※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※本編より重い展開です。救いきらない結末になります。ご注意ください。
※今回はトイヴォ視点です。
目を覚ますと、暖炉の火が、ついていた。
夜のうちに、小さくなっていたはずの火だった。熾火ではなく、薪が、ちゃんと燃えていた。
僕は、毛皮を持っていなかった。薄い上着のまま、床で眠った。寒かったはずだった。
寒くなかった。
暖炉の向こうで、ロノヴァが、卓の前に座っていた。背をまっすぐにして。ずっと起きていたのだと、分かった。
卓の真ん中に、軟膏の壺が、置いたままになっていた。
蓋は、閉まっていた。
僕は、それを見て、何も言わなかった。
おはよう、とも、言わなかった。
言わなかったことに、ロノヴァは、何も言わなかった。十日あまり、僕のおはようにひとつも答えなかった人が、今朝も、それが来ないことを、黙って受け取っていた。
外に出ると、木立の手前に、十二枚の板が並んでいた。
朝の光の中で見ると、刻んだ字は、どれも曲がっていた。僕の手が、震えていたからだ。
いちばん端の板だけ、字が少しまっすぐだった。
チモフェイ。
その字だけは、ロノヴァの帳面を見ずに、自分で刻んだ。
春になったら、休みをもらって、帰る。町の、いい店の蜂蜜を、土産に買っていく。
手紙は、外套の内側に戻して、一緒に埋めた。届け先の名前は、読んだ。どこの村に住んでいるのかも、書いてあった。
知らせに行くべきなのかもしれない、と思った。
知らせに行って、何と言えばいいのか、分からなかった。
あなたの息子を殺した人を、僕は、家に置いています。——そう言うのか。
◇
昼すぎ、ロノヴァが、窓から離れた。
「北から、来る」
平らな声だった。
「糸が、二十と少し。……その中に、ひとつ、ひどく硬いものが混じっている。あの男たちとは、比べものにならない」
僕は、薪を割る手を止めた。
「いつ?」
「今夜。夜半を過ぎるころには」
二十と少し。鹿を数えるときの癖で、指を折りかけて、やめた。
隊が、戻らなかったのだ。
北の尾根の野営地は、空のままのはずだった。十二人ぶんの寝床と、冷えた焚き火の跡。町は、それに気づいた。そして、もっと上の誰かが、動いた。
口ひげの男の地図は、僕の上着の内側にある。けれど、この家の点を知っているのは、あの男だけではない。
「わたしが、ここに残る」
ロノヴァが言った。
「来る者たちを、わたしが迎える。お前は、今夜のうちに、境を越えろ」
「迎えて、どうするの」
「……分からない」
ロノヴァは、自分の右手を見た。
あの朝から、この人は、ときどき、自分の手を見るようになった。あの朝は、見なかった手を。
「次も、止まらないかもしれない」
僕は、斧を、薪の山に立てかけた。
黒い輪の内側の、薪の山だった。枝先はもう、木立の奥まで黒く縮れていた。胸の黄色い小鳥は、あの朝から、一羽も来ていない。
「……だめだよ」
僕は、言った。
ロノヴァが、顔を上げた。
「君が残って、その手が止まらなかったら、また誰かが死ぬ。止まったら、今度は、君が死ぬ。……どっちも、だめだ」
「なぜ」
いつもの形の問いだった。
今度は、答えを持っていた。三日、土を掘りながら、ずっと探していた答えだった。
「許さないから」
言葉にしたのは、初めてだった。
「僕は、君を、許さない。チモフェイを殺したことも、あの人たちを殺したことも。……僕の頬が切れたからだったとしても。劇場のことも、たぶん、ずっと」
ロノヴァは、目をそらさなかった。
そらさずに、聞いていた。
「許さないから、見てる」
声が、震えた。止めなかった。
「君が、この先、何をするのか。次に、その手が上がったとき、止まるのか、止まらないのか。……全部、見てる。隣で。見なかったことには、しない。……止まらなかったら、そのときは、また、僕が埋める。君と」
おばあちゃんの声が、した気がした。雪原で見つけたものは、見なかったことにしちゃいけないよ。
おばあちゃんは、こういう意味で言ったのではなかったかもしれない。
でも、僕には、これしか思いつかなかった。
ロノヴァは、長いあいだ、黙っていた。
「……お前の糸は、細る」
ようやく、そう言った。
「わたしのそばにいれば。あの朝から、わたしの中の死は、太くなった。一晩で、前よりも、ずっと多く細る」
「どのくらい?」
「……髪一本ぶんほどだ」
「そっか」
僕は、うなずいた。
怖かった。
怖かったけれど、それは、僕がこの人の隣にいると決めたことの、値段なのだと思った。
「じゃあ、そのぶん、早く歩こう」
ロノヴァは、答えなかった。
答えないで、自分の右手を、左手で、握っていた。
◇
夕方、支度をした。
背負い袋に、毛皮を二枚。僕のは、五人目と一緒に埋めた。おじいちゃんのと、物置にあった古いの。三晩、出さなかった毛皮だった。予備の手袋。火打ち石。輪罠の針金。小刀。
干し肉を、ふたり分。
燕麦の袋を、ひとつ。塩の袋。古い鉄鍋。軟膏の壺。
棚の上の、旅支度の包みを、見た。ロノヴァが、あの朝から、結び目をほどかずに置いていた包み。
持っていくことにした。僕の背負い袋に、結び目ごと入れた。中で、何かが小さく触れ合った。
こつん、と。
僕は、目を閉じた。
それから、開けた。
中の団子は、もう、凍っていないだろう。ほどけば、今夜の分になる。ほどかなかった。
おばあちゃんの服は、置いていくことにした。
枕の上に、袖の端の揃わないまま、畳んである。ロノヴァが、出ていくために畳んだ形だった。
揃え直そうとは、思わなかった。
棚の上の、枯れたタイムの鉢も、置いていく。
根は、まだ、生きてる?——聞こうとして、聞かなかった。聞かなくても、分かっていた。あの朝からの三日で、あの根がどれほど細ったのか。
僕たちが出ていけば、この鉢は、春まで、もつのかもしれない。
もたないのかもしれない。
どちらでも、僕には、もう、確かめられない。
出る前に、水差しを取って、鉢に水を落とした。乾いた土が、黒く湿った。
春まで、もつんだよね。——そう聞く相手は、もう、この家にはいなくなる。
最後に、戸の内側に、板を一枚、打ちつけた。
小刀で、字を刻んだ。
十二人は、この家の前の、木立の手前に眠っています。名前は、板に刻みました。
その下に、もう一行。
埋めたのは、猟師のトイヴォです。
刻み終えて、小刀を拭いた。
ロノヴァが、後ろから、それを見ていた。
「……名を、残すのか」
「うん」
「来る者たちは、お前を探す」
「うん」
嘘は、もう、つかない。一度、ついた。見ていません、と。あの嘘から、全部が始まった気がした。
チモフェイのお母さんのところへは、行けない。だから、ここに書いておく。来る人たちが、持って帰れるように。
誰が終わらせたのかは、刻まなかった。
全部、本当で、ひとつだけ、抜けている。あの日と、同じだった。
この人の隣にいる、と決めたのなら、それは、僕の名前で決めたことだった。
◇
家を出る前に、木立の手前へ行った。
十二枚の板の前を、ひとつずつ、歩いた。口ひげの男。頬に傷のあった兵士。名前しか知らない、九人。
いちばん端の板の前で、膝をついた。
チモフェイ。
「……お気をつけて」
小さく、言った。
あの朝、言いそびれた言葉だった。兵隊に『お気をつけて』って言うやつは、あんたくらいだ。——一度だけ、そう言って笑った人だった。
もう、笑わなかった。
板の上に、雪が、ひとひら落ちた。
おばあちゃんの墓にも、寄った。雪を払った。何も言えなかった。言えることが、ひとつもなかった。
立ち上がると、ロノヴァが、少し離れたところに立っていた。
十二枚の板を、見ていた。
唇が、一度、開いた。
何か言うのかと思った。
「……わたしは」
そこで、止まった。
長い間があった。ロノヴァは、板を見たまま、言葉を探していた。探して、見つからない顔だった。
「……帳面に、ない」
ようやく、そう言った。
「こういうときに、言う言葉が。……終わらせた者が、墓の前で言う言葉が。わたしの帳面には、一度も、書かれたことがない」
僕は、答えなかった。
その言葉を、僕は知っていた。子どもでも知っている言葉だった。
教えなかった。
この人が、自分で見つけるまで。見つけても、たぶん、まだ、許さない。
ロノヴァは、それきり、黙って、板に頭を下げた。
深く。長く。
あの朝、空を覆った人が、板きれに、頭を下げていた。
日が沈む前に、家を出た。
戸を閉めた。音を立てないように。
振り返ると、家を囲む黒い輪が、夕日の中で、はっきりと見えた。その内側の、木立の手前に、十二の土の盛り上がりと、十二枚の板。
僕が育った家だった。おじいちゃんが建てて、おばあちゃんが守って、僕が四年、ひとりで守った家だった。
十日あまり、ふたりで暮らした家だった。
僕は、背を向けた。
戸の前の雪に、僕の足跡と、ロノヴァの足跡が、並んで残った。朝までには、どちらも、雪が埋めるだろう。
南へ。境の向こうの、ナド・クライの、さらに奥の森へ。
ロノヴァは、僕の半歩うしろを歩いていた。
ロノヴァの歩いたあとに、黒い枝先が、点々と残った。雪の上に、一本の線になって。
隠しようがなかった。
隠そうとも、思わなかった。
夜の雪原は歩くな、とおじいちゃんは言った。
僕は、その教えを、初めて破った。
星が出ていた。月は、細かった。雪明かりだけで、足もとは、なんとか見えた。
夜半を過ぎたころ、ロノヴァが、足を止めた。
後ろを、振り返っていた。来た方角。家のほう。
「……着いた」
平らな声だった。
「家に。二十と少しの糸が。……硬いものも、ひとつ」
僕も、振り返った。
何も見えなかった。雪原と、星と、黒い森の縁だけだった。
あの人たちは、今、戸の内側の板を読んでいるのだろう。十二人は、ここに眠っています。埋めたのは、猟師のトイヴォです。
僕の名前を、知らない人たちが、読んでいる。
怖かった。
それでも、刻まなければよかったとは、思わなかった。
「……硬い糸が、木立の手前で、止まっている」
ロノヴァは、それきり、何も言わなかった。止まっている、の続きを、僕は聞かなかった。
岩陰で、火を焚いた。
ロノヴァは、火の向こう側に座った。僕から、火ひとつぶん、離れて。
鍋に雪を詰めて、火にかけた。
燕麦を、量った。
手のひらに、ふたり分が載っていた。
僕は、それを、しばらく見ていた。
鍋に入れた。
塩を、つまんだ。ひとつまみ。もうひとつまみ——指が、止まった。
ひとつまみと、半分にした。
待て、と、この人が言ったのは、いつだったか。団子を包んだ日だった。あの朝の粥は、塩が多かった、と。
あの日から、ずっと、ひとつまみと、半分だった。
あの夜明けから、三日、それを忘れていた。
粥を、よそった。
ロノヴァの器に、先に。
一人分より、少しだけ、多く。
自分で、そうしたことに、よそってから気づいた。
器を、火の向こうへ差し出した。
ロノヴァは、それを見ていた。受け取らずに。
「……許さないのでは、なかったのか」
「許さないよ」
僕は、言った。
「でも、食べられるでしょ」
ロノヴァの手が、器を受け取った。
黒い指が、僕の指に、触れなかった。触れないように、器の縁の、反対側をつかんだ。
ロノヴァは、ひと匙、食べた。
「……塩が」
ロノヴァが言った。
「多くない」
「うん」
「……悪くは、ない」
僕は、自分の器を見下ろした。
あの朝から、初めて、半分より多く、喉を通った。
食べ終えてから、ロノヴァが、器を膝に置いたまま言った。
「……糸には、重さがない」
僕は、顔を上げた。
「わたしが、何千、何万と記録してきたものには。……途切れたあとに残るものに、重さがあるとは、知らなかった」
ロノヴァは、自分の両手を見ていた。二日、土を運んだ手を。
「あの男の肩は、重かった」
僕は、しばらく、何も言えなかった。
「……うん」
ようやく、そう言った。
「重かった」
それだけだった。
それ以上、どちらも、何も言わなかった。
同じ重さを、ふたりで知っている。それは、許すこととは、違った。違うけれど、ほかの誰とも、分けられないものだった。
僕は、背負い袋から、軟膏の壺を出した。
自分の手のひらに、塗った。鋤で剥けた皮の上に。小刀で切った指先に。しみた。
塗り終えて、壺を、火のそばの平たい石の上に置いた。僕と、ロノヴァの、真ん中に。
ロノヴァは、壺を見ていた。
手を伸ばさなかった。
僕も、渡さなかった。
壺は、ふたりの真ん中で、火に照らされていた。
二枚目の毛皮も、壺の隣に置いた。ロノヴァは、どちらにも手を伸ばさなかった。
頬の傷には、塗らなかった。
火が、小さくなった。
ロノヴァが、薪を一本、くべた。僕のほうを見ずに。
夜のあいだ、ずっと、そうしていたのだと思った。家の暖炉でも。
僕は、毛皮にくるまって、横になった。
火の向こうで、ロノヴァは、座ったままだった。眠る必要はない、とこの人は言う。今夜も、火の番をするのだろう。僕が眠っているあいだに、僕の糸が、髪一本ぶん細っていくのを、見ながら。
おやすみ、とは、言わなかった。
言えば、許したことになる気がした。
ロノヴァも、何も言わなかった。火のはぜる音だけが、ふたりのあいだにあった。
目を閉じる前に、ひとつだけ、思った。
明日の朝、目が覚めたら、たぶん、おはようと言う。髪一本ぶん、細った糸で。
それが、許したことになるのかどうか、僕には、まだ分からない。
分からないまま、この人の隣で、眠る。
お読みいただきありがとうございました。
これで、IF-2「殺すルート」は完結です。救いきらない終わり方になりましたが、二人がこの先どうなるのかは、読んでくださった方に委ねたいと思います。
次回からは、IF-3「引き止めるルート」(本編第8話から分岐)をお送りします。