死の執政に、粥を一匙   作:いくと

19 / 21
※本編第8話「冥府へ帰る女」の途中から分岐するIFルートです。
※本作は原神Ver.7.1魔神任務(第七章第四幕「冥府へのレクイエム」)までのネタバレを含みます。
※今回はロノヴァ視点です。


IF3-1 行くな

「わたしは、去る」

 わたしは立ち上がった。

 トイヴォも、立ち上がった。椅子が、床をこする音がした。

 話すべきことは、話した。天理の影であること。劇場で、いくつもの命を終わらせたこと。道化の男の目に貫かれて、この人間の雪原に落ちたこと。この人間の祖母の糸が、わたしのもとを通ったこと。覚えては、いないこと。

 ありがとう、と、この人間は言った。

 なぜ礼を言う、とわたしは問い、この人間は、分からない、と答えた。君は、おばあちゃんを、ちゃんと受け取ってくれたんでしょう、と。

 それで、帳尻は、どこも合わなくなった。

 合わないまま、ここにいることは、できなかった。

「兵は、わたしが生きていることを知った。次に来るのは、あの十二人ではない。——そして、わたしがここにいれば、この家の糸は、細り続ける。棚の根も。……お前も、いずれ」

 

 トイヴォは、何も言わなかった。

 言わないまま、卓の上の包みを取った。今朝、わたしがあの男たちの前で押しつけた包み。大きな結び目の。黒いパン、干し肉、凍った団子、小鍋、軟膏を分けた小さな缶。それから、底に、蜂蜜の瓶。

 トイヴォは、それを、両手でわたしに差し出した。

「……持っていって」

 受け取ろうとして、わたしは、トイヴォの手を見た。

 震えていた。

 包みの布ごしにも分かるほど、小さく、細かく。

「恐れるなら、それが正しい」

 わたしは言った。

「わたしのそばでは、命が細る。お前が恐れるのは、正しい」

「……うん」

 トイヴォは、うなずいた。

「怖いよ」

 正直な声だった。トイヴォは、嘘がつけない。南門の兵が、そう言っていた。——わたしのため以外には。

「怖いよ。……でも」

 でも。

 わたしが「必要ない」と言うたびに、トイヴォが返してきた言葉。

 「去る」には、一度も言わなかった言葉。

 わたしは、その先を待った。

 トイヴォの唇が、動いた。何かを言おうとして、言葉を探して——

 

 包みが、床に落ちた。

 中で、何かが、小さく触れ合った。

 こつん、と。

 トイヴォの両手が、空いていた。

 その手が、わたしの手を、つかんでいた。

「でも——行かないで」

 声が、かすれていた。

 かすれたまま、止まらなかった。

「君が何者でもいいよ。死の執政でも、女神様でも、何でも。……でも、今出ていったら、死んじゃうよ」

 トイヴォの目が、わたしの左の脇腹を見た。当て布のあるあたり。わたしが、さっきから、黒い手を当てていたところを。

「そこ、痛いんでしょう。さっきから、ずっと押さえてる。……僕、見てたよ。見なかったことには、しない」

 

 わたしは、つかまれた手を、見下ろした。

 温かかった。

 振りほどけることは、分かっていた。この人間の手くらい、指一本で、ほどける。

 ほどかなかった。

「……わたしがいれば、この家の糸は細る」

 わたしは、言った。同じことを、もう一度。

「棚の根も。小鳥も。……お前も」

「うん」

「分かっているのか」

「分かってる。……だから」

 トイヴォは、息を吸った。

「棚の根は、ここから動けない。この家も。……僕は、動ける」

「お前の糸は、動いても、細る」

「うん。そっちは、僕が決めたことにする」

 トイヴォの手に、少しだけ、力がこもった。

「じゃあ、家を出よう」

 ——。

「二人で」

 

 わたしは、しばらく、何も言えなかった。

「この家は」

 ようやく、言った。

「お前の、家だ」

「うん。おじいちゃんが建てて、おばあちゃんが守って、僕が四年、ひとりで守った家」

 トイヴォは、わたしの手を離さないまま、部屋を見回した。暖炉。梁から下がった干し草の束。棚の上の、枯れた鉢。窓のそばの、わたしの椅子。

「君がいない家を守るのと、君と一緒に家を出るのと、どっちがいいか、今、考えた」

「……今」

「うん。今」

 トイヴォは、少しだけ笑った。うまく笑えていなかった。

「こういうの、すぐ決めたの、初めてかも」

 

 わたしは、トイヴォの手を見ていた。

 震えは、止まっていなかった。

 止まっていないまま、わたしの手を、握っていた。

 この人間は、わたしが何であるかを聞いた。劇場のことも、聞いた。祖母の糸のことも。

 聞いたうえで、この手を、つかんだ。

 分類できなかった。

 今朝、止まった手の理由が、見つからなかったように。

 けれど、今度は、ひとつだけ、分かっていることがあった。

 わたしは、この手を、ほどきたくなかった。

「……ねえ。どこへ、行くつもりだったの」

 トイヴォが聞いた。

 初めて、行き先を聞かれた。

「……帰る」

 口が、動いた。

 命の終わるところへ、と、言うつもりだった。お前たちが冥府と呼ぶところへ、と。それが、この人間にもわかる、去る者の言葉だった。

 続きが、出てこなかった。

 帰る場所など、わたしは、知らなかった。

 知らないことを、断言することになる。

 ——また、嘘をつくことになる。

「……帰る場所は、ない」

 わたしは、言い直した。

「わたしには、戻る席が、まだあるのかどうか、分からない。……分からないまま、ここを出るつもりだった」

「うん」

 トイヴォは、うなずいた。

「じゃあ、一緒に、分からないほうへ行こう」

 

   ◇

 

 昼に、雪は止んだ。

 トイヴォの言ったとおりだった。

 トイヴォは、支度をした。

 背負い袋に、毛皮を二枚。手袋。火打ち石。小刀。祖父の手斧。干した鹿の骨と、玉ねぎと、燕麦の袋。塩。古い鉄鍋。古い木の器を、二つ。祖母の軟膏の壺。罠の針金は、ひと巻き。

 床に落ちた包みは、トイヴォが拾って、結び目を確かめて、背負い袋の上にくくりつけた。

「それは、わたしのだ」

「うん。だから、僕が持つ」

「なぜ」

「君、今、脇腹、押さえてるから」

 わたしは、手を下ろした。

 下ろしてから、また、当てていたことに気づいた。

 

 トイヴォは、奥の寝床の前で、しばらく立っていた。

 枕の上に、祖母の服が、袖の端の揃わないまま畳んである。夜明け前に、わたしが畳んだ形だった。

「……持っていくか」

 わたしが聞くと、トイヴォは、首を振った。

「ここに、置いていく。……おばあちゃんは、この家の人だから」

 トイヴォは、袖の端に、指を一度だけ置いた。揃えなかった。わたしが畳んだ形のまま、置いていくのだと分かった。

 

 トイヴォは、棚の上の鉢の前でも、立ち止まった。

 黒く縮れたタイムの鉢。

「……根は」

 トイヴォが言った。

 聞いたのだ、と思った。この人間が、痛いところを。

 わたしは、意識を向けた。触れないように。遠くから。

 根の糸は、まだ続いていた。今朝、力を振るったあとで、ずっと細くなっていた。髪の毛の、さらに半分ほどの細さで。

「生きている」

 わたしは言った。

「わたしがいなければ、春まで、もつ」

 トイヴォは、鉢を見ていた。

 それから、水差しを取って、少しだけ水を落とした。

「じゃあ、置いていこう」

 鉢に向かって、言っていた。

「僕たちがいなくなったら、春まで、もつんだよね。……春になったら、見に来られるかな」

 答えを、わたしは持っていなかった。

 持っていないことを、今度は、そのままにしておいた。

 

 出る前に、トイヴォは、薪の板を一枚、小刀で削った。

 字を、刻んでいた。

「……何を書いている」

「南門の、あの人に」

 トイヴォは、手を止めずに言った。

「剣、取りに来るかもしれないから。あのまま雪に刺さってるし。……来たとき、家が空っぽだったら、心配するかもしれないでしょう」

 あの兵士は、今朝、この人間を連れ出すために、隊を抜けてきた。そして、わたしの前で、雪に手をついた。

 心配するかもしれない、とこの人間は言う。

 刻み終えた板を、トイヴォは、戸の外側に立てかけた。わたしは、そこに刻まれた字を読んだ。

 剣は、雪の中にあります。僕は、出かけます。お気をつけて。——トイヴォ。

 どこへ、とは、書いていなかった。

 誰と、とも。

「……嘘は、書いていないな」

「うん。全部、本当」

 トイヴォは、少しだけ笑った。今度は、うまく笑えていた。

 

 戸口で、わたしは、一度だけ振り返った。

 暖炉の熾火。梁から下がった干し草の束。棚の上の、枯れた鉢。窓のそばの、わたしの椅子。

 棚の上の、ふたつの器。出る前に、トイヴォが洗って、並べて戻したものだ。

「帰ってきたとき、すぐ使えるように」

 そう言った。

 帰ってくる、と。

 わたしは、それに、何も言わなかった。嘘だとも、本当だとも。

 トイヴォは、戸を閉めた。

 音を立てて。

 夜明け前、わたしがひとりで出ていくはずだった戸は、昼すぎに、ふたりで、ちゃんと閉まった。

 

   ◇

 

 輪の手前で、雪に刺さったままの剣の横を通った。

 口ひげの男の剣だった。トイヴォは、それを見て、少しだけ歩く向きを変えた。踏まないように。触れないように。

 家を囲む黒い輪を、わたしたちは、南へ抜けた。

 輪の縁を越えたところで、わたしは、前を歩くトイヴォの糸を見た。家の中で見たときより、ほんのわずか、太かった。十日あまり、わたしの漏らすものが降り積もった場所から、出たのだ。

 わたしは、それを記録した。記録してから、その先を考えた。わたしが留まれば、そこにまた、輪ができる。細りきる前に、場所を変えればいい。

 家を出よう、とこの人間が言ったのは、そういう計算ではなかったはずだ。けれど、帳尻は、そこで、ひとつだけ合った。

 わたしの足もとで、雪の下の草が、黒く縮れた。一歩ごとに。

 振り返ると、輪の縁から、黒い枝先が、点々と続いていた。わたしの歩いたところだけ。

 トイヴォも、振り返った。

 しばらく、それを見ていた。

「……点々と、続いてるね」

「そうだ」

「追ってくる人たち、これを辿るよね」

「辿るだろう」

 トイヴォは、背負い袋の肩紐を、握り直した。

「分かった。考える」

 怖い、とは言わなかった。

 考える、と言った。

 この人間は、何かを怖いと思うたびに、手を動かしてきた。粥を炊いて、薪を割って、団子を包んで。今は、考える、と言った。

 わたしは、それを、帳面のどこにも書かなかった。

 書く欄が、ないからではなかった。

 書かなくても、忘れないと思ったからだ。

 

 歩きながら、わたしは、つかまれた手のことを考えていた。

 天の高みにいたころ、わたしを引き止めた者は、いなかった。影は、定めのとおりに動く。動く影を、止める理由を持つ者はいない。止めようとした者は、いた。——劇場で。戦場で。道化の男も、女皇の国の者たちも。けれど、あれは、わたしを終わらせるためだった。

 行くな、と命じる者は、いた。行かないで、と頼んだ者は、いなかった。

 どこへも行くな、ではなく。ここにいて、でもなく。

 一緒に、分からないほうへ行こう、と言った者は。

 前を歩くトイヴォの背中で、わたしの包みが揺れていた。中で、小さく硬いものが、ときどき触れ合った。

 そのたびに、わたしは、今朝のことを思い出した。止まった手のことを。

 あの音のことを、今は、少しだけ、分類できる気がした。

 分類して、名前をつけるのは、やめておいた。

 

 途中で、足が雪にとられた。

 膝が、折れかけた。脇腹の冷たい線が、内側から、鈍く引きつった。

 トイヴォが、振り返った。

 何も言わずに、戻ってきた。わたしの前にしゃがんで、背中を向けた。

「……必要ない」

「うん。知ってる」

 トイヴォは、しゃがんだまま、動かなかった。

「でも、乗って」

 わたしは、眉を寄せた。

 寄せて、黙った。

 いつもの形だった。

 トイヴォの背中は、思っていたよりも、ずっと温かかった。

 

 日が傾くころ、トイヴォが、森の縁で足を止めた。

「今日は、ここまで」

「まだ、日がある」

「夜の雪原は歩くな、っておじいちゃんが言ってたんだ。それに、君、さっきから、脇腹、三回押さえた」

 数えていたのか、と思った。

 この人間は、兵の数も、鹿を数えるように数えていた。わたしの手の動きまで、数えるのか。

 トイヴォは、岩陰の雪を掘って、毛皮を敷いた。火を起こした。鉄鍋に雪を詰めた。

 燕麦を、量った。

 手のひらに、ふたり分が載っていた。

 トイヴォは、それを見て、ほっとしたように、鍋に入れた。

 塩を、指でつまんだ。ひとつまみと、半分。

「……待て、って言われる前に、量ったよ」

「……言っていない」

「うん。でも、言われる気がしたから」

 

 粥が煮えた。

 トイヴォは、ふたつの器によそった。家から持ってきた、ふたつの器。棚に戻したのとは別の、古い木の器だった。

 わたしは、それを受け取った。

 熱かった。

 ひと匙、口に運んだ。

 家の粥と、同じ味がした。家は、もう、後ろにあるのに。それが、少しだけ、不思議だった。

「……悪くは、ない」

「よかった」

 トイヴォは、自分の器を持ち上げた。

 今朝は、ほとんど食べなかった人間が、器の底が見えるまで食べた。

 

 食べ終えると、トイヴォは、軟膏の壺を出した。

 わたしの腕を取った。肘の上から、指先へ。家の中と、同じ順番で。

 塗り終えて、壺を置こうとしたトイヴォの手から、わたしは、壺を取った。

「……頬を」

 トイヴォは、一瞬、何を言われたのか分からない顔をした。今朝と、同じ顔だった。

 わたしは、黒い指を、軟膏に沈めた。

 トイヴォの頬の、赤い線に。端から、端まで。

 今朝、この指は、選んでいた。この人間に触れる、指先ひとつぶんだけを。

 今も、選んでいた。

 この先、何日、何十日、選び続ければいいのか。わたしには、分からなかった。

 分からないまま、薄く、のばした。

「……痛く、ならないように」

 トイヴォは、目を閉じていた。

「うん」

 

 夜、火を挟んで、横になった。

「おやすみ、ロノヴァ」

 トイヴォが、言った。

 家の中と、同じ声だった。

 わたしは、答えなかった。

 おやすみは、朝にまた顔を合わせる者どうしの言葉だ。——ゆうべは、それが理由だった。答えれば、朝にはいない自分が、嘘をつくことになるから。

 今夜は、朝にも、ここにいる。

 答えても、嘘にはならない。

 それでも、口が、動かなかった。

 わたしは、答えないまま、火の向こうの、少し太い、長い糸を見ていた。

 答えられなかった言葉が、喉の奥で、まだ温かかった。




お読みいただきありがとうございました。
次回、IF3-2「凍った川の道」はトイヴォ視点でお送りします。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。