※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※本編より重い展開です。人が亡くなる場面があります。ご注意ください。
※今回はトイヴォ視点です。
ロノヴァの右手が、上がった。
黒い指が、口ひげの男の胸の上に差し伸べられる。腕じゅうの赤い目が、いっせいに、男の胸を見た。
何をしようとしているのか、分かった。
兎の首に手をかけるときの、僕の手と、同じ形だったから。
名前を呼ぼうとした。声が、出なかった。
僕は、一歩、前に出た。
雪が、きしんだ。
腕の中で、包みが揺れた。中で、何かが小さく触れ合った。
こつん、と。
蜂蜜の小瓶と、小鍋が、ぶつかった音だった。
黒い指が、下りた。
止まらなかった。
男の胸の、外套の上に、指先が触れた。そっと、と言っていいくらいの触れ方だった。粥の器の縁に、匙を置くときのような。
男の目が、見開いたまま、動かなくなった。
灰色の口ひげの霜が、それきり、溶けなかった。
息の音が、ひとつ、消えた。
それから、残りの音が、消えていった。
輪の外で膝をついていた兵隊たちの、喘ぐ息。咳きこむ音。雪を掻く音。
家を囲む黒い輪が、広がっていく。枯れた枝先が、雪の上を走るように黒く伸びて、膝をついた人たちの足もとを、次々に呑みこんでいった。
ひとり、またひとり。
胸を押さえていた手が、ゆっくりと、雪の上に落ちた。
音を立てずに。
倒れる音さえ、しなかった。雪が、全部吸いこんだ。
輪の内側で、南門の兵士が、雪に片手をついていた。
もう片方の手を、僕のほうへ伸ばしかけたまま。
目が、合った。
兵士の唇が、何か言いかけた。僕の名前だったのかもしれない。来い、の続きだったのかもしれない。
声には、ならなかった。
伸ばしかけた手が、そのままの形で、止まった。
止まって、下りなかった。
僕の息は、白いまま、ちゃんと出入りしていた。
目の前で、いくつもの息が消えたのに、僕のだけが、何ひとつ奪われていなかった。まるで、僕のまわりにだけ、見えない線が引いてあるみたいに。
僕は、その線の内側に、立っていた。
◇
空の色が、引いていった。
古い血の色が、夜明け前の青に戻っていく。何百枚もの黒い羽根が、ほどけるように崩れて、煤のように、灰のように、風に散った。
止まって見えていた雪が、また、落ちはじめた。
腕の赤い目が、ひとつ、またひとつ、閉じていった。
音は、戻ってこなかった。
戻ってくる音が、もう、なかった。
ロノヴァは、口ひげの男の前に立っていた。
黒い翼は、もうない。自分の衣を着た、背の高い人が、ひとり。
その右手は、体の横に下りていた。
ロノヴァは、それを、見なかった。
指先を確かめることも、手のひらを返すことも、しなかった。いつも粥の匙を持つときに、じっと眺めていた、あの黒い手を。
ロノヴァは、男を見下ろしていた。
帳面の、書き終えた頁を見るような目だった。
僕は、包みを抱えたまま、立っていた。
蜂蜜の小瓶と小鍋の入った、結び目の大きな、僕の包み。旅支度だった。この人が、夜明け前に、黙って出ていくための。
こつん、と鳴った。
鳴ったのに、あの手は、止まらなかった。
止まってくれると、思っていたのかもしれない。僕は。
何の根拠もなく。
腕から、力が抜けた。包みが、雪の上に落ちた。中で、また何かが触れ合った。今度は、何の音もしなかった。雪が、吸いこんだ。
頬が、熱かった。
さっき、弾けた氷がかすめたところだ。指で触れると、まだ、赤いものがついた。
この頬が切れたのを、ロノヴァは見た。
見て、それから、空の色が変わった。
僕の、せいだったのだろうか。
僕の頬から、一滴、血が落ちなかったら。僕が、最初の夜に、この人を拾わなかったら。僕が、見ていません、と嘘をつかなかったら。
考えが、雪の上を、どこまでも転がっていった。どこにも、止まらなかった。
劇場で、大勢を殺した。
今朝、南門の兵士は、そう言った。僕は、それを、遠い国の話のように聞いていた。市場の噂と同じように。
遠い話では、なかった。
僕の家の前の、雪の上で、同じことが起きた。僕が粥を食べさせて、軟膏を塗って、おはようと言い続けた人の、手で。
凍傷ではなかった。占い師でもなかった。
最初から。
僕が見なかったことにしてきたものの、いちばん奥に、これがあった。
◇
ロノヴァが、振り向いた。
金色の目。七枚の花びら。
いつもの、何を考えているのか分からない顔だった。
いつもと同じなのが、分からなかった。
「……見たな」
ロノヴァが言った。
僕は、答えなかった。
うなずくことも、首を振ることも、しなかった。
ロノヴァは、僕を見ていた。
待っている、と思った。
僕が、逃げ出すのを。叫ぶのを。化け物、と言うのを。——輪の外で、誰かがそう言いかけて、声が続かなかったように。
僕は、どれもしなかった。
できなかったのではない。どれも、違う気がした。
何が違うのかは、分からなかった。
ロノヴァの目が、僕の頬で止まった。
唇が、一度、開いた。
閉じた。
この人は、兵隊たちを死なせた。そして今、僕の頬の、小さな傷を見ている。
どちらも、同じ人だった。
膝が、震えていた。止めようとしても、止まらなかった。
僕は、ロノヴァの横を通り過ぎた。
黒い枝先を踏んで、輪の内側を歩いた。
南門の兵士の前で、膝をついた。
伸ばしかけた手が、まだ、そのままの形だった。指先に、雪が積もりはじめていた。
その手に、触れた。
冷たかった。
ロノヴァの手と、同じくらい。
僕は、その手を、そっと下ろした。指が、もう、凍りかけていた。力を入れないと、下りなかった。力を入れたくなかった。入れた。
開いたままの目を、閉じた。
兎の目を閉じるときと、同じようにした。それしか、やり方を知らなかった。
それから、立ち上がって、輪の外へ歩いた。
ひとりずつ、膝をついて、口もとに手をかざした。
息を、確かめて回った。
ロノヴァが来てから、毎朝、最初にしてきたことだった。暖炉の向こうをのぞいて、息をしているか、確かめる。細くても、続いていれば、それでいい。
ひとり目は、しなかった。
ふたり目も、しなかった。
三人目の、頬に古い傷のある兵士は、目を開けたまま、空を見ていた。三日前、藁布団に手のひらを当てて、冷てえ、と言った人だった。
十一人目まで、確かめた。
手のひらに、何も触れなかった。
口ひげの男の横には、剣が一本、雪に刺さっていた。抜いて、男の胸の上に、柄を両手で握らせるようにして置いた。そうするものだと、どこかで聞いた気がした。どこで聞いたのかは、思い出せなかった。
家から、毛布を持ってきた。僕の毛布と、おばあちゃんの毛布と、麻の敷布を二枚。顔を、覆っていった。四人ぶんで、足りなくなった。
僕の毛皮を、外した。五人目に掛けた。
残りの顔には、雪が、少しずつ積もっていった。雪は何でも隠してしまう、とおばあちゃんは言った。
隠してほしくなかった。
隠してほしいと、思ってしまった。
あの兵士の名前を、僕は、知らなかった。
何度も顔を合わせてきたのに、一度も聞かなかった。
この前、南門を通ったとき、あの兵士は、僕の荷を形ばかりに確かめて、気をつけて帰れ、と言った。僕が、あなたも、お気をつけて、と返すと、兵隊に『お気をつけて』って言うやつは、あんたくらいだ、と少しだけ笑った。
それだけの、知り合いだった。
それだけの知り合いが、僕を連れ出すために、雪の中を走ってきた。
向こうは、僕の名前を知っていた。今朝は、あんた、ではなく、トイヴォ、と呼んだ。隊を抜けてきた、と言った。
今日は、言わないんだな。——三日前、戸口で、あの兵士は、そう言った。
今日は、お気をつけて、と言っていなかった。
言う暇が、なかった。
言えばよかった、と思った。
言ったところで、何も変わらなかったことも、分かっていた。
「ありがとう」
小さく、そう言った。
なぜ言ったのか、自分でも分からなかった。命をもらったら、ありがとうと言いなさい。——命を、もらったのではなかった。僕を助けに来て、死んだ人だった。
それでも、ほかの言葉が、なかった。
背中で、雪が、きしんだ。
ロノヴァが、輪の縁まで来て、止まったのが分かった。
振り向かなかった。
◇
物置の戸は、霜で張りついていた。肩でぶつかって、開けた。
鋤を、出した。おじいちゃんの鋤だった。柄の、握るところだけが、黒く光っている。
輪の外の、木立の手前まで歩いた。黒い枝先が、そこで途切れていた。
僕は、鋤を振り下ろした。
刃が、跳ね返った。
凍った地面は、石と同じだった。雪の下の土は、冬のあいだじゅう、鉄のように固まっている。おじいちゃんが死んだ冬も、そうだった。春を待って、埋めた。
春までは、待てなかった。
十二人を、春まで雪の上に置いておくことは、できなかった。
薪を取りに、家に入った。
暖炉の熾火は、まだ赤かった。卓の上には、何もなかった。今朝は、朝ご飯を作っていない。粥の鍋は、棚の上で、乾いたまま伏せてあった。この人が来てから、朝に鍋が乾いていたことは、一度もなかった。
おはようも、言っていない。言う前に、全部が終わった。
奥の寝床の、枕の上に、おばあちゃんの服が畳んで置いてあった。羊毛の上着と、麻の下衣。袖の端が、揃っていなかった。一度畳んで、揃えようとして、やめたのだ。夜明け前に、暖炉の向こうで聞いた、あの音のとおりに。
出ていくために、畳んだ服だった。
僕は、それを見ないようにして、薪を抱えた。
薪を、運んだ。
鋤で削った雪の上に、薪を組んで、火をつけた。地面を、火で溶かす。溶けたところを、掘る。また火を焚く。冬の土を掘るやり方は、それしかない。おばあちゃんが死んだ冬、僕は、ひとりで、そうした。
火が、ぱちぱちと鳴った。
この家の暖炉と、同じ音だった。粥を炊く音と、同じ音だった。
——雪原で見つけたものは、見なかったことにしちゃいけないよ。
おばあちゃんの声が、した気がした。
今度は、全部、見た。
見て、それから、どうすればいいのかは、おばあちゃんは教えてくれなかった。
僕は、火の前にしゃがんで、土が柔らかくなるのを待った。
待ちながら、数えていた。
口ひげの男。南門の兵士。輪の外の、十人。
十二。
鹿を数えるときの癖で、数えていた。数えたくなかったのに、手が、指を折っていた。
ロノヴァは、兵隊たちが足を止めた、あの線の上に立っていた。
ずっと、そこにいた。
雪が、白い髪に積もっていた。払おうともしなかった。
出ていくのだと、思っていた。旅支度の包みは、雪の上に落ちたままだった。拾えば、この人は、どこへでも行ける。夜明け前に、そうするつもりだったのだから。
ロノヴァは、包みを見なかった。
僕の、火のほうを見ていた。
一度だけ、声がした。
「……トイヴォ」
僕は、火に薪をくべた。
答えなかった。
この人が、何度も、僕の「おはよう」に答えなかったように。
そう思ってから、自分が嫌になった。この人の答えなかったのと、僕の答えないのとは、たぶん、全然違うものだった。違うと分かっていて、僕は、答えなかった。
ロノヴァは、それきり、僕の名前を呼ばなかった。
家を囲む黒い輪は、朝よりも、また広がっていた。枝先が、僕の掘っている穴の、数歩手前まで来ていた。薪の山も、物置も、沢へ下りる道も、輪の内側だった。
胸の黄色い小鳥は、一羽も来なかった。
昼に、雪は止んだ。
おばあちゃんに教わった読み方は、今日も、外れなかった。
その昼まで、この人がここにいるのかどうか、今朝の僕には、分からなかった。
この人は、いた。
僕は、それを、どう思えばいいのか分からなかった。
いてくれて、よかった、とは、思えなかった。
いなくなればいい、とも、思えなかった。
日が傾くと、木立の影が、雪の上に長く伸びた。黒い輪の枝先と、影の区別が、つかなくなった。
僕は、薪の端に火を移して、穴のそばの雪に立てた。
夕方、ひとつ目の穴が、膝の深さになった。
手のひらの皮が、剥けていた。鋤の柄の、黒く光るところに、赤いものが移っていた。
僕は、穴の縁に腰を下ろして、息をついた。
息が、白かった。
ちゃんと、出入りしていた。
それが、ひどく、重かった。
毛皮を外した背中に、夕方の風が、しみた。寒い、と思った。寒いと思えることが、また、重かった。
物置には、おじいちゃんの古い毛皮がある。取りに行かなかった。
足音が、した。
ロノヴァが、あの線の上から、こちらへ歩いてきた。広がった輪の、外へ。
ロノヴァの足もとで、雪の下の草が、黒く縮れた。一歩ごとに。
僕の掘った穴の前で、ロノヴァは止まった。
何か、言うのかと思った。
ロノヴァは、何も言わなかった。
鋤の柄に、黒い手を伸ばした。
僕は、その手を見た。
口ひげの男の胸に、そっと触れた手だった。
鋤を、渡さなかった。
ロノヴァの手が、柄の手前で、止まった。
今度は、止まった。
僕は、立ち上がって、また鋤を振り下ろした。
刃が、土に食いこんだ。
ロノヴァは、手を引いた。
引いた手を、見ていた。
今朝、見なかった手を。
僕は、振り向かずに、土を掘り続けた。
十二まで、あと、十一。
お読みいただきありがとうございました。
次回、IF2-2「墓を掘る」はロノヴァ視点でお送りします。