※今回はロノヴァ視点です。
死ぬとは、こういう感覚か。
最後に、わたしはそう思ったはずだった。
空の柱に、残っていた力のほとんどを注ぎ込んだ。餞別だ。それがどこまで届いたのかを確かめる前に、あの道化の男の目が、わたしを貫いた。
痛みという言葉は知っていた。数えきれない命が、それを抱えたまま、わたしのもとへ来たからだ。けれど、知っていることと、それが自分の内側で起きることは、まるで別のことだった。
体が、ほどけていく感覚があった。
輪郭がほどけ、黒い羽根になって散っていく。落ちていく。どこへ落ちていくのかは分からなかったし、分かる必要もないと思った。ほどけ切ってしまえば、どこであろうと同じことだ。
それで、終わりのはずだった。
——まだ、生きてるからだよ。
誰かが、そう言った。
耳のすぐそばで。ひどく近くて、ひどく温かい声だった。
なぜ、まだ。わたしはそう問うたのだと思う。問いに答えが返ってくるなどとは、思いもせずに。
◇
目を開けると、天井があった。
丸太の梁。煤けた木肌。そこに吊るされた、干した草の束がいくつか。
暖炉の前の床に、寝床がしつらえられていた。背中の下には柔らかいものが敷かれ、体の上には、重たいものが何枚も重ねられていた。獣の毛皮と、鳥の羽を詰めた布だ。……鳥の羽。わたしの上に、鳥の羽。どうでもいいことが、妙に可笑しかった。
右のほうから、ぱちぱちと火のはぜる音がする。熱が、そちらから頬に届いている。
人の住処だ。
それも、ひどく小さな。
わたしは、自分の状態を確かめることにした。
まず、権能。
死の執政として、わたしは命の終わりを知覚する。この世界のあらゆる命には、終わりへ向かって伸びる細い糸のようなものがあって、わたしはそれを、見ようとしなくても見ることができた。
——できた、はずだった。
今、見えるものはほとんどなかった。
かろうじて、ごく近くにあるものだけ。窓辺に置かれた小さな鉢植えの草の、か細い糸。それと、この家の外のどこかで動いている、ひとつの、少し太い糸。
それだけだった。
かつてこの大地の死を見渡していたわたしの目に、今は、草が一本と、人間がひとり。
次に、体。
重い。指を動かそうとすると、指に届くまでにひどく時間がかかる。左の脇腹に、鈍い熱がある。あの男の目に貫かれた場所だ。手をやると、布が巻かれていた。不格好だが、きつく、丁寧に。鼻を近づけるまでもなく、薬草を練った軟膏の匂いがした。
腕を見た。
黒い腕にも、同じ軟膏が塗られていた。指の一本一本にまで。
しばらく、それを眺めていた。
凍傷の手当てだ、と気づいたのは、少ししてからだった。
……わたしの腕を、凍傷だと思ったのか。
可笑しい、とは、今度は思わなかった。ただ、どういう顔をすればいいのか分からなかった。
扉の開く音がした。
冷たい空気と一緒に、ひとりの人間が入ってきた。
若い男だった。肩の雪を払いながら、両腕に薪を抱えている。毛皮の帽子の下の顔は、寒さで鼻の頭が赤い。どこにでもいる、何の変哲もない人間だ。神の目も持っていない。元素の気配もない。わたしの目に見えていた、あの少し太い糸の持ち主。
男は薪を暖炉の脇に下ろし、こちらを振り返って——目が合った。
男は、少しだけ目を丸くした。
「……あ」
それから、ふわりと表情をゆるめた。
「おはよう。気がついたんだね」
わたしは答えなかった。
答え方を考えていたのではない。この人間が何を言うのかを、待っていた。わたしの目を見て、わたしの髪を見て、わたしの腕を見て、それでも「おはよう」と言った人間が、次に何を言うのかを。
「具合はどう? どこか痛いところは……いや、痛いところだらけだよね。ごめん、変なこと聞いた」
男は帽子を脱いで、頭をかいた。
「僕はトイヴォ。ここに住んでる。君は、森の中で倒れてたんだ。吹雪のあとの雪原で。……覚えてる?」
「……覚えていない」
声を出すと、喉がひどく掠れていた。自分の声とは思えないくらい、細かった。
「そっか。無理もないよ。体、すごく冷えてたから」
トイヴォと名乗った男は、暖炉にかけた鍋をのぞきこみ、木の匙でゆっくりとかき混ぜた。
「名前、聞いてもいい?」
わたしは、少しだけ考えた。
偽りの名を名乗ることもできた。人間の名前など、いくらでも思いつく。けれど、そうする理由が見当たらなかった。この人間に真の名を知られたところで、何が変わるというのか。
恐れられるなら、それはそれで構わない。そのほうが話が早い。
「……ロノヴァ」
わたしは言った。
そして、待った。
顔から血の気が引くのを。匙を取り落とすのを。後ずさり、扉に手をかけ、あるいは膝をついて許しを乞うのを。
トイヴォは、鍋をかき混ぜる手を止めずに言った。
「ロノヴァ。変わった名前だね」
それだけだった。
わたしは、しばらく黙っていた。
変わった名前。
わたしの名を聞いてそう言った人間は、これまでひとりもいなかった。
考えてみれば、当然のことかもしれない。人間の大半は、わたしの名など知らない。知っているのは神々と、天理の近くにいる者と、ほんのひと握りの物好きだけだ。こんな森の奥に暮らす人間が、知っているはずもない。
それにしても、と思う。
それにしても、「変わった名前だね」はない。
◇
「お腹、空いてない?」
トイヴォが、鍋から顔を上げて言った。
「……空腹というものは、わたしにはない」
「そうなの?」
「食事は必要ない。わたしは——」
言いかけて、やめた。
わたしは、何だと言うつもりだったのか。人間ではない、と? 天理の影だ、と? 目の前の人間にそれを告げたところで、話がややこしくなるだけだ。
トイヴォは首をかしげて、それから言った。
「でも、昨日の夜、スープ飲んだよ」
「……何?」
「少しだけどね。最初はこぼしてたけど、途中からちゃんと飲んでくれた。だから、たぶん、食べられるんだと思う」
わたしは、何も言えなかった。
覚えていない。覚えていないが、この人間が嘘をついているようには見えなかった。つまりわたしは、意識のないまま、人間の手で、人間の食べ物を、口に運ばれていたということになる。
死の執政が。
匙で。
トイヴォは棚から木の器をふたつ下ろし、鍋の中身をよそった。
「燕麦の粥。昨日のスープで炊いたんだ。こっちは塩味」
ひとつ目の器を脇に置くと、今度は小鍋のほうから、湯で炊いたらしい白っぽい粥をよそう。それから棚の上の小さな瓶を手に取り、蓋を開けて、とろりとした金色のものを、匙の背で粥の上に垂らした。
「こっちは、蜂蜜。甘いのとしょっぱいの、どっちが好き?」
「好みなど、ない」
「じゃあ、両方だね」
なぜそうなる、と言う前に、トイヴォは寝床のそばに椅子を引き寄せて座っていた。
手を貸されて、体を起こす。背中に、丸めた毛布が差し込まれる。されるがままになっている自分が、ひどく奇妙だった。
器を受け取ろうとして、腕を持ち上げた。
持ち上がらなかった。
正確には、肘のあたりまでは上がった。そこから先が、どうしても言うことを聞かない。指が、器のふちに届く前に震えて落ちる。
トイヴォは何も言わずに、匙で粥をすくった。ふう、と息を吹きかけて、わたしの口元へ差し出す。
「……自分でできる」
「うん。できるようになったら、自分でやってね」
穏やかな声だった。からかう調子も、憐れむ調子もない。ただ、事実を述べているだけの声。
わたしは、差し出された匙を見た。
それから、それを持つ人間の手を見た。節くれだって、あかぎれがあって、爪の間に薪の木くずが挟まっている手。
この手が、わたしの腕に、凍傷の軟膏を塗ったのだ。
わたしは、口を開けた。
粥は、熱かった。
まず、それが分かった。熱が舌に触れ、口の中に広がる。次に、塩の気配。それから、もっと奥のほうから、何か——重なり合ったものが、ほどけて出てきた。
獣の骨を長く煮たときの、まるい、深いもの。焦げた何かの、かすかに苦くて、それでいて甘いもの。根の野菜の、土に近いもの。それらが燕麦のやわらかな粒にしみ込んで、噛むたびに少しずつ違う顔を見せる。
わたしは、それを分類しようとした。
味というものは、知っている。概念としては。人間が生きるために摂るものに、快と不快の信号を与える仕組み。命を長らえさせるための、ささやかな工夫。
——知っていた。
知っていたはずなのに、今、口の中にあるものを、どの言葉に当てはめればいいのか分からなかった。
「どう?」
「……」
「熱すぎた?」
「……いや」
トイヴォは、もうひと匙すくった。
わたしは、また口を開けた。
塩の粥が半分ほどなくなったところで、トイヴォは器を持ち替えた。
「じゃあ、こっちも」
蜂蜜の粥。
匙が近づいてきたとき、甘い匂いがした。花の匂いに似ていて、それよりも重たく、暖かい。
口に入れた。
——。
しばらく、何も考えられなかった。
甘い、という言葉が、そのときになってようやく、自分の内側から浮かび上がってきた。それは、知識の棚から取り出した言葉ではなかった。舌の上から、直接、意識のほうへ昇ってきた言葉だった。
「……甘い」
気づいたときには、声に出していた。
トイヴォが、嬉しそうに笑った。
「よかった。町で、なんとなく買ったんだ。今年の冬は、甘いものがあったほうがいい気がして」
なんとなく。
わたしは、トイヴォの顔を見た。
人が何を選ぶかは、わたしの管轄ではない。命の糸がどこで途切れるかは見えても、その手前で人が何を手に取るかまでは、わたしには分からない。けれど、この人間が「なんとなく」買った蜂蜜が、今、わたしの舌の上にあるということだけは、確かだった。
◇
ふたつの器が空になったころ、わたしは口を開いた。
「お前は、なぜわたしを拾った」
トイヴォは器を重ねながら、少し考えるように首を傾けた。
「おばあちゃんが言ってたんだ。雪原で見つけたものは、見なかったことにしちゃいけないって。雪は何でも隠しちゃうから、見つけたときに見ておかないと、春まで誰にも見つけてもらえないって」
「……落とし物と同じ扱いか」
「あ、いや、そういうつもりじゃ……」
トイヴォは慌てたように手を振り、それから、困ったように笑った。
「……でも、そうかも。ごめん」
謝られた。
わたしは、それ以上何かを言う気力をなくした。
「探してる人がいるなら、町に知らせに行くけど」
しばらくして、トイヴォが言った。
「家族とか。一緒にいた人とか」
「いない」
即座に答えると、トイヴォは一瞬だけ、何か言いたげな顔をした。けれど、何も聞かなかった。
「そっか」
それだけ言って、器を流しへ運んでいく。
わたしは、その背中を見ていた。
聞かないのか、と思った。
なぜあんな場所で倒れていたのか。あの傷は何なのか。この腕は、この目は、この髪は。聞きたいことは、いくらでもあるはずだ。人間というものは、分からないものを分からないままにしておけない生き物だと、わたしは知っている。
この人間は、聞かない。
聞かないまま、器を洗っている。
「傷が癒えれば、去る」
わたしは言った。
「それまでだ」
水音が止まった。トイヴォは振り返らずに、「うん」と言った。
「治るまで、いればいいよ」
ためらいのない声だった。
また、水音が始まった。
◇
昼過ぎ、トイヴォは「昨日置いてきた荷物を取りに行ってくる」と言って出ていった。暗くなる前には戻るから、と。暖炉に薪を足して、わたしの手の届くところに、水を入れた杯を置いて。
扉が閉まり、足音が雪に吸い込まれて、聞こえなくなった。
家の中に、わたしひとりが残った。
火のはぜる音。外を流れる沢の音。梁から下がった干し草の束が、かすかに揺れる音。
わたしは、目を閉じた。
そして、もう一度、権能に手を伸ばした。
どこまで戻っているのか。どこまで失ったのか。確かめておく必要があった。ここに長く留まるつもりはない。天理の影として、わたしにはまだ——。
糸が、見えた。
遠ざかっていく、ひとつの、少し太い糸。森の中を、北へ。雪を踏み、橇を引いて。
それから、窓辺の鉢植えの、か細い糸。
わたしの意識が触れたとたん、その糸が、ふっと細った。
わたしは、すぐに手を引いた。
引いてから、自分が手を引いたことに、少し驚いた。
草の一本だ。わたしが触れれば細るのは当然のことで、それを気にかける理由など、どこにもない。命の終わりを執り行うのが、わたしの職務なのだから。劇場で、わたしはいくつもの命を終わらせた。職務として。そのことに、今さら何かを感じるわけでもない。
それなのに、なぜ手を引いたのか。
答えは出なかった。
出ないまま、わたしはまぶたを開けて、窓辺の鉢植えを見た。
小さな草だった。細い茎に、指の先ほどの葉がいくつもついている。あの人間が、毎朝水をやっているのだろう。土が、湿っていた。
もっと近くで、見てみようと思った。
なぜそう思ったのかは分からない。確かめたかったのかもしれない。わたしがあの草にどれほど近づけば、どれほどのことが起きるのかを。
毛布をはねのけ、床に手をついて、体を起こす。
立ち上がった、と思った瞬間に、床が傾いた。
正確には、傾いたのはわたしのほうだった。膝が、体の重さを支えることを放棄したのだ。わたしは寝床から這い出したところで崩れ落ち、肩を床に打ちつけた。
起き上がろうとした。腕が言うことを聞かない。もう一度。今度は、脇腹の傷が鈍く軋んだ。
わたしは床に頬をつけたまま、動くのをやめた。
丸太の床は、暖炉の熱で少しだけ温かかった。そこから見上げる窓辺の鉢植えは、さっきよりも、ずっと遠かった。
戻ってきたトイヴォが最初に見たのは、床に転がったわたしだった。
日は、もう傾いていた。扉が開いて、冷たい風と、小麦の匂いと、「ただいま」という声が入ってきて——その声が、途中で途切れた。
「ロノヴァ!」
粉の袋を放り出す音。駆け寄ってくる足音。
抱き起こされる。背中と膝の裏に腕が回されて、体が宙に浮く。
「……軽いね」
トイヴォは、小さくつぶやいた。わたしに言ったのではなく、独り言のようだった。
寝床に戻されて、毛布をかけ直されて、それからトイヴォは、わたしの顔をのぞきこんだ。
「どこか、ぶつけた?」
「……肩を、少し」
「見せて」
わたしは黙って、肩を見せた。トイヴォは赤くなったところを指でそっと押して、骨は大丈夫そうだね、と息をついた。
叱られるのだと思った。人間は、言いつけを守らなかった者を叱るものだ。
トイヴォは、叱らなかった。
「何か、取りたいものがあった?」
わたしは、答えに迷った。
それから、窓辺に目をやった。トイヴォの視線が、わたしの視線を追う。
「……ああ、タイム?」
トイヴォの顔が、ぱっと明るくなった。
「おばあちゃんが株分けしてくれたやつなんだ。冬のあいだも、ちゃんと葉っぱが出るんだよ。そばで見たいなら、枕元に持ってこようか」
「いい」
思ったよりも、強い声が出た。
トイヴォが、きょとんとする。
「……そこに、置いておけ」
わたしは言い直した。
「窓辺のほうが、日が当たる」
それは、嘘ではなかった。
ただ、本当の理由でもなかった。
「そっか。うん、そうだね」
トイヴォは素直にうなずいて、放り出した粉の袋を拾いに戻っていった。
わたしは、窓辺の鉢植えから目をそらした。
◇
その夜、寝る前に、トイヴォは湯に蜂蜜を溶かしたものを杯に入れて持ってきた。
今度は、自分で杯を持てた。両手で包むようにして、少しずつ飲んだ。
トイヴォは暖炉の反対側の床に、毛皮を一枚だけ敷いて横になった。
わたしの下に敷かれている厚い藁布団は、たぶん、この人間の寝台から下ろしてきたものなのだと、そのとき初めて気づいた。
「おやすみ、ロノヴァ」
わたしは、答えなかった。答え方を知らなかった。
やがて、暖炉の向こうから、規則正しい寝息が聞こえてきた。
舌の上に、まだ、甘さが残っていた。
死ぬとはこういう感覚か、と、わたしはあのとき思った。
では、これは何なのだろう。
わたしはこれを、どう分類すればいいのか分からなかった。
お読みいただきありがとうございました。
次回、第3話「枯れた鉢植え」はトイヴォ視点に戻ります。