※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※本編より重い展開です。ご注意ください。
※今回はロノヴァ視点です。
十二の糸が、終わった。
わたしは、それを記録した。
口ひげの男の糸が、指先の下で途切れたこと。広がった輪の中で、十一の糸が、順に細って、途切れたこと。最後のひとつは、輪の内側で、この家のほうへ手を伸ばしたまま、途切れたこと。トイヴォのまわりに引いた線の、いちばん近くにあった糸だった。
帳面の、いつもの欄に、いつもの形で。
書き終えて、わたしは、その頁を閉じた。
閉じてから、トイヴォが、鋤を持って物置から出てくるのを見た。
死を執り行うのが、わたしの職務だった。
終わるべきものが終わるのを見届け、記録する。記録したものは、わたしのもとを通って、あるべきところへ行く。それで、職務は終わる。
終わったあとのことは、わたしの管轄ではなかった。
終わったあとに、何が残るのか。誰が、それをどうするのか。わたしは、一度も見たことがなかった。見る必要が、なかった。
今、わたしは、それを見ていた。
ひとりの人間が、凍った地面に、火を焚いていた。
◇
夜になっても、トイヴォは掘るのをやめなかった。
穴のそばの雪に、薪の端を立てて、明かりにしていた。その火が、トイヴォの影を、黒い輪の上に長く伸ばしていた。
わたしは、輪の縁に立っていた。
鋤の柄に手を伸ばしたとき、トイヴォは、渡さなかった。わたしの手は、柄の手前で止まった。
今度は、止まった。
朝、止まらなかった手が。
止まった理由は、分かっていた。トイヴォが、渡さなかったからだ。止まらなかった理由は、分からなかった。こつん、という音は、聞こえていた。聞こえていて、わたしの手は、下りた。
分からないことを、わたしは、帳面のどこにも書けなかった。
次に誰かが梯子を下りてきたら、この手がどうするのか。知るとしたら、トイヴォの前でだ。——そう考えたことがある。
知った。
トイヴォの頬の傷は、黒く固まっていた。わたしは、そこから目をそらした。
夜半を過ぎて、トイヴォが、家に入った。
わたしは、少し遅れて、戸口に立った。入っていいのかどうか、分からなかった。
トイヴォは、暖炉の熾火を起こして、鍋を火にかけていた。
燕麦を、量っていた。
手のひらに、ふたり分が載っていた。
トイヴォは、それを、しばらく見ていた。
それから、鍋に入れた。
塩の壺に手を伸ばして、指でつまんで、落とした。ひとつまみ。もうひとつまみ。
待て、と言うべきだった。
言えなかった。
この人間の料理に、わたしが口を出していい理由は、今朝、全部、雪の上で終わっていた。
なぜ塩が多くなるのか、わたしは、知っている。鉢が枯れた朝と、同じだ。
あの朝は、鉢がひとつだった。
粥が、卓に二つ、並んだ。
トイヴォは、自分の器の前に座った。わたしの器のほうは、見なかった。
わたしは、戸口に立ったままでいた。
トイヴォが、匙を取った。ひと口、食べた。
それから、何も言わずに、わたしの器を、卓の向こう側へ、少しだけ押した。
わたしは、座った。
匙を取った。
塩が、多かった。舌が、痛むほどに。
わたしは、全部、食べた。
「……なぜ、まだ作る」
器を置いて、わたしは聞いた。
いつもの形の問いだった。
トイヴォは、しばらく答えなかった。自分の器を、見下ろしていた。半分も、減っていなかった。
「……分からない」
かすれた声だった。今日、初めて聞く声だった。
「手が、覚えてるから」
それだけ言って、トイヴォは立ち上がった。器を持って、流しへ行った。
ふたり分の燕麦を量る手を、わたしは、見ていた。
あの手に、ふたり分を覚えさせたのは、わたしだった。
十日あまりで。
トイヴォは、暖炉のこちら側の床に、そのまま横になった。
毛皮は、なかった。昼のうちに、外の誰かの顔に掛けてしまったのだ。
薄い上着のまま、背を丸めていた。息が、白かった。暖炉の熾火は、もう小さかった。
わたしは、薪を一本、くべた。
トイヴォは、振り向かなかった。
おやすみ、は、来なかった。
夜のあいだ、わたしは、火が小さくなるたびに、薪をくべた。寒さを知らないわたしには、この人間がどれほど寒いのか、分からなかった。分からないから、火を絶やさなかった。
夜明け前、トイヴォの息が、少しだけ深くなった。眠ったのだと思った。
わたしは、それを、帳面には書かなかった。
◇
朝、意識を広げると、輪は、昨日よりもさらに大きくなっていた。
振るった力は、引かない。前よりも太くなって、戻ってくる。十二の糸を終わらせたぶんだけ、わたしの中の死は、太くなっていた。
木立の半ばまで、糸が細っている。雪の下の鼠の巣が、ふたつ、途切れていた。貯蔵庫の玉ねぎは、もう、糸と呼べるものを持っていなかった。
棚の上の鉢に、意識を向けた。
根の糸は、まだ、続いていた。
髪の毛の、さらに半分よりも、細く。
わたしがここにいれば、春までは、もたない。
それは、去る、と決めた日から、分かっていたことだった。
分かっていて、わたしは、ここにいた。
去れば、帳尻は合う。この家の糸は、それ以上細らない。けれど、わたしは、雪の上に並んだ十二の頁を、閉じずに去ることができなかった。書き終えて閉じたはずの頁が、トイヴォの鋤の音がするたびに、また、ひらいた。
雪の上に、旅支度の包みが、落ちたままだった。
わたしは、それを拾った。大きな結び目の、トイヴォが結んだ包み。中で、小さく硬いものが触れ合った。
あの音が、した。
家に入って、棚の上に置いた。枯れた鉢の、隣に。
結び目は、ほどかなかった。
その日も、トイヴォは掘った。
火は、一列に並べてあった。穴を、ひとつずつではなく、いくつも同時に溶かすために。二つ目からの穴は、ひとつ目ほど、深くはなかった。
わたしは、輪の縁で見ていた。
昼すぎ、ひとつ目の穴が、腰の深さになった。トイヴォは穴から上がって、口ひげの男のそばに膝をついた。男の脇に腕を差し入れて、持ち上げようとした。
持ち上がらなかった。
凍りかけた体は、重い。雪を吸った外套も。トイヴォは、一度、雪の上に膝をついた。息が、白く荒れていた。手のひらの皮は、昨日、剥けていた。
わたしは、輪の縁から、歩いた。
トイヴォのそばまで。
口ひげの男の、反対側に膝をついた。
トイヴォは、わたしを見なかった。
止めも、しなかった。
わたしは、男の肩の下に、黒い手を差し入れた。
トイヴォが、脚を持った。
ふたりで、持ち上げた。
重かった。
わたしは、そのことに、驚いていた。
死を執り行うとき、わたしが扱うのは、糸だった。細い糸が途切れる。途切れた糸を、記録する。糸には、重さがない。
糸の途切れたあとに、この重さが残る。
わたしは、それを、知らなかった。
何千、何万と、記録してきたのに。
穴の底に、男を下ろした。トイヴォが、男の胸の上に、剣を置き直した。柄を、両手で握らせるように。
それから、土をかけた。
トイヴォが、鋤で。わたしは、手で。
凍った土の塊は、黒い指の中で、崩れなかった。わたしは、それを、少しずつ、男の上に落とした。
顔に土をかけるとき、トイヴォの鋤が、一度、止まった。
止まって、それから、また動いた。
二人目は、頬に古い傷のある兵士だった。
あの日、わたしは床下で、この兵士の声を聞いていた。冷てえ。誰も寝てねえな、こりゃ。わたしの寝床に手のひらを当てて、そう言った声だった。
わたしが、ひとりで運んだ。
トイヴォは、穴の中で、受け取った。わたしの手から、兵士の肩を。
手と手が、兵士の外套の上で、一度だけ触れた。
トイヴォは、手を引かなかった。
受け取って、下ろして、それから、自分の手を、長いあいだ見ていた。
口ひげの男の外套の内側に、地図が入っていた。
トイヴォは、それを広げた。鉛筆の点が、ひとつ、打ってあった。この家の場所だった。四日前、この男が戸口の外で打った点。
トイヴォは、地図をたたんで、自分の上着の内側にしまった。
燃やさなかった。
この点を知っている者が、ほかにもいる。そう思ったのだろう。わたしも、そう思った。
◇
三日目の朝、南門の兵士の番になった。
トイヴォは、兵士の外套の襟を整えようとして、手を止めた。
外套の内側に、何かが入っていた。折りたたんだ紙だった。雪に濡れないように、油紙に包んであった。
トイヴォは、それを、しばらく手のひらに載せていた。
それから、ひらいた。
手紙だった。
わたしのところからは、字は見えなかった。見えたのは、トイヴォの目が、紙の上を、ゆっくりと下りていくのと、最後の行で止まるのだけだった。
トイヴォは、長いあいだ、動かなかった。
「……お母さん宛てだ」
かすれた声で、トイヴォが言った。わたしに言ったのではなかった。雪に、言ったのだと思った。
「春になったら、休みをもらって、帰るって。……町の、いい店の蜂蜜を、土産に買っていくって」
トイヴォの指が、最後の行を、なぞった。
紙の上に、何かが落ちて、にじんだ。雪ではなかった。雪なら、にじまない。
「……チモフェイ」
名前だった。
トイヴォは、この兵士を、南門の人、としか呼ばなかった。
その名前を、トイヴォは、今、初めて口にした。
墓の前で。
わたしは、その名前を、知っていた。
一昨日の夜明け、わたしのもとを通った、十二の糸のひとつ。帳面には、糸の形と、途切れた場所と、時刻とともに、その名前も記されていた。
わたしは、それを、記録した。
記録したが、口にしたことはなかった。
名前を口にするのは、わたしの職務ではなかった。
「トイヴォ」
わたしは、言った。
トイヴォは、振り向かなかった。
「……ほかの十一の名前も、わたしの帳面にある」
トイヴォの肩が、動いた。
長い沈黙があった。
トイヴォは、手紙を折りたたんで、兵士の外套の内側に戻した。油紙で包み直して、元の場所へ。
それから、物置のほうへ歩いていった。
戻ってきたとき、小刀と、割った薪の板を、何枚も抱えていた。
わたしの前に、板を一枚、置いた。
何も言わなかった。
わたしは、目を閉じて、記録をひらいた。
ひとつずつ、読み上げた。
口ひげの男の名前。頬に古い傷のあった兵士の名前。輪の外で、化け物、と言いかけて声が続かなかった兵士の名前。
トイヴォは、ひとつ聞くたびに、小刀で板に刻んだ。
手が、何度も止まった。
止まるたびに、わたしは、待った。
十一の名前を、読み終えた。
トイヴォは、最後の板に、自分の手で、もうひとつの名前を刻んだ。わたしの声を、待たずに。
チモフェイ。
刻み終えて、トイヴォは、小刀の刃を雪で拭った。
わたしは、帳面を閉じた。
閉じた帳面の中で、十二の名前が、初めて、声になったあとの形をしていた。
◇
三日目の夕方、十二の土の盛り上がりが、木立の手前に並んだ。
その前に、十二枚の板が立った。
トイヴォは、ひとつずつ、板の前に膝をついた。何か、口の中で言っていた。聞き取れなかった。聞き取ろうとは、しなかった。
わたしは、少し離れて、立っていた。
終わった糸の、あとに残った重さを、自分の手で運んだ。
終わった糸の、名前を、自分の声で読んだ。
それは、どの帳面にも、書いてないことだった。
書く欄が、なかった。
死の執政の帳面には、死のあとの欄が、ない。
今まで、それで、困ったことはなかった。
夜、トイヴォは、また粥を炊いた。
ふたり分。
塩は、また多かった。
わたしは、待て、と言わなかった。
トイヴォは、わたしの器を、また、卓の向こうへ少しだけ押した。
わたしは、座った。
食べながら、わたしは、トイヴォの手を見ていた。
鋤の柄で皮の剥けた手のひら。小刀で切った指先。土が、爪の間に入りこんで、洗っても落ちていなかった。
軟膏の壺は、棚の上にあった。
毎晩、この人間は、わたしの腕にそれを塗った。痛くならないように、と。
三晩、わたしの腕に塗る者は、いなかった。
この人間の手に、塗る者も、いない。
「……トイヴォ」
トイヴォは、匙を止めなかった。
「手を」
トイヴォの匙が、止まった。
長い間があった。
トイヴォは、自分の手を見下ろした。それから、わたしの手を見た。あの朝、あの男の胸に触れた手を。二日、土を運んだ手を。
トイヴォは、何も言わずに、立ち上がった。
棚から軟膏の壺を取って、卓の上に、置いた。
わたしの前ではなく、卓の、真ん中に。
それから、自分の寝床のほうへ行った。
わたしは、壺を見ていた。
真ん中に置かれた、壺を。
差し出されたのでは、なかった。取り上げられたのでも、なかった。
ただ、そこにあった。
わたしは、それを、どう記録すればいいのか、分からなかった。
壺の蓋に、指をかけた。
開けなかった。
開けて、この人間の手を取れば、この人間は、それを拒まないかもしれない。拒まないことが、この人間にとって、どれほどの重さなのか。わたしは、今日、それを、ひとつ知ったばかりだった。
蓋から、指を離した。
暖炉の向こうで、トイヴォが、上着のまま横になった。背を向けて。
おやすみ、とトイヴォは言わなかった。
十日あまり、毎晩、言われてきた言葉だった。わたしは、一度も答えなかった。
答えなかった言葉が、三晩、来なかった。
わたしは、卓の前に座ったまま、朝を待った。
眠る必要はない。
今夜は、それが、ひどく長かった。
お読みいただきありがとうございました。
次回、IF2-3「許さないまま、隣に」でIF-2「殺すルート」は完結です。トイヴォ視点でお送りします。