのせいだった。

 足もとの氷が、かすかに、たわんだ気がした。

 僕は、一歩ずつ、後ろへ下がった。それから、風を右の頬から少しずつずらして、大きく回りこんだ。ロノヴァが、糸の集まっているところを、小さな声で教えてくれた。僕は、その声のとおりに歩いた。

 

 回りこんで、また風を頬に戻したときだった。

 後ろのほうで、紫の光が、また滲んだ。

 さっきよりも、近かった。

 光は、まっすぐ、湧き口のほうへ進んでいた。岸から島へ、いちばん短い線の上を。あの人たちの地図にも、島の印があるのかもしれない。

 あの人は、顔色が悪かった。指が、震えていた。

 落ちたら、上がれない。上がれたとしても、この風の中で、濡れた体は、あっという間に凍る。

「——そっちは、だめだ!」

 声が、出ていた。

「氷が薄い! 止まって!」

 背中で、ロノヴァの体が強張った。

 光が、止まった。

 ぴしり、と。風の唸りの下で、氷の鳴る音がした。

 光は、ゆっくりと、後ろへ下がっていった。

 僕は、すぐに歩き出した。声を出した場所に、いつまでも立っていてはいけない。風を右の頬に当てて、さっきよりも速く。

 声は、風が散らしてくれる。どこから聞こえたのか、あの人たちには、きっと分からない。

 

「……なぜ、教えた」

 しばらくして、背中で、ロノヴァが言った。

「だって」

 息が切れて、言葉が短くなった。

「落ちたら、死んじゃうよ」

 ロノヴァは、何も言わなかった。

 ただ、僕の肩をつかんでいた指から、少しだけ、力が抜けた。

 

 千と百二十歩目で、足もとが、氷から岩に変わった。

 白の中から、枯れ松の幹が、ぬっと現れた。

 

   ◇

 

 小屋は、岩の陰にあった。

 石を積んだ土台に、丸太の壁。屋根の半分は、雪の重みで落ちていた。残った半分の下に、人がふたり、なんとか横になれるくらいの隙間があった。

 昔、冬に氷の穴で魚を獲った人たちの小屋だろう。おじいちゃんより、もっと前の。

 戸口の雪を、手で掻き出した。戸は蝶番が錆びて、半分しか開かなかった。半分で、足りた。

 中は、暗くて、乾いていた。

 石を組んだ炉があった。隅に、灰色に乾ききった薪が、ひと抱えほど積んであった。誰かが、次に来る誰かのために、置いていったものだ。

 顔も知らない誰かに、ありがとう、と言った。

 足りないぶんは、外の枯れ松の枝で間に合う。

 

 毛皮を敷いて、ロノヴァを下ろした。

 火打ち石を打った。手がかじかんで、三度、しくじった。四度目で、火口に火が移った。

 息を吹きかけると、細い炎が立って、乾いた薪を舐めた。

 小屋の中が、橙色に染まった。

 ロノヴァの顔が、見えた。

 白い顔だった。唇の色まで、雪に近かった。

 

 もう一枚の毛皮を掛けてから、衣の脇を、そっとめくった。

「……見るよ」

 ロノヴァは、止めなかった。

 脇腹から背中のほうへ、黒いひびが、枝のように広がっていた。割れ目の奥は、暗かった。暗いだけで、何も流れていなかった。

 どうすればいいのか、分からなかった。

 凍傷なら、分かる。獣の爪の傷なら、分かる。これは、どちらでもなかった。

「痛い?」

「痛みは、ない」

 ロノヴァは、目を閉じたまま言った。

「漏れていくだけだ」

 僕は、黙って、続きを待った。

「……わたしを、形づくっていたものが」

 僕は、しばらく、黒いひびを見ていた。

 衣を、そっと元に戻した。裏に縫いつけた当て布が、ひびの上に重なった。包みと同じ一枚から切った布。離れても、どこかでつながっている気がして。

 つながっていた、と思った。

「じゃあ」

 僕は言った。

「入れよう。出ていくより、たくさん」

 ロノヴァが、目を開けた。

「……何を」

「温かいもの」

 

 鍋に雪を詰めて、火にかけた。

 雪が溶けるのを待つあいだに、ロノヴァの右腕を取った。

 黒い腕の、赤い模様のひとつに、軟膏が、べったりと固まっていた。のばされないまま、塊のまま。肘の上にも、ひとつ。指の付け根にも。

 僕は、それを、しばらく見ていた。

 腕には、自分で塗ってね。——僕は、そう言った。

 この人は、塗ろうとしたのだ。雪原で、ひとりで。あの長い、硬い指で。

「……うまく、できなかった」

 ロノヴァが、目をそらして言った。

「うん」

 笑ってしまった。

「見れば、分かるよ」

 おばあちゃんの壺から、指に取った。固まった塊を、指の腹で温めて、薄く、のばした。肘の上から、指先まで。赤い模様を、避けもせず、一つずつ。

 毎晩、そうしてきたように。

「痛くならないように」

 いつものように、言った。

 ロノヴァの指が、ぴくりと動いた。

「……わたしも、言った」

「え?」

「雪原で。自分の腕に」

 僕の手が、止まった。

 誰もいない雪原で、自分の腕に、この言葉をかけている人のことを、考えた。

 考えたら、目の奥が、熱くなった。

 僕は、黙って、残りの模様にも、軟膏をのばした。

 

   ◇

 

 湯が沸く前に、玉ねぎを、ひとつ出した。

 皮ごと半分に切った。炉の縁の平たい石を火で焼いて、その上に、切り口を伏せた。じゅう、と音がして、甘い匂いが立った。

 切り口が黒くなるまで、待った。

 干した鹿の骨を、鍋に沈めた。黒くなった玉ねぎを入れた。塩を、ひとつまみ。

 人参も、蕪も、芹の根もなかった。

 ぐつぐつとは、煮立たせない。鍋の底から、小さな泡がぽつ、ぽつと上がってくるくらいに。

 ロノヴァは、横になったまま、鍋を見ていた。

「……起きあがりのスープか」

「うん。足りないものばっかりだけど」

 

 外で、風が、小屋を揺すっていた。屋根の落ちた半分から、ときどき、粉雪が舞いこんできた。

 ロノヴァの目が、ふと、戸口のほうを向いた。

 壁の向こうの、ずっと遠くを見ている目だった。

「……六つの糸が、岸のほうへ戻っていく」

 ロノヴァが、言った。

「執行官の糸は、石に喰われて、細い。……だが、まだ、続いている」

「……執行官?」

「女皇の、執行官だ。第十一位と、名乗った」

 僕は、しばらく、何も言えなかった。

 市場の噂でしか聞いたことのない人に、僕は、止まって、と怒鳴ったのだ。

 それから、息を吐いた。

 自分が息を止めていたことに、そのとき、初めて気がついた。

「……でも、よかった」

 ロノヴァが、僕を見た。

 長いあいだ、何も言わずに。

「……吹雪が止めば、また来る」

「うん」

 考えるのは、あとにした。

 

 スープが澄んで、骨の匂いがやわらかくなったころ、器がないことに気がついた。

 ロノヴァの包みを、ほどいた。

 結び目は、僕が結んだ形とは違っていた。一度ほどいて、結び直してあった。固く、不器用に。あの黒い指で。

 中から、小鍋を出した。黒パンが、ひとつ。干し肉の包み。軟膏の、小さな缶。

 それから、底に、小さな瓶。

 中の金色は、指一本ぶんのまま、減っていなかった。

 

 小鍋に、スープを移した。

 背負い袋の中身を出して、丸めて、ロノヴァの頭の下に足した。体が、少し起きた。上着の隠しから、いつも持ち歩いている木の匙を出した。すくったスープに息を吹きかけて、冷まして、唇に当てた。

 最初の夜にも、こうした。

 あの夜、スープは、唇の端から顎へ流れ落ちた。四度目で、やっと、喉が動いた気がした。

 今度は、一度目で、動いた。

 ひと匙。もうひと匙。

 ロノヴァは、黙って飲んだ。

 小鍋の半分が減ったところで、小さく言った。

「……覚えている」

「え? 人参も蕪も、入ってないよ」

「……それでも、覚えている味だ」

 ロノヴァは、それ以上、言わなかった。

 

 火が、ぱちりとはぜた。

「さっきの問いに」

 ロノヴァが、言った。

「答えていなかった」

「さっきの?」

「ご飯は、足りていたか、と」

 ああ、と僕は言った。自分で聞いたのに、忘れていた。

「包みの中身は、足りた。パンも、団子も。……団子は、ひとつだけ、最後まで残した」

「縁の開いたやつ?」

「そうだ」

「……下手だったでしょう、あれ」

「同じ味がした」

 ロノヴァは、黙った。

「足りなかったのは——」

 そこで、言葉が止まった。

 金色の目が、火を見ていた。

 

 前の僕なら、ここで、何も聞かなかった。

 聞いたら、この人が遠くへ行ってしまう気がして。聞かないでいれば、この人を、ここに置いておけるような気がして。

 でも、この人は、聞かなくても、行ってしまった。

「足りなかったのは?」

 僕は、聞いた。

 ロノヴァは、長いあいだ、答えなかった。

 それから、言った。

「……寂しくなど、なかっただろう、と言った」

 団子を包んだ夜。おばあちゃんの昔話をした夜。女神様は寂しくなかったのかねえ、っておばあちゃんが言ってたんだ、と僕が話したとき、この人は、そう答えた。

「あれは、嘘だ」

 ロノヴァの声は、平らだった。帳面を読み上げるみたいに。

 でも、少しだけ、震えていた。

「捧げ物の煙が昇らなくなった年、女神は、何も思わなかったと記録した。……あの記録は、誤りだ」

 ロノヴァは、そこで、言葉を切った。

「……わたしは、寂しかった」

 火が、揺れた。

「あの家を出てからの三晩は、とくに」

 僕は、何も言えなかった。

 おばあちゃんに、教えてあげたかった。女神様は、寂しかったんだって。

 それを、僕の家の粥を食べた人が、自分の口で言ったんだって。

 

「それでも」

 ロノヴァは、続けた。

「わたしは、死そのものだ。それを捨てることはできない」

 静かな声だった。

「わたしのそばでは、命が細る。棚の根も、小鳥も。……お前の糸も、今、この小屋の中で、少しずつ細っている」

「どのくらい?」

 ロノヴァが、瞬きをした。

「……どのくらい、とは」

「一晩で、どのくらい細るの」

 ロノヴァは、僕を見た。僕の、僕には見えないところを。

「……今は、髪一本の、さらに半分ほどだ」

「そっか」

 僕は、うなずいた。

 

「怖いよ」

 言った。本当のことだった。

「怖いよ。……でも」

 あの朝、言えなかった言葉の続きを、僕は、ずっと探していた。一人分の食卓で。黒い線の横を歩きながら。

 答えは、たぶん、空の寝床の前に、もう落ちていた。拾えたのは、今だった。

「でも、君に、おはようって言えない朝のほうが、ずっと怖かった」

 ロノヴァが、息を止めた。

 毎朝、この人が息をしているか確かめてきた。その息を、この人は、ときどき止める。

「空の寝床に、おはようって言ったんだ。返事がないのは、いつものことなのに。……声が、どこにも届かなかった」

 

 僕は、ロノヴァの右手を、もう一度取った。軟膏をのばしたばかりの、黒い手を。

「君が、死のほうなら」

 ずっと前から、言うことが決まっていたみたいに、言葉が出た。

「じゃあ、生きるほうは、僕が受け持つよ」

 ロノヴァは、何も言わなかった。

「髪一本の半分、細るんでしょう。じゃあ、そのぶん、たくさん食べる。薪を割って、罠をかけて、スープを煮て。細ったぶん、食べて、寝て、また起きる。……僕、そういうのは、得意なんだ」

 言ってから、少し恥ずかしくなった。死の執政に向かって、ご飯をたくさん食べるから大丈夫、なんて。

 でも、僕にできることは、最初から、それだけだった。

 

 ロノヴァは、長いあいだ、僕の手を見ていた。

 握り返しは、しなかった。

 ほどきも、しなかった。

「……死の執政の帳面には」

 ようやく、ロノヴァが言った。

「お前のような者の欄が、ない」

「欄?」

「分類できない。どこにも、書けない」

 金色の目が、僕を見た。

「だから、作る」

「なんて、書くの」

 ロノヴァは、目を伏せた。

「——生かす者、と」

 火が、ぱちりとはぜた。

 僕は、何と答えればいいのか分からなくて、ただ、うん、と言った。

 うん、と言ったら、なぜか、泣きそうになった。

 

 ロノヴァが、目で、包みのほうを示した。

「瓶を」

 僕は、蜂蜜の小瓶を取って、黒い手のひらに載せた。

「開けなかった」

 ロノヴァが言った。

「開ければ、なくなる。……いちばん最後に、と決めていた」

「最後って、いつ?」

「決めていなかった」

 僕が、町の乾物屋で、なんとなく買ったもの。この人が目を覚ました朝、粥にひと匙、落としたもの。

「じゃあ、今、開けようよ」

 僕は言った。

「なくなったら、また買えばいいよ。春になったら、町で。……どこの店のがおいしいか、チモフェイに聞いてみる」

 ロノヴァが、僕を見た。

「……また」

「うん。また」

 黒い指が、瓶の蓋にかかった。

 ゆっくりと、回した。

 僕は、黒パンをちぎって、残りのスープにひたした。その上に、匙で、蜂蜜をひとすじ垂らした。

 ロノヴァは、それを、ゆっくりと噛んだ。

「……甘い」

 最初の朝にも、この人は、そう言った。

 ロノヴァは、残りの半分を、僕に差し出した。

 僕は、それを食べた。甘かった。塩と、骨と、焦げた玉ねぎと、蜂蜜の味がした。

 

   ◇

 

 夜が、更けた。

 風は、まだ、小屋を揺すっていた。朝まで、やまない。風の匂いで、分かった。

 一度だけ、遠くで、氷の割れる低い音がした。

 火に薪を足して、ロノヴァの毛皮を、肩まで引き上げた。

 それから、炉のこちら側に、横になった。

「おやすみ、ロノヴァ」

 いつものように、言った。

 返事は、ないと思っていた。

「……朝に」

 暗がりから、声がした。

「もう一度、言え」

「え?」

「おやすみ、ではないほうを」

 僕は、しばらく、動けなかった。

 おやすみ、ではないほう。

 この人が、朝も、ここにいると言っている。

「……うん」

 声が、少しだけ、震えた。

「言うよ。何回でも」

 返事は、なかった。

 でも、今夜の返事がないのは、いつもとは違った。

 吹雪の音を聞きながら、僕は、朝を待った。

 朝が来るのを、こんなふうに待つのは、生まれて初めてだった。




お読みいただきありがとうございました。
次回、第12話「死んだことにして、生きる」で本編は完結です。トイヴォとロノヴァ、二人の視点でお送りします。
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