死の執政に、粥を一匙   作:いくと

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※本編第7話「死の執政」の途中から分岐するIFルートの3話目(IF-2の最終話)です。
※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※本編より重い展開です。救いきらない結末になります。ご注意ください。
※今回はトイヴォ視点です。


IF2-3 許さないまま、隣に

 目を覚ますと、暖炉の火が、ついていた。

 夜のうちに、小さくなっていたはずの火だった。熾火ではなく、薪が、ちゃんと燃えていた。

 僕は、毛皮を持っていなかった。薄い上着のまま、床で眠った。寒かったはずだった。

 寒くなかった。

 暖炉の向こうで、ロノヴァが、卓の前に座っていた。背をまっすぐにして。ずっと起きていたのだと、分かった。

 卓の真ん中に、軟膏の壺が、置いたままになっていた。

 蓋は、閉まっていた。

 僕は、それを見て、何も言わなかった。

 おはよう、とも、言わなかった。

 言わなかったことに、ロノヴァは、何も言わなかった。十日あまり、僕のおはようにひとつも答えなかった人が、今朝も、それが来ないことを、黙って受け取っていた。

 

 外に出ると、木立の手前に、十二枚の板が並んでいた。

 朝の光の中で見ると、刻んだ字は、どれも曲がっていた。僕の手が、震えていたからだ。

 いちばん端の板だけ、字が少しまっすぐだった。

 チモフェイ。

 その字だけは、ロノヴァの帳面を見ずに、自分で刻んだ。

 春になったら、休みをもらって、帰る。町の、いい店の蜂蜜を、土産に買っていく。

 手紙は、外套の内側に戻して、一緒に埋めた。届け先の名前は、読んだ。どこの村に住んでいるのかも、書いてあった。

 知らせに行くべきなのかもしれない、と思った。

 知らせに行って、何と言えばいいのか、分からなかった。

 あなたの息子を殺した人を、僕は、家に置いています。——そう言うのか。

 

   ◇

 

 昼すぎ、ロノヴァが、窓から離れた。

「北から、来る」

 平らな声だった。

「糸が、二十と少し。……その中に、ひとつ、ひどく硬いものが混じっている。あの男たちとは、比べものにならない」

 僕は、薪を割る手を止めた。

「いつ?」

「今夜。夜半を過ぎるころには」

 二十と少し。鹿を数えるときの癖で、指を折りかけて、やめた。

 隊が、戻らなかったのだ。

 北の尾根の野営地は、空のままのはずだった。十二人ぶんの寝床と、冷えた焚き火の跡。町は、それに気づいた。そして、もっと上の誰かが、動いた。

 口ひげの男の地図は、僕の上着の内側にある。けれど、この家の点を知っているのは、あの男だけではない。

「わたしが、ここに残る」

 ロノヴァが言った。

「来る者たちを、わたしが迎える。お前は、今夜のうちに、境を越えろ」

「迎えて、どうするの」

「……分からない」

 ロノヴァは、自分の右手を見た。

 あの朝から、この人は、ときどき、自分の手を見るようになった。あの朝は、見なかった手を。

「次も、止まらないかもしれない」

 僕は、斧を、薪の山に立てかけた。

 黒い輪の内側の、薪の山だった。枝先はもう、木立の奥まで黒く縮れていた。胸の黄色い小鳥は、あの朝から、一羽も来ていない。

 

「……だめだよ」

 僕は、言った。

 ロノヴァが、顔を上げた。

「君が残って、その手が止まらなかったら、また誰かが死ぬ。止まったら、今度は、君が死ぬ。……どっちも、だめだ」

「なぜ」

 いつもの形の問いだった。

 今度は、答えを持っていた。三日、土を掘りながら、ずっと探していた答えだった。

「許さないから」

 言葉にしたのは、初めてだった。

「僕は、君を、許さない。チモフェイを殺したことも、あの人たちを殺したことも。……僕の頬が切れたからだったとしても。劇場のことも、たぶん、ずっと」

 ロノヴァは、目をそらさなかった。

 そらさずに、聞いていた。

「許さないから、見てる」

 声が、震えた。止めなかった。

「君が、この先、何をするのか。次に、その手が上がったとき、止まるのか、止まらないのか。……全部、見てる。隣で。見なかったことには、しない。……止まらなかったら、そのときは、また、僕が埋める。君と」

 おばあちゃんの声が、した気がした。雪原で見つけたものは、見なかったことにしちゃいけないよ。

 おばあちゃんは、こういう意味で言ったのではなかったかもしれない。

 でも、僕には、これしか思いつかなかった。

 

 ロノヴァは、長いあいだ、黙っていた。

「……お前の糸は、細る」

 ようやく、そう言った。

「わたしのそばにいれば。あの朝から、わたしの中の死は、太くなった。一晩で、前よりも、ずっと多く細る」

「どのくらい?」

「……髪一本ぶんほどだ」

「そっか」

 僕は、うなずいた。

 怖かった。

 怖かったけれど、それは、僕がこの人の隣にいると決めたことの、値段なのだと思った。

「じゃあ、そのぶん、早く歩こう」

 ロノヴァは、答えなかった。

 答えないで、自分の右手を、左手で、握っていた。

 

   ◇

 

 夕方、支度をした。

 背負い袋に、毛皮を二枚。僕のは、五人目と一緒に埋めた。おじいちゃんのと、物置にあった古いの。三晩、出さなかった毛皮だった。予備の手袋。火打ち石。輪罠の針金。小刀。

 干し肉を、ふたり分。

 燕麦の袋を、ひとつ。塩の袋。古い鉄鍋。軟膏の壺。

 棚の上の、旅支度の包みを、見た。ロノヴァが、あの朝から、結び目をほどかずに置いていた包み。

 持っていくことにした。僕の背負い袋に、結び目ごと入れた。中で、何かが小さく触れ合った。

 こつん、と。

 僕は、目を閉じた。

 それから、開けた。

 中の団子は、もう、凍っていないだろう。ほどけば、今夜の分になる。ほどかなかった。

 

 おばあちゃんの服は、置いていくことにした。

 枕の上に、袖の端の揃わないまま、畳んである。ロノヴァが、出ていくために畳んだ形だった。

 揃え直そうとは、思わなかった。

 棚の上の、枯れたタイムの鉢も、置いていく。

 根は、まだ、生きてる?——聞こうとして、聞かなかった。聞かなくても、分かっていた。あの朝からの三日で、あの根がどれほど細ったのか。

 僕たちが出ていけば、この鉢は、春まで、もつのかもしれない。

 もたないのかもしれない。

 どちらでも、僕には、もう、確かめられない。

 出る前に、水差しを取って、鉢に水を落とした。乾いた土が、黒く湿った。

 春まで、もつんだよね。——そう聞く相手は、もう、この家にはいなくなる。

 

 最後に、戸の内側に、板を一枚、打ちつけた。

 小刀で、字を刻んだ。

 十二人は、この家の前の、木立の手前に眠っています。名前は、板に刻みました。

 その下に、もう一行。

 埋めたのは、猟師のトイヴォです。

 刻み終えて、小刀を拭いた。

 ロノヴァが、後ろから、それを見ていた。

「……名を、残すのか」

「うん」

「来る者たちは、お前を探す」

「うん」

 嘘は、もう、つかない。一度、ついた。見ていません、と。あの嘘から、全部が始まった気がした。

 チモフェイのお母さんのところへは、行けない。だから、ここに書いておく。来る人たちが、持って帰れるように。

 誰が終わらせたのかは、刻まなかった。

 全部、本当で、ひとつだけ、抜けている。あの日と、同じだった。

 この人の隣にいる、と決めたのなら、それは、僕の名前で決めたことだった。

 

   ◇

 

 家を出る前に、木立の手前へ行った。

 十二枚の板の前を、ひとつずつ、歩いた。口ひげの男。頬に傷のあった兵士。名前しか知らない、九人。

 いちばん端の板の前で、膝をついた。

 チモフェイ。

「……お気をつけて」

 小さく、言った。

 あの朝、言いそびれた言葉だった。兵隊に『お気をつけて』って言うやつは、あんたくらいだ。——一度だけ、そう言って笑った人だった。

 もう、笑わなかった。

 板の上に、雪が、ひとひら落ちた。

 おばあちゃんの墓にも、寄った。雪を払った。何も言えなかった。言えることが、ひとつもなかった。

 

 立ち上がると、ロノヴァが、少し離れたところに立っていた。

 十二枚の板を、見ていた。

 唇が、一度、開いた。

 何か言うのかと思った。

「……わたしは」

 そこで、止まった。

 長い間があった。ロノヴァは、板を見たまま、言葉を探していた。探して、見つからない顔だった。

「……帳面に、ない」

 ようやく、そう言った。

「こういうときに、言う言葉が。……終わらせた者が、墓の前で言う言葉が。わたしの帳面には、一度も、書かれたことがない」

 僕は、答えなかった。

 その言葉を、僕は知っていた。子どもでも知っている言葉だった。

 教えなかった。

 この人が、自分で見つけるまで。見つけても、たぶん、まだ、許さない。

 ロノヴァは、それきり、黙って、板に頭を下げた。

 深く。長く。

 あの朝、空を覆った人が、板きれに、頭を下げていた。

 

 日が沈む前に、家を出た。

 戸を閉めた。音を立てないように。

 振り返ると、家を囲む黒い輪が、夕日の中で、はっきりと見えた。その内側の、木立の手前に、十二の土の盛り上がりと、十二枚の板。

 僕が育った家だった。おじいちゃんが建てて、おばあちゃんが守って、僕が四年、ひとりで守った家だった。

 十日あまり、ふたりで暮らした家だった。

 僕は、背を向けた。

 戸の前の雪に、僕の足跡と、ロノヴァの足跡が、並んで残った。朝までには、どちらも、雪が埋めるだろう。

 南へ。境の向こうの、ナド・クライの、さらに奥の森へ。

 ロノヴァは、僕の半歩うしろを歩いていた。

 ロノヴァの歩いたあとに、黒い枝先が、点々と残った。雪の上に、一本の線になって。

 隠しようがなかった。

 隠そうとも、思わなかった。

 

 夜の雪原は歩くな、とおじいちゃんは言った。

 僕は、その教えを、初めて破った。

 星が出ていた。月は、細かった。雪明かりだけで、足もとは、なんとか見えた。

 夜半を過ぎたころ、ロノヴァが、足を止めた。

 後ろを、振り返っていた。来た方角。家のほう。

「……着いた」

 平らな声だった。

「家に。二十と少しの糸が。……硬いものも、ひとつ」

 僕も、振り返った。

 何も見えなかった。雪原と、星と、黒い森の縁だけだった。

 あの人たちは、今、戸の内側の板を読んでいるのだろう。十二人は、ここに眠っています。埋めたのは、猟師のトイヴォです。

 僕の名前を、知らない人たちが、読んでいる。

 怖かった。

 それでも、刻まなければよかったとは、思わなかった。

「……硬い糸が、木立の手前で、止まっている」

 ロノヴァは、それきり、何も言わなかった。止まっている、の続きを、僕は聞かなかった。

 

 岩陰で、火を焚いた。

 ロノヴァは、火の向こう側に座った。僕から、火ひとつぶん、離れて。

 鍋に雪を詰めて、火にかけた。

 燕麦を、量った。

 手のひらに、ふたり分が載っていた。

 僕は、それを、しばらく見ていた。

 鍋に入れた。

 塩を、つまんだ。ひとつまみ。もうひとつまみ——指が、止まった。

 ひとつまみと、半分にした。

 待て、と、この人が言ったのは、いつだったか。団子を包んだ日だった。あの朝の粥は、塩が多かった、と。

 あの日から、ずっと、ひとつまみと、半分だった。

 あの夜明けから、三日、それを忘れていた。

 

 粥を、よそった。

 ロノヴァの器に、先に。

 一人分より、少しだけ、多く。

 自分で、そうしたことに、よそってから気づいた。

 器を、火の向こうへ差し出した。

 ロノヴァは、それを見ていた。受け取らずに。

「……許さないのでは、なかったのか」

「許さないよ」

 僕は、言った。

「でも、食べられるでしょ」

 ロノヴァの手が、器を受け取った。

 黒い指が、僕の指に、触れなかった。触れないように、器の縁の、反対側をつかんだ。

 ロノヴァは、ひと匙、食べた。

「……塩が」

 ロノヴァが言った。

「多くない」

「うん」

「……悪くは、ない」

 僕は、自分の器を見下ろした。

 あの朝から、初めて、半分より多く、喉を通った。

 

 食べ終えてから、ロノヴァが、器を膝に置いたまま言った。

「……糸には、重さがない」

 僕は、顔を上げた。

「わたしが、何千、何万と記録してきたものには。……途切れたあとに残るものに、重さがあるとは、知らなかった」

 ロノヴァは、自分の両手を見ていた。二日、土を運んだ手を。

「あの男の肩は、重かった」

 僕は、しばらく、何も言えなかった。

「……うん」

 ようやく、そう言った。

「重かった」

 それだけだった。

 それ以上、どちらも、何も言わなかった。

 同じ重さを、ふたりで知っている。それは、許すこととは、違った。違うけれど、ほかの誰とも、分けられないものだった。

 

 僕は、背負い袋から、軟膏の壺を出した。

 自分の手のひらに、塗った。鋤で剥けた皮の上に。小刀で切った指先に。しみた。

 塗り終えて、壺を、火のそばの平たい石の上に置いた。僕と、ロノヴァの、真ん中に。

 ロノヴァは、壺を見ていた。

 手を伸ばさなかった。

 僕も、渡さなかった。

 壺は、ふたりの真ん中で、火に照らされていた。

 二枚目の毛皮も、壺の隣に置いた。ロノヴァは、どちらにも手を伸ばさなかった。

 頬の傷には、塗らなかった。

 

 火が、小さくなった。

 ロノヴァが、薪を一本、くべた。僕のほうを見ずに。

 夜のあいだ、ずっと、そうしていたのだと思った。家の暖炉でも。

 僕は、毛皮にくるまって、横になった。

 火の向こうで、ロノヴァは、座ったままだった。眠る必要はない、とこの人は言う。今夜も、火の番をするのだろう。僕が眠っているあいだに、僕の糸が、髪一本ぶん細っていくのを、見ながら。

 おやすみ、とは、言わなかった。

 言えば、許したことになる気がした。

 ロノヴァも、何も言わなかった。火のはぜる音だけが、ふたりのあいだにあった。

 目を閉じる前に、ひとつだけ、思った。

 明日の朝、目が覚めたら、たぶん、おはようと言う。髪一本ぶん、細った糸で。

 それが、許したことになるのかどうか、僕には、まだ分からない。

 分からないまま、この人の隣で、眠る。




お読みいただきありがとうございました。
これで、IF-2「殺すルート」は完結です。救いきらない終わり方になりましたが、二人がこの先どうなるのかは、読んでくださった方に委ねたいと思います。
次回からは、IF-3「引き止めるルート」(本編第8話から分岐)をお送りします。
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