※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※今回はロノヴァ視点です。
「わたしは、去る」
わたしは立ち上がった。
トイヴォも、立ち上がった。椅子が、床をこする音がした。
話すべきことは、話した。天理の影であること。劇場で、いくつもの命を終わらせたこと。道化の男の目に貫かれて、この人間の雪原に落ちたこと。この人間の祖母の糸が、わたしのもとを通ったこと。覚えては、いないこと。
ありがとう、と、この人間は言った。
なぜ礼を言う、とわたしは問い、この人間は、分からない、と答えた。君は、おばあちゃんを、ちゃんと受け取ってくれたんでしょう、と。
それで、帳尻は、どこも合わなくなった。
合わないまま、ここにいることは、できなかった。
「兵は、わたしが生きていることを知った。次に来るのは、あの十二人ではない。——そして、わたしがここにいれば、この家の糸は、細り続ける。棚の根も。……お前も、いずれ」
トイヴォは、何も言わなかった。
言わないまま、卓の上の包みを取った。今朝、わたしがあの男たちの前で押しつけた包み。大きな結び目の。黒いパン、干し肉、凍った団子、小鍋、軟膏を分けた小さな缶。それから、底に、蜂蜜の瓶。
トイヴォは、それを、両手でわたしに差し出した。
「……持っていって」
受け取ろうとして、わたしは、トイヴォの手を見た。
震えていた。
包みの布ごしにも分かるほど、小さく、細かく。
「恐れるなら、それが正しい」
わたしは言った。
「わたしのそばでは、命が細る。お前が恐れるのは、正しい」
「……うん」
トイヴォは、うなずいた。
「怖いよ」
正直な声だった。トイヴォは、嘘がつけない。南門の兵が、そう言っていた。——わたしのため以外には。
「怖いよ。……でも」
でも。
わたしが「必要ない」と言うたびに、トイヴォが返してきた言葉。
「去る」には、一度も言わなかった言葉。
わたしは、その先を待った。
トイヴォの唇が、動いた。何かを言おうとして、言葉を探して——
包みが、床に落ちた。
中で、何かが、小さく触れ合った。
こつん、と。
トイヴォの両手が、空いていた。
その手が、わたしの手を、つかんでいた。
「でも——行かないで」
声が、かすれていた。
かすれたまま、止まらなかった。
「君が何者でもいいよ。死の執政でも、女神様でも、何でも。……でも、今出ていったら、死んじゃうよ」
トイヴォの目が、わたしの左の脇腹を見た。当て布のあるあたり。わたしが、さっきから、黒い手を当てていたところを。
「そこ、痛いんでしょう。さっきから、ずっと押さえてる。……僕、見てたよ。見なかったことには、しない」
わたしは、つかまれた手を、見下ろした。
温かかった。
振りほどけることは、分かっていた。この人間の手くらい、指一本で、ほどける。
ほどかなかった。
「……わたしがいれば、この家の糸は細る」
わたしは、言った。同じことを、もう一度。
「棚の根も。小鳥も。……お前も」
「うん」
「分かっているのか」
「分かってる。……だから」
トイヴォは、息を吸った。
「棚の根は、ここから動けない。この家も。……僕は、動ける」
「お前の糸は、動いても、細る」
「うん。そっちは、僕が決めたことにする」
トイヴォの手に、少しだけ、力がこもった。
「じゃあ、家を出よう」
——。
「二人で」
わたしは、しばらく、何も言えなかった。
「この家は」
ようやく、言った。
「お前の、家だ」
「うん。おじいちゃんが建てて、おばあちゃんが守って、僕が四年、ひとりで守った家」
トイヴォは、わたしの手を離さないまま、部屋を見回した。暖炉。梁から下がった干し草の束。棚の上の、枯れた鉢。窓のそばの、わたしの椅子。
「君がいない家を守るのと、君と一緒に家を出るのと、どっちがいいか、今、考えた」
「……今」
「うん。今」
トイヴォは、少しだけ笑った。うまく笑えていなかった。
「こういうの、すぐ決めたの、初めてかも」
わたしは、トイヴォの手を見ていた。
震えは、止まっていなかった。
止まっていないまま、わたしの手を、握っていた。
この人間は、わたしが何であるかを聞いた。劇場のことも、聞いた。祖母の糸のことも。
聞いたうえで、この手を、つかんだ。
分類できなかった。
今朝、止まった手の理由が、見つからなかったように。
けれど、今度は、ひとつだけ、分かっていることがあった。
わたしは、この手を、ほどきたくなかった。
「……ねえ。どこへ、行くつもりだったの」
トイヴォが聞いた。
初めて、行き先を聞かれた。
「……帰る」
口が、動いた。
命の終わるところへ、と、言うつもりだった。お前たちが冥府と呼ぶところへ、と。それが、この人間にもわかる、去る者の言葉だった。
続きが、出てこなかった。
帰る場所など、わたしは、知らなかった。
知らないことを、断言することになる。
——また、嘘をつくことになる。
「……帰る場所は、ない」
わたしは、言い直した。
「わたしには、戻る席が、まだあるのかどうか、分からない。……分からないまま、ここを出るつもりだった」
「うん」
トイヴォは、うなずいた。
「じゃあ、一緒に、分からないほうへ行こう」
◇
昼に、雪は止んだ。
トイヴォの言ったとおりだった。
トイヴォは、支度をした。
背負い袋に、毛皮を二枚。手袋。火打ち石。小刀。祖父の手斧。干した鹿の骨と、玉ねぎと、燕麦の袋。塩。古い鉄鍋。古い木の器を、二つ。祖母の軟膏の壺。罠の針金は、ひと巻き。
床に落ちた包みは、トイヴォが拾って、結び目を確かめて、背負い袋の上にくくりつけた。
「それは、わたしのだ」
「うん。だから、僕が持つ」
「なぜ」
「君、今、脇腹、押さえてるから」
わたしは、手を下ろした。
下ろしてから、また、当てていたことに気づいた。
トイヴォは、奥の寝床の前で、しばらく立っていた。
枕の上に、祖母の服が、袖の端の揃わないまま畳んである。夜明け前に、わたしが畳んだ形だった。
「……持っていくか」
わたしが聞くと、トイヴォは、首を振った。
「ここに、置いていく。……おばあちゃんは、この家の人だから」
トイヴォは、袖の端に、指を一度だけ置いた。揃えなかった。わたしが畳んだ形のまま、置いていくのだと分かった。
トイヴォは、棚の上の鉢の前でも、立ち止まった。
黒く縮れたタイムの鉢。
「……根は」
トイヴォが言った。
聞いたのだ、と思った。この人間が、痛いところを。
わたしは、意識を向けた。触れないように。遠くから。
根の糸は、まだ続いていた。今朝、力を振るったあとで、ずっと細くなっていた。髪の毛の、さらに半分ほどの細さで。
「生きている」
わたしは言った。
「わたしがいなければ、春まで、もつ」
トイヴォは、鉢を見ていた。
それから、水差しを取って、少しだけ水を落とした。
「じゃあ、置いていこう」
鉢に向かって、言っていた。
「僕たちがいなくなったら、春まで、もつんだよね。……春になったら、見に来られるかな」
答えを、わたしは持っていなかった。
持っていないことを、今度は、そのままにしておいた。
出る前に、トイヴォは、薪の板を一枚、小刀で削った。
字を、刻んでいた。
「……何を書いている」
「南門の、あの人に」
トイヴォは、手を止めずに言った。
「剣、取りに来るかもしれないから。あのまま雪に刺さってるし。……来たとき、家が空っぽだったら、心配するかもしれないでしょう」
あの兵士は、今朝、この人間を連れ出すために、隊を抜けてきた。そして、わたしの前で、雪に手をついた。
心配するかもしれない、とこの人間は言う。
刻み終えた板を、トイヴォは、戸の外側に立てかけた。わたしは、そこに刻まれた字を読んだ。
剣は、雪の中にあります。僕は、出かけます。お気をつけて。——トイヴォ。
どこへ、とは、書いていなかった。
誰と、とも。
「……嘘は、書いていないな」
「うん。全部、本当」
トイヴォは、少しだけ笑った。今度は、うまく笑えていた。
戸口で、わたしは、一度だけ振り返った。
暖炉の熾火。梁から下がった干し草の束。棚の上の、枯れた鉢。窓のそばの、わたしの椅子。
棚の上の、ふたつの器。出る前に、トイヴォが洗って、並べて戻したものだ。
「帰ってきたとき、すぐ使えるように」
そう言った。
帰ってくる、と。
わたしは、それに、何も言わなかった。嘘だとも、本当だとも。
トイヴォは、戸を閉めた。
音を立てて。
夜明け前、わたしがひとりで出ていくはずだった戸は、昼すぎに、ふたりで、ちゃんと閉まった。
◇
輪の手前で、雪に刺さったままの剣の横を通った。
口ひげの男の剣だった。トイヴォは、それを見て、少しだけ歩く向きを変えた。踏まないように。触れないように。
家を囲む黒い輪を、わたしたちは、南へ抜けた。
輪の縁を越えたところで、わたしは、前を歩くトイヴォの糸を見た。家の中で見たときより、ほんのわずか、太かった。十日あまり、わたしの漏らすものが降り積もった場所から、出たのだ。
わたしは、それを記録した。記録してから、その先を考えた。わたしが留まれば、そこにまた、輪ができる。細りきる前に、場所を変えればいい。
家を出よう、とこの人間が言ったのは、そういう計算ではなかったはずだ。けれど、帳尻は、そこで、ひとつだけ合った。
わたしの足もとで、雪の下の草が、黒く縮れた。一歩ごとに。
振り返ると、輪の縁から、黒い枝先が、点々と続いていた。わたしの歩いたところだけ。
トイヴォも、振り返った。
しばらく、それを見ていた。
「……点々と、続いてるね」
「そうだ」
「追ってくる人たち、これを辿るよね」
「辿るだろう」
トイヴォは、背負い袋の肩紐を、握り直した。
「分かった。考える」
怖い、とは言わなかった。
考える、と言った。
この人間は、何かを怖いと思うたびに、手を動かしてきた。粥を炊いて、薪を割って、団子を包んで。今は、考える、と言った。
わたしは、それを、帳面のどこにも書かなかった。
書く欄が、ないからではなかった。
書かなくても、忘れないと思ったからだ。
歩きながら、わたしは、つかまれた手のことを考えていた。
天の高みにいたころ、わたしを引き止めた者は、いなかった。影は、定めのとおりに動く。動く影を、止める理由を持つ者はいない。止めようとした者は、いた。——劇場で。戦場で。道化の男も、女皇の国の者たちも。けれど、あれは、わたしを終わらせるためだった。
行くな、と命じる者は、いた。行かないで、と頼んだ者は、いなかった。
どこへも行くな、ではなく。ここにいて、でもなく。
一緒に、分からないほうへ行こう、と言った者は。
前を歩くトイヴォの背中で、わたしの包みが揺れていた。中で、小さく硬いものが、ときどき触れ合った。
そのたびに、わたしは、今朝のことを思い出した。止まった手のことを。
あの音のことを、今は、少しだけ、分類できる気がした。
分類して、名前をつけるのは、やめておいた。
途中で、足が雪にとられた。
膝が、折れかけた。脇腹の冷たい線が、内側から、鈍く引きつった。
トイヴォが、振り返った。
何も言わずに、戻ってきた。わたしの前にしゃがんで、背中を向けた。
「……必要ない」
「うん。知ってる」
トイヴォは、しゃがんだまま、動かなかった。
「でも、乗って」
わたしは、眉を寄せた。
寄せて、黙った。
いつもの形だった。
トイヴォの背中は、思っていたよりも、ずっと温かかった。
日が傾くころ、トイヴォが、森の縁で足を止めた。
「今日は、ここまで」
「まだ、日がある」
「夜の雪原は歩くな、っておじいちゃんが言ってたんだ。それに、君、さっきから、脇腹、三回押さえた」
数えていたのか、と思った。
この人間は、兵の数も、鹿を数えるように数えていた。わたしの手の動きまで、数えるのか。
トイヴォは、岩陰の雪を掘って、毛皮を敷いた。火を起こした。鉄鍋に雪を詰めた。
燕麦を、量った。
手のひらに、ふたり分が載っていた。
トイヴォは、それを見て、ほっとしたように、鍋に入れた。
塩を、指でつまんだ。ひとつまみと、半分。
「……待て、って言われる前に、量ったよ」
「……言っていない」
「うん。でも、言われる気がしたから」
粥が煮えた。
トイヴォは、ふたつの器によそった。家から持ってきた、ふたつの器。棚に戻したのとは別の、古い木の器だった。
わたしは、それを受け取った。
熱かった。
ひと匙、口に運んだ。
家の粥と、同じ味がした。家は、もう、後ろにあるのに。それが、少しだけ、不思議だった。
「……悪くは、ない」
「よかった」
トイヴォは、自分の器を持ち上げた。
今朝は、ほとんど食べなかった人間が、器の底が見えるまで食べた。
食べ終えると、トイヴォは、軟膏の壺を出した。
わたしの腕を取った。肘の上から、指先へ。家の中と、同じ順番で。
塗り終えて、壺を置こうとしたトイヴォの手から、わたしは、壺を取った。
「……頬を」
トイヴォは、一瞬、何を言われたのか分からない顔をした。今朝と、同じ顔だった。
わたしは、黒い指を、軟膏に沈めた。
トイヴォの頬の、赤い線に。端から、端まで。
今朝、この指は、選んでいた。この人間に触れる、指先ひとつぶんだけを。
今も、選んでいた。
この先、何日、何十日、選び続ければいいのか。わたしには、分からなかった。
分からないまま、薄く、のばした。
「……痛く、ならないように」
トイヴォは、目を閉じていた。
「うん」
夜、火を挟んで、横になった。
「おやすみ、ロノヴァ」
トイヴォが、言った。
家の中と、同じ声だった。
わたしは、答えなかった。
おやすみは、朝にまた顔を合わせる者どうしの言葉だ。——ゆうべは、それが理由だった。答えれば、朝にはいない自分が、嘘をつくことになるから。
今夜は、朝にも、ここにいる。
答えても、嘘にはならない。
それでも、口が、動かなかった。
わたしは、答えないまま、火の向こうの、少し太い、長い糸を見ていた。
答えられなかった言葉が、喉の奥で、まだ温かかった。
お読みいただきありがとうございました。
次回、IF3-2「凍った川の道」はトイヴォ視点でお送りします。