※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※今回はロノヴァ視点とトイヴォ視点でお送りします。
話す、と言ったのは、わたしだった。
言ってから、どこから話せばいいのか分からないことに気づいた。
わたしの話は、帳面の形をしている。何年に、どこで、何が終わったか。それを読み上げることなら、いくらでもできた。けれど、この人間が聞いているのは、帳面の中身ではなかった。
トイヴォは、軟膏をのばし終えた手を膝に置いて、待っていた。
急かさなかった。いつものように。
ただ、今夜は、目をそらさなかった。
暖炉の火が、ようやく二度目に、はぜた。
「女皇の国の都に、劇場がある」
わたしは、そこから始めた。
「人が集まって、作りものの生と死を眺める場所だ。……わたしは、そこで、本物の死を執り行った」
トイヴォの肩が、わずかに強張った。
「いくつもの命を、終わらせた。わたしの帳面に、そうすべきだと書いてあった。わたしは、書いてあることを執り行った。職務として」
言いながら、自分の声が平らなことに気づいた。
それでいい、と思おうとした。
思えなかった。
「あのとき、わたしは、何も感じていなかった」
そこで、言葉が途切れた。
途切れた理由を、わたしは、探した。探して、見つけてしまった。
「……今は、分からない」
それから、残りを話した。
女皇の国の者たちと戦ったこと。最後に、道化の男の目に貫かれたこと。体がほどけて、羽根になって、落ちたこと。落ちた先が、この人間の雪原だったこと。
トイヴォは、一度も口を挟まなかった。
話し終えても、しばらく、黙っていた。
それから、言った。
「ありがとう」
わたしは、トイヴォを見た。
「……なぜ、礼を言う」
「話してくれたから」
トイヴォは、自分の手を見下ろしていた。
「聞くの、怖かったんだ。聞いたら、君がどこかへ行っちゃう気がして。……でも、君は、ここで話してくれた。ここにいるまま」
なぜ、礼を言う。——わたしは、この問いを、何度この人間に向けてきたのだろう。
答えは、毎回、違う形をしていた。
毎回、わたしの帳面には、書く欄がなかった。
「……おばあちゃんも」
しばらくして、トイヴォが言った。
夕食の席でも、暖炉の前でも、聞かなかったことだった。今は、膝の上で、手が握られていた。
「迷わずに、行けた?」
兎のときと、同じ問いの形だった。
四年前の冬。この森で、ひとつの糸が終わった。わたしのもとを通ったはずの糸だ。この人間が、四年前の冬のことを聞かなかった夜から、覚えていないということが、喉の奥に刺さったままだった。
「迷ったという記録は、ない」
記録の言葉しか、わたしは持っていなかった。
「……覚えては、いない」
トイヴォは、長いあいだ黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「じゃあ、よかった」
昨日の夕方、団子の台の前で聞いたのと、同じ言葉だった。兎は、迷わずに行けたんだよね。じゃあ、よかった。
この人間は、兎にも、祖母にも、同じ言葉を置く。
目の奥が、熱くなった。兎の糸を記録した朝には、なかった熱だった。
◇
それからの二日で、家を囲む輪は、はっきりと目に見えるようになった。
薪の山の裏の灌木が、黒く縮れた。貯蔵庫の玉ねぎが、芯まで黒くなった。胸の黄色い小鳥が二羽、薪の山のてっぺんで、動かなくなった。
わたしの力が、戻ってきている。戻った分だけ、この家の小さな糸が細っていく。
トイヴォは、小鳥を雪の下に埋めた。
霜のせいだとは、もう言わなかった。
「……君のせい、なんだよね」
埋め終えて、戸口に戻ってきたトイヴォが言った。
責める声ではなかった。確かめる声だった。
「そうだ」
「そっか」
トイヴォは、手袋についた雪を払った。
「じゃあ、今度から、小鳥の餌台は輪の外に作ろう」
わたしは、答えられなかった。
この人間は、わたしのせいだと聞いて、小鳥の餌台の場所を考える。
二日目の夜、わたしは、決めたことを話した。
「南門の兵は、お前の見た白い髪を、いずれ上に渡す。……次に兵が来たら、わたしは、死の執政を終わらせる」
トイヴォが、匙を止めた。
「……終わらせるって」
「わたしの中で、力が戻ってきている。戻った力が、この輪を広げている。わたしを死の執政にしているものだ。——それを、手放す」
「手放したら、君は?」
「分からない」
正直に、言った。
「何が残るのかは、分からない。何も残らないかもしれない。……だが、死の執政が終わるところを、兵たちが見届ければ、この家に次の兵は来ない。見届けられた死は、記録の上で、終わる」
トイヴォは、長いあいだ、器の中を見ていた。
去る、とは、わたしは言わなかった。
去っても、輪は残る。白い髪は、もう兵の手にある。見届けられないまま消えた死は、この家の戸を、何度でも叩かせる。
それに、去るのは、この人間に黙って戸を閉めることだった。暗がりの中で、閉まる音だけを聞かせることだった。
それは、もう、できなかった。
「……ただ」
わたしは、自分の右手を見た。
「梯子の裏で、この手は、決める前に上がった。兵の前に立ったとき、この手が何をするのか。わたしは、まだ知らない」
トイヴォは、わたしの右手を見た。
それから、顔を上げた。
「じゃあ、そのとき、隣にいる」
止めるのでも、引き止めるのでもなかった。
隣にいる、とこの人間は言った。
その夜、トイヴォは、わたしの衣を膝に広げた。左の脇の、いちばん大きな裂け目に、針を入れた。
針を引く音が、遅くまで続いた。
旅に出る者のための繕いではなかった。
◇
夜明け前、戸の外で雪を踏む音がして、僕は目を開けた。
ひとりぶんの、急いだ足音だった。
戸を開けると、南門の兵士が、肩で息をしながら立っていた。外套の肩にも帽子にも、雪が積もっていた。僕は外へ出て、後ろ手に戸を閉めた。
「トイヴォ」
兵士が、僕の名前を呼んだ。あんた、ではなく。
「報告した。ゆうべ、白い髪を、指揮官に渡した。……黙ってられなかった。俺は、兵隊だから」
兵士は、息を整えて続けた。
「指揮官は、夜明け前にここを囲む。俺は、その前に抜けてきた。……来い、トイヴォ。あの女から離れろ。指揮官が言ってただろう、劇場で大勢を死なせた女だって。——あれが、そいつだ」
「知ってる」
僕は、言った。
兵士の口が、半分開いたまま止まった。
「本人から、聞いた」
後ろで、戸が開いた。
ロノヴァが、自分の衣を着て、出てきた。黒と白の入り組んだ、あの衣。袖が、ちゃんと手首まで届いている。左の脇腹には、ゆうべ僕が縫い終えた当て布がある。
ロノヴァは、僕の隣に立った。
後ろでも、前でもなく。
木立の向こうで、雪を踏む音が揃った。暗い色の外套が、十一。先頭に、あの口ひげの男がいた。
兵隊たちは、家を囲む黒い輪の外側で、足を止めた。
「持ち場を離れたな」
口ひげの男が、輪の内側の南門の兵士に言った。
それから、僕を見た。
「見ていません、と言ったな。猟師」
「はい」
僕は、答えた。
「嘘でした」
男の目が、わずかに動いた。
「猟師。女から離れろ」
「離れません」
声は、震えていた。それでも、出た。
男が、片手を上げた。兵隊たちの手の中で、青白い光が凍りついて、細い刃の形になった。
「放て」
ロノヴァが、僕の前に半歩出た。黒い腕が、飛んできた刃を払った。
ひとつが、払われた先で弾けて、僕の頬をかすめた。
指で触れると、赤かった。
ロノヴァが、それを見た。
音が、消えた。降っていた雪が、空中で止まった。
ロノヴァの背中から、黒い羽根が広がった。黒い腕の赤い模様が、ひとつ残らず、目を開けた。空の色が、古い血の色に染まっていく。
兵隊たちが、膝をついた。胸を押さえて。唇に白い霜が降りて、息が細っていく。輪の内側で、南門の兵士も雪に片手をついた。
僕の息だけが、白いまま、ちゃんと出入りしていた。
ロノヴァは、口ひげの男の前まで歩いた。
右手が、上がった。
黒い指が、男の胸の上に差し伸べられる。腕じゅうの赤い目が、いっせいに、男の胸を見た。
この人が、ゆうべ言ったことを、思い出した。決める前に上がる手だ、と。
今、上がっているのは、死の執政の手だった。
僕は、雪を蹴った。
ロノヴァの隣に並んだ。
上がった右手を、僕の手で、取った。
冷たかった。最初の夜の、雪より冷たい、あの手だった。
触れるな、とあの男は言った。その男の目の前で、僕は触れた。
「ロノヴァ」
名前を、呼んだ。
「隣に、いるよ」
ロノヴァの手が、止まった。
男の胸から、指一本ぶんのところで。
長い間があった。空中で止まって見えていた雪が、ひとひら、重なった手の上に落ちた。
ロノヴァは、重なった手を見ていた。
それから、その手を、ゆっくりと下ろした。僕の手を、握ったまま。
握り返された、と思った。
黒い指が、僕の指のあいだに、ぎこちなく入ってきた。団子の縁をつまむときの、あの不器用な力で。
「女皇の兵」
ロノヴァが言った。空の高いところから降ってくるような声だった。僕の知らない声だった。
「わたしの死を、確かめに来たのだろう」
ロノヴァは、口ひげの男を見下ろした。
「——見届けるがいい」
羽根が、ほどけた。
空を覆っていた黒い羽根が、一枚ずつ、ほどけて、落ちてきた。雪と一緒に。煤のように、灰のように。
ロノヴァの背中から、それは、止まらずに流れ出していった。翼の形が崩れて、ただの黒い雪になって、輪の上に、兵隊たちの上に、降りつもっていった。
黒い腕の赤い目が、ひとつ、またひとつ、閉じていった。
今度は、閉じたまま、開かなかった。
空の色が、夜明け前の青に戻っていく。
僕の手の中で、ロノヴァの手が、少しずつ、軽くなっていった。
怖くなった。このまま、全部ほどけてしまうのではないかと。
僕は、手に力をこめた。
ロノヴァの指が、それに応えるように、握り返してきた。
そこで、羽根が、止まった。
兵隊たちの、喘ぐ息の音が戻ってきた。咳きこむ音。雪を掻く音。
家を囲む黒い輪は、兵隊たちの足もとで、広がるのをやめていた。
誰も、死んでいなかった。
ロノヴァは、口ひげの男の前に立っていた。黒い翼は、もうなかった。腕の赤い模様は、ただの模様になっていた。背の高い、白い髪の、黒い腕の女が、ひとり。僕と手をつないで。
「死の執政は、今、終わった」
ロノヴァが言った。
知っている声だった。団子の形を気にして、塩が多いと言った、あの声だった。
「見届けたな」
口ひげの男は、雪に片手をついたまま、長いあいだ、ロノヴァを見上げていた。
灰色の口ひげに、黒い羽根が一枚、載っていた。男がそれを払おうとして指で触れると、羽根は、崩れて消えた。
男は、自分の指先を見た。
それから、膝をついた部下たちを見た。雪に降りつもった黒いもの。広がるのをやめた、黒い輪。
最後に、男の目は、僕の手に下りた。
自分の胸の、指一本ぶん手前で止まった黒い手。それを握っている、猟師の手に。
梯子の下の暗がりで、自分の手を震わせたものが何だったのか。この男は、今、知ったのだと思った。
男は、長い息を吐いた。
「……見届けた」
平らな声だった。
平らなまま、少しだけ、かすれていた。
兵隊たちは、互いに肩を貸し合って立ち上がった。誰も、ロノヴァを見なかった。つないだ手のほうを、ちらりと見る者はいた。
口ひげの男は、立ち上がって背を向けた。
「報告には、見たことを書く」
背を向けたまま、男は言った。
「我々が探していたのは、黒い羽根をまとった女だ」
長靴の先が、雪の上の黒いものを散らした。触れれば崩れる、あの羽根を。
「……羽根は、ここに落ちた。死の執政は、黒い羽根となって、消えた」
それから、少しだけ、間があった。
「猟師の家には、猟師と、その連れがいた。それだけだ」
列は、崩れたまま、木立の向こうへ引いていった。
最後に残ったのは、南門の兵士だった。
兵士は、僕の頬を見て、僕とロノヴァのつないだ手を見て、それから、息を吐いた。
「……生きてる。全員」
「はい」
「あんた、本当に——そこに、いるんだな」
「はい」
兵士は、少しだけ笑った。泣きそうな顔で。
背を向けかけた兵士に、僕は声をかけた。
「あの。……名前を、教えてください」
兵士は振り返って、少し意外そうな顔をした。
「チモフェイだ」
「チモフェイさん」
「さん、はいらない」
「……お気をつけて、チモフェイ」
チモフェイは、今度ははっきりと笑った。
「名前つきで言われたのは、初めてだ。……あんたもな、トイヴォ」
雪の上に、僕とロノヴァが残った。手は、つないだままだった。
膝から、力が抜けた。僕が座りこむと、つないだ手に引かれて、ロノヴァも隣に膝をついた。
「……君は?」
ゆうべと、同じことを聞いた。手放したら、君は。
ロノヴァは、つないだ手を見ていた。それから、僕を見た。
「ロノヴァだ」
分からない、とは言わなかった。
「……お前が、そう呼ぶ」
僕は、うまく笑えなくて、つないだ手に額を押しつけた。
額の下で、黒い指が一本、ぎこちなく動いた。
◇
あの朝のあと、兵は一度も来なかった。北の尾根に、糸の束が並ぶこともなかった。
トイヴォの頬の傷は、白い線になって残った。冬のあいだ、そこに軟膏を塗るのは、わたしの役目になった。痛く、ならないように。
わたしがそばにいると、命は、少しだけ細る。死の執政が終わっても、それは残った。わたしが、死そのものであることは。
けれど、その少しを、この家は毎日、取り返していた。夜のあいだにわたしが細らせたトイヴォの糸を、朝の粥が取り返す。トイヴォが毎朝、鉢に水をやる。輪の外の餌台には、胸の黄色い小鳥が三羽、今日も来ている。
春が来た。
その朝、わたしは、トイヴォより先に目を覚ました。
棚の上の鉢に、意識を向けた。触れないように、ではなく。まっすぐに。
根の糸が、太っていた。
黒い茎の根もとの、湿った土の割れ目から、爪の先ほどの緑色が、のぞいていた。
暖炉の向こうで、トイヴォが寝返りを打った。目は、まだ閉じていた。
「……おはよう」
先に言ったのは、わたしだった。
トイヴォの目が、ひらいた。しばらく、わたしを見ていた。
「……おはよう、ロノヴァ」
兵の来た日の朝から、わたしは毎朝、この言葉に答えてきた。最初の一度は、窓を向いたまま。顔を見て答えられるようになったのは、ずいぶんあとだった。
先に言ったのは、今朝が初めてだった。
「トイヴォ」
わたしは、棚を指さした。
「春だ」
トイヴォは、寝ぼけた顔のまま棚の前まで来て、鉢をのぞきこんだ。
それから、動かなくなった。
「……おばあちゃんの、タイムだ」
トイヴォの声が、震えていた。
根は、生きてます。——あの日、床板の上で、この人間が兵に言った言葉を、わたしは覚えている。嘘ばかりの中に、ひとつだけ置かれた本当だった。
その本当が、芽を出していた。
わたしは、トイヴォの隣に立った。
後ろでも、前でもなく。
「今日の朝ご飯、何にしようか」
しばらくして、トイヴォが、袖で目をこすりながら言った。
「……団子」
「え?」
「団子がいい。……わたしが、包む」
トイヴォは、目を丸くして、それから、笑った。
「三角の?」
「三角のは、わたしが食べる」
「うん。知ってる」
粉の袋を、棚から下ろした。
ふたり並んで、皮を延ばした。わたしの包んだ団子は、相変わらず、十個とも形が違った。
形はどうでもいい、とトイヴォは言う。中身は一緒だから、と。
わたしは、ひとつだけ、きれいに閉じた団子を、トイヴォの前の板に置いた。
あの日、兎の話を聞きながら、初めてきれいに閉じたのと、同じ形だった。
「……ここに、いたい」
言うつもりのなかった言葉が、口から出た。
言い直さなかった。先を歩いた言葉に、わたしが追いつけばいいだけだった。
トイヴォは、団子の皮をつまんだまま、わたしを見た。
「うん」
それから、少しだけ照れたように笑った。
「いて」
お読みいただきありがとうございました。
これで、IF-1「うっかりルート」は完結です。次回からは、IF-2「殺すルート」(本編第7話から分岐)をお送りします。こちらは本編より重い展開になりますので、ご注意ください。
本編はここで完結です。このあと、トイヴォとロノヴァが鍋を持って旅に出る続編「旅路編」を書こうか考えています。読んでみたいと思いますか?
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