死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本編第4話「誰かのための献立」の途中から分岐するIFルートの3話目(IF-1の最終話)です。
※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※今回はロノヴァ視点とトイヴォ視点でお送りします。


IF1-3 言葉で選ぶ

 話す、と言ったのは、わたしだった。

 言ってから、どこから話せばいいのか分からないことに気づいた。

 わたしの話は、帳面の形をしている。何年に、どこで、何が終わったか。それを読み上げることなら、いくらでもできた。けれど、この人間が聞いているのは、帳面の中身ではなかった。

 トイヴォは、軟膏をのばし終えた手を膝に置いて、待っていた。

 急かさなかった。いつものように。

 ただ、今夜は、目をそらさなかった。

 暖炉の火が、ようやく二度目に、はぜた。

 

「女皇の国の都に、劇場がある」

 わたしは、そこから始めた。

「人が集まって、作りものの生と死を眺める場所だ。……わたしは、そこで、本物の死を執り行った」

 トイヴォの肩が、わずかに強張った。

「いくつもの命を、終わらせた。わたしの帳面に、そうすべきだと書いてあった。わたしは、書いてあることを執り行った。職務として」

 言いながら、自分の声が平らなことに気づいた。

 それでいい、と思おうとした。

 思えなかった。

「あのとき、わたしは、何も感じていなかった」

 そこで、言葉が途切れた。

 途切れた理由を、わたしは、探した。探して、見つけてしまった。

「……今は、分からない」

 

 それから、残りを話した。

 女皇の国の者たちと戦ったこと。最後に、道化の男の目に貫かれたこと。体がほどけて、羽根になって、落ちたこと。落ちた先が、この人間の雪原だったこと。

 トイヴォは、一度も口を挟まなかった。

 話し終えても、しばらく、黙っていた。

 それから、言った。

「ありがとう」

 わたしは、トイヴォを見た。

「……なぜ、礼を言う」

「話してくれたから」

 トイヴォは、自分の手を見下ろしていた。

「聞くの、怖かったんだ。聞いたら、君がどこかへ行っちゃう気がして。……でも、君は、ここで話してくれた。ここにいるまま」

 なぜ、礼を言う。——わたしは、この問いを、何度この人間に向けてきたのだろう。

 答えは、毎回、違う形をしていた。

 毎回、わたしの帳面には、書く欄がなかった。

 

「……おばあちゃんも」

 しばらくして、トイヴォが言った。

 夕食の席でも、暖炉の前でも、聞かなかったことだった。今は、膝の上で、手が握られていた。

「迷わずに、行けた?」

 兎のときと、同じ問いの形だった。

 四年前の冬。この森で、ひとつの糸が終わった。わたしのもとを通ったはずの糸だ。この人間が、四年前の冬のことを聞かなかった夜から、覚えていないということが、喉の奥に刺さったままだった。

「迷ったという記録は、ない」

 記録の言葉しか、わたしは持っていなかった。

「……覚えては、いない」

 トイヴォは、長いあいだ黙っていた。

 それから、小さく息を吐いた。

「じゃあ、よかった」

 昨日の夕方、団子の台の前で聞いたのと、同じ言葉だった。兎は、迷わずに行けたんだよね。じゃあ、よかった。

 この人間は、兎にも、祖母にも、同じ言葉を置く。

 目の奥が、熱くなった。兎の糸を記録した朝には、なかった熱だった。

 

   ◇

 

 それからの二日で、家を囲む輪は、はっきりと目に見えるようになった。

 薪の山の裏の灌木が、黒く縮れた。貯蔵庫の玉ねぎが、芯まで黒くなった。胸の黄色い小鳥が二羽、薪の山のてっぺんで、動かなくなった。

 わたしの力が、戻ってきている。戻った分だけ、この家の小さな糸が細っていく。

 トイヴォは、小鳥を雪の下に埋めた。

 霜のせいだとは、もう言わなかった。

「……君のせい、なんだよね」

 埋め終えて、戸口に戻ってきたトイヴォが言った。

 責める声ではなかった。確かめる声だった。

「そうだ」

「そっか」

 トイヴォは、手袋についた雪を払った。

「じゃあ、今度から、小鳥の餌台は輪の外に作ろう」

 わたしは、答えられなかった。

 この人間は、わたしのせいだと聞いて、小鳥の餌台の場所を考える。

 

 二日目の夜、わたしは、決めたことを話した。

「南門の兵は、お前の見た白い髪を、いずれ上に渡す。……次に兵が来たら、わたしは、死の執政を終わらせる」

 トイヴォが、匙を止めた。

「……終わらせるって」

「わたしの中で、力が戻ってきている。戻った力が、この輪を広げている。わたしを死の執政にしているものだ。——それを、手放す」

「手放したら、君は?」

「分からない」

 正直に、言った。

「何が残るのかは、分からない。何も残らないかもしれない。……だが、死の執政が終わるところを、兵たちが見届ければ、この家に次の兵は来ない。見届けられた死は、記録の上で、終わる」

 トイヴォは、長いあいだ、器の中を見ていた。

 去る、とは、わたしは言わなかった。

 去っても、輪は残る。白い髪は、もう兵の手にある。見届けられないまま消えた死は、この家の戸を、何度でも叩かせる。

 それに、去るのは、この人間に黙って戸を閉めることだった。暗がりの中で、閉まる音だけを聞かせることだった。

 それは、もう、できなかった。

「……ただ」

 わたしは、自分の右手を見た。

「梯子の裏で、この手は、決める前に上がった。兵の前に立ったとき、この手が何をするのか。わたしは、まだ知らない」

 トイヴォは、わたしの右手を見た。

 それから、顔を上げた。

「じゃあ、そのとき、隣にいる」

 止めるのでも、引き止めるのでもなかった。

 隣にいる、とこの人間は言った。

 

 その夜、トイヴォは、わたしの衣を膝に広げた。左の脇の、いちばん大きな裂け目に、針を入れた。

 針を引く音が、遅くまで続いた。

 旅に出る者のための繕いではなかった。

 

   ◇

 

 夜明け前、戸の外で雪を踏む音がして、僕は目を開けた。

 ひとりぶんの、急いだ足音だった。

 戸を開けると、南門の兵士が、肩で息をしながら立っていた。外套の肩にも帽子にも、雪が積もっていた。僕は外へ出て、後ろ手に戸を閉めた。

「トイヴォ」

 兵士が、僕の名前を呼んだ。あんた、ではなく。

「報告した。ゆうべ、白い髪を、指揮官に渡した。……黙ってられなかった。俺は、兵隊だから」

 兵士は、息を整えて続けた。

「指揮官は、夜明け前にここを囲む。俺は、その前に抜けてきた。……来い、トイヴォ。あの女から離れろ。指揮官が言ってただろう、劇場で大勢を死なせた女だって。——あれが、そいつだ」

「知ってる」

 僕は、言った。

 兵士の口が、半分開いたまま止まった。

「本人から、聞いた」

 後ろで、戸が開いた。

 ロノヴァが、自分の衣を着て、出てきた。黒と白の入り組んだ、あの衣。袖が、ちゃんと手首まで届いている。左の脇腹には、ゆうべ僕が縫い終えた当て布がある。

 ロノヴァは、僕の隣に立った。

 後ろでも、前でもなく。

 

 木立の向こうで、雪を踏む音が揃った。暗い色の外套が、十一。先頭に、あの口ひげの男がいた。

 兵隊たちは、家を囲む黒い輪の外側で、足を止めた。

「持ち場を離れたな」

 口ひげの男が、輪の内側の南門の兵士に言った。

 それから、僕を見た。

「見ていません、と言ったな。猟師」

「はい」

 僕は、答えた。

「嘘でした」

 男の目が、わずかに動いた。

「猟師。女から離れろ」

「離れません」

 声は、震えていた。それでも、出た。

 男が、片手を上げた。兵隊たちの手の中で、青白い光が凍りついて、細い刃の形になった。

「放て」

 

 ロノヴァが、僕の前に半歩出た。黒い腕が、飛んできた刃を払った。

 ひとつが、払われた先で弾けて、僕の頬をかすめた。

 指で触れると、赤かった。

 ロノヴァが、それを見た。

 

 音が、消えた。降っていた雪が、空中で止まった。

 ロノヴァの背中から、黒い羽根が広がった。黒い腕の赤い模様が、ひとつ残らず、目を開けた。空の色が、古い血の色に染まっていく。

 兵隊たちが、膝をついた。胸を押さえて。唇に白い霜が降りて、息が細っていく。輪の内側で、南門の兵士も雪に片手をついた。

 僕の息だけが、白いまま、ちゃんと出入りしていた。

 ロノヴァは、口ひげの男の前まで歩いた。

 右手が、上がった。

 黒い指が、男の胸の上に差し伸べられる。腕じゅうの赤い目が、いっせいに、男の胸を見た。

 この人が、ゆうべ言ったことを、思い出した。決める前に上がる手だ、と。

 今、上がっているのは、死の執政の手だった。

 

 僕は、雪を蹴った。

 ロノヴァの隣に並んだ。

 上がった右手を、僕の手で、取った。

 冷たかった。最初の夜の、雪より冷たい、あの手だった。

 触れるな、とあの男は言った。その男の目の前で、僕は触れた。

「ロノヴァ」

 名前を、呼んだ。

「隣に、いるよ」

 

 ロノヴァの手が、止まった。

 男の胸から、指一本ぶんのところで。

 長い間があった。空中で止まって見えていた雪が、ひとひら、重なった手の上に落ちた。

 ロノヴァは、重なった手を見ていた。

 それから、その手を、ゆっくりと下ろした。僕の手を、握ったまま。

 握り返された、と思った。

 黒い指が、僕の指のあいだに、ぎこちなく入ってきた。団子の縁をつまむときの、あの不器用な力で。

 

「女皇の兵」

 ロノヴァが言った。空の高いところから降ってくるような声だった。僕の知らない声だった。

「わたしの死を、確かめに来たのだろう」

 ロノヴァは、口ひげの男を見下ろした。

「——見届けるがいい」

 

 羽根が、ほどけた。

 空を覆っていた黒い羽根が、一枚ずつ、ほどけて、落ちてきた。雪と一緒に。煤のように、灰のように。

 ロノヴァの背中から、それは、止まらずに流れ出していった。翼の形が崩れて、ただの黒い雪になって、輪の上に、兵隊たちの上に、降りつもっていった。

 黒い腕の赤い目が、ひとつ、またひとつ、閉じていった。

 今度は、閉じたまま、開かなかった。

 空の色が、夜明け前の青に戻っていく。

 僕の手の中で、ロノヴァの手が、少しずつ、軽くなっていった。

 怖くなった。このまま、全部ほどけてしまうのではないかと。

 僕は、手に力をこめた。

 ロノヴァの指が、それに応えるように、握り返してきた。

 そこで、羽根が、止まった。

 

 兵隊たちの、喘ぐ息の音が戻ってきた。咳きこむ音。雪を掻く音。

 家を囲む黒い輪は、兵隊たちの足もとで、広がるのをやめていた。

 誰も、死んでいなかった。

 ロノヴァは、口ひげの男の前に立っていた。黒い翼は、もうなかった。腕の赤い模様は、ただの模様になっていた。背の高い、白い髪の、黒い腕の女が、ひとり。僕と手をつないで。

「死の執政は、今、終わった」

 ロノヴァが言った。

 知っている声だった。団子の形を気にして、塩が多いと言った、あの声だった。

「見届けたな」

 

 口ひげの男は、雪に片手をついたまま、長いあいだ、ロノヴァを見上げていた。

 灰色の口ひげに、黒い羽根が一枚、載っていた。男がそれを払おうとして指で触れると、羽根は、崩れて消えた。

 男は、自分の指先を見た。

 それから、膝をついた部下たちを見た。雪に降りつもった黒いもの。広がるのをやめた、黒い輪。

 最後に、男の目は、僕の手に下りた。

 自分の胸の、指一本ぶん手前で止まった黒い手。それを握っている、猟師の手に。

 梯子の下の暗がりで、自分の手を震わせたものが何だったのか。この男は、今、知ったのだと思った。

 男は、長い息を吐いた。

「……見届けた」

 平らな声だった。

 平らなまま、少しだけ、かすれていた。

 

 兵隊たちは、互いに肩を貸し合って立ち上がった。誰も、ロノヴァを見なかった。つないだ手のほうを、ちらりと見る者はいた。

 口ひげの男は、立ち上がって背を向けた。

「報告には、見たことを書く」

 背を向けたまま、男は言った。

「我々が探していたのは、黒い羽根をまとった女だ」

 長靴の先が、雪の上の黒いものを散らした。触れれば崩れる、あの羽根を。

「……羽根は、ここに落ちた。死の執政は、黒い羽根となって、消えた」

 それから、少しだけ、間があった。

「猟師の家には、猟師と、その連れがいた。それだけだ」

 列は、崩れたまま、木立の向こうへ引いていった。

 

 最後に残ったのは、南門の兵士だった。

 兵士は、僕の頬を見て、僕とロノヴァのつないだ手を見て、それから、息を吐いた。

「……生きてる。全員」

「はい」

「あんた、本当に——そこに、いるんだな」

「はい」

 兵士は、少しだけ笑った。泣きそうな顔で。

 背を向けかけた兵士に、僕は声をかけた。

「あの。……名前を、教えてください」

 兵士は振り返って、少し意外そうな顔をした。

「チモフェイだ」

「チモフェイさん」

「さん、はいらない」

「……お気をつけて、チモフェイ」

 チモフェイは、今度ははっきりと笑った。

「名前つきで言われたのは、初めてだ。……あんたもな、トイヴォ」

 

 雪の上に、僕とロノヴァが残った。手は、つないだままだった。

 膝から、力が抜けた。僕が座りこむと、つないだ手に引かれて、ロノヴァも隣に膝をついた。

「……君は?」

 ゆうべと、同じことを聞いた。手放したら、君は。

 ロノヴァは、つないだ手を見ていた。それから、僕を見た。

「ロノヴァだ」

 分からない、とは言わなかった。

「……お前が、そう呼ぶ」

 僕は、うまく笑えなくて、つないだ手に額を押しつけた。

 額の下で、黒い指が一本、ぎこちなく動いた。

 

   ◇

 

 あの朝のあと、兵は一度も来なかった。北の尾根に、糸の束が並ぶこともなかった。

 トイヴォの頬の傷は、白い線になって残った。冬のあいだ、そこに軟膏を塗るのは、わたしの役目になった。痛く、ならないように。

 わたしがそばにいると、命は、少しだけ細る。死の執政が終わっても、それは残った。わたしが、死そのものであることは。

 けれど、その少しを、この家は毎日、取り返していた。夜のあいだにわたしが細らせたトイヴォの糸を、朝の粥が取り返す。トイヴォが毎朝、鉢に水をやる。輪の外の餌台には、胸の黄色い小鳥が三羽、今日も来ている。

 

 春が来た。

 その朝、わたしは、トイヴォより先に目を覚ました。

 棚の上の鉢に、意識を向けた。触れないように、ではなく。まっすぐに。

 根の糸が、太っていた。

 黒い茎の根もとの、湿った土の割れ目から、爪の先ほどの緑色が、のぞいていた。

 暖炉の向こうで、トイヴォが寝返りを打った。目は、まだ閉じていた。

「……おはよう」

 先に言ったのは、わたしだった。

 トイヴォの目が、ひらいた。しばらく、わたしを見ていた。

「……おはよう、ロノヴァ」

 兵の来た日の朝から、わたしは毎朝、この言葉に答えてきた。最初の一度は、窓を向いたまま。顔を見て答えられるようになったのは、ずいぶんあとだった。

 先に言ったのは、今朝が初めてだった。

「トイヴォ」

 わたしは、棚を指さした。

「春だ」

 トイヴォは、寝ぼけた顔のまま棚の前まで来て、鉢をのぞきこんだ。

 それから、動かなくなった。

「……おばあちゃんの、タイムだ」

 トイヴォの声が、震えていた。

 根は、生きてます。——あの日、床板の上で、この人間が兵に言った言葉を、わたしは覚えている。嘘ばかりの中に、ひとつだけ置かれた本当だった。

 その本当が、芽を出していた。

 わたしは、トイヴォの隣に立った。

 後ろでも、前でもなく。

 

「今日の朝ご飯、何にしようか」

 しばらくして、トイヴォが、袖で目をこすりながら言った。

「……団子」

「え?」

「団子がいい。……わたしが、包む」

 トイヴォは、目を丸くして、それから、笑った。

「三角の?」

「三角のは、わたしが食べる」

「うん。知ってる」

 粉の袋を、棚から下ろした。

 ふたり並んで、皮を延ばした。わたしの包んだ団子は、相変わらず、十個とも形が違った。

 形はどうでもいい、とトイヴォは言う。中身は一緒だから、と。

 わたしは、ひとつだけ、きれいに閉じた団子を、トイヴォの前の板に置いた。

 あの日、兎の話を聞きながら、初めてきれいに閉じたのと、同じ形だった。

「……ここに、いたい」

 言うつもりのなかった言葉が、口から出た。

 言い直さなかった。先を歩いた言葉に、わたしが追いつけばいいだけだった。

 トイヴォは、団子の皮をつまんだまま、わたしを見た。

「うん」

 それから、少しだけ照れたように笑った。

「いて」




お読みいただきありがとうございました。
これで、IF-1「うっかりルート」は完結です。次回からは、IF-2「殺すルート」(本編第7話から分岐)をお送りします。こちらは本編より重い展開になりますので、ご注意ください。

本編はここで完結です。このあと、トイヴォとロノヴァが鍋を持って旅に出る続編「旅路編」を書こうか考えています。読んでみたいと思いますか?

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