※今回はトイヴォ視点です。
握った手は、雪より冷たかった。
最初の日と、同じだった。窪地で、この人の頬に触れたときの、あの冷たさ。
ご飯、足りてた? と聞いたのに、ロノヴァは答えなかった。金色の目が、僕を見ていた。唇が、何かを言いかけて、止まった。
あの朝の僕も、たぶん、こんな顔をしていた。でも、の先を探して、見つけられなかったときの。
脇腹に、目が行った。
衣の左の脇が、黒く濡れたように見えた。僕が当て布を縫いつけた、ちょうどそのあたりだった。血の色は、どこにもなかった。
「ねえ、君」
頭の上から、声が降ってきた。
「そこ、どいてくれるかな。用があるのは、その人だけなんだ」
顔を上げた。
白い外套が、五つ。雪原に、輪のように散っていた。どの手にも、氷でできた刃があった。透きとおって、薄く、青い。
声をかけてきたのは、輪の内側に立つ、もうひとりだった。
僕とそう変わらない年の男だった。赤茶の髪に、赤い仮面を、頭の横へずらして引っかけている。手には、紫の雷をまとった槍。腰の帯に、小さな石を留めていた。石は、脈を打つように、明るくなったり暗くなったりしていた。見たことのない石だった。
男は、笑っていた。
笑っているのに、目の奥は、少しも笑っていなかった。冬の湖の、底のほうの色だった。
離れなかった。
離れ方が、分からなかったのかもしれない。握った手をほどく理由が、どこにも見つからなかった。
「……トイヴォ」
ロノヴァが、かすれた声で言った。
「行け。お前だけなら、この者たちは追わない」
「うん」
僕は、うなずいた。
うなずいて、手は、離さなかった。
風の匂いが、変わっていた。
木立の縁に出たときから、気づいていた。西の空に、低い雲が張り出している。
ふつうなら、吹雪は夜だ。
でも、ここは、湖だった。
——湖の上じゃ、風は止まらない。雪は、雲より先に走ってくるよ。
おばあちゃんは、そう言った。天気のことで、おばあちゃんが外したことはない。
湖の向こう岸を見た。
さっきまで見えていた黒い木立が、もう、なかった。空と氷の境が、白く、ぼやけて、溶けかけていた。
赤い仮面の男も、一度だけ、西を見た。それから、何も言わずに、僕に目を戻した。
来る。
あと、百を数えるくらいで。
「聞こえてる?」
男が言った。声の明るさは、変わらなかった。
「君に用はないんだ。民間人を斬るのは、好きじゃないしね。……でも、邪魔をするなら、話は別かな」
「……この人を、どこへ連れていくんですか」
「皇都まで。生きててもいいし、死んでてもいい、ってさ」
男は、天気の話でもするように言った。
この人たちは、ロノヴァが死んでいても、かまわないのだ。
僕は、胸の中で、数を数えはじめた。一、二、三。
「その人が何なのか、知ってて庇ってるの?」
「知ってます」
十。十一。
「死の執政。劇場で、大勢を死なせた人」
言葉にすると、喉の奥が、痛んだ。
「それから、僕の家で、粥を食べてた人です」
男が、瞬きをした。
「……粥、ね」
男は、小さく笑った。馬鹿にした笑い方ではなかった。何かを思い出したような、笑い方だった。
僕にも、うまく説明はできなかった。どちらかだけを言ったら、それは嘘になる気がした。
二十。二十一。
男の顔色は、よくなかった。
腰の石が明るくなるたびに、唇から、少しずつ色が抜けていく。息が、浅い。槍を持つ手の指先が、ときどき、小さく震えていた。
雪原を、長く歩きすぎた人の顔に、似ていた。
おじいちゃんなら、すぐに火を焚かせただろう。
四十。四十一。
ロノヴァの指が、僕の手の中で、少しだけ動いた。
見ると、ロノヴァは、僕ではなく、西の空を見ていた。それから、僕を見た。
金色の目が、何かを問うていた。
僕は、小さく、うなずいた。
「……ごめんね。最後にもう一回だけ言うよ」
男が、槍を持ち上げた。
「どいて」
七十。
僕は、背負い袋を、背中から胸のほうへ回した。
八十。
雪の上に落ちていた包みを、引き寄せて、腕に通した。
九十——
最初に、音が来た。
湖の向こうから、低い唸りが。
それから、白が来た。
白い壁が、氷の上を走ってきて、僕たちを呑みこんだ。雪が、上からではなく、横から、下から、叩きつけてきた。湖に積もっていた粉雪が、いっせいに舞い上がったのだ。
目の前に立っていたはずの男の姿が、白の中に溶けた。
「全員、動くな! 互いの声の届くところにいろ! 俺が行く!」
さっきの男の声だった。明るさが、消えていた。
湖の白を、知っている人の声だった。
僕は、ロノヴァを背負った。
両腕を僕の肩に回させて、膝の裏を抱えて、立ち上がった。
軽かった。
最初の日、橇に移したときも、そう思った。背の高い人なのに、濡れた毛布一枚ぶんの重さしかなかった。今は、あのときよりも、さらに軽かった。
何かが、この人から、抜けていっている。
考えるのは、あとにした。
岸には、戻らなかった。
凍った湖は渡るな、とおじいちゃんは言った。
それでも、湖へ、踏み出した。氷の上には、この人が枯らすものがない。黒い線は、ここで途切れる。
——白に呑まれたら、風を頬で持て。
これも、おじいちゃんだ。目は役に立たない。耳もだめだ。風だけは、嘘をつかない。
風を、右の頬の、少し前に当てた。
白い壁が来る前に、湖の真ん中あたりに、黒い岩のかたまりが見えていた。枯れてねじれた松が、三本。チモフェイの地図にも、湖の中に小さな点が描いてあった。点の横に、四角い印がひとつ。
あそこまで、たぶん、千歩と少し。
風を右の頬に当てたまま、まっすぐ行けば、着く。
着かなかったら——考えるのは、あとにした。
二十歩で、後ろの声が、聞こえなくなった。
五十歩で、前も後ろも、分からなくなった。白しかなかった。自分の足さえ、膝から下は見えなかった。
背中で、ロノヴァが、何か言った。
顔を、後ろへ向けた。
「……左に、ふたつ」
耳もとで、かすれた声がした。
「糸が、ふたつ。近い。……右は、空いている」
僕は、右に寄った。寄ってから、また、風を頬に戻した。
左の、思っていたよりずっと近いところで、脈を打つような紫の光が、ぼうっと滲んだ。
あの石の光だった。
四百歩を数えたところで、ロノヴァの指が、僕の肩に食いこんだ。
「止まれ」
足を止めた。
「下に、糸がある」
「……下?」
「氷の下だ。細いのが、たくさん。……ここにだけ、集まっている」
ロノヴァは、少し間を置いて、付け足した。
「……岸からは、見えなかった。深すぎた」
僕は、息を呑んだ。
魚だ。
——冬の湖には、底から水の湧くところがある。魚は、そこに集まる。そこだけは、冬じゅう、氷が薄い。
おじいちゃんが渡るなと言ったのは、これのせいだった。
足もとの氷が、かすかに、たわんだ気がした。
僕は、一歩ずつ、後ろへ下がった。それから、風を右の頬から少しずつずらして、大きく回りこんだ。ロノヴァが、糸の集まっているところを、小さな声で教えてくれた。僕は、その声のとおりに歩いた。
回りこんで、また風を頬に戻したときだった。
後ろのほうで、紫の光が、また滲んだ。
さっきよりも、近かった。
光は、まっすぐ、湧き口のほうへ進んでいた。岸から島へ、いちばん短い線の上を。あの人たちの地図にも、島の印があるのかもしれない。
あの人は、顔色が悪かった。指が、震えていた。
落ちたら、上がれない。上がれたとしても、この風の中で、濡れた体は、あっという間に凍る。
「——そっちは、だめだ!」
声が、出ていた。
「氷が薄い! 止まって!」
背中で、ロノヴァの体が強張った。
光が、止まった。
ぴしり、と。風の唸りの下で、氷の鳴る音がした。
光は、ゆっくりと、後ろへ下がっていった。
僕は、すぐに歩き出した。声を出した場所に、いつまでも立っていてはいけない。風を右の頬に当てて、さっきよりも速く。
声は、風が散らしてくれる。どこから聞こえたのか、あの人たちには、きっと分からない。
「……なぜ、教えた」
しばらくして、背中で、ロノヴァが言った。
「だって」
息が切れて、言葉が短くなった。
「落ちたら、死んじゃうよ」
ロノヴァは、何も言わなかった。
ただ、僕の肩をつかんでいた指から、少しだけ、力が抜けた。
千と百二十歩目で、足もとが、氷から岩に変わった。
白の中から、枯れ松の幹が、ぬっと現れた。
◇
小屋は、岩の陰にあった。
石を積んだ土台に、丸太の壁。屋根の半分は、雪の重みで落ちていた。残った半分の下に、人がふたり、なんとか横になれるくらいの隙間があった。
昔、冬に氷の穴で魚を獲った人たちの小屋だろう。おじいちゃんより、もっと前の。
戸口の雪を、手で掻き出した。戸は蝶番が錆びて、半分しか開かなかった。半分で、足りた。
中は、暗くて、乾いていた。
石を組んだ炉があった。隅に、灰色に乾ききった薪が、ひと抱えほど積んであった。誰かが、次に来る誰かのために、置いていったものだ。
顔も知らない誰かに、ありがとう、と言った。
足りないぶんは、外の枯れ松の枝で間に合う。
毛皮を敷いて、ロノヴァを下ろした。
火打ち石を打った。手がかじかんで、三度、しくじった。四度目で、火口に火が移った。
息を吹きかけると、細い炎が立って、乾いた薪を舐めた。
小屋の中が、橙色に染まった。
ロノヴァの顔が、見えた。
白い顔だった。唇の色まで、雪に近かった。
もう一枚の毛皮を掛けてから、衣の脇を、そっとめくった。
「……見るよ」
ロノヴァは、止めなかった。
脇腹から背中のほうへ、黒いひびが、枝のように広がっていた。割れ目の奥は、暗かった。暗いだけで、何も流れていなかった。
どうすればいいのか、分からなかった。
凍傷なら、分かる。獣の爪の傷なら、分かる。これは、どちらでもなかった。
「痛い?」
「痛みは、ない」
ロノヴァは、目を閉じたまま言った。
「漏れていくだけだ」
僕は、黙って、続きを待った。
「……わたしを、形づくっていたものが」
僕は、しばらく、黒いひびを見ていた。
衣を、そっと元に戻した。裏に縫いつけた当て布が、ひびの上に重なった。包みと同じ一枚から切った布。離れても、どこかでつながっている気がして。
つながっていた、と思った。
「じゃあ」
僕は言った。
「入れよう。出ていくより、たくさん」
ロノヴァが、目を開けた。
「……何を」
「温かいもの」
鍋に雪を詰めて、火にかけた。
雪が溶けるのを待つあいだに、ロノヴァの右腕を取った。
黒い腕の、赤い模様のひとつに、軟膏が、べったりと固まっていた。のばされないまま、塊のまま。肘の上にも、ひとつ。指の付け根にも。
僕は、それを、しばらく見ていた。
腕には、自分で塗ってね。——僕は、そう言った。
この人は、塗ろうとしたのだ。雪原で、ひとりで。あの長い、硬い指で。
「……うまく、できなかった」
ロノヴァが、目をそらして言った。
「うん」
笑ってしまった。
「見れば、分かるよ」
おばあちゃんの壺から、指に取った。固まった塊を、指の腹で温めて、薄く、のばした。肘の上から、指先まで。赤い模様を、避けもせず、一つずつ。
毎晩、そうしてきたように。
「痛くならないように」
いつものように、言った。
ロノヴァの指が、ぴくりと動いた。
「……わたしも、言った」
「え?」
「雪原で。自分の腕に」
僕の手が、止まった。
誰もいない雪原で、自分の腕に、この言葉をかけている人のことを、考えた。
考えたら、目の奥が、熱くなった。
僕は、黙って、残りの模様にも、軟膏をのばした。
◇
湯が沸く前に、玉ねぎを、ひとつ出した。
皮ごと半分に切った。炉の縁の平たい石を火で焼いて、その上に、切り口を伏せた。じゅう、と音がして、甘い匂いが立った。
切り口が黒くなるまで、待った。
干した鹿の骨を、鍋に沈めた。黒くなった玉ねぎを入れた。塩を、ひとつまみ。
人参も、蕪も、芹の根もなかった。
ぐつぐつとは、煮立たせない。鍋の底から、小さな泡がぽつ、ぽつと上がってくるくらいに。
ロノヴァは、横になったまま、鍋を見ていた。
「……起きあがりのスープか」
「うん。足りないものばっかりだけど」
外で、風が、小屋を揺すっていた。屋根の落ちた半分から、ときどき、粉雪が舞いこんできた。
ロノヴァの目が、ふと、戸口のほうを向いた。
壁の向こうの、ずっと遠くを見ている目だった。
「……六つの糸が、岸のほうへ戻っていく」
ロノヴァが、言った。
「執行官の糸は、石に喰われて、細い。……だが、まだ、続いている」
「……執行官?」
「女皇の、執行官だ。第十一位と、名乗った」
僕は、しばらく、何も言えなかった。
市場の噂でしか聞いたことのない人に、僕は、止まって、と怒鳴ったのだ。
それから、息を吐いた。
自分が息を止めていたことに、そのとき、初めて気がついた。
「……でも、よかった」
ロノヴァが、僕を見た。
長いあいだ、何も言わずに。
「……吹雪が止めば、また来る」
「うん」
考えるのは、あとにした。
スープが澄んで、骨の匂いがやわらかくなったころ、器がないことに気がついた。
ロノヴァの包みを、ほどいた。
結び目は、僕が結んだ形とは違っていた。一度ほどいて、結び直してあった。固く、不器用に。あの黒い指で。
中から、小鍋を出した。黒パンが、ひとつ。干し肉の包み。軟膏の、小さな缶。
それから、底に、小さな瓶。
中の金色は、指一本ぶんのまま、減っていなかった。
小鍋に、スープを移した。
背負い袋の中身を出して、丸めて、ロノヴァの頭の下に足した。体が、少し起きた。上着の隠しから、いつも持ち歩いている木の匙を出した。すくったスープに息を吹きかけて、冷まして、唇に当てた。
最初の夜にも、こうした。
あの夜、スープは、唇の端から顎へ流れ落ちた。四度目で、やっと、喉が動いた気がした。
今度は、一度目で、動いた。
ひと匙。もうひと匙。
ロノヴァは、黙って飲んだ。
小鍋の半分が減ったところで、小さく言った。
「……覚えている」
「え? 人参も蕪も、入ってないよ」
「……それでも、覚えている味だ」
ロノヴァは、それ以上、言わなかった。
火が、ぱちりとはぜた。
「さっきの問いに」
ロノヴァが、言った。
「答えていなかった」
「さっきの?」
「ご飯は、足りていたか、と」
ああ、と僕は言った。自分で聞いたのに、忘れていた。
「包みの中身は、足りた。パンも、団子も。……団子は、ひとつだけ、最後まで残した」
「縁の開いたやつ?」
「そうだ」
「……下手だったでしょう、あれ」
「同じ味がした」
ロノヴァは、黙った。
「足りなかったのは——」
そこで、言葉が止まった。
金色の目が、火を見ていた。
前の僕なら、ここで、何も聞かなかった。
聞いたら、この人が遠くへ行ってしまう気がして。聞かないでいれば、この人を、ここに置いておけるような気がして。
でも、この人は、聞かなくても、行ってしまった。
「足りなかったのは?」
僕は、聞いた。
ロノヴァは、長いあいだ、答えなかった。
それから、言った。
「……寂しくなど、なかっただろう、と言った」
団子を包んだ夜。おばあちゃんの昔話をした夜。女神様は寂しくなかったのかねえ、っておばあちゃんが言ってたんだ、と僕が話したとき、この人は、そう答えた。
「あれは、嘘だ」
ロノヴァの声は、平らだった。帳面を読み上げるみたいに。
でも、少しだけ、震えていた。
「捧げ物の煙が昇らなくなった年、女神は、何も思わなかったと記録した。……あの記録は、誤りだ」
ロノヴァは、そこで、言葉を切った。
「……わたしは、寂しかった」
火が、揺れた。
「あの家を出てからの三晩は、とくに」
僕は、何も言えなかった。
おばあちゃんに、教えてあげたかった。女神様は、寂しかったんだって。
それを、僕の家の粥を食べた人が、自分の口で言ったんだって。
「それでも」
ロノヴァは、続けた。
「わたしは、死そのものだ。それを捨てることはできない」
静かな声だった。
「わたしのそばでは、命が細る。棚の根も、小鳥も。……お前の糸も、今、この小屋の中で、少しずつ細っている」
「どのくらい?」
ロノヴァが、瞬きをした。
「……どのくらい、とは」
「一晩で、どのくらい細るの」
ロノヴァは、僕を見た。僕の、僕には見えないところを。
「……今は、髪一本の、さらに半分ほどだ」
「そっか」
僕は、うなずいた。
「怖いよ」
言った。本当のことだった。
「怖いよ。……でも」
あの朝、言えなかった言葉の続きを、僕は、ずっと探していた。一人分の食卓で。黒い線の横を歩きながら。
答えは、たぶん、空の寝床の前に、もう落ちていた。拾えたのは、今だった。
「でも、君に、おはようって言えない朝のほうが、ずっと怖かった」
ロノヴァが、息を止めた。
毎朝、この人が息をしているか確かめてきた。その息を、この人は、ときどき止める。
「空の寝床に、おはようって言ったんだ。返事がないのは、いつものことなのに。……声が、どこにも届かなかった」
僕は、ロノヴァの右手を、もう一度取った。軟膏をのばしたばかりの、黒い手を。
「君が、死のほうなら」
ずっと前から、言うことが決まっていたみたいに、言葉が出た。
「じゃあ、生きるほうは、僕が受け持つよ」
ロノヴァは、何も言わなかった。
「髪一本の半分、細るんでしょう。じゃあ、そのぶん、たくさん食べる。薪を割って、罠をかけて、スープを煮て。細ったぶん、食べて、寝て、また起きる。……僕、そういうのは、得意なんだ」
言ってから、少し恥ずかしくなった。死の執政に向かって、ご飯をたくさん食べるから大丈夫、なんて。
でも、僕にできることは、最初から、それだけだった。
ロノヴァは、長いあいだ、僕の手を見ていた。
握り返しは、しなかった。
ほどきも、しなかった。
「……死の執政の帳面には」
ようやく、ロノヴァが言った。
「お前のような者の欄が、ない」
「欄?」
「分類できない。どこにも、書けない」
金色の目が、僕を見た。
「だから、作る」
「なんて、書くの」
ロノヴァは、目を伏せた。
「——生かす者、と」
火が、ぱちりとはぜた。
僕は、何と答えればいいのか分からなくて、ただ、うん、と言った。
うん、と言ったら、なぜか、泣きそうになった。
ロノヴァが、目で、包みのほうを示した。
「瓶を」
僕は、蜂蜜の小瓶を取って、黒い手のひらに載せた。
「開けなかった」
ロノヴァが言った。
「開ければ、なくなる。……いちばん最後に、と決めていた」
「最後って、いつ?」
「決めていなかった」
僕が、町の乾物屋で、なんとなく買ったもの。この人が目を覚ました朝、粥にひと匙、落としたもの。
「じゃあ、今、開けようよ」
僕は言った。
「なくなったら、また買えばいいよ。春になったら、町で。……どこの店のがおいしいか、チモフェイに聞いてみる」
ロノヴァが、僕を見た。
「……また」
「うん。また」
黒い指が、瓶の蓋にかかった。
ゆっくりと、回した。
僕は、黒パンをちぎって、残りのスープにひたした。その上に、匙で、蜂蜜をひとすじ垂らした。
ロノヴァは、それを、ゆっくりと噛んだ。
「……甘い」
最初の朝にも、この人は、そう言った。
ロノヴァは、残りの半分を、僕に差し出した。
僕は、それを食べた。甘かった。塩と、骨と、焦げた玉ねぎと、蜂蜜の味がした。
◇
夜が、更けた。
風は、まだ、小屋を揺すっていた。朝まで、やまない。風の匂いで、分かった。
一度だけ、遠くで、氷の割れる低い音がした。
火に薪を足して、ロノヴァの毛皮を、肩まで引き上げた。
それから、炉のこちら側に、横になった。
「おやすみ、ロノヴァ」
いつものように、言った。
返事は、ないと思っていた。
「……朝に」
暗がりから、声がした。
「もう一度、言え」
「え?」
「おやすみ、ではないほうを」
僕は、しばらく、動けなかった。
おやすみ、ではないほう。
この人が、朝も、ここにいると言っている。
「……うん」
声が、少しだけ、震えた。
「言うよ。何回でも」
返事は、なかった。
でも、今夜の返事がないのは、いつもとは違った。
吹雪の音を聞きながら、僕は、朝を待った。
朝が来るのを、こんなふうに待つのは、生まれて初めてだった。
お読みいただきありがとうございました。
次回、第12話「死んだことにして、生きる」で本編は完結です。トイヴォとロノヴァ、二人の視点でお送りします。