死の執政に、粥を一匙   作:いくと

17 / 29
※本編第7話「死の執政」の途中から分岐するIFルートの2話目です。
※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※本編より重い展開です。ご注意ください。
※今回はロノヴァ視点です。


IF2-2 墓を掘る

 十二の糸が、終わった。

 わたしは、それを記録した。

 口ひげの男の糸が、指先の下で途切れたこと。広がった輪の中で、十一の糸が、順に細って、途切れたこと。最後のひとつは、輪の内側で、この家のほうへ手を伸ばしたまま、途切れたこと。トイヴォのまわりに引いた線の、いちばん近くにあった糸だった。

 帳面の、いつもの欄に、いつもの形で。

 書き終えて、わたしは、その頁を閉じた。

 閉じてから、トイヴォが、鋤を持って物置から出てくるのを見た。

 

 死を執り行うのが、わたしの職務だった。

 終わるべきものが終わるのを見届け、記録する。記録したものは、わたしのもとを通って、あるべきところへ行く。それで、職務は終わる。

 終わったあとのことは、わたしの管轄ではなかった。

 終わったあとに、何が残るのか。誰が、それをどうするのか。わたしは、一度も見たことがなかった。見る必要が、なかった。

 今、わたしは、それを見ていた。

 ひとりの人間が、凍った地面に、火を焚いていた。

 

   ◇

 

 夜になっても、トイヴォは掘るのをやめなかった。

 穴のそばの雪に、薪の端を立てて、明かりにしていた。その火が、トイヴォの影を、黒い輪の上に長く伸ばしていた。

 わたしは、輪の縁に立っていた。

 鋤の柄に手を伸ばしたとき、トイヴォは、渡さなかった。わたしの手は、柄の手前で止まった。

 今度は、止まった。

 朝、止まらなかった手が。

 止まった理由は、分かっていた。トイヴォが、渡さなかったからだ。止まらなかった理由は、分からなかった。こつん、という音は、聞こえていた。聞こえていて、わたしの手は、下りた。

 分からないことを、わたしは、帳面のどこにも書けなかった。

 次に誰かが梯子を下りてきたら、この手がどうするのか。知るとしたら、トイヴォの前でだ。——そう考えたことがある。

 知った。

 トイヴォの頬の傷は、黒く固まっていた。わたしは、そこから目をそらした。

 

 夜半を過ぎて、トイヴォが、家に入った。

 わたしは、少し遅れて、戸口に立った。入っていいのかどうか、分からなかった。

 トイヴォは、暖炉の熾火を起こして、鍋を火にかけていた。

 燕麦を、量っていた。

 手のひらに、ふたり分が載っていた。

 トイヴォは、それを、しばらく見ていた。

 それから、鍋に入れた。

 塩の壺に手を伸ばして、指でつまんで、落とした。ひとつまみ。もうひとつまみ。

 待て、と言うべきだった。

 言えなかった。

 この人間の料理に、わたしが口を出していい理由は、今朝、全部、雪の上で終わっていた。

 なぜ塩が多くなるのか、わたしは、知っている。鉢が枯れた朝と、同じだ。

 あの朝は、鉢がひとつだった。

 

 粥が、卓に二つ、並んだ。

 トイヴォは、自分の器の前に座った。わたしの器のほうは、見なかった。

 わたしは、戸口に立ったままでいた。

 トイヴォが、匙を取った。ひと口、食べた。

 それから、何も言わずに、わたしの器を、卓の向こう側へ、少しだけ押した。

 わたしは、座った。

 匙を取った。

 塩が、多かった。舌が、痛むほどに。

 わたしは、全部、食べた。

 

「……なぜ、まだ作る」

 器を置いて、わたしは聞いた。

 いつもの形の問いだった。

 トイヴォは、しばらく答えなかった。自分の器を、見下ろしていた。半分も、減っていなかった。

「……分からない」

 かすれた声だった。今日、初めて聞く声だった。

「手が、覚えてるから」

 それだけ言って、トイヴォは立ち上がった。器を持って、流しへ行った。

 ふたり分の燕麦を量る手を、わたしは、見ていた。

 あの手に、ふたり分を覚えさせたのは、わたしだった。

 十日あまりで。

 

 トイヴォは、暖炉のこちら側の床に、そのまま横になった。

 毛皮は、なかった。昼のうちに、外の誰かの顔に掛けてしまったのだ。

 薄い上着のまま、背を丸めていた。息が、白かった。暖炉の熾火は、もう小さかった。

 わたしは、薪を一本、くべた。

 トイヴォは、振り向かなかった。

 おやすみ、は、来なかった。

 夜のあいだ、わたしは、火が小さくなるたびに、薪をくべた。寒さを知らないわたしには、この人間がどれほど寒いのか、分からなかった。分からないから、火を絶やさなかった。

 夜明け前、トイヴォの息が、少しだけ深くなった。眠ったのだと思った。

 わたしは、それを、帳面には書かなかった。

 

   ◇

 

 朝、意識を広げると、輪は、昨日よりもさらに大きくなっていた。

 振るった力は、引かない。前よりも太くなって、戻ってくる。十二の糸を終わらせたぶんだけ、わたしの中の死は、太くなっていた。

 木立の半ばまで、糸が細っている。雪の下の鼠の巣が、ふたつ、途切れていた。貯蔵庫の玉ねぎは、もう、糸と呼べるものを持っていなかった。

 棚の上の鉢に、意識を向けた。

 根の糸は、まだ、続いていた。

 髪の毛の、さらに半分よりも、細く。

 わたしがここにいれば、春までは、もたない。

 それは、去る、と決めた日から、分かっていたことだった。

 分かっていて、わたしは、ここにいた。

 去れば、帳尻は合う。この家の糸は、それ以上細らない。けれど、わたしは、雪の上に並んだ十二の頁を、閉じずに去ることができなかった。書き終えて閉じたはずの頁が、トイヴォの鋤の音がするたびに、また、ひらいた。

 

 雪の上に、旅支度の包みが、落ちたままだった。

 わたしは、それを拾った。大きな結び目の、トイヴォが結んだ包み。中で、小さく硬いものが触れ合った。

 あの音が、した。

 家に入って、棚の上に置いた。枯れた鉢の、隣に。

 結び目は、ほどかなかった。

 

 その日も、トイヴォは掘った。

 火は、一列に並べてあった。穴を、ひとつずつではなく、いくつも同時に溶かすために。二つ目からの穴は、ひとつ目ほど、深くはなかった。

 わたしは、輪の縁で見ていた。

 昼すぎ、ひとつ目の穴が、腰の深さになった。トイヴォは穴から上がって、口ひげの男のそばに膝をついた。男の脇に腕を差し入れて、持ち上げようとした。

 持ち上がらなかった。

 凍りかけた体は、重い。雪を吸った外套も。トイヴォは、一度、雪の上に膝をついた。息が、白く荒れていた。手のひらの皮は、昨日、剥けていた。

 わたしは、輪の縁から、歩いた。

 トイヴォのそばまで。

 口ひげの男の、反対側に膝をついた。

 トイヴォは、わたしを見なかった。

 止めも、しなかった。

 わたしは、男の肩の下に、黒い手を差し入れた。

 トイヴォが、脚を持った。

 ふたりで、持ち上げた。

 

 重かった。

 わたしは、そのことに、驚いていた。

 死を執り行うとき、わたしが扱うのは、糸だった。細い糸が途切れる。途切れた糸を、記録する。糸には、重さがない。

 糸の途切れたあとに、この重さが残る。

 わたしは、それを、知らなかった。

 何千、何万と、記録してきたのに。

 穴の底に、男を下ろした。トイヴォが、男の胸の上に、剣を置き直した。柄を、両手で握らせるように。

 それから、土をかけた。

 トイヴォが、鋤で。わたしは、手で。

 凍った土の塊は、黒い指の中で、崩れなかった。わたしは、それを、少しずつ、男の上に落とした。

 顔に土をかけるとき、トイヴォの鋤が、一度、止まった。

 止まって、それから、また動いた。

 

 二人目は、頬に古い傷のある兵士だった。

 あの日、わたしは床下で、この兵士の声を聞いていた。冷てえ。誰も寝てねえな、こりゃ。わたしの寝床に手のひらを当てて、そう言った声だった。

 わたしが、ひとりで運んだ。

 トイヴォは、穴の中で、受け取った。わたしの手から、兵士の肩を。

 手と手が、兵士の外套の上で、一度だけ触れた。

 トイヴォは、手を引かなかった。

 受け取って、下ろして、それから、自分の手を、長いあいだ見ていた。

 

 口ひげの男の外套の内側に、地図が入っていた。

 トイヴォは、それを広げた。鉛筆の点が、ひとつ、打ってあった。この家の場所だった。四日前、この男が戸口の外で打った点。

 トイヴォは、地図をたたんで、自分の上着の内側にしまった。

 燃やさなかった。

 この点を知っている者が、ほかにもいる。そう思ったのだろう。わたしも、そう思った。

 

   ◇

 

 三日目の朝、南門の兵士の番になった。

 トイヴォは、兵士の外套の襟を整えようとして、手を止めた。

 外套の内側に、何かが入っていた。折りたたんだ紙だった。雪に濡れないように、油紙に包んであった。

 トイヴォは、それを、しばらく手のひらに載せていた。

 それから、ひらいた。

 手紙だった。

 わたしのところからは、字は見えなかった。見えたのは、トイヴォの目が、紙の上を、ゆっくりと下りていくのと、最後の行で止まるのだけだった。

 トイヴォは、長いあいだ、動かなかった。

「……お母さん宛てだ」

 かすれた声で、トイヴォが言った。わたしに言ったのではなかった。雪に、言ったのだと思った。

「春になったら、休みをもらって、帰るって。……町の、いい店の蜂蜜を、土産に買っていくって」

 トイヴォの指が、最後の行を、なぞった。

 紙の上に、何かが落ちて、にじんだ。雪ではなかった。雪なら、にじまない。

「……チモフェイ」

 名前だった。

 トイヴォは、この兵士を、南門の人、としか呼ばなかった。

 その名前を、トイヴォは、今、初めて口にした。

 墓の前で。

 

 わたしは、その名前を、知っていた。

 一昨日の夜明け、わたしのもとを通った、十二の糸のひとつ。帳面には、糸の形と、途切れた場所と、時刻とともに、その名前も記されていた。

 わたしは、それを、記録した。

 記録したが、口にしたことはなかった。

 名前を口にするのは、わたしの職務ではなかった。

「トイヴォ」

 わたしは、言った。

 トイヴォは、振り向かなかった。

「……ほかの十一の名前も、わたしの帳面にある」

 トイヴォの肩が、動いた。

 長い沈黙があった。

 トイヴォは、手紙を折りたたんで、兵士の外套の内側に戻した。油紙で包み直して、元の場所へ。

 それから、物置のほうへ歩いていった。

 戻ってきたとき、小刀と、割った薪の板を、何枚も抱えていた。

 わたしの前に、板を一枚、置いた。

 何も言わなかった。

 わたしは、目を閉じて、記録をひらいた。

 

 ひとつずつ、読み上げた。

 口ひげの男の名前。頬に古い傷のあった兵士の名前。輪の外で、化け物、と言いかけて声が続かなかった兵士の名前。

 トイヴォは、ひとつ聞くたびに、小刀で板に刻んだ。

 手が、何度も止まった。

 止まるたびに、わたしは、待った。

 十一の名前を、読み終えた。

 トイヴォは、最後の板に、自分の手で、もうひとつの名前を刻んだ。わたしの声を、待たずに。

 チモフェイ。

 刻み終えて、トイヴォは、小刀の刃を雪で拭った。

 わたしは、帳面を閉じた。

 閉じた帳面の中で、十二の名前が、初めて、声になったあとの形をしていた。

 

   ◇

 

 三日目の夕方、十二の土の盛り上がりが、木立の手前に並んだ。

 その前に、十二枚の板が立った。

 トイヴォは、ひとつずつ、板の前に膝をついた。何か、口の中で言っていた。聞き取れなかった。聞き取ろうとは、しなかった。

 わたしは、少し離れて、立っていた。

 終わった糸の、あとに残った重さを、自分の手で運んだ。

 終わった糸の、名前を、自分の声で読んだ。

 それは、どの帳面にも、書いてないことだった。

 書く欄が、なかった。

 死の執政の帳面には、死のあとの欄が、ない。

 今まで、それで、困ったことはなかった。

 

 夜、トイヴォは、また粥を炊いた。

 ふたり分。

 塩は、また多かった。

 わたしは、待て、と言わなかった。

 トイヴォは、わたしの器を、また、卓の向こうへ少しだけ押した。

 わたしは、座った。

 食べながら、わたしは、トイヴォの手を見ていた。

 鋤の柄で皮の剥けた手のひら。小刀で切った指先。土が、爪の間に入りこんで、洗っても落ちていなかった。

 軟膏の壺は、棚の上にあった。

 毎晩、この人間は、わたしの腕にそれを塗った。痛くならないように、と。

 三晩、わたしの腕に塗る者は、いなかった。

 この人間の手に、塗る者も、いない。

「……トイヴォ」

 トイヴォは、匙を止めなかった。

「手を」

 トイヴォの匙が、止まった。

 長い間があった。

 トイヴォは、自分の手を見下ろした。それから、わたしの手を見た。あの朝、あの男の胸に触れた手を。二日、土を運んだ手を。

 トイヴォは、何も言わずに、立ち上がった。

 棚から軟膏の壺を取って、卓の上に、置いた。

 わたしの前ではなく、卓の、真ん中に。

 それから、自分の寝床のほうへ行った。

 

 わたしは、壺を見ていた。

 真ん中に置かれた、壺を。

 差し出されたのでは、なかった。取り上げられたのでも、なかった。

 ただ、そこにあった。

 わたしは、それを、どう記録すればいいのか、分からなかった。

 壺の蓋に、指をかけた。

 開けなかった。

 開けて、この人間の手を取れば、この人間は、それを拒まないかもしれない。拒まないことが、この人間にとって、どれほどの重さなのか。わたしは、今日、それを、ひとつ知ったばかりだった。

 蓋から、指を離した。

 暖炉の向こうで、トイヴォが、上着のまま横になった。背を向けて。

 おやすみ、とトイヴォは言わなかった。

 十日あまり、毎晩、言われてきた言葉だった。わたしは、一度も答えなかった。

 答えなかった言葉が、三晩、来なかった。

 わたしは、卓の前に座ったまま、朝を待った。

 眠る必要はない。

 今夜は、それが、ひどく長かった。




お読みいただきありがとうございました。
次回、IF2-3「許さないまま、隣に」でIF-2「殺すルート」は完結です。トイヴォ視点でお送りします。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。