※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※今回はトイヴォ視点です。
目を覚まして、暖炉の向こうをのぞいた。
寝床は、空だった。
心臓がひとつ跳ねて、それから、窓辺に白い髪が見えた。
ロノヴァは、窓の霜の花を指一本ぶんだけ拭って、北を見ていた。
北に何があるのかを、今朝の僕は知っていた。
「おはよう、ロノヴァ」
いつものように、言った。
返事がないのも、いつものことだった。最初の朝から、ずっとそうだった。僕は毛皮から抜け出して、暖炉の灰をかき起こしにかかった。
「……おはよう」
火かき棒が、灰の中で止まった。
振り向くと、ロノヴァは、まだ窓のほうを向いていた。
聞き間違いかと思った。聞き間違いではなかった、と思った。どちらなのかを確かめる勇気が、なかった。
僕は、灰の中の熾火を、ずいぶん長いあいだ見ていた。
それから、薪を一本くべた。いつもより、そっと。
朝ご飯は、燕麦の粥にした。塩は、ひとつまみと、半分。
ロノヴァは窓のそばの椅子で、器を膝に載せた。数口で、匙を置いた。
「でも」は、言わなかった。北から十二人が来る朝に、もう一口、と言うのは、違う気がした。
ゆうべ、暗がりの中で聞いた声を、思い出していた。女皇の兵が来る。北から、十二人。わたしを、探している。
それから、僕が言ったことも。床下を、片づけておかなきゃ。
寝る前に思いついたことではなかった。口から出てから、自分がそう決めていたのだと知った。
◇
敷物をめくって、鉄の輪を引いた。冷たい空気と、土と玉ねぎの匂いが上がってきた。
ランプを提げて、六段の梯子を下りた。
芋の麻袋を、奥から手前へ動かした。梯子の裏に、人がひとり背を丸めて立てるくらいの隙間ができた。子どものころ、かくれんぼで、いつも僕が隠れた場所だった。おばあちゃんは最後まで、見つけられないふりをしてくれた。
今日は、僕が、知らないふりをする番だった。
奥の棚に、おばあちゃんのやり方で漬けた甕が並んでいた。
この大地で終わる命は、すべて、わたしのもとを通る。
昨日のあの人の声を、甕の口を見ながら思い出した。四年前の冬、眠るように息を引き取ったおばあちゃんも、あの人のもとを通ったのだろうか。
聞けば、今のあの人は、答えるだろう。
僕は、甕の蓋を一度なでただけで、梯子の裏に毛皮を敷きにかかった。
上がってくると、ロノヴァが揚げ板のそばに立って、穴の中を見下ろしていた。
「わたしが出れば、済む」
ロノヴァは、揚げ板の縁を見たまま言った。
「あの者たちは、わたしを連れていこうとする。わたしは、それを許さない。——十二の糸が、ここで終わる。それで、済む」
昨日、団子を包みながら聞いた話を、思い出した。定めから外れたものは、わたしが終わらせる。
あのときは、偉い人なんだね、と思った。
今は、その偉い人が、十二人を終わらせると言っていた。
南門の、あの兵士も、その中にいるのかもしれなかった。
「……だめだよ」
僕は言った。
この人の言うことを、はっきり拒んだのは、初めてだった。
「なおさら、だめだよ。君が出たら、誰かが死ぬんでしょう。あの人たちでも、君でも。……どっちも、嫌だ」
「……なぜ、隠す」
最初の夜に聞いた「なぜ、まだ」と、同じ声だった。
「昨日、君が何なのか、聞いたよ」
僕は、揚げ板の縁にしゃがんだまま言った。
「聞いたあとで、明日の朝ご飯、何にしようかなって考えてた。……だから、隠す」
ロノヴァは、長いあいだ、僕を見ていた。
それから、何も言わずに目をそらした。
◇
昼までに、家の中を片づけた。
ロノヴァの器を、棚の奥に戻した。匙も。
「……いなかったことに、するのか」
窓辺から、ロノヴァが言った。責める声ではなかった。確かめる声だった。
「今日だけだよ」
棚に手をかけたまま、僕は言った。
「夜になったら、また出す。器も、椅子も」
ロノヴァは、答えなかった。窓のほうへ、顔を戻した。
窓のそばの椅子を、壁ぎわに戻した。背もたれに手をかけると、そこだけ、木が少し冷たかった。気づいていたのに、寒さのせいにしてきた冷たさだった。
奥の寝床の藁布団に、僕の毛皮を重ねた。冬は、こっちで寝ていることにする。
昼の汁を、火にかけた。昨日ロノヴァが剥きすぎた、分厚い芋の皮を刻んで入れた。卓には、僕の器だけを出した。一人で食べる昼ご飯の、ふりをするために。
ひとつ片づけるたびに、この家から、あの人のいた形が消えていった。
棚の上の、黒く縮れたタイムの鉢だけは、動かせなかった。動かしたら、根まで死んでしまいそうな気がした。
昼すぎに、ロノヴァが窓から離れた。
「来た」
少し遅れて、僕にも聞こえた。雪を踏む音が、揃っていた。その合間に、金具の触れ合う硬い音。
ロノヴァは、自分の衣を胸に抱えて、梯子を下りた。背の高い体を折って。白い髪が段を流れて、闇に吸い込まれた。
最後に、金色の目が、揚げ板の縁から僕を見上げた。
「嘘は、僕がつく。だから、君は、下で待ってて」
ロノヴァは、すぐには答えなかった。
「……約束は、できない」
嘘のない声だった。
「うん。それでいい」
僕は、揚げ板を閉めた。敷物を戻して、手のひらで皺を伸ばした。何度も、伸ばした。
◇
戸が、叩かれた。三度、間を置かずに。
開けると、冷気と一緒に、濡れた毛織りと、凍てついた鉄の匂いが入ってきた。
先頭にいたのは、四十がらみの男だった。灰色の口ひげに霜がつき、腰に剣を下げている。瞬きが、少なかった。
「上の命により、この一帯を改めている」
男の後ろに、南門の、あの兵士がいた。目が合うと、兵士はわずかに目を見開いた。
「……あんたの家だったのか」
「知り合いか」
「トイヴォという猟師です。毛皮を売りに、年に四度、南門を通ります」
兵士は、僕の名前を知っていた。僕は、兵士の名前を知らなかった。
「住人は、貴様ひとりか」
「……はい。祖母が亡くなってからは」
四年のあいだ本当だった言葉が、僕の口の中で、初めて嘘になった。ゆうべから用意していた嘘だった。
「窪地で、灌木が輪になって枯れていた。手がかりは、そこで切れている。——あの窪地からいちばん近い家が、ここだ」
あの人を見つけた窪地だった。
「黒い羽根をまとった女を、見なかったか。背の高い女だ。髪は白い」
僕の返事が、一拍、遅れた。
男の目が、僕の顔の上で止まった。瞬きをしなかった。
「市場で、皇都の劇場の話を聞いたか」
「……はい。大勢、倒れたって」
「倒れたのではない」
男は言った。
「その女が、大勢を死なせた」
男の後ろで、南門の兵士が、男の横顔を見た。初めて聞いた、という顔だった。
「庇えば、貴様も同じ扱いになる。見つけても、近づくな。触れるな。生きていても、死んでいても、我々に知らせろ」
男の声は、平らなままだった。
倒れたんじゃない、死んだんだよ。いっぺんに。
市場の声が、耳の奥で鳴った。僕には関係ない、と思いながら、聞いていた声だった。
死の執政。
昨日、団子の台の上で、それって役人さんみたいなもの、と僕は聞いた。
今朝、あの人は、十二の糸が終わる、と言った。できる、という話だと思っていた。
もう、したことのある話だったのだ。
流しのそばの床板の下に、あの人がいる。背を丸めて、光の届かないところに。
男は、まだ、僕の返事を待っていた。
——雪原で見つけたものは、見なかったことにしちゃいけないよ。
おばあちゃんの声が、した気がした。
見なかったことには、しない。
見た。聞いた。知っている。
「見ていません」
声は、震えなかった。
さっきの「はい」は、劇場のことを知る前に決めた嘘だった。
今のは、知ったあとで、もう一度選んだ嘘だった。
選んだのだ、と思った。僕が。
◇
入ってきたのは、三人。口ひげの男と、南門の兵士と、頬に古い傷のある兵士。
頬に傷のある兵士が奥の寝床の前で足を止めて、毛皮をめくった。今朝、僕が重ねておいた毛皮だった。藁布団に、手のひらを当てた。
「……冷てえ。朝から誰も寝てねえな」
「朝が、早いので」
それは、本当だった。
兵士は、めくった毛皮を戻さなかった。
南門の兵士は、棚の前で止まっていた。
黒く縮れたタイムに、指先で触れた。葉は、粉になってこぼれた。窪地の輪と、同じ枯れ方だった。兵士は、長いあいだ、それを見ていた。
「……霜か」
「はい」
三日前、自分にそう言い聞かせた言葉だった。今は、もう言い聞かせられなかった。あの人のそばでは、小さな命が細る。昨日、あの人はそうは言わなかった。言わなかったのに、僕はもう、うっすら分かってしまっていた。
分かっていて、霜だと言った。
「……根は、生きてます」
言わなくていい本当のことを、足した。本当のことを、ひとつくらい、置いておきたかった。
口ひげの男の長靴が、流しのそばで止まった。敷物の上で、板の音がうつろに変わった。
「下は何だ」
「貯蔵庫です。芋と、玉ねぎと」
それ以上は、言わなかった。
「開けろ」
鉄の輪に指をかけた。手は、震えなかった。
上がってきたのは、貯蔵庫の冷たさではなかった。昨日から、名前を知っている冷たさだった。
男がランプを掲げた。光は、梯子の下の半分までしか届かなかった。梯子の裏は、黒かった。
男が、梯子に片足をかけた。
ランプの炎が、揺れた。風はない。男の手が、震えたのだ。
寒さのせいだ、とは、もう思えなかった。十二の糸が、ここで終わる。今朝の声が、耳の中でした。この男が、あと三段下りたら。
床板の上で、僕は、息をするのを忘れていた。
「……指揮官」
南門の兵士が、ぽつりと言った。
「こいつは、嘘のつけるやつじゃありません」
男は、答えなかった。しばらく、梯子の下の闇を見ていた。
それから、足を引いた。
「次へ行く」
揚げ板を閉めたのは、僕だった。
嘘のつけるやつじゃない。
僕は今、嘘をついている。自分で選んで。あの兵士の信用を、踏み台にして。
劇場の話は、怖かった。この言葉は、痛かった。
最後まで家の中に残っていたのは、南門の兵士だった。
めくられたままの藁布団から、何かをつまみ上げて、窓の光にかざす。
白くて、長いものだった。
片づけたつもりだった。器も、椅子も、寝床も。髪の毛一本までは、僕の手は届いていなかった。
兵士はそれを、手袋の中に握り込んだ。
戸口で、振り返った。
「兵隊に『お気をつけて』って言うやつは、あんたくらいだって、前に言ったよな。……今日は、言わないんだな」
言っていなかった。早く、帰ってほしかったから。
「……お気をつけて」
兵士は、僕の顔を長いあいだ見ていた。
「ああ。……あんたもな」
それから、列に戻っていった。
◇
窓から、去っていく列を数えた。十二。一人も欠けていない。
百数えてから動け、とおじいちゃんは言った。百、数えた。もう百、数えた。
手が震えだしたのは、そのときだった。
揚げ板を上げた。
「ロノヴァ」
暗がりに、金色の光が二つ、浮かんでいた。
ランプを提げて下りた。
ロノヴァは梯子の裏で、低い根太の下に背を丸めて立っていた。左腕に、衣を抱えて。
黒い右手が、胸の高さまで上がっていた。
見ているうちに、その手は、ゆっくりと下りていった。
梯子をつかもうとしていたのかもしれない、と思うことは、もうできなかった。
約束は、できない。この人は、そう言ったのだ。
足もとの毛皮は、使われないまま、敷いたときの形で残っていた。
手を差し出すと、冷たい手が握り返してきた。
「……もう、行ったよ」
「……ああ」
「十二人、全部」
「知っている」
ロノヴァは、僕の手を見ていた。震えている手を。
「……お前の嘘は、下手だ」
「うん。知ってる」
「下手な嘘で、十二の糸が、続いた」
ロノヴァは、それだけ言って、梯子に足をかけた。
「南門の人が、君の髪を持っていった」
背中に、言った。
「……あの糸は、ためらっていた」
何をためらっていたのかは、ロノヴァは言わなかった。
鍋の底は、焦げついていた。火から下ろすのを、忘れていたのだ。
棚の奥から、ロノヴァの器を出した。焦げの匂いの移った汁を、よそった。
「焦げてるけど」
ロノヴァは、黙って匙を取った。全部、食べた。朝は数口で匙を置いた人が、器の底が見えるまで。
「……悪くは、ない」
「焦げてるよ」
「焦げていても、だ」
◇
日が暮れるまでに、崩された薪を積み直し、床の泥を拭いて、窓のそばの椅子を元の場所に戻した。
夕ご飯の器を、二つ、卓に並べた。夜になったら、また出す。昼に、そう言ったとおりに。
夜、いつものように軟膏の壺を出した。
ロノヴァの腕を取った。肘の上から、指先へ。黒い肌に、赤い模様。
触れるな、という平らな声が、耳に残っていた。
その女が、大勢を死なせた。——それも、耳に残っていた。
手首のところで、指が止まった。
僕は、ずっと、痛いところを聞かない人間だった。
聞いたら、この人が、どこかへ帰る人になってしまう気がして。聞かなければ、この人を、ここに置いておける気がして。
でも、昨日、この人は、隠していたことを自分から話してくれた。団子の縁をつまみながら。暖炉の火を見ながら。
今朝、この人は、おはよう、と言った。
聞き間違いではなかったのだと、今なら思えた。
今度は、僕の番なのだと思った。
「ロノヴァ」
ロノヴァが、こちらを見た。
「劇場で、何をしたの」
暖炉の火が、一度、はぜた。
二度目は、なかなか来なかった。
ロノヴァは、目をそらさなかった。腕も、引かなかった。冷たい腕は、僕の手の中に置かれたままだった。
「……話す」
ロノヴァは、言った。
「お前が、聞くのなら」
僕は、うなずいた。
止まっていた指を、また動かした。小指の先まで。
痛くならないように。
昼、揚げ板を閉めたのは、僕だった。
今夜、聞いたのも、僕だった。
お読みいただきありがとうございました。
次回、IF1-3「言葉で選ぶ」でIF-1「うっかりルート」は完結です。ロノヴァとトイヴォ、二人の視点でお送りします。
本編はここで完結です。このあと、トイヴォとロノヴァが鍋を持って旅に出る続編「旅路編」を書こうか考えています。読んでみたいと思いますか?
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